第一章 第9節 白昼夢
日時 2059年7月30日 7:50
送信元 永沢さん
件名 コンビニ娘
『優輝ちゃんにナイスな情報! コンビニ娘のデータ入手! 知りたい?』
オレのスマートフォンに入ってきた永沢さんからのメール。「知りたい?」と問われれば「知りたい」と答えたい気持ちは正直あったが、すんなり永沢さんの策略に乗っかるのがなんだか嫌だった。なんで情報の出し惜しみをするんだよ。と思いながらもやはりその情報が欲しいと思う自分に腹が立ち悔しかった。しかしオレはこのメールを放置することを悪く思い、とりあえず簡単に返信することにした。
『知りたい』
今日はいつもより1時間早く家を出て初めて出張というものをする。リニモで藤が丘まで行き、そこかから地下鉄で中村公園と言うところで下車。そしてバスに乗り換え海部市と言うところまでやってきた。名古屋市の西側に位置する海部市に名古屋地区2番目のライフ・ケア施設が最近完成し、そこの稼動前の手伝いに借り出されたからだ。
オレはバスを降り、スマートフォンのGPSナビを頼りに10分ほど歩いて悠久乃大地と名づけられたステーションへ辿り着いた。外観こそは悠久乃森と同じ地味な灰色をした四角い建物だが、周りの景観は随分と違っていた。悠久乃森の周りは木々が多く、起伏のあるところだが、ここは民家がそこそこで田んぼや畑がまだ多くあり、まったく起伏のない見通しが良い平地だ。行動範囲の狭いオレは意外と少し移動しただけで景色が変わるもんなんだなと自分らしくない感想を持った。
今日一日、オレは新人ガイドに対してレクチャーなるものをした。オレが人にもの教える立場であるとは到底思えないが、4年も続けてやっている人間がいないからというレベルで選抜されたから仕方ない。あと2日間ここに通わなくてはいけないが、それがどうした? って感じでオレは別にこれが面倒だとも楽しいとも思っちゃいない。
日時 2059年7月30日 9:23
送信元 永沢さん
件名 RE: RE: コンビニ娘
『だろ? よし、教えてやろう。彼女の名は三枝希恵(さえぐさ きえ)20歳。近所に住んでいると思われる。ちなみにオレは涼子ちゃんがタイプだから安心しろ』
永沢さん、どうやって調べたんだ? そもそもこの情報は正確なのか? いくらなんでも適当な名前をわざわざ言わないか……いや、永沢さんならやりかねない。
そんな猜疑心を持ちながらもあの目と匂いの記憶が蘇り、彼女のイメージがさらに強くオレの中に定着した。
(三枝希恵……か……)
オレは永沢さんからの返信メールを眺めながら帰りのバスを待った。
(安心しろって別に不安も危険も感じてないのだが……それに涼子って誰?)
――こんな馬鹿げた奇跡的偶然がここまで起きると、オレは間違いなくおかしくなる……
ただの妄想癖による脳の異常に違いない……
これはきっと妄想が引き起こした夢なんだ……
悠久乃大地からの帰り、中村公園駅から藤が丘行きの地下鉄に乗って10分ほどしたら大量の人間達がなだれ込んできた。帰宅ラッシュってやつだ。オレは何も考えずに扉付近の座席に座ったため、なだれ込んで来た人間達の体がオレの横をかすめていき、空いていたオレの隣にはでかい荷物を抱きかかえた中年女性がへばりつき、目の前には会社員たちが壁を作っていた。
車両の中の冷房は全く効いてない状態になり肌がやたらネタついてくる。その上様々な人間達のケモノ臭が立ち込めるこの空間にオレは完全に気が滅入った。いつになったらこの状況から開放されるか分からず気が狂いそうになったが、二つ目の駅でごそりと人間達は降りた。オレの周りの空気がそれと同時に動き出し、オレは一瞬安堵したが、大量の人間達がすぐさま乗り込んできてオレはデジャヴを見ているような気にさせられた。
気の狂いそうな状況はしばらく続き、オレは目を瞑って歯を食いしばりとにかく耐えた。ここから逃げ出したくても立ち上がって脱出できる状態ではないからだ。人間の量が減り始めたのはそれから3つ目の駅からだっただろうか。
人間が減った空気感を感じてオレはようやく目を開けると、いつのまにか目の前に女の脚があった。膝がはっきりと顔を出した短めのスカートから伸びる白く均整のとれた脚がやたら目に付き、迷惑他ならないと思い再び目を閉じた。しかし迷惑な足は迷惑な行為を俺の脳に対して行ってきた。目を閉じても残像が焼きつき離れない。オレは再び歯を食いしばる。そして無性に腹が立った。
それからどれくらいの時間が過ぎたか分からないが、前にあったその脚が動きオレの横に着席した感じがした。いや間違いなくオレの横に着席した。そして不幸にもその着席した女から嫌な匂いがした。あの匂いだ。その上オレの右腕に微熱をも伝えてきた。オレは絶句した。そして悩んだ。目を開けるべきか……
オレは恐る恐る目を開ける。すると目の前はクリアになっていて、正面の座席には誰も座っておらず、正面の窓ガラスにはオレの姿と隣に座る女の姿を映し出していた。馬鹿げた偶然や奇跡というものは妄想の世界に留まるべきであるはずなのに現実としてオレの前に現れた。オレはその女を認識すると体が勝手に女を避けるかのように身を仰け反らしてしまい声が出た。
「うわっ」
オレの声と体の動きにその女もオレの逆側へ身を仰け反らせ声を上げた。
「えっ? 何?」
目が合った。紛れも無くあの目であった。
「ど、ども……」
オレは気持ちと反して笑顔なんていう自分らしくないものを作ってあいさつした。しかしその笑顔というものが上手くできていたかは彼女にしか分からない。
「いやだぁ、驚いた。橘さんじゃないですか。どもー」
彼女はそう言って気安くオレの腕をポンと叩いた。しかもオレの名前を知っている。そのあらゆる気安さはオレの常識を超え、気味が悪かった。
「偶然ですね。買い物ですか?」
「いや、仕事でちょっと」
「あ、そうだったんですか。お疲れ様です。私は栄でいろいろ買い物です」
そう言って彼女は足元にあった大きめな紙袋を軽く持ち上げオレを見て照れ笑いみたいなものを見せた。その笑みから生まれた口元の引き上げ具合がオレには恐怖に感じた。
彼女はそれから、今日は高学時代の友達と一緒に栄界隈を練り歩いてショッピングしたり、お茶したりしながら過ごしたとか、そんなことをオレに話していた。
腐っているオレはそんな話をなぜオレにするのか分からず、ただ彼女に釣られて「うん、うん」と相槌を打っていた。そんなオレは彼女の丸っこい目を直視することができずに、厭らしくも彼女の唇ばかりに目がいった。
今日の彼女はコンビニで見る彼女とは違い化粧をハッキリと施していた。あれこれと話が飛び出してくる口は薄いピンク色に輝いていて、オレは異様な胸の締め付けを感じた。そして時折聞かせてくれるカラッとした短い笑い声の響きはオレの胸の締め付けに反して安心感みたいなものを与えてくれる。彼女の話を聞いていたオレは、いつの間にか彼女に対し犬が仰向けになって腹を見せるような服従状態になろうとしている事に気づき視線を正面に向けた。
「そういえばこの前、橘さんを知ってる? なんていきなり聞いてきた人がいたんだけれど、その人ってやっぱり橘さんの知り合い?」
オレは即座に永沢さんのニタニタ笑う顔が浮かんだ。
「その人ってもしかして、こう、ボテッとした体格の人? 身長は170センチくらいで」
「そうそう、そんな感じ。歳まで聞かれちゃった」
「うわ、永沢さんだ……」
なんて人だ。どうりで三枝さんの名前とかを知ってたのか。
「なんだか陽気な感じで面白い人だったよ。涼子ちゃんにもね、いろいろ聞いてたよ。あ、涼子ちゃんって、一緒にバイトしてる子ね」
つながった。涼子というのは永沢さんの言っていた胸の大きい女のことか。永沢さんは一体何やってんだ。
地下鉄の終着駅である藤が丘駅につくと三枝さんとオレはそのまま一緒に改札を出て、なぜか立ち話をした。
「その人、永沢さんって言うんだけど、同じ職場でまあ、色々とよくしてもらってるっていうか、なんちゅうか、まあ、そういうことで、ごめんなさい。訳のわからないこと言ってたでしょ? ちょっと変わった人で……」
三枝さんはオレの話を聞いて「うんうん」と大げさなくらいのアクションで頷く。
「なんかね、ユウキちゃんて良いやつなんだなんて言って宣伝してたよ。何でだろうね?」
そういって三枝さんはころころと笑った。なんだか腹が立った。
「何やってんだ、永沢さんは……ホント、オレにもわからないよ。でもなんでオレが橘ってわかったの?」
「だって、この前ウチのコンビニに来た時にIDで払ったでしょ? それで名前覚えちゃった」
そういうものなのか? それごときで名前は覚えられるのか? ますます怖くなった。
「そっか……オレ、なんか自分の名前が昔から嫌いで。ユウキって女みたいな名前でさ。小さい時からみんなユウキちゃん、ユウキちゃんって女みたいにオレを呼んで、未だに職場で優輝ちゃんて呼ばれるし、だから嫌いなんだ……」
「ええー、優輝って全然女っぽくないよー」
彼女は気を使ってオレの話を否定する。オレはなぜだか彼女にとってどうでもいいだろう意味不明な話を続ける。
「でもオレの親は元々、女が欲しくて最初からその名前を決めてたんだ。そうしたら予定外の男だって、まあいいかって感じでそのまま優輝になったんだ。いい加減だろ?」
オレは完全に彼女に乗せられている。そこまで言い切って急に自分自身の言動に吐き気がした。
「優しく輝くなんて素敵だと思うけど。だってみんな女子って優しい男子がいいっていうじゃない? で、輝くっていう字はなんか凛々しくも感じるんだけど。私だけ? そんな風に考えるのは?」
しかし三枝さんはオレの話に嫌な顔を見せずにそう言ってまたころころと笑った。その様がなんか自分で言って照れくさく馬鹿馬鹿しいが、チャーミングなんだ……だから、ますますオレは腹が立った。そして三枝さんは続けた。
「私だって自分の名前、好きじゃないんだ。希恵って言うんだけど、なんかキエ、っていう響きがねぇ。なんか奇声みたいでさあ、小さい頃はよく『キエーッ! 怖いよー』なんてバカなからかわれ方したよ」
三枝さんは少し照れた表情に肩を小さくすぼめて見せ、またころころと笑った。くそっ、なんでいちいち可愛いんだ。そのひとつひとつの彼女の仕草がオレの心臓を巻き付け締め付けていき、そして彼女の声はオレの頭の中をのたうち回る。情けないオレは一瞬しか彼女に目を向けることができず、俯きかげんのまま会話を続けた。
「なんかガキの頃って結構そうやって好きな女の子をからかったりするヤツいたよね」
「橘さんはそういうタイプじゃなかったんだ?」
この子はサラっと人の懐に入ってくる会話をしてくる。オレはこれを危険と感じなければいけないはずなのに、やはり彼女に対して『犬』化している服従状態だ……
「オレは……そういうタイプじゃないな。っていうか、好きな女の子って別にいなかったような気がする。もう、むかしの事は覚えてないよ」
「あっ、なんかイミシーン。むかしの事は覚えてない、ですかぁ?」
三枝さんはオレの顔を軽く見上げ、筆でスッと細く引いたような綺麗な線のまゆげを左側だけ持ち上げ、あからさまにオレをからかってきた。その少しくずれた表情がクソくらいに可愛いと感じた……くそっ! マジで腹が立つ。なんでオレの心臓は小っちぇーんだよ! 三枝さんのその表情にオレの足が止まってしまった。
「あっ、ごめんなさい。もしかして、結構な思い出があったりするのかな? そうだよね、色々とあるよね。私もそうだし……」
会話が止まる。別に思い出などと言う洒落たものはオレにはないのに、そんな事を気にしているように彼女には見えるのだろうか。オレは今、『私もそうだし』という言葉がひっかかって仕方なかった。
「じゃ、ここで」
三枝さんは会話が止まったのをきっかけにあっさり去っていた。オレにはそうとしか思えなかった。しぶしぶオレに付き合ってくれたんだよ彼女は。オレは彼女が小さくオレに手を振って足早に去っていく姿を見て空しくなった。
「オレって最高のクソ野郎だな……」