第一章 第8節 明け方の悪夢
僕はやたらと喉が渇いたんだ。だってしょうがないだろ。それで目が覚めちゃったんだからさぁ。だからミネラルウォーターを飲みにキッチンまで行って飲んださ。
――あれは9歳のとき。そう、あの時以来オレは夜に目が覚めると無性に怖くなって眠れなくなった。
僕は水を口に含み口全体に水が感じられるよう軽くうがいみたいなことしてから水を喉に通す。
ほっとする。
カーテン越しにやんわり光が入り込み、暗いキッチンの中をうっすらと確認できる。
僕はミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すとしばらく部屋の中をなんとなく眺めた。街なかにある僕の家でも夜は静かだ。冷蔵庫が小さく唸る音が少し聞こえるだけだ。
いったい何時だろう? 部屋の壁にかかるアナログ風デジタル時計の針がぼんやりと光り、1時近くを指していた。
僕はお父さんたちに見つかるとうるさいから物音を立てないようゆっくりゆっくりと廊下を歩いて部屋へと戻る。
すると僕が歩く音が小さく響く廊下に変な音が混じっていることに気づいた。もしかしたらお父さんたちがまだ起きているのかな? 僕は廊下で立ち止まったままその音の出所を知りたいと思い耳を澄まして探った。だってやっぱり気になるだろ?
やっぱりお父さんたちの部屋の方だ。とにかく見つからないようにとドキドキしながら僕の部屋へとゆっくり歩く。僕の部屋はお父さんたちの部屋の手前だ。何とか僕の部屋の前まで来た。でも僕はまたここで変な音を耳にした。その音がどうしても気になって僕は怒られるのを覚悟でお父さんたちの部屋へこっそり近づいてみた。
「……女の子が欲しい……」
「ああ。大丈夫さ。今ではオマエの体もすっかり良くなった。それに薬をきっちり飲んでいるのだろ? 間違いないよ……」
お父さんとお母さんの話し声の後、まるで犬が骨でもしゃぶりついているかのような下品で汚い音が僕の耳に響いた。そしてお母さんの今まで聞いたことのない気違いみたいな声が扉を通して僕の頭の中にこだました。気持ちが悪くなった。悲しくなった。今まで僕はこんなケモノに育てられていたんだ。ケモノのくせにいつも僕に命令ばかりして。そして僕の知らないところで、きっと犬のようにじゃれ合ってるんだ。
僕は大人という生き物に反吐が出そうになった。でも僕はこの汚らしい音を聞いていた。それは、なぜか足が動かなかったからなんだ。無理に動こうとすると転んでしまいそうで動けなったんだ。もう僕は我慢できなくなって目が見えなくなってもいいくらいの力を入れて目をつむり、耳が聞こえなくてもいいくらい耳を両手で強く塞いだ。そして立っていられなくなった僕はしゃがみこんだ……
悪夢――たかが夢ならば記憶の遥か彼方、そのずっとずっと向こう側へと葬り去ることができるはずなのに、未だ夜に目が覚めるとあのケモノたちの声が聞こえてくる。
気持ち悪い……
相変わらずの悪夢のおかげでオレはまともに寝られずにいた。そのせいで頭の芯のあたりがじわりと締め付けられるような重い痛みが酷かった。それでも眠気だけは感じていたが再び寝る気もせず、部屋に居るだけで気が滅入りそうだったオレは、まだ夜の明けていない外へいつものように目的も持たずに自転車で出ることにした。
外は見事な熱帯夜が残してくれた生暖かい空気が蔓延していた。そんな空気の中でも東の空は柔らかな光が見えはじめ、やけに綺麗な桃色に染めている。その空がオレに絡みつく空気の感覚を忘れさせてくれた……
寝不足でオレの感性が異常をきたしている。こんな朝焼け空を見て、何、感受しているんだ、まったく……
目的も無くふらついているとオレはどこへ行くかわからない。そして目的も無くふらついて行き着いた先は例のコンビニだった。オレはここでどうしたいんだ? 自分の行動にはまったく閉口してしまう。
明け方の時間帯とあって昼のような鬱陶しさが無い店内だった。そして何を期待してかレジに目をやると、そこには見たことも無い頭の禿げ上がった男が立っていた。
オレは店内をうろついていると腹が空いてきていることに気づいた。明け方に意味無くここに来てしまったオレは、朝食を買っていくことで自分の行動に理由付けをした。そして選んだものは無能で何の考えも持たないオレは飽きもせずパンとコーヒーを手にしていた。
「480円です」
まったく愛想の微塵も見せずに頭の禿げ上がった男が言った。俺も負けじと不貞腐れた顔で電子マネーカードを出す。
「どうも、ありがとうございました」
頭の禿げ上がった男は徹底した愛想の無い顔にぼやけた低い声で言った。オレはよっぽど嘘臭い笑顔の方が数倍いいと思うと、なぜかあの女の目が脳裏に蘇った。
オレは頭の禿げ上った男から袋を受け取りレジから離れようとすると、いきなり男はさっきのトーンとは真逆の明るい愛想のいい声を出した。
「やあ、キエちゃんおはよう。今日は早くからで本当にごめんな」
男のクソ調子良さに気分を弄られ、くさくさしてきたオレは早く店を出て帰ろうとした。
「いえ、とんでもないです店長」
しかし、いつの間にかオレの背後にいた女が頭の禿げ上がった男に応える声が聞こえ、その女の声はオレを振り返らせた。
頭の禿げ上がった男と会話している女の横顔――気持ちが大きく震えた。そこにあった横顔はあの丸っこい目の持ち主だった。
オレは彼女であると認識すると彼女に見つかるのが恐くなって外にすぐ出た。そして振り返って入り口のガラス越しに店内を見ると彼女と頭の禿げ上がった男とがまだ会話をしていた。
「畜生! あのオヤジ、あれで店長かよ! さっきとは随分違う態度じゃねぇか。クソ野郎!」
オレは無性に腹が立ち、悪態をついた。そして家に向かって自転車を漕ぐオレは、このありえないような馬鹿げた偶然を期待してコンビニへ行ったことに気づき悲しくなった。そして十分にオレをおかしくするだけの馬鹿げた偶然が起きたことに苦しくなった。