第一章 第6節 夜の出来事
オレは人ごみ溢れる時間帯を避けた夜9時すぎに近所のショッピングモールへと食料品を買いに来た。予想通りに人の姿はまばらで落ち着いていた。オレはゆったりとした空間に何となく機嫌が良くなりモール内を無意味にぶらついてみることにした。
しばらくダラダラとインショップを眺めて歩いていると中央通路の一角にあるフレグランスコーナーで足が止まった。そしてオレはなぜかあの匂いを探したいという衝動にかられ、そこに並べられたテスターの匂いを嗅いでいた。いや、『なぜか』というのは嘘だ。正確に言うと、あの時臭覚に張り付いた匂いを再び嗅ぎたいという気違いじみた本能を理性で抑えられなかっただけのことだ。
その気違いじみた本能は簡単にあの匂いを見つけてみせた。あの軽く爽やかな酸っぱさの中にふわっとした肌触り思い起こさせる甘い匂い。オレは何を考えたか明らかに女向けであろうピンク色をしたパッケージのその香水を手に取りレジへと向かっていた。
「3800円になります」
香水などというものを買ったことの無いオレには高いのか安いのか分からないが、引き返すこともできない状況に自ら追い込んだオレは黙って女性店員に電子マネーカードを手渡した。
「ありがとうございます。あ、もし贈り物のようでしたらお包みしますが?」
思ってもいない言葉、『贈り物』という言葉を言われ動揺したオレは迷うことも無く「はい」と口にしていた。店員は軽く微笑むと手際よく包装し、手提げ鞄サイズの赤い紙袋に入れてくれた。
「お待たせしました、どうぞ。ありがとうございました」
女性店員は再び軽い笑顔でそう言ってオレに紙袋を手渡してくれた。オレはオレらしからぬ買い物をしたことが急に恥ずかしくなり、紙袋を受け取るなり足早にこの場を立ち去った。そして、本来の目的であった食料を買うことを忘れてオレは帰宅していた。
見慣れた部屋に見慣れぬ赤い紙袋がひとつ――
勢いよく家に帰ってきたオレは部屋の壁側にある小ぢんまりした卓袱台にモールで買ってきた香水の入った赤い紙袋を置き、しばらく眺めていた。
「……なんでこんなもの買ってんだろ、オレ……」
そのまましばらく黙って紙袋を眺めていると、胃袋が絞まって空腹であることをオレに伝えてきた。
「飯のタネを買ってくるの忘れるし……」
自分自身の行動に落胆していたオレはふと買い置きしてあったインスタント焼きそばがあることを思い出した。湯を沸かしインスタント焼きそばを作っている間もオレの背中は卓袱台に載っている紙袋の存在を意識していた。焼きそばができるとオレは紙袋を眺めながら焼きそばを頬張った。