第一章 第5節 休日の出来事
休みの日のオレは気が向くと自転車で、これといった目的もなくただ外を走り回る。気がつくと大抵どこかの公園に辿り着き、あまり人がいない静かな場所で何をするわけでもなく無駄に時間を過ごす。
今日は気がつくとモリコロパークに自分はいた。約半世紀前、ここで世界博覧会とかいうものをやったらしい。むかし学校の授業でなんとなく映像を見た覚えがあるが、それはただ人が人を見に来ているだけの馬鹿げたものだった。ガキの玩具みたいなロボットを見たりするために大人たちがクソ集まっていたらしい。まあ、良く言えば平和な古き良き時代だったんだろう。
しかしオレも馬鹿だ。真夏の太陽が体中の皮膚を焼き尽くすこの時間にこんなところで一人何してんだろう。あまりの暑さにオレ以外の人間はまったく見当たらない。オレは木陰になったベンチを見つけると自転車から降りて天を仰ぐようにベンチにもたれた。
「そういえば、いつだったか美雨を連れて来たよな……」
そのまま目を瞑ってみた。ふんわりと美雨を連れて来た時のことを思い出す。ちょうど美雨が中学になった時だったような……
過ぎてしまったことはすべて曖昧。でも、記憶なんてそんなものだ。
随分と静かな公園。あまりの暑さに蝉すら鳴いてやしない。
「そうか、今日は平日だったな……」
「暑い……」
馬鹿なオレは暑さにめげることなく幾ばくか寝てしまったようだ。木陰だったはずのオレが座っていたベンチは気がつくと日向になっていた。おかげでオレの露出した肌はあっちこっちジリジリとしている。そして額からは汗が噴出し、背中はひどく湿っていた。オレは一度深くベンチに掛け直し意識を呼び覚ますことに集中する。
「喉が渇いた」
意識がハッキリしてくると無性に喉の渇きを感じた。あたりを見渡すと上手い具合に10メートルくらい先に補給場に固定された小型の赤いジュース自販機を見つけた。
「ジュース!」
歩くのを面倒に思ったオレは、誰もいないのをいいことに大声を出し自販機を呼びつけた。すると自販機はオレの声に反応し目の前までモーターを唸らせながら移動してきた。
『いらっしゃいませ! 暑い夏には新製品クールシャワーコークで爽快気分に!』
背が低く寸胴な自販機には似つかない可愛らしい女の声でオレに話しかけてきた。
「じゃあ、そのクールシャワーコークの500をひとつ」
『ありがとうございます! お支払いは?』
「IDで」
『チェッカーへお手を』
自販機は上端のIDチェッカーを点滅させオレの手を待つ。
『タチバナ ユウキ様、代金は170円です。ありがとうございました!』
オレが商品取り出し口から缶ジュースを取り出すと自販機は1メートルほど後ずさりしてすぐ止まった。オレは自販機に見つめられながらジュースを一気に飲み干す。自販機のセールスに簡単に乗っかったオレだが、新製品のコークは喉が欲していた刺激をくれて旨かった。飲み干したジュースの空き缶を自販機の足元に放り投げてやると自販機は空き缶を吸い上げ『ありがとうございました。またのご利用お待ちしています!』と決まり文句を残してモーターを唸らせながら補給場へと戻って行った。一息ついたオレは気が済んだのかどうかよく分からないが家に帰ることにした。
気まぐれなオレは家に帰る途中に本屋が目に止まり立ち寄ることにした。ついでに涼んでいこうという魂胆でもある。
ここの本屋は電子本のローディング(フィルムノートやパソコンなどへ本のデータを読み込ませる販売方法)はもちろんのこと、それ以外にも多くの紙古本が売られており、他にも玩具やジャンクフード、インテリア雑貨などが入り混じって置いてある店で、もう50年以上は続いているらしい。ある程度ジャンル分けしてあるもののその置き方は雑然としていて、他の本屋とは一線を画しており若者達の人気がある。
上、下、右、左。あらゆる方向に視線を移動させ店内を歩き回る。店内にはどうでもいいようなインテリアグッズを手にとって「これ、カワイイ。あ、こっちもカワイイ! ねぇ、見て見て」と男と戯れる女。男は女に波長をあわせ受け答えをしている様があちらこちら。どれもこれも嘘臭い会話ばかりだ。
(ただ、やりたいだけのくせに)
逆にふてくされた様なつまらない表情で女に付いている男。
(別れたいなら、さっさと別れろよ。そんなに抱き枕が欲しいのかよっ)
そんな男女たちに悪態をついているオレは心底つまらなくなり、自分自身に嫌気がさした。そしてこの店にいること自体に気持ちがくさくさしてきたオレは外に逃げ出すことにした。
あらゆる人間を掻き分けて出口に向かう途中、ふとオレの目の前に平積みされている本の上に貼られた手書きPOPに目が留まった。
【死ぬ前に読んでおけ! 正しく天国に行くためにはこのマニュアルが必須!】
その本は『チベットの死者の書』というものであった。ハードカバータイプの古本だ。純然たる興味というものからオレは手に取ってみた。
それは地味に面白かった。人は死ぬと色々な神様がやってきておいでおいでをするそうだ。その神様っていうのが恐ろしい形相をしてるもんだからビビっちゃうらしい。という解釈が正しいかは分からないが、そんな書がむかしむかしのチベットで書かれたそうだ。オレはチベットというところに魅力を感じた。
パラパラと紙をめくってそのまま本を走り読みしていたら、不意に軽く爽やかな酸っぱさの中にふわっとした肌触りを思い起こさせる仄かな甘い匂いをオレの臭覚を刺激した。さっきまでは媚びまくった吐き気がする女のケモノ臭ばかりしていたのに、この匂いだけはオレの脳はすんなり受け付けた。むしろこちらから歓迎して吸い込みたくなるくらいだ。オレはつまらない事だと分かりながらもこの匂いの持ち主を知りたくなった。
オレの真後ろにいるようだ。オレは露骨に振り返るわけにもいかず、しばらく本に目をやったまま過ごすことにしようとしたが、我慢弱いオレは本能に逆らえなかった。
オレは本を手にしたままゆっくり頭だけを右に動かしつつ視線をめいいっぱい後ろへ持っていってみる。わずかに視界に入ったのは白い腕と白いシャツ、そして黒いストレートセミショートヘア。何か嫌な予感がした。嫌な予感はオレの心臓に負担をかける。
すでに手にした本の事などどうでもよくなっていたが、急いで本に目をやりオレは静止した。オレの脳は完全に背中の空気感だけを感じるよう指令を出していたためか、やたら背中が熱く感じていた。嫌な感じだ。このままでは危険だと思い、オレは本を置き本気で逃げ出すことにした。しかしオレが本を置き立ち去ろうとした瞬間、熱くなっていた背中にドスっと何かが当たると同時に女の声が耳に入った。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
オレは一瞬背中に重い痛みを感じたがとにかく「大丈夫です」とだけ言って立ち去ろうとした。が、そう簡単に事を運ばせてくれない女がそこにはいた。背中を押えながら顔を横へ向けると、あの丸っこくて大きい黒い瞳があった。その瞳はオレの顔を見つめ、過剰なほど心配そうな表情をしていた。
「ごめんなさい。後ろに人がいること気づかずに、肘が当たっちゃって……」
オレはまともに声が出せず、彼女の目にただ気持ちが引っぱられていた。そんなオレの表情を見てか彼女は少々不思議そうな顔をした――そう思いたかったが、実のところは怪訝な表情だったと思う。
「ども……」
彼女を見て出たオレの最初の言葉は「ども」だった。オレは君を知っている。でも、君はオレを知らない。だから彼女はオレのその言葉に一瞬表情が固まった。
「え……?」
女は表情を固めたままそうオレに返した。
「あ……いや、大丈夫です。気にしないでください……」
オレは気の利いた顔つきを作ることもできずに、ただそう言って女の目から逃げた。すると女は「本当にすみませんでした」という言葉と共にあの匂いを残して店の奥へと行ってしまった。なんだか偶然という事象はオレに喜びみたいなものを与えてくれたが、同時に苦しみのおまけも一緒についてきた。今日の記憶は残さないように早く寝て消し去ろうとオレは強く思った。