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第一章 第11節 ガイド

 ビリッ……


「2059年8月23日 土曜日」


 今日は遅番ということで、オレはゆっくりの朝を迎えた。窓から差し込む日差しはまぶしく、真っ青な空が広がっていた。そしてオレはその空の彼方に漂う厚く盛り上がった雲を目にしたら、なんだか三枝さんに無性に会いたいと思った。そしてこの空を三枝さんに見せたくなった。そして嘘臭い笑顔と言葉でいいから欲しかった。


 素直にオレはそう思い、いつもは昼食を食べてから出勤するところを今日はコンビニで買って行くことにした。コンビニで彼女に会えたからって何かあるわけでもないのにつまらない行動をしているオレは本当に青臭いガキだ。でも、その衝動は抑えられずに足早に三枝さんのいるコンビニへと向かった。


 あきれるほど繁盛しているここのコンビニは、すでにレジ前には行列が出来ていた。しかし、このむさ苦しいとさえ思っていたこの風景も三枝さんがいるという事実があるだけで、今はなぜか華やかで活気ある風景に見えた。そんな単純な自分に小声で吐いた。


「オレは馬鹿だ……」


 レジに並ぶ人間達で三枝さんの存在は確認できない。オレはひとまず、いつもどおり菓子パンを2つセレクトし、缶コーヒーを手にしてレジ待ちに並んだ。


 なぜいない? という疑問をもつこと自体が馬鹿げている。オレが勝手に気持ちを盛り上げ会いたがった故に、彼女がいないことに『なぜ?』という疑問を持ち出して寂しさを湧き出させたと言うのに。くだらない期待は禁物だ。オレの感情はやたら揺れ動き、無用な力を使ってしまった。

 レジにはいつも三枝さんと一緒にいた胸の大きな女と見慣れない女がそこにいただけのことだ。


 オレはコンビニを後にし、悠久乃森の休憩室で昼メシを済ますとそのまま自分の席につき今日の予定を見た。今日のオレの担当は10人だ。そう確認できた瞬間に、今日最初のビジターの名前に“三枝希恵”と表示されていることに気づいた。


(同姓同名でしょ……だよな……)


 どこにでも転がっているような名前ではないことは分かっていたが、ここに来る三枝希恵は、オレの知っている三枝希恵のはずがない。そう自分に言い聞かせようとしたものの、融通の利かないオレは、それからというものイライラした気持ちは収まらなかった。とにかくオレはこんな時間が早く過ぎ去り、また三枝さんに会いたいという気持ちが噴出して止らなかった。

 

 異常なほど長く感じたビジターの待ち時間だった。実際の時間は15分も待っていなかったと思う。ようやく所長からオレの呼び出しが来た。オレはひどく緊張した。この生まれて初めて味わう異常な緊張感はオレから声を奪い、所長の呼び出しに簡単に返事をさせてくれなかった。

 所長から手渡されたフィルムノートに目をやることができずにいたオレはノートを受け取ると同時に勢いよくセンタールームを出た。


 センタールームから通路に出た途端、足が止まった。そこから受付まで続く通路は気が変になりそうなほどの静寂な空間だった。オレが受付に向かって歩き出すと力ない貧弱な足音が鳴り響く。オレの汗ばんだ右手にあるフィルムノートがやけに重い。オレの手にあるフィルムノートは一体どこの三枝さんなんだ……


 オレは通路の途中で立ち止まり、やたら鼓動を激しく打つ胸に左手を持っていき2回深呼吸をした。そして右手にあるフィルムノートの表紙を見た。


 

 認めたくなかった――



 しかしオレの手にあるノートの表紙には“三枝希恵”という名前とあの丸っこい目を持った彼女の顔写真が表示されていた。それから受付に向かう間、オレは何を思い、何を考えていたのだろう。ただ記憶しているのはノートを持つ手が汗ばみ小刻みに振るえていたこと。そしてやたらと息苦しかったこと。


 受付のモニターには三枝さんが映っていた。怖かった。


 口の中の異常な渇き……過剰なほどの呼吸……


 オレは席に着いてからはモニターに映る三枝さんを直視することなどできなかった。

 

「三枝、希恵さん……ですね?」


 オレはまともにしゃべれたのだろうか? オレの言葉は彼女に届いたようで小さく「はい……」と返してくれた。

 この前まで、いつもオレの目に映っていた、三枝さんのあの丸っこい目は今やもう別のものとなっていた。オレは耐え切れずフィルムノートにだけ目を向け、そしていつもの言葉を口にする。


「まずは了承願いたいことなんですが……現時点からの会話。これ以降の三枝、さん……自身の行動は……監視状態となり、すべての映像と、音声が、記録されます。記録された、音声や映像……申請時のデータ等は、法定期間である、30年間は……厚生労働省管轄で管理、保管されます……」

 言葉がうまく繋がらない。オレの目の前にある壁の向こうに彼女がいる。


「はい……」


 こんなオレの拙くこの上ないしゃべりに三枝さんは答えてくれた。


「それでは三枝さん……」


 彼女の声が胸に振動を与えてオレを苦しめる。そしてオレはこの時、涙というものが自分の目から出ることを初めて知った。


「目の前にある……IDチェッカーへ手を……」


 彼女はオレの言葉に何かを感じたのだろうか? うつむきながらも眼はこちらを見て疑問を抱く表情をしているかのようにオレには見えた。しかし、それはオレが一瞬の確認行動で感じた印象でしかない。この壁の向こうに本当に彼女がいるのか? だって、あの軽く爽やかな酸っぱさの中にふわっとした肌触りを思い起こさせる仄かな甘い匂いがしないじゃないかっ!


 オレの気持ちや考えをすべて崩すべくフィルムノートに表示されている〈三枝希恵〉の名が点滅した。そこで不意にオレの耳に所長の声が割り込んできた。


『おい、橘君。どうした? 体調が悪いのか? さっきも黙って出て行って』

 不意な声にオレはどう返事していいのか判断できなかったが、オレの口からはオレらしくもない言葉が勝手に出た。


「すみません、所長。ちょっと彼女、可愛いから緊張しちゃいました。まったく問題ないです。このまま続けますので安心してください」


『そうか。ならいいんだが。今さら君に言うことでもないが、様々な人たちがここには来るわけだから、しっかり集中してやってくれ。かえって相手に不安な気持ちを与えてしまうからな。頼んだぞ』


 そう言い残して所長からの回線が切れた。オレは所長からの言葉で今までの不安定な感情を凍結させることができた。そして、オレは再びフィルムノートに目を移し、いつもの仕事をやり続けた。


「ご家族への連絡は永眠後すぐでいいですね?」

「はい」

「遺書の方はご用意されているようですね。それはご家族宛てでいいですね?」

「はい」

「臓器提供意思表示者として登録されていますね?」

「はい」


 彼女はオレの問いかけに素早く答えていってくれた。オレはあれから彼女の表情を目にすることなく、淡々と仕事をやり遂げることだけに集中した。


「以上です。何か不明な点がありましたらどうぞ……」


 彼女はわずかな沈黙の後、意外な言葉を口にした。


「間違いだったらごめんなさい……この声、もしかして橘さん?」


 その言葉でオレは三枝さんのあの丸っこい目を再び見てしまった。その目は怯えていいた。


「そういったことはお答えできません」


 オレは渾身の力で言った。そう、オレが誰であるかを言ってはいけない。それが規約である。そして、何よりそれを彼女に教えてどうなるというんだ?


「安眠室に手順書が準備してあります。また、何か不明な点がありましたら部屋から連絡できるのでご利用ください。部屋は5号室です」


 オレは一気に言い終わると、彼女はこちら側を凝視して「はい」とだけ答えて立ち上がった。


 その立ち上がった彼女の姿、表情にオレはついに気持ちが口から零れた。オレは規約違反である私語を口にした。それも、呆れるほど貧弱でたどたどしく……



「オレ……またいつか……どこか、偶然でいいから……三枝さんに会いたい。その日までオレ……待ってるよ……」


 三枝さんはオレの言葉を認識したとたん、あの丸っこい目から涙があふれ出ていた。その姿はとても小さく弱々しくてオレは抱きしめたい、オレが彼女を守りたいという感情が湧き上がった。

 でも、オレはもうこれ以上の言葉は出なかった。そして何もできなかった。情けない男だ。ただの馬鹿だ。


 オレは彼女に何を求めているんだ? そしてこんなオレが彼女に何ができるって言うんだ? 仮にもし、彼女を守るようなことができる力がオレにあるとしても、それを彼女がオレに求めているとでもいうのか? もしオレにそれを求めているのなら……もう、考える力を無くした……


『橘くん。すぐ私のところまで来い』


 所長の声が何度もオレのイヤホンを響かせていた。

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