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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

独短編

共喰らい

作者:




 りん。

 細く強く張りつめた線がなめらかに取り去られるような。

 そんな音で私は目を覚ました。

 ぐるりと回した瞳を、点け放してしまっていた部屋の電灯が煌々と焼く。咄嗟に目をそらし腕で顔を覆うと、段々と感覚が鮮明になってゆくのを感じた。

 ちりん、りりん。私を呼ぶように窓の外からは鈴虫の声が重なって響きだした。おおお。無遠慮に吹き付ける扇風機を嫌って、私はタオルケットを被りなおす。

 眠りの海から浮かび上がった私の頭は、今度はまた段々と粘り気のある湿地の中へと沈み込もうとしていた。微睡。泥沼の。湧き上がった思考が、もうその次の瞬間にはどろりと溶けて、濁り混じり合っていく。今の私が鮮明に感じられたのは、唯一その汚濁だけだった。


「────」


 口すさびに、声にもならない呻きをあげて、私は体勢を変える。そのまま、ごろり、ごろりと這うようにして、がちゃり、古びた扇風機の電源を落とすと、不意に窓の外の鈴虫の声が真に迫ったもののように感じられた。その声に背中を押されて私はようやく体を起こした。すると、溶けて濁った私の頭の中身が流れ出すように、じわじわと鼻から口から喉元へと落ちてくる錯覚に陥る。軽い吐き気にも似た、嫌な感じだ。

 喉とお腹を同時に押さえながらなんとか立ち上がって、私は着替え始める。

 散歩に行こう。


 * * * * *


 私は吸血鬼だ。この国最後の生き残りで、何人ものヴァンパイアハンターから命を狙われている。恒久で高潔な、この心臓を。


「なーんて」


 誰に聞かれたわけでもないのに、私は照れ隠しのために少しだけ声量を上げて夜の宙空に吐き出した。付け加えた「そんなわけないよ」は、じとりと湿った夏の空気に絡めとられるように私の周囲をぐるぐると回ってから、やっと、消えた。

 喉の奥に何かがこびりつく感覚。乾いているようで、でも剥がれ落ちない。それは溶け出した私の中身なんじゃないか。頭はぼやけたままだ。そんな感覚を振り払うために、大きくあくびをする。


「う、わ、ああ、あっ」


 不格好に開けた口に、何か小石のようなものが入り込んだ。

 なんだ、何?

 咄嗟に舌でその小石を押し出して、道端に吐き出す。それに触れた舌先がじんわりと苦みを教えてくる。


「うえーっ」


 私は後ずさりをしながら、糸を引いて飛んでいく、蠅? に恨みがましい視線を向ける。一度、二度、三度。咳が漏れる。からからの咳。喉の奥、溶け出した私を切り裂いた。口に残った苦汁が押し出される。ぴちゃ、とアスファルトに唾液が落ちた。

 涙目で蠅の行く先を見上げると、今時珍しい、本物の火が灯された街灯に、数匹の羽虫が集っているのが見えた。ぷん、ぷん。昼間は──というか、ほんの一瞬前まで──あんなに気持ちが悪いと思えたそれらは、しかし月明かりに照らされて、どこか幻想的な影となって飛び回る。ぷん、ぷん、びちち。街灯の覆いと翅とがぶつかり合う音。

 びち、ぷん、ぷん、ぼ。


「あ」


 夏の虫、飛んで火に入る。

 それはフィラメントのようにきいと赤熱する。赤白く輝いて、過ぎゆく温い風に煽られて、私の唾液ごと、消えた。次ぐ風は、私の股下を、耳元を、手指の間を通り過ぎて、これでもかと灯された炎を揺らす。


「馬鹿みたい」


 罪悪感か、同族嫌悪か、舌の上に残る後味の悪さに顔をしかめて、むず痒く疼き出した頬を撫でる。

 ──どくん。心臓が跳ねた。

 視線の先、十歳かそこらと思しき少年が──実はさっきから遠くに姿は見えていたんだけど──急に、私のすぐ目の前までやってきていた。こんな時間に何してるんだろう。私は咄嗟に両腕で顔を被った。少年は道端に佇む私を見るやいなやびくりと体を強ばらせて、ぼそりと何か呟いた。近くの小学校の子だろう。肝試しかもしれない。私は腕の合間からこぼれてくる街灯の光でその姿をじっと見つめる。少年と目が合った。けど向こうはそんなことわからないはずだ。暗闇の中から、じっと見つめる。

 ほどなくして少年は駆け出していった。

 残されるのは腕をがちりと固めた私と、あとは。

 ちりん。りり。

 素敵な夜音だ。

 どこから奏でられているのか不思議に思うのも許さないくらい素敵だ。ただそこにある。ただそこに鳴る。優美で落ち着く声音。そしてなにより、弁えている。

 どくん。どくん。

 不細工に震える私の心臓なんかよりよっぽど。


「なーにしてんの、こんな時間に」

「ひゃ」


 私は跳ね上がって振り返った。


「うーす」

「……アヌビス」


 最初はミイラか何かかと思った。その身に纏った真っ白なパーカーに負けない、病的なまでに白い口元。街灯に照らし出されて、アヌビスは──彼女のハンドルネームが「アヌ・ビス子」だから、アヌビス──深く被ったフードの向こう側で震えるように笑った。


「ども、アヌビスでーす」

「今日は終わったの?」

「うんうん。ばっちりよ。耐久苦節七時間、やっとクリアして出てきたのです」


 口調とは裏腹に元気のなさそうな身振りで彼女は応える。私と同じで、まともな生活をしていないのかもしれない。スキニーと呼んでも足りないくらい細くか細いジーンズは、私の腕くらいの太さしかないように見えた。


「配信も良いけど、ちゃんと食べてる?」

「お? お優しいねえ。食べてますよ。今は昔と違って視聴者から気軽にお金投げてもらえるからねえ。ほら、今日七時間分の給料だ」


 言って彼女が持ち上げたのは、コンビニのレジ袋だ。それも大。ロング缶二本に、ホットスナックのチキン、餡団子、キャベツ太郎にさきイカ。


「これでまたこれから雑談配信かなーん」

「楽しそうで良かった」

「あっと、皮肉かな? それは皮肉なのかな? 配信者はタノしそうってよりラクしそうってカンジ? ひどいなあ。でも大丈夫。配信者は暴言に強いのだ。誹謗中傷に強いのだ。強い人しか残らなーい!」

「そんな。ていうかもう酔ってる?」

「素敵な声に生んでくれたお母様に感謝ですなあ」

「そうだね」


 引きつったようにころころと笑う──なんだか奇妙だけど、私の語彙ではそうとしか表せない──アヌビスの声は素敵だ。透明で可憐で活発で──優美で、落ち着く。まさに天職見つけたりって感じ。

 けれど、炎のようなクラスメイトに怯えながら共に過ごした過去を、その声は忘れてしまっているかのようで。

 嫉妬っていうわけじゃないけど、私には、彼女もまた眩しすぎた。


「逆に逆にだけど、あんたこそちゃんと食べてる? 前に会ったときよりげそーって感じになってるよ」

「ビス子さんに心配されるとはね。枝みたいな脚しておいて」

「茶化すなって。ま、なんかあったら言ってよ。いつでもミイラにしてあげるから。アヌビス&ミイラでコラボ配信といこう」


 アヌビスジョーク。

 ダミ声めかした、転がる美声。

 それに合わせるようにして私も笑うと、自分の声がどこか無味乾燥に聞こえた。低いうなり声みたい。彼女の声の邪魔にしかならない、嫌な音。

 それが顔に出ていたのか、アヌビスは笑顔をしまう。私は──こんなこと言ったらかなり失礼だと思うけど──アヌビスの、この決して整っていない顔が好きだった。本当になんとなくなんだけど、その視線が本当の本当に目の前の私に向けられているって思えるから。可愛いとか可愛くないとか、格好良いとか格好良くないとか、そういうのをほんの少しだけでも忘れられるから。

 これはきっと、私もそうだからっていう身勝手な理由でしかないんだけど。


「ジョークだけど、マジだから。できることって、きっと実は、いっぱいある」


 配信では滅多に聞かない真面目な声。私だけに向けてくれた声。暗い苦楽を共にした、あの頃の声。

 なんだ。全然忘れてなんかないじゃんか。


「ありがとう。智子」

「うはー、名前呼ばれるのなんて久しぶりだ」


 彼女は照れたように目を細める。


「それじゃ、また」


 そうして、また暗がりへと戻っていった。

 りり、り。

 またそのあとには、私と夏の夜だけが残る。

 できること。

 こんな私に、できること。


「おい、ほんとにいたよ」


 突如、炎みたいに真っ白な光が私を照らし出す。


「マジじゃん。本物じゃん」

「シンゾウさーん、こんばんは」


 顔を被った腕の中で、ぎゅうと目を閉じる。

 何? シンゾウ? 心臓? 私のことか。男? こんな時間に。誰?


「おもしろ。なんでそんな驚いてんの?」

「見えねえんだよ。ねえー、顔隠さないでさあ。ほら、心臓見せてよ」

「どうなってんの? 痛くねえの?」


 ざりざりという音が近づいてくる。砂っぽいアスファルトから擦れ出る音だ。塀の方へと押しやられるように、私は身を少しずつ退けた。

 開いて、閉じて。開いて、また閉じて。腕のあらゆる隙間から浸みこんでくる光にやっと目が慣れたとき、すでに私は囲まれていた。私より年下だろう五、六人の子供が、にたにた笑いを浮かべながらそのライトを私に向けて構えている。その中には、さっきすれ違った少年の姿もあった。肝試し……だったとしたら、その帰り道?


「なあ、おい、マジで心臓いたなあ」

「うん、本当だって言ったろ?」

「ねえ、写真撮りたいんすけど。いいでしょ。ネットとかあげないからさ」

「じゃあ俺一緒に写るわ。アイコンに使えるっしょ」

「うわそれシュミわりぃ」


 そのほとんどがライトを持っているらしかった。ちらちらと揺れる光が目の先を揺れ動く度、反射的にびくりと体が震えた。腕の中はすっかり真っ白に燃やし尽くされていた。


「え、何、ライト怖いの? なんで?」


 ピン。一人が構えたスマホのカメラが無機質に鳴った。また別の方からは腕の隙間に激しい光が差し込まれる。


「ねえ、なんか言ったら」


 どうすればいい。

 心臓の鼓動が聞こえる。


「おうい、心臓さあん。早く心臓見せろよ」


 すぐつま先で、ざりと音がする。


「ねえ、中学校とか辞めたんでしょ。ウワサで聞いたけど」

「え? マジ? ズルじゃん」

「バカ、学校行ってねえ方が困るんだよ後で」

「どんな理由でも学校来ないやつはろくなやつにならないって先生言ってたよ」


 どうすれば。

 心臓の鼓動が、聞こえる。


「いじめられるのが嫌ならとっとと引っ越せば良かったじゃん。……どこ行っても変わらねえか」

「うわ、それ言っちゃう?」

「見たらすぐ帰るからさあ。それでおしまいでよくね? 何意地張ってんの?」


 やめてって言ったって、きっと無駄だ。ほっといて、なんて聞きもしないだろう。暗がりの私の声で、より一層燃え上がるだけ。

 どくん。

 ああ、もう。

 不細工な私の、不細工な心臓。

 ちょっとくらい、静かにしててよ。

 こうしてもうどれくらい経っただろう。五分? 十分? それともたった数十秒?

 冷めた顔が腕の向こうに見える。


「ねえ、もう帰りたいんだけど」


 勝手に帰れ。馬鹿。

 口から心臓が飛び出さないようにするのが精一杯で、そんな言葉は深く奥に沈んだままになる。はち切れそうな心臓のせいで、まともに時間を計ることもできなかった。

 ど、

 くん。

 私のこの胸でさえ、自分をあざ笑う。悪ふざけの念押しみたい。なあ。どうせ出てこないんだろって。なあ。どうせ出て行かないんだろって。

 弁えない、出しゃばりで、負けず嫌い。口が減らなくて、いつも小言をもらっていた。

 大して可愛くもないくせに?

 格好良くもないし。

 今は目だって片方潰れてる。

 見かけたら、誰だって攻撃したくなる?

 うるさいんだよ。

 また開かれた憎たらしい口元も、遠慮を知らない私の心臓も、全部黙らせてやる。

 こんな私にできること。


「うるさいんだよ」


 腕を取り払って、焼き付ける光に顔を晒す。

 口を衝いて出た声は、まるですぐ耳元で誰かに叫ばれたみたいだった。汗ばんだ頬から夜風が熱を奪っていく。纏わり付く湿った空気も、今この瞬間だけはどこか爽やかだった。


「私は、お前らの、お前達の、お前達、達……達々々々の見世物じゃない。誰の物でもない」


 可愛くもない顔。

 格好良くもない顔。

 そのほとんど全てが火傷痕の顔。

 半分だけ開いたままの片目。

 三角形に固まった鼻。

 腫れ上がるように広がって見える唇。

 だから私を笑うのか。

 ああ、そうしろ。

 だから私から奪うのか。

 勝手に、しろ。


「私は、誰かのために生きてるわけじゃない」


 強ばっていた脚は、驚くほど素直に前に出た。

 ──へらへらと私にカメラを向け続ける気味の悪い笑顔も、汚い暴言を吐く口も、その他諸々一切合切、こんなことをしても何も変えられないだろう。夏の夜を彩ること、友達を励ますこと、優美さや落ち着きを手に入れること、それらもきっとできるようにはならない。

 変わらないさ。世界も私も、ずっとこのままだ。

 けれど、できることはある。誰に認められなくたって、私だけは自分を認めてやる。私だけでも。同級生も、社会も、世間も、私の心臓さえ、知ったことか。

 ふと、口に違和感を覚えて立ち止まる。ちくりとした感触。吐き出してみなくても、それが蠅の脚であることがわかる。


 私はそれを飲み込んだ。




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