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チーズケーキ戦争

作者: 枯野 常


「私のチーズケーキを食べた奴はいねがぁ」

「ナマハゲかお前は」


 ノックもせずに部屋に飛び込んできた妹に、手頃な位置にあったぬいぐるみをすこん、と投げつけた。


〇 〇 〇


「静佳が口を聞いてくれない」

「だろうな」


 食卓に並ぶのは一人分のカレーとサラダ。

 キッチンで片付けをする自分の手元にはビールとたこわさ。今日も今日とて残業三昧のクレイジーブラック企業に努める兄が帰宅したのは日付が変わる直前のこと。


 へろへろと玄関マットにダイブしかける兄を鬼畜の所業と罵られながらリビングまで蹴り転がし、晩酌をしながら決死の力で食卓に座った彼の夕飯に付き合うのが俺の日課である。

 本日の議題はここ三日ほど続く妹からの総スルー攻撃についてであった。自他ともに認めるブラコン兼シスコンの兄にとって、一番応えるのが打てどもう打てども響かないこの状況らしい。ある意味妹は兄のことを大変理解していると言えるだろう。


 ほろほろとこちらまで切なくなるような表情で涙をこぼしながらカレーを口に運ぶ兄は大変悲壮感に溢れているが、はっきり言って自業自得である。せっかく過去最高と言えるほどおいしく作れたカレーなので余計な塩分を加えないで欲しいというのが正直なところだ。


「あのチーズケーキ、静佳のだったのか……やっちまった……」

「我が家で買ってきてまでケーキ食うのなんてあいつだけだろ」

「判断力鈍ってた」

「何徹してたんだアンタ」


 カレーの皿を避けて机に突っ伏した兄が指を三本立てて日数を示してくる。ビールを煽りながら「死ぬぞ」とさっくり切り捨てると、兄が勢いよく顔を上げた。そのままガキのようにイーッと舌を出してくる。


「レポート終わんなくて平均睡眠時間で寿命削ってる壱縷に言われたくない」

「うるせえとっとと飯食って寝ろ、今日も俺は課題が終わらない」

「おれも仕事終わんない」


 はっはっは、と遠い目で虚空を見上げる兄の顔は疲労で大変顔色が悪い。どうやら今日も仕事を持ち帰ってきたようだ。彼の目元に鎮座する隈は彼が就職してから退去する気配を一切見せない。もともと幸薄そうな顔がいっそう悪化した、というのが俺と妹の見解である。


「……ビール、要るか?」

「オールフリーでよろ……」


 ああ、兄の言葉がどこまでも切ない。


〇 〇 〇


 時は遡ること三日前。


「信じらんない、なんで春兄こうもピンポイントで私のご褒美おやつばっかり食べちゃうの」

「名前書いてねぇのが悪いんだろ」

「書いとるわ」


 ぽすん、と気の抜けた音を立てて投げたぬいぐるみが返って来る。おいやめろ今のでレポートに書くつもりだった文章吹き飛んだ。

 ぎろりと妹を睨み付けるが、奴はぷりぷりと河豚のように頬を膨らませてクッションを殴りつけている。頼む柔らかさが失われていくからやめてくれ。


 もうだめだ、こいつと話しながらでレポートなんて進むはずがなかった。カタカタと文字を書いては消してを繰り返していたパソコンを閉じ、妹が座っているソファーに向き直る。


「……兄さんの本能が糖分摂取を最優先にしてんじゃねぇの。大体やらかすのデカい仕事終えた後の早朝だろ」


 そして冷蔵庫にはちょうど良く妹の買い置きアイスやらお高めコンビニスイーツやらちょっと良いケーキやら。休息の足りていない脳みそはパッケージや箱に書いてある名前も「食べないでね」の文字も言語として処理できず、そのまま目の前にある栄養を取り込めと体に指示を出してしまう、と。


「だったらもっと胃に優しいもの食べて寝るべきだと思う」


 ごもっとも。でも徹夜したり疲れることした時って体に悪そうなもの食べたくなるよな、わかる。だいたいそのあと腹壊すけど。


「兄さんの場合そのあと即出社だろ」

「……諸悪の根源は会社なのではなかろうか、壱兄」

「そう、会社を憎んで罪を憎むな、ということだ、妹よ」


 そんなんわかってるけどさぁ、と深く息を吐いて妹がソファーに倒れ込む。クッションの次に犠牲者として選ばれたのは癒し系ふかふかぬいぐるみにゃんこのタマヱちゃんだった。力いっぱい抱きつぶされた彼女は得も言われぬ状態に変形している。頼む妹よこれ以上マイルームの住人たちを蹂躙しないでくれ。タマヱちゃんの顔がこの世の絶望を煮詰めたような顔になっている。


「心の天水桶は満杯な訳ですよ、兄上」

「お前はもう少し放水することを覚えろ」


 本音に見せかけた強がりを本音とすり替えるからこういうことになる。そう続けると妹は図星を付かれたのか顔を顰め、タマヱちゃんの腹に顔を埋めてじたばた暴れ始めた。


 嗚呼、さよならタマヱちゃん。きみの犠牲は忘れない。


〇 〇 〇


 妹が兄の存在を一切合切無視するようになって五日ほどが経過した。

 傍観者たる次男の立場からすると、段々とお互い意地の張り合いになりつつあり大変面白い状況である。兄は妹の気を引くために顔芸に精を出したり謎の踊りを始めたりと奇行が目立つし、妹も妹であまり人を無視するという行為が得意ではないので兄に反応しかけてはつーんと澄まして体裁を取り繕う。

 

 俺はと言えば面白い兄の動きを選りすぐって海外勤務中の両親に送り付けるのが日課だ。兄の奇行日記は母に大変好評である。父は研究者型の社畜なせいで反応がない。とりあえず生きてはいるようなので良いだろう。


「んがー!」

「暴れるなら自分の部屋に行け怪獣娘」


 今日も今日とて妹の不機嫌は絶好調。持て余して拗らせた感情の捌け口が見つからずに何故か俺の部屋で暴れている。とはいえ暴れているのは気持ちの部分で物理ではないのが救いだが。今日の犠牲はもこもこふわふわ等身大テディベアの井上さんだ。井上さんはその柔らかく優しいお腹で妹の頭突きを受け止めている。


 井上さんごめんな、この暴動が終わったら日干しするからな。合掌。


「私の部屋、春兄の部屋と隣だからヤダ。響く。」

「だから部屋分けるとき良いのか? って聞いただろうが」

「壱兄の部屋狭いもん……」

「じゃあ来んな」


 この狭さが落ち着くの! と叫んでそのまま妹はベッドに大の字で転がる。俺はベッドに座ってさりげなく井上さんを回収し、足元に置いた。

 普通、この年頃の女子高生ってあんまり兄とゴリゴリに絡まないんじゃないのか。サークル仲間は妹に洗濯物混載不可宣言されたって泣いてたぞ、良いのか。まぁよそはよそ、うちはうち、だろう。


 結局のところ、この反抗期真っ盛りのような毛皮を被った妹も兄のことが大好きで仕方がないのだから。


 ぐぬぐぬと動物のように唸る妹の鼻を抓む。「ふがっ」と響いた動物の鳴き声のような声に吹き出すと、膝で背中を蹴られた。痛い。流石は超小型怪獣である。


「そろそろ素直に言や良いだろ、そこまで食いもんに執着ないくせに」

「……今回のチーズケーキは限定品だしラスイチだったしショックだったもん」

「もともと兄さんと食べるつもりだったのに?」


 さて、此度発生した戦争の切っ掛けになったチーズケーキは、きらきらとしたフルーツがこれでもかというほど盛り付けられたホールケーキだった。もちろん一人で回数を分けて食べるという手段もあるが、拙宅妹にそういう欲求があまりないことは良く知っている。甘いものは好きだが沢山食べられるわけではないのだ。


 もとが健啖家なうえに稼働しっぱなで思考回路がショートしていた兄はぺろりと平らげてしまったようだが。


 図星をつかれた妹は掛布団をばさっと羽織って蝸牛体勢に突入した。「だからじゃんんん……」というか細い声が布越しにぼそぼそと聞こえる。


「たまにはゆっくり時間取って一緒に美味しいもの食べようよ、で済む話だろ」

「私壱兄みたいに可愛くて健気な彼女タイプじゃないもん」

「俺のどこを見てそう表現できるんだ、一八〇センチ越えの成人男子だぞ」

「言動」


 そうかよ、と言って妹の布団を引き剝がす。案の定彼女はびすびすと鼻を啜りながらべそをかき始めていた。だからとっとと貯水しすぎた天水桶から放水しろって言ったんだ俺は。

 デスクから取ったティッシュを放ってやると、妹は素直に鼻をかみ始める。おいこら枕にそのまま顔を付けるなああもう遅い。


「だって、このままこんな状態で働き詰めだったらお兄ちゃんいつか壊れるもん……」

「それも言わなきゃ伝わらないだろ、察してちゃんはモテねぇぞ」

「なんでもずけずけ言う壱兄もモテないじゃん」

「五月蠅い俺は恋人がいるからいいんだ」


 軽く頭を小突くと、妹が泣く勢いが増した。ぐずぐず、めそめそ、ときたまぶーんと鼻をかみ。妹は兄が就職してからの三年間貯め込んでいたらしい感情をとろとろと吐き出していく。


「だって、目指してた業界で、忙しいの解ってて入ったのも知ってるのに、働いたことない高校生の小娘が偉そうに転職しろとか辞めろとか言えないって思ったんだもん」

「心配だ、という表現方法がある」

「大丈夫、しか言わないじゃん長男……!」


 まあせやな。

 妹と八つほど離れた兄は、もともとの性格で頼りがいのある人間かと言われればそうではないが、だからと言って妹に弱いところも見せないのである。弟の俺でさえ五つ差があるせいで、あんな風に玄関で

へろへろの姿を見せてくれるようになったのは最近だ。その分妹からすると、見るからに毎日毎日無理をしている兄を見ているのはもどかしいのだろう。


「だから思考停止を反省するようになんとか仕向けたかったと」

「でもお兄ちゃんの反応斜め上すぎてどうしたらいいかわかんない。これなら無視すんなって怒ってくれたほうがマシ」

「怒りにもエネルギーは要るんだぞ妹」

「チーズケーキで作り出したエネルギーくらい私に向けてほしい」

「面倒くさい彼女みたいな振る舞いすんな」


 秒でティッシュの箱が飛んできたのを両手で受け止める。角は止めろ角は。今度からティッシュももこもこのケースに入れる必要があるな、部屋のもこもこが増してしまう、幸せだ。


「……とにかく。もう無視するのは止めてやれよ、そろそろ泣き出すぞ」

「私はもう泣いてるもん」


 そういいつつも、妹の言葉に拒否のニュアンスは含まれていない。ここで心に抱えていた澱をそこそこ吐き出したことでだいぶ楽になったのだろう。一度泣き始めるとなかなか止まらないらしく未だほろほろぐすぐすと啜り泣いているので、「好きなだけ泣いとけ」と棚にしまってあったバスタオルを投げつけ、自分はレポートとの戦いに戻ることにした。


〇 〇 〇


 案の定、というか、八割予想していた結果、というか。泣き止んだ妹はそのまま涙で蕩けた眼球のまま俺のベッドでがっつりぐっすりお眠りあそばしてしまった。抱きかかえられ

たタマヱちゃんの顔面がじっとこちらを見つめていたが、申し訳ないが本日も犠牲になってもらった。ごめんなタマヱ。お前も次の週末に井上さんと日干しにするからな。

 

 ベッドを妹に侵略されてしまったので、パソコンと使っていない掛布団を持って部屋の電気を消す。今日はこのままリビングのソファーで作業してそこで眠ってしまおう。それなら一限に間に合う時間に誰かに叩き起こしてもらえるし丁度良い。そう思って部屋を出たところで、薄暗い廊下に座り込む影に一瞬体が固まった。


「え、こわ……」


 体育座りで廊下の置物と化しているのは、まぁ勿論幽霊などではなく我が家の長男であった。ぐすんぐすんと鼻をすする音がするのでどうやらこちらも泣いているらしい。


「聞いてたんか」

「ぎごえでだ」


 おれのいもうとまじよいこ。そんな副音声が聞こえる気がする。どうやらマイルームでの一部始終をそっと聞いていたらしい。そういうことするから距離置かれるんだぞあんた。

 呆れを込めて溜息を吐き、壁に背中を預ける。


「で、どうするんすか兄上。かなり命の心配されてるのはご理解いただけたかと思いますが」

「ゔゔゔ……」


 ずび、ずびと鼻を啜る兄にポケットにあったティッシュを差し出してやる。いつ入れた奴かわからんがまあ蓄膿症になるよりいいだろう。


 そして、ぶーん、と盛大に鼻をかむ兄に追い打ちをかける。


「普段なんも言わんが俺も父母もかなり気にしとるんだぞ、あの父でさえ「寝てる間にこっちに連れてきちゃえばいいのでは」とか真顔で母と相談してるからな」

「え、おれいつの間にか誘拐計画練られてんの?」


 せやで、と無言で頷く。ぶーん、ともう一度鼻をかんで、兄はぐいっと顔を上げた。


「だいじょぶ、かんがえてる。もともと三年働いて資格取れたら転職するつもりだった。ちゃんとその道に詳しい同級生に相談して記録も取ってるし、資格も取ったし、今のプロジェクト終わったら円満に転職する……」

「……アンタの悪いところはそういうのなんも言わんでやるとこだって常々言ってるだろうが」


 思った以上にきちんと計画を練っていたことが判明し、つい彼が座っているのを良いことにげしげしと兄の脛を蹴ってしまう。俺のモットーはふげんじっこうなんだ、という抵抗の声は黙殺した。思考力も判断力もゴリゴリモリモリ削られて、先のことなど何にも考えられていないような状態に見えていたのだ我々には。

 

 いつ兄が突然会社を辞めてきても、会社に放火してきても絶対驚かないし俺たちは嫌いにならないぞと妹と二人決意を固めたのは兄が試採用から社員に変更になった時の事。それが全て杞憂だったと知りかなり気持ちが楽になった。


「今のちゃんと、静佳にも言ってやれよ」

「……明日定時であがってケーキ買ってくる」

「じゃあ俺もレポート終わらせとく……」


 無理すんなよ、という兄を置いてリビングに向かうことにした。なんとかこのレポートとの戦いを明日終わらせることで、不言実行よりも有言実行の方がかっこいいということを兄に理解させるという使命を俺はたった今受信したのだ。


〇 〇 〇


「……ということがあったんだけど、俺の兄妹シスコンブラコン拗らせまくってて大変尊みヒデヨシって感じしない?」


 翌日、昼時、学食にて。午前の講義を完全に右から左へ受け流し、なんとか一本レポートを完成させた。鬼気迫る俺の様子を心配した恋人に事の次第を報告すると、彼女はにっこり笑ってラーメンの味玉を一つ分けてくれる。


「そういう壱縷くんも大変拗らせてるから安心していいよ」 


 大丈夫だ、俺が一番自覚してる。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 家族や兄妹の暖かさを堪能しました。 憎まれ口を叩いたり、面白がっていながら、奥の方ではお互いへの深い思いやりがある、そっrが感じ取れる素晴らしい作品だと思います。
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