或る詩書きの独り言
からからと、氷が回った。
煙草を灰皿の上で握り潰した僕は、原稿用紙に並べられた文字列をさらりと眺めてブランデーのグラスを傾けた。
僕は詩人―――………いや、そんな立派なもんじゃないかも知れない。少なくとも僕はそういう職業に就いている訳ではないし、僕の書いた詩は世間に公表されているとは言え、それは利益の発生するようなものではないからだ。
僕の本職は別にあるが、でも、それも特に言及すべきような珍しい職業でもないので、ここでは話さないでおくことにする。
あなた方だって、下らない社畜の話なんて興味ないだろう?
まあ、だから、多分僕のことを言い表すのなら恐らく詩書きという言葉が―――そう名乗るのも烏滸がましいが―――一番的確なのだろう。
週に一度か二度、多ければ毎日、僕は詩を書いている。肴は酒かコーヒー、それから煙草。たまに散歩にも行く。そこで何かないかと観察し、参考になりそうな書物を買い漁ってアイデアをくすねている。
僕が書く詩には、内容がつまっていないことが多い。
素朴な文体に、空虚な想いを乗せて。
それは僕の下らない信念でもあるようで、もしかすると何の得にもならないような手癖のようでもある。
机に積まれた数枚の原稿用紙。それらには、その枚数と同じ数の詩が載っている。全てが200字を少し越えるくらいの短文詩ばかり。そこには意味もない、平坦な文字がつらつらと並んでいる。
それに僕は細やかな想いを、魂の一部を、あるいは日頃のストレスを添えているが、それが全くそのまま読者に伝わるとは、僕はこれっぽっちも思っていない。僕の気持ちを誰かに分かってほしいなんてことは、間違っても爪先の一欠片たりとも思っちゃいない。そんなものは糞食らえ。
文章というのは人を映し出す鏡だと、僕は高尚っぽくも思っている。一丁前の詩人のように、偉そうに、自分の作品の巧拙は棚に上げて高説を垂れている。
例えば、人が死んだ、という文章があるとする。僕はそれを、そうなのか、人が死んだのか、と思って読むが、人によってはそれは同情をもたらすものであるらしい。
当たり前だが、僕は僕で、他人は他人だ。全く同じ解釈の人なんて、そうそういないだろう。短い文章ならば意見が合う人も、それらに蛇足を付け加えれば食い違うことだってあるかもしれない。
多分人は、文章を通して自分を見ているんだと思う。あなた方だって僕の詩文や小説擬きを読んで、思うことも考えることも少しはあるだろう。それはあなた方がどんな気持ちなのかと直結している。
あなた方が幸せならばその文章は幸せなものになるだろうし、あなた方が悲しければそれは悲劇的なものになるのだろう。何も思わなかった人も、何を感じたのか表現できないだけなのかもしれないし、よく分からないという人は自分の考えや気持ちが複雑に絡まっていて分からないのだろう。
故に、読み物はそのまま人の内面を映す鏡なのだと、僕は思っている。
僕が使う言葉は、そのほとんどが誰かのものだ。
僕は想いを、誰かの言葉に委託している。僕は自分で言葉を作れない。僕は詩人ではなく、あくまで詩書きなのだ。芸術家ではなく、模倣家なのだ。創作する類の者ではなく、表現する類の者なのだ。
僕は新たに言葉を作ることは出来ず、あくまで学んだことをどうにか組み合わせているだけに過ぎない。そういう意味では、僕はどこまでも詩人にはなれない。
僕の詩文には、僕の言葉は要らないのかもしれない。
平凡な言葉で、陳腐な語り口で、素朴な言葉遣いで………そうしたものが一番分かりやすく、人の心を映せるのだろう。僕には文学によって人を啓発する意図は全くないが、それでも、人の内面を映し出す鏡としての機能を考えると、小難しい言葉なんて必要ないのだと、そう思う。第一、僕にはそんな言葉は使いこなせないだろう。
ブランデーが底を尽き、グラスには半分が溶けた氷が残っている。煙草の吸い殻を放り出すと、積んでいた原稿用紙に灰が斑に散らばる。
紫煙が窓の外に出て行き、またオゾン層が少し壊れる。
天気は思わせ振りな曇りで、日の丸が視認できるほどの明るさだ。風が昇る煙を引き千切り、空気中でニコチンと二酸化炭素が撹拌される。
平和の象徴の箱から、また一本を抜き出して火を点ける。多分幸せの味が喉に溜まっているんだろう。ワインセラーから新しいボトルを取り出して、栓を抜いた。ウィスキーだ。
グラスに注がれた液体で喉を潤す。アルコールとニコチンとが溶け合い、内臓を犯していく。考えていたことが馬鹿々々しくなっている。
吹き込む風が、少し涼しい。それは僕の嗜好品に対する依存症を吹き飛ばしてくれそうで、そうはならない。そんなもので僕自身のこんな損にしかならないような特性が消えるのならば、僕はこんなことをたらたらと引き摺ってはいないだろうさ。
僕の詩を書くという何の生産性もない行為は、結局の所、僕にとっては僕の自尊心と承認欲求を満たすためだけのものなのだろう。そういう意味では酒も煙草も一緒だ。僕は夢を見たいのだ。子どもの頃の、物語を紡ぐという夢を。夢が見れれば、何でも良かったのだ。賭博でも、薬でも、何でも。
僕が詩書きとなったのには、特に理由などなかったように思う。最初は小説を書こうとして、挫折して、短い詩文を書き記したのが最初だったのだろう。
僕は短い文章に魅せられた。それに、自分の全てを込めるという行為が、とても美しく思えたのだ。綺麗に見えたのだ。憧れたのだ。―――今はそんなもの、見る影もないが。
誰かが洗濯物を干している。名前も知らない、どこかの誰か。いや、どこかは知っている。僕の住んでいるマンションの、向かい側の建物にあの誰かは住んでいる。時々、目が合う。そして、互いに少し会釈をして、気まずそうに目を逸らすのだ。
こういうふとした時間に、僕は創作意欲―――詳しく言うと、創作している訳ではなく言葉で表現しているのだから、表現意欲とでも言った方が正しいのだが―――を掻き立てられる。日常の何気ない何かを表現したいのだ、僕は。そこにこそ人間の真価は発揮されるのだろうし、何気のないものにこそ、世界の真理、その全てが詰まっているような、そんな気がするのだ。
僕が原稿用紙に綴るのは、日常のメタファーが多い。のどかな風景や、暗い雲、愛だの恋だのとか、どうしようのない無気力感。そんなものを文字に変えて世の中に晒している。それを創作仲間達は褒めてくれるが、僕はそれがとてもみっともなく思ってしまう。
何故なら、仲間達は僕の目から見て―――こんな素人が偉そうに語るのも何だが―――とても素晴らしいものを創っている立派な芸術家で。
僕はどこまで行っても、ただの詩書きにしかなれないのだ。
だから、僕は自分がみっともない。
下らない、平易なものしか書けない僕自身が、一番。
………実は今、僕がこうして自伝を書いているのも、平易な自分から脱却したいと思っているからだ。自分の心の内にあるものを、自分の言葉で表現したくて。
でも、やはり僕には、無理だ。
僕はまだ、技術も知識も足りなくて。表現技法だとか、何だとか。そういうのも使いこなせない。
けれど、こんな駄文を読んでくれる人がいるのなら、また自分の気持ちをこうして綴ろうと思う。
取り敢えず、今書いている作品の続き、書かないとな。