第2話 逃げ道なし
一体何がどうしてこうなった?
確か目の前で何かが眩く光ってそれから──。
……駄目だ、思い出せねぇ。
まあ、何はともあれ今の俺に言えることはただ一つ。見えん。な────んにも見えん!
いや、正確には何かしら見えてはいるのかもしれないが。
その場合、俺は現在光の失われた世界にいることとなるだけだ。
というのも、思い出せる最新の記憶──俺が視界の全てを覆い尽くした純白の光とは打って変わって、俺の視界を現在進行形で支配しているのは漆黒。他色は疎か光さえ介入する余地を与えない最強の色。
黒に染まった世界は自分の瞼が開いているのかそれとも閉じているのか、それすらも分からなくしていく。
──あのぉ~スグルさん……でしだっけ? 聞こえてますか~?
不意に甲高い声が俺の耳を打った。
いや、反射的にそう錯覚してしまったが正しくは脳に響いてきた、だ。
──おぉ~い、返事して下さ~い!
どうやら声の主は俺とコンタクトを取りたいようだ。が、「聞こえてる」と伝えようにも声が出ない。
客観的に今の俺の姿を見れば口を縫い付けられているか、それか声帯を切除されたのではないかと思うほどに。
返事しようにも、うんともすんとも言えないのならば仕方がない。誰だか知らないが声の主には俺とのコンタクトを諦めて貰うとしよう。
──お~い、聞こえてないフリは止めてくださいよぉ。……って、あれ? もしかして私ってば、この人に行動制限かけっぱなし!?
やれ「ヤバいヤバい」だのやれ「あの人に怒られる」だの忙しなくドタバタする様子が俺の脳内で反響される。
と思ったら今度は、ほんの一瞬ではあるが、刺すように鋭い痛みが俺の頭を襲った。
──これで大丈夫なはず……どうですかぁ? 聞こえますかぁ~聞こえたら返事をしてくださ~い!
「だ~か~ら~、聞こえてるって返事しようにも声が出ねぇんだって! ……は?」
声が出せない中、心の中で吐き捨てるように言った文言が俺の耳に届いた。
数秒遅れて、それが俺の口から発された音が空気中を伝わって鼓膜を振動させたことによるものだと気づく。
つまり、発声できたことに気づいたのだ。
先程の鋭痛がスイッチとなったのか、どうやら俺の身体は再び自由に声を出せるものとなったらしい。
──よかったぁ~。これから色々と言わなきゃいけないことが有るのに、私の声が伝わってないと無意味に終わっちゃいますもんね。
声の主は一人で勝手に得心すると「それで、これをこうしてっとぉ」と呻くように呟いた。
どれだけ小さく言ったつもりでも、全て俺の脳内に漏れていることに本人は気づいていないのだろうか。
──と、どうしようもなく下らないことに疑問を覚えつつも。
一体何の用があってこんな黒のみの単色で何も無い空間に、なんの取り柄もない俺なんかを呼び出したのかを聞こうと思った、丁度その時。
ポンッ! と、あまりにも唐突に。
いっそコミカルでポップな煙と紙吹雪でも飛び散るかのように、薄いライトグリーンの小さな光球が俺の眼前に現れた。
「うおっ!」
急な出来事に頓狂な声を上げた俺をよそに、漆黒の空間の前ではあまりにちっぽけで弱々しく映るそのライトグリーンは徐々に、だが確実に姿を変えていく。
そして──
「呼ばれてないけど飛び出てジャジャジャジャーンッ! ヤッホー、みんな大好きポーレットちゃんですよぉ~☆」
粘土を捏ねるようにして形を変化させた光球が最終的に落ち着いたのは。
『妖精』という言葉が非常に似つかわしい小さな体躯と、蝶のように肩から生えた薄く透明な一対の羽。
ティンカー・ベルを彷彿とさせる小さな少女であった。
桃華よりも更に二、三段階強めたあどけない顔。
すらっとしていて椿並に胸は平たいながらも尻はしっかりと出た、キュッキュッボンというオノマトペがピッタリな身体つき。
蛍のように仄かに光る、黄緑を基調とした可憐な服装。
ある三点を除けば、一歩間違えると一目惚れしていたかもしれないと思う程には可愛らしい。
「ちょっとぉ~、せっかくあなたの世界の中から──特にあなたが生活している国における文化を抽出して採り入れた登場の仕方をしたというのに、無視はヒドくないですかぁ?」
その三点とは──ズバり。
一つ、ポーレットと名乗った彼女が妖精っ娘であること。
残念ながら俺は人間の女専門だ。人魚っ娘も天使っ娘も獣人っ娘も、勿の論で妖精にも断じて興味はない。
二つ、彼女がさっきした、軽めの自己紹介とも取れる馬鹿みたいな登場の仕方。
俺はあまりにも頭の悪い相手には惚れないのだ。むしろ俺より少し賢いくらいがいいと思っているくらいだ。そう、上から注意してくれるくらいが丁度いいんだよ。
そして────ラスト三つ目!
俺には既に心に決めた人がいるのだッ!
「無視しないでって言ってるでしょっ!!」
俺の鼻の前でスズランテープよりも薄い両翼を小刻みに羽ばたかせ、ポーレットが存在感を示してきた。
その顔は、頬が膨らみ眉は中央に寄り、誰がどう見ても不満そうな表情を浮かべている。
「あ、ああ、すまん。……それで何の話だっけ? 俺のことを惚れさせるには些細な崖二つと絶対に越えられない壁を乗り越える必要があるって話か?」
「全くこれっぽっちもそんな話はしてないんですけどぉ……」
ジト目でため息ついて「あの短い間にあなたの脳内で一体何が起きたんですかぁ……」と呟くポーレットに。
まるで丁度今思い出したと言わんばかしに手を打って俺は口を開く。
「ああそう言えば。お前、ハクショ〇大魔王は世代ズレしすぎだろ、馬鹿がバレるぞ?」
「なっ! バカって言わないで下さいっ!」
「馬鹿はダメなのか……じゃあ阿呆で」
「どうしてそうなるんですかっ!」
「なんだよ注文の多い奴だな」
「当たり前ですよぉ! アホとかバカとか言われて文句の一つも言わない者がいるわけないでしょ!」
ついつい溜め息が出てしまう。
全く、小さい身体のくせに文句の多い奴だ。
馬鹿も駄目、阿呆も駄目って、それじゃあ──
「それじゃあ、間抜けにしといてやるよ」
「もういいですぅ、あなたなんて知りません! この人でなし!」
雑な扱いにむくれたポーレットがべーっと舌を出してそっぽを向く。
だがしかし、その元凶たる俺は内心ほくそ笑んで人差し指を立てる。そしてそのまま指先を目前の少女へと向けて、
「いいのか? これが夢じゃないとしたら俺をこんなとこまで呼び出したのはポーレット、お前ってことになる。わざわざ拉致ったってことはそれなりに重要な意味があるんだろう?」
俺の真意を掴み損ねているのか、こっちを向いて首を傾げるポーレットをよそに俺は続ける。
「もう一度聞くぞ、本当にそれで──その態度でいいのか? 何かどうしても俺に言わなきゃならないことでもあるんじゃないのか?」
一拍置いて、自分のなすべきことを想起したのか。
さらに俺の言葉をこれっぽっちも理解していないのか。
そして、先程までの己の振る舞いを忘れたのか。
宙空で華麗にピルエットターンを決めた小柄な妖精がとびきりの笑顔で俺の方へと手を差し伸べる。
「そうでしたそうでしたぁ。スグルさん、あなたに力を貸してほしいんですよっ!」
なるほど清々(すがすが)しい程までの良い笑顔だ。元の美貌やスレンダーなプロポーションも相まって、彼女の写真集を売り出せばそこいらのアイドルよりは確実に高くつくだろう。
──だが、俺にとってそんなことはどうでもいい。
返すのはたった一言。
簡潔で。シンプルで。誰が聞いても刹那の内に意味を理解できる──そんな一言だ。
つまり────、
「────やだ」 と。
「な、な、なんでですかぁ!? 今のは『分かった、手を貸してやろう(キリッ)』ってなる流れでしょぉ!?」
「どうしてそうなるんだよ……頭ん中花畑かよ。まずなぁ、報酬は疎か条件も内容も知らない依頼に乗るのはお前みたいなバカかよっぽどの好事家くらいだぞ」
再びバカ呼ばわりされたことに対して、不満に眉根を寄せたポーレットを無視して。
俺は「それに──、」と挟んでから言葉を続けた。
「そもそもの話、お前の中じゃ俺はどうしようもない『人でなし』らしいからな。これくらいの振る舞いは当然のことだろ?」
ほぼ直接とも取れる間接で己の失言を指摘されたポーレットの豆粒みたいな双眸が見開かれ、「ぐぬぬ」とさえ聞こえてきそうな表情が浮かぶ。
「どうしてもダメですかぁ……?」
「ああ、駄目だ。分かったならとっとと元居た場所まで戻してくれ。俺には書きかけの小説を書き上げ、積読されたラノベを読み漁るという責務が有るのだよ」
と、ドヤ顔にエアーの眼鏡を上げるモーションも混ぜて俺は告げた。
一方で、何か引っかかることでもあるのか、俯いて俺の言葉を噛み締めるようにブツブツと反芻するポーレット。
忙しなく動いていた彼女の口が閉じるまでにかかった時間はじっくり三十秒。
「お~い、聞こえてるか~?」
「わかりましたぁ……」
然して顔を上げた彼女の顔には──、
「そっちがぁ、その気なら……私もなりふり構ってられませんねぇ」
妖精のくせに悪魔の如き意地悪な笑みが宿っていた。
「元の場所に戻りたい、ですかぁ。そうですよねぇ、戻りたいですよねぇ、いきなりこんな何も無い空間に連れてこられたら誰だってそう思うのが当然ですもんねぇ」
ポーレットの、新しい玩具を見つけた子供の様な笑みが、歪み、嗜虐的なものへと変化する。
──してやられたッ! と、脳がアラートを鳴らす。
どうやら、マリアナ海溝に届くどこまでも深い墓穴をドヤ顔で掘っていたのは、彼女の失言を突いていい気になっていた俺の方だったようだ。
「おいまさか、お前!」
「時空の狭間に存在する以上、生かすも殺すも元の世界に戻すも別の世界に飛ばすも全て私次第なんですよぉ」
痛い所を突かれたと歯噛みする俺をよそに、馬鹿を演じていた妖精はその羽を巧みに操りひらりと宙返りした。
すると彼女の軌跡を追い掛けるかの様に光の幾何学模様が生じる。
二重に描かれた同心円。中央に刻まれた五芒星。それらを飾って踊り狂う奇々怪々な文様たち。
つまるところ、それは──紛うことなき魔法陣だ。
「何をするつもりだ……?」
「『人でなし』には頼みを快諾する義理は無い」
ならぁ────と。
ポーレットの細い指がしなってフィンガースナップを響かせる。
「『人でなし』にかける情けも有りませんよねぇ?」
瞬間、彼女が『時空の狭間』と呼んだ漆黒の空間、そこに浮かぶ一つの魔法陣が穴と化した。
闇が捻れ捩れ引き千切られて吸い込まれていく。
抗う術を持たない俺の身体も同様に端から順に分解されて微細な塵となり、穴に消えていく。
「見ての通りぃ、もう残された時間も僅かなので手短に最重要の事だけを伝えときますねぇ。取り敢えず私たちが住む町──ウムラトンまで死なずに来るのですよぉ」
「死なずにって、おま、俺が今まさに飛ばされようとしている場所は危険なとこなのかよっ!?」
「さぁ? どうなんでしょうねぇ。この穴がどこに通じているのかは私にも分かりませんしぃ、さすがに飛ばされて即死亡──なんてことは無いと思いますけどぉ、結局の所人間なんて些細な傷で死んじゃうちんけな存在ですしぃ? どちらにせよ油断は命取りなんですよねぇ~」
指で髪の先を弄りながら鼻歌でも唄うかのような軽い調子でポーレットが答える。
つまるところ、この穴を超えた先は『生』と『死』の等しく入り交じる状況。
全く笑えない冗談だ。会ったばかりの妖精の頼みを無理やり引き受けさせられて迎える死とか洒落にならんぞ。
「んで、俺に拒否権は──ねぇのな?」
「うふふふっ、あるわけ無いじゃないですかぁ」
視界が、音が、歪む。
それが俺の身体の九割以上が穴に吸い込まれたからだと気付くまでにそう時間はかからなかった。
まだまだ聞き出さねばならない情報があるのにも関わらず、口まで穴に飲み込まれた俺にその術はもう残されていない。
「それではぁ、次会う時はウムラトンでぇ。詳しい説明もそこでしますからぁ──ちゃんと来てくださいねぇ?」
その言葉が耳に届いたが最後、恐らく俺は塵となって時空の狭間から姿を消した。