2.0【霊峰は静かに目を覚ます】三合目
高校1年の暮れ頃くらいだったか、強烈に印象に残る夢を見る。
一面ガラスのオブジェで出来たアクアリウムの世界とでも形容すればいいのだろうか、とにかくそんなきらびやかな世界にいる夢を見る。
決して恐怖を感じることはなかったが、だからと言って楽しい夢と言うわけでもない。目映く煌めく様はまさに幻想的と表現するには相応しいが、どこか凪いだ空のように虚で寂しさと歪さ、悲壮感を漂わせていた。
同じ夢を見る頻度は日に日に増していった。この夢は一体何なのだろう。そう思い始めた頃から、今まではベッドの上、微睡みの中で見ていたが、ついには白昼で見るようになった。
ただ、いつも見る夢とは似てるが違った。教室にいる時は教室を模した光景が、通学途中だと周りの風景を模した世界が広がっていた。
いや、そもそもアレは本当に夢なのだろうか? 確かに現実離れした光景はまさしく夢なのだろう。しかし夢なら、どこで途切れようとも見ていた分の時間は経過しているものだ。
夜に眠り、夢を見て、朝を迎える。どのようなものであれ一連の流れに対して平行した時間が流れるのが普通だ。
なのに、何故あの夢は、見始めた時と見終わる時が一秒にも満たないのか。
次第にあの夢を見ることに恐怖を感じ始めた時、輪郭を持って未知の恐怖に引きずり込まれた。
清峰晶の一番最新で最後の記憶は下校途中、駅前の商業ビルとバスロータリーの脇を歩いていた。急に襲われた頭痛がしたあと、またしてもあのきらびやかな世界の夢を見ている。
だけど今日のは妙だ。今日の夢は、変な地響きと鼻をつんざくような甘い匂いに溢れてた。
「何、この匂い……」
思わず声が零れた。
何処かで嗅いだことのあるような、奇妙な匂いが濃くなるに連れていて地響きもまた大きくなってくる。
段々と、段々とその匂いと音は近付いてくる。身を縮め、周囲を気にし始めたその瞬間だった。
間近にあった、おそらく駅を模したであろうガラスのオブジェが粉塵を巻き上げ崩壊した。その場を離れようとするが、足はすくみ、ほんの数メートル離れた場所で腰が抜けてしまった。
(何、何なの一体っ!?)
すがるようにバスの時刻表を模したであろうオブジェの影に息を殺し隠れる。
恐る恐る爆心地を覗く。薄れる気配のない粉塵の奥から人影が突き破るように飛び出した。
「だーっ、しつけぇアマだなチクショウが。いい加減諦めろってんだ!」
この夢の中で、初めて人を見かけた。口調と声の通りからして男性だろう。萌芽の息吹くような緑色の髪をしているという異様さを除けば、正しく人だ。
静寂さが支配する夢の中で、形はどうあれ人と自分以外の音に出会えた。
しかしそれでも圧倒的に濃い異様さは拭えない。それどころか、異様さはより濃度を増した。
『お主が中途半端なちょっかいを出した結果だろう。早々に退けば悠然と退避できたものを』
「耳の痛い説教どうもありがとよ」
綺麗と言い表すよりも美しいと表現するのが相応しいと思う、世界史の教科書に描かれた古代エジプト風の衣服を纏った、宝石のように煌めく深緑色をした髪の女性が傍に浮いていた。
理解が追い付かない。こんな荒唐無稽な光景に理解が追い付かない。いや、そもそもこれは夢のはず。なら突拍子のない、現実離れした光景が連続しても何ら不思議ではない。理解出来なくてもおかしくない。
『来るぞえ』
「分かってる!」
女性が警告したその直後だった。
また、あの鼻をつんざくような甘い匂いが溢れ密度を増した瞬間、紫色を帯びた波濤が轟咆を響かせる津波と化し、瞬く間に粉塵を飲み込み迫り来る。
逃げなければ。直感が強く警鐘を鳴らせども身体が恐怖に縛られ動けない。これが死の恐怖なのか。夢の中とはいえ人生一度切りの経験を先行体験できるなんて、実は幸運なのだろうか────
パンッ
何かが鳴った。波濤の迫る音じゃない、手と手を叩いたような乾いた音だ。
「デカいのランダム、その後くの字!」
『よいだろう』
男性が地面を触れた刹那、目の前に無数の緑色をした巨大な柱状のものが不規則無秩序に突如と隆起した。
すかさず、またあの乾いた音が響く。音源は男性が両手を合わせたものだったのを見逃さなかった。そして宣言した通りに、今度は緑色の柱状のものがくの字に列をなした。
紫色の津波が無数に聳えた緑色の柱にぶつかった。肉眼でその様子を観察した訳ではないが、音のうねりと気配の流れ、後ろから湧水のように浸食した津波の断片が何よりの証拠だろう。
何はともあれ助かった。そもそも夢の中で命を落とすような体験をしたからと言って実際に落とす訳でもないが、それでも助かったことには変わりないし、夢の中でも命を落とすなんて正直嫌だ。
しかし今起きた一連の出来事はまったく理解出来ない。いくら夢の中は何でもアリとはいえ、こんな漫画やアニメのような異能バトルを即座に理解するキャパシティなんて、ただの女子高生が持ち合わせてる訳がない。
緑色の柱は崩れ落ち、視界が広がる。ガラスのオブジェは見るもむ無惨に砕け瓦礫と化し、紫色の水に沈んでいる。恐怖心が無く、芸術のなんたるかを知っていれば眼前の光景を一枚の絵画と捉えることが出来たのだろうか。
「あら意外。さっきので流されなかったなんて、見た目に反してタフなのね」
異様さの濃度は限界値に達したと思っていたのに、更に濃くなった。
津波が迫ってきた方角から、また一人現れた。顔立ちと声の通り具合から女性だというのは分かった。髪は重くも透明感のある黒紫色で肩を乗り越える長さをしている。見間違いでなければ、女性は一面に満ち満ちた紫色の水の上に立っている。
「世間で言うギャップ萌えってヤツさ。惚れられるのは大歓迎だけどこっちにも選ぶ権利はあるんでね、テメェみてぇなのに好かれるのは真っ平ゴメンだぜ」
軽口とも挑発とも取れる言葉を男性は投げつける。ただでさえ一生分の驚きを消費した気分なのに、事態を更に荒そうとしているのか喧嘩の叩き売りでもしてるのか分からないが、これ以上驚きに回す心のスタミナはない。
「先にちょっかいを出してきたのはそちらでしょう。でも良かった。私、あなたのような品性の欠片も感じられないゴミクズに抱く感情は何一つ持ち合わせていないの」
「お生憎様、育ちが悪ィんでね。だから羨ましいぜ、腐った葡萄酒にクソをぶち込んで発酵させて煮込んだみたいな異臭と悪臭と汚臭をプンプンさせてる奴が口にする品性ってのは、さぞや高尚な道徳教育と教育環境で培われたんだろうな~ってよ」
「……訂正しましょう。たった今、あなたに対して嫌悪と殺意を抱きました。ここで脱落なさい」
「きゃー、怖ーい。殺されちゃうー」
大雑把だが状況は把握した。
この二人は敵対関係にあって、男の人は煽り立てて怒らせる様子を楽しんでいる。対して女の人の何かしらの琴線に触れ怒っている。そして、ここに居続けると確実に巻き込まれる。
「まぁ冗談はさておいて、脱落するのはやぶさかじゃねぇが、こちとらテメェの反吐が出るつまらねぇ願いに全賭けする義理も義務も理由も無いんでね」
「なら、どうするつもり?」
「こうする」
男性は手を合わせ地面に触れる。
緑色の柱が隙間無く均一に横一文字に高く並び聳えた。
「三十六計逃げるに如かずってね。聞こえちゃいねぇだろうけど」
具体的な高さも並んだ幅も厚さも分からないが、とにかく高く広く聳え二人の接触を阻む壁になった。これでさっきより過激な異能バトルは起こらないことは想像するに容易く安堵する。
しかし問題は、どうやってこの夢から覚めるかだ。いつもなら放っておけば自然と覚めるから深く考えなかったが、今は何が何でも直ぐに夢から覚めたい。
取り敢えず頬や腿はつねってみたが痛いだけで、夢から覚める様子はなかった。そもそもだが、夢の中にいる時、痛覚は感じるものだっただろうか?
「さてと、煽って気分もスッキリしたし、情報も十分採れたし、とっととずらかるか。サーペン」
『はーい』
さっきまでいたエジプト風の女性は消え、無邪気とも無気力とも取れる抑揚の足りない新しい声の主は、男性からほどける様に地面に降り立った、大人一人を簡単に平らげそうな巨体の蛇だった。
『あっ、ミドリ、一ついいかな?』
「なんだ?」
『あそこ』
「何処?」
『そこの物影』
「なんかあんの……」
……………………
視線がばったり合ってしまった。それはもうしっかりと。
「あの、えっと……」
数秒の間を空け、何か言葉を繋ごうとしたその瞬間だった。視界と動きが突然と封じられた。
縄のような細いものが幾重に重ね縛られた感覚ではなく、丸太のような太い、それでいて妙に生温かくも冷いものに巻き付かれた感じだ。思いつくのはあの人語を話したヘビだが、動いた素振りは見えなかった。
「悪いな嬢ちゃん、しばらく大人しくしてな。少しでも妙なことすりゃ、ちょいと痛い目にあってもらうぜ」
近い距離で、それこそ耳元で囁かれたようなところで男性はとても穏やかじゃないことを言ってきた。
返答も抵抗もしようがないほどみっちりと拘束されてる今、沈黙でやり過ごすしか出来ない。
男性は大きなため息をつき、私の身体が宙にぶら下がる感覚に包まれどこかへと進んでいった。
「サーペン、モニュメントまでの具体的な距離は?」
『三~四〇〇くらい』
「微妙に曖昧だなコノヤロウ」
『仕方ないでしょ、モニュメントの大体の場所は察知できても、そこまでの正確な距離を掴むのは難しいんだよ。数値化できただけ良い方さ』
「なんだよ、他の奴らじゃ難しい芸当なのかそれ?」
『漠然とした方角ならみんな分かると思うけど。ボクみたいな動物の面を持ってるスピリタイトなら数値化はできると思うよ』
「動物か、となると数は限定されるな」
『そもそも闘うことが大前提だから、逃げ道を優先的に探ろうとするスピリタイトは皆無だよ。もちろんボクだって例外じゃないんだから』
「バーカ、逃げるのも立派な戦術さ。不要な戦闘は避けつつ情報を収集して、あらゆる可能性を立ててもう一度挑みゃあ勝ち星も掴めるってもんさ」
『つまり今回のコレは、その収集と可能性の算出のための行動なのかい?』
「つっても、あの女のスピリタイトの特定は簡単だったし、能力も粗方見当がついた。ついでに言えば、能力の導き出し方も今回ので大体分かった。取り敢えずはあの紫女をどうやってぶちのめすかだ」
『割りとノリノリだね。リタイアしたいんじゃなかったの?』
「してぇに決まってんだろ。だけど勝ち星譲るにしてもあんなクソみてぇな願い持った奴に譲るなら、勝ち進んだ方がまだマシだ。番犬のこともあるし」
『そうし続けてくれる方が嬉しいんだけどね』
「ところでその紫女は?」
『離脱した気配はないね。だけど迂回して向かってくる様子もない。諦める一歩手前ってところかな』
「そのまま今日は諦めてくれりゃ有り難いんだがな。今追ってこられたら正直つまんねぇ結果にしかなんねぇからな」
『勝つための算段が組み上がってないからかい?』
「まぁそれもある。仮にあのクソアマが来たら一方的な蹂躙しかやることがないのはつまんねぇしよ。やるなら伸びきった鼻っ柱根元からへし折って、心を石臼で擂り潰してからの一方的な蹂躙した方が気分良いだろ」
『ボク、それなりに人間を見てきたけど、ミドリみたいな屈折した人間はなかなか見なかったよ』
「そりゃそうさ。俺みたいなひねくれ者が溢れてちゃ社会は機能しねぇからな」
『変わり者が淘汰されるのはいつの時代も変わらないんだね』
連れ去られて数分間、内容はサッパリ分からないが男性とヘビの会話は矢継ぎ早に続く。
「それはさておいて、だ。コレについてだけどよ……」
『この娘かい?』
話の矛先が私の方に向いた。
「な~にが『敵の気配は一つ』だ。バッチリガッチリガッツリ二つじゃねぇか!」
『嘘は言ってないよ。事実、あの距離になるまで気配すら感じられなかったんだよ』
「なんじゃそりゃ? 探知漏れの言い訳か?」
『ひどい言われようだなぁ。ボクの探知能力は他のスピリタイトより遥かに優れてる。これは紛れもない事実さ。何より、ボクたちはキミたち人間に嘘がつけないのは知ってるでしょ』
「じゃあ、こりゃ何なんだ?」
『さあ? イレギュラーなのは間違いないけど、現状はサッパリ分かんないよ。逃げないように手足砕いてからゆっくり尋問して吐かせれば何か分かるんじゃないかな?』
「お前、時々サラッと怖いこと言うよな」
『ミドリほどではないさ』
言葉の抑揚が見受けられないヘビの言葉に背筋が冷えた。
『ミドリ、そこの建物、モニュメントの気配がするよ』
「へいへい。──っと!」
窓ガラスが割れるような破砕音が、僅かな振動と共に伝わる。
ヘビは建物と言った。だけど建物らしい建造物はなかったはずで、あったのはガラス細工のようなオブジェだったはず。つまりこれは認識の齟齬なのだろう。私がオブジェだと思っていたものは、この人たちは明確に建物に見えているのか、そもそもオブジェは元々建物だったのか。
『ナイスキック』
「平々凡々で善良な一般市民様に器物破損仕向けるとか最悪だぜ」
『さんざん大暴れして色々壊してきたクセによく言うよ』
「で、御丁寧にモニュメントは真ん前に鎮座してますよってか。探す手間が省けたぜ、っと」
拘束が解かれ宙空に投げ出された。あまりの低空に受け身も取れず、地面に身体の背面部を強打してしまった。
痛覚が仕事をするが、今は意識をそっちに割く余裕はない。この人たち……ヒト? なんでもいい、暫定このヒトたちが入ってきた場所を探す。
(あった!)
頭上正面、目測で四~五メートルくらいの位置、出入口幅は十分な大きさ。この程度なら少しくらい全力で走っても問題ないはず。
素早く身体を起こし、一目散に出入口に向かおうとしたときだ。
あの時聞こえた手と手を叩いたような乾いた音が響いた刹那、出入口は緑色をした柱状の物体に塞がれた。
「悪く思わねぇでくれよ嬢ちゃん、こっちにも色々事情があるんでね」
振り替えれば男性は地面に触れ、悪巧みを企てているような目をしていた。
最悪だ。唯一の退路が絶たれてしまった。目線だけを左右に振って見舞わすが退路に繋がりそうな所は無い。
気掛かりなのは、男性の後ろに浮いてゆっくり回る大きなクリスタルのようなものだ。これまでの会話に出てきたモニュメントはアレのことを指しているはず。おそらくあのクリスタルはこの状況を打開もしくは改善できる重要なアイテムだろう。機を見て近くに行ければ……
「まぁまずは座って話でもしようや。こちとら聞きてぇことがあんでな」
腰を掛けるには丁度良さそうなガラス細工に座り、言葉の表面の意味は物騒さを孕んでいるのに言葉の中身は悠長で暢気な言葉を投げ掛けてきた。聞きたいことがあると言われても、私には今まで起きた出来事が一体何なのかさっぱり理解できない。
そもそも、これは夢じゃないのか。夢だからこんな突拍子もない出来事が立て続けに起きてるんじゃないのか。それ以前に、夢の中でこんなはっきり会話が交わせるものだっただろうか。
「いや、聞きてぇことっつうより、まず聞きたいことはあるか嬢ちゃん?」
質問の主導権が渡された。
これはチャンスかも知れない。状況に流されるだけだったが、事態を知ることができる。思い付く限りをぶつけて、返答の隙を見てあのクリスタルに近付くことができれば何とかなるかも知れない。
試合で主導権を取り返すときと同じように、勢いよく、けれども冷静に。今心掛けることは焦ってる振りをしてこっちの本命を悟らせないことだ。
流れを掴みとるんだ。
「こ、ここはどこなんですか!? あなたは一体なんなんですか!? 後ろにいるヘビや女の人とか、いきなり緑の柱が出て来たり紫色の津波だったり、魔法なんですかあれは!? 後ろのその浮いてるクリスタルは何なんですか!? これは夢じゃ──」
「あー……うん、オーケーオーケー、話を振っといて何だがちょっと落ち着けゆっくり喋れオッサン聞き取れねぇよ」
遮られたが、今出来る手は打った。後は相手の出方次第だ。
飛ばした質問はいたって普通のもの。逆鱗に触れるような変な質問はしていないはず。
「参ったね、この嬢ちゃん夢だと思ってるみたいだぜ」
『みたいだね』
「しかしちゃんとお前たちが見えてるときた」
『みたいだね』
「どうなってんだコレ?」
『さぁ?』
質問に返答する素振りではなく、質問をしてきた私を吟味する応対だった。理想のイメージはどの質問に答えようか考えることだが、かなりイメージからズレた。
けど相手の出方が分からない以上、イメージがズレるのは仕方がない。大事なのはそのズレから、どうやってリカバリーに繋げるか。
『ミドリ、君の言う紫女、どうやら離脱したみたいだよ』
遠くを見るようにヘビの方が動いが、流れは思っていたのとは別の方を向いていた。
「あ~……嬉しいんだか嬉しくねぇんだか分からんタイミングだな。それで、此処は保ちそうなのか?」
『かなり不安定っぽい。いつ始まるかは分からないけど、崩れる気配がするよ。どうやらその娘はカウントされていないみたいだね』
「記憶の引き継ぎは?」
『どうだろう。ここに入れてるからおそらくは引き継ぐと思うけど、こればっかりは、キミ風に言うなら予測も予想も断定もできない』
「何て面倒な……」
手で顔を覆い、深いため息を吐いて男性は項垂れる。丸まった背中からこの世のすべての不幸を背負ったような暗いものが見えた気がする。
思わず心配の声を掛けそうになるが、肝心なことは何も分かっていない。
「あ、あの! 私の質問に……!」
「悪いが今日はこれでお開きだ。詳しい話が聞きたいならジャノメ工房ってとこを訪ねな。そこでスピリタイトを探してるって言やあ大体分かる。覚えてればの話だがな」
腰掛けから離れ男性はクリスタルの側に寄っていき、触れようとしたが何かを思い出したように振り返った。
「これは親切心だ。平常心を保て、大きな声を出すな、この夢を見る前の景色を思い出せ、一秒でも早く夢から覚めたいなら脳天から釣り上げられられるイメージをしろ。深く考えず額面通りに受け取っとけ、以上」
そう言い残し、男性はクリスタルに触れた途端に姿が消えた。ファンタジーやSF映画によくある瞬間移動のシーンが再現されたように、一瞬でいなくなった。
起きた出来事に驚きを隠せないが、驚きばかりに気を割いてはいられない。あのクリスタルは予想通り何かしらの重要なアイテムなのが確定した。おそらく触れれば何かしらは状況が動くはず。そう思い足を踏み出した瞬間、クリスタルに亀裂が走り崩れた。この状況をどうにか出来るだろう重要なアイテムが、目の前で失くなってしまった。
それだけではない。地面も建物も、それを埋める空間も、ガラスに描かれた一枚絵だったかのように等しく亀裂が走っている。その亀裂からは闇とも漆黒とも例えられる真っ暗な空間が見えた。
亀裂は足元にまで届く。逃げなければ。だけど何処へ? 出口は閉ざされた閉塞な空間に、逃げ道があるのか?
そうこう考えているうちに亀裂は大きくなり、足場はゆっくりと真っ暗な空間に侵食されていく。
ふと、男性が最後に残した言葉が脳裏で反響した。たとえ夢だったとしても生死に関わりそうなこの状況下で、どうやって四つの条件をこなせと言うのか。しかし、それ以外に出来ることはない。 目を瞑り、呼吸を整える。
「大丈夫……大丈夫……なんとかなる……!」
五回、声に出し、心の中で繰り返し言い聞かせ、深く息を吸い込み、そして吐き出す。心音のリズムは元通りとはいかないが、さっきよりかは落ち着いている。とりあえず平常心は取り戻したつもりだ。
大声を出すなの意味はよく分からないが、強く口をつぐめば問題はないはず。
この夢を見る前の景色を思い出せと言った。落ち着いて記憶をなぞり返す。そうだ、確か下校途中で駅前の商業ビルとバスロータリーの脇を歩いていたはず。
最後だ。頭から釣り上げられるイメージと言った。授業かリハビリを兼ねた体幹トレーニングでそれに近いのをやった気がする。感覚はなんとなくだけど、身体が覚えている。
言われた条件は全部揃えた。
けど、その先はどうすればいい?
亀裂が大きくなり、焦りが募る。
何がいけない、何が足りない!?
不安だらけ膨らみ、今にも泣き出しそうになる。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫!」
(覚めて、覚めて、覚めて!)
何も思い付かない。出来ることは気を紛らわす二言を繰り返すだけだ。
しかし亀裂の侵食は緩むことなく広がりを見せ、すぐそこまで迫っている。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫!
真っ暗な空間は視界に収まる景色の半分を飲み込んでいた。
覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて、覚めて!
足元が、崩れ無くなった。
宙に放り投げられ何もかもから解放されたフワッとした感覚からの刹那、落ちて内臓が進行方向と真逆の方向に引っ張られる感覚が急激に襲ってくる。
そして自覚した。落下しているんだ。
人は恐怖に襲われると悲鳴を上げるのが普通だと思っていた。実際にそんな経験をしたことがないからドラマや映画が基準線だったけど、本当は違うみたいだ。
極限を越えた恐怖に襲われたら、人は声を失うみたいだ。
それでも必死に絞り出したものは、とても小さかった。
「─────────────────助けて」
その時、伸ばした右手が、何かに掴まれた。
◇
周りから雑音が響く。色と光が目の奥に刺さる。
人の声、人の歩音、車の音、電車の音、電子の音声。夕暮れに色付くビルやお店の外装、行き交う人のごちゃごちゃした服の色。混沌と、それでいて慣れと安心を覚える臭い。
試しに手の甲をつねってみたら、弱い痛みがはっきりと伝わってくる。ここは夢じゃない。現実だ。あのよく分からない悪夢から覚めたのだ。
……違う。あれは夢でも悪夢でもない。確かな現実だった。理屈じゃない、本能がそう訴える。
だけどあれを現実と決めるものは何もない。夢で片付けようと、理性が懸命に働きだす。
「そうだ、確か……」
あそこで出会った男性が口にした『ジャノメ工房』というキーワードを携帯で検索にかけてみる。もし、このキーワードが検索にヒットすればあれは夢ではなくなる。
検索エンジンにキーワードは入力した。後は実行アイコンを押すだけだが、どうしても躊躇してしまう。押せば夢か現実かの区別がつくだけど踏ん切りがつかない。
夢と分かれば、いつも通りの普通で真っ暗な日常に戻れる。
現実と分かれば、また怖い目を見ることになるけど何かを取り戻せる気がする。
どちらを選んでも最悪でしかない。
携帯に添えている右手を見つめた。あの時、落下の瞬間、私は文字通り藁にもすがる思いで手を伸ばした。掴むものは何もなく、必死に伸ばしていただけの手を、誰かが掴んでくれた。
顔どころか姿形も見えなかった。だけど捕まれた感触は確かに残っている。そして強く、優しく引き上げてくれた感覚。それが何だったのか、私は知らなくちゃいけない気がする。
これは、清峯晶の人生を決める最大の選択のような気がする。
どちらを選んでも後悔が産まれる。だけど重要なのは、どちらを選ぶことで、どれだけ前に進めるか。
「……………」
私は、検索を実行した。
◆
「あ~~、クッッソ疲れた……」
『お疲れ様』
「阿呆を見るのは楽しいが、馬鹿を相手にするのは精神がガリガリ削れるから嫌なんだよなチクショウめ」
『でもキミにとって今回は大きな収穫があったんでしょ。じゃあ良かったじゃないか』
「心の平穏がない良かったは最悪と同義だ。まぁ収穫があったのは事実だし、ポジティブに捉え……られるか、俺?」
『知らないよ。ところで、収穫内容はなんだったの?』
「ああ、今日の目的はお前らスピリタイトと能力がどう結び付いてるのか、これまで戦った四人と俺らの情報から割り出した仮説の証明が主だ」
『ふむふむ』
「幾つか仮説は組み立てたが、その内の一つは割りと素直だったから良かったんだけど、それ以外がどうも材料が薄く浅く共通要素が見当たらなくて足踏みしてた訳よ」
『つまり今回のは、その材料過多だった仮説を捌けるのに十分な材料だったってことかい?』
「十分どころか、教科書の例題問題にしていいほど分っかりやすいやつさ。後はもう一個の仮説が正しいかの確認だ」
『ずいぶんとはりきるね』
「俺は勝ち残りたくないが、雇った番犬のための餌は用意しとかなきゃ。いつ手を噛まれるか分からんからな」
『キミほどの人間ならこの闘いを有利に立ち回れるのに、もったいないな』
「最初に言ったろ。俺は夢を叶えた人間で、叶えた夢の中で死んでくことが課題の男さ。俺の、俺による、俺のための平和的日常を取り戻すために戦うが、お前らが定めたゴールにゃあ興味ねぇんだよ」
『宝の持ち腐れって、このことを言うのかな?』
「捉え方でだいぶ意味合いが変わるぜ、それ。自分に向けたなら正しい悲観だけど、俺に向けたなら皮肉と嫌味のダブルパンチだぞ」
『さあ。ボクのへき開は明瞭だけど、どの方向を向いてるかは分からないからね』
「うわぁ~、嫌な返しだぜ……」
『お互い様だよ』
「収穫と言えば、あの嬢ちゃんは結局何だったんだ。あの場にいたってことは宿主ってことだろ?」
『う~ん……宿主なのは間違いないんだけど、スピリタイトが見えなかったのが気がかりかな』
「あり得るのか、スピリタイト無しで闘堀場へのダイブって?」
『闘堀場を見るだけなら、夢の延長としてボクたちが意図的に見せてるからそもそも不可能じゃないけど、入るとなると話が違ってくるよ』
「どう違うんだ、それ」
『見せるのはボクたちの自由意志で、なおかつボクたちの存在のアピールみたいなものなんだよ。ただ、アピールの仕方はスピリタイトそれぞれによるし、そもそもそれをするのは邂逅を済ませていない時にするものなんだよ』
「ほぅほぅ」
『入るのはボクたちをちゃんと認識したら有無を言わさず引きずり込むのが通例かな』
「鬼だな」
『そこでいきなり戦うことにもなるから、実はボクたちもドキドキするんだよ。今回はいきなり大当たり引いてビックリ』
「最悪のクリティカルヒット」
『もし通例どおりなら、スピリタイトからチカラのノウハウを教えてもらって試運転してて、都合よく他の宿主とばったり会っちゃったって感じかな』
「運悪く、の間違いだろ」
『たぶんあの娘は、手違いで「見せる」が「入る」になっちゃったって考えるのが妥当だと思うよ』
「要するに、お前らスピリタイト側のミスってことだろ」
『あの娘に着いてるスピリタイトのミスだよ』
「どーでもいいわ、んなこと」
『よくないよ。だって、もしあの娘のスピリタイトが招いたミスだとしたら、あの娘は闘堀場から出るのが難しくなるよ?』
「………………なに?」
『だから、ボクたちスピリタイトの手引きがないと闘堀場からの離脱は難しいんだよ』
「バカ言え。現に俺が──」
『ボクが教えたのは離脱するときスムーズに行くようにするための準備方法で、離脱の実行方法ではないよ。もっと言えば、ボクたちがいる前提で成り立つ方法だよ』
「……つまり何か、俺があの嬢ちゃんに教えたのは準備運動のやり方で、走り方を教えた訳じゃない、てことか?」
『うん』
「…………」
『…………』
「バカ野郎、何でそんな超重要なこと教えなかったんだよ!? ヤベェよヤベェじゃんマジヤベェ! いや待て、スピリタイト無しであそこから脱出する方法はあんだろ!?」
『うん。モニュメントを使えば何とかなるよ』
「よし、なら大丈夫────じゃねぇよ! 使ったよ、使っちまったよ、使っちまったじゃねぇか、俺が!」
『落ち着いて、ミドリ』
「落ち着けるか! とんでもねぇどころか超・絶・ヤベェ事態だろコレ!? 会社でミスったとかそんな次元の話じゃねぇってのは馬鹿でも分かるわ!」
『だから落ち着いて、あの娘なら大丈夫のはずだよ』
「ホントか!?」
『闘堀場がある程度崩壊した時点で、残ってる人間は強制的にハジかれるようになってるから。だからあの娘はちゃんとこっちに戻ってるよ』
「だったら安心…………いや待て、あの嬢ちゃんはイレギュラーだったんだろ。だとしたら強制的に弾かれない可能性は……」
『十分ありえるね』
「その場合、どうなる……?」
『さあ? 過去にこういったイレギュラーが起きたことはなかったから判断できないけど』
「けど、何だ?」
『よくてちょっとしたトラウマ、悪くて精神に異常をきたすくらいかな』
「…………」
『どうしたのミドリ、すごい汗だよ?』
「詫び用に羊羮とシュークリーム、どっちが良いと思う?」
『……知らないよ』