2:晩霞―赤色が沈んで行く。
◇
男につられて行き着いた先はとある廃ビルの屋上だった。
「今更と言われちゃそれまでなんだが、取り敢えず自己紹介だな。」
と男。
それには俺も大賛成だ。なんだか得体の知れない彼らだ。是非とも素性を明かして欲しい。
「俺の名前は黒神水月。」
そんでこっちが……と続ける男の先を天使が継ぐ。
「わたしはづき君の妻の……あぅっ!」
天使が妻と言うがはやいが黒神はしゃがみ込みながら右手をコンクリートの床に叩きつけた。
「どの口が妻とか吐かしたんだ?」
徹底的な無表情。なまじ怒られるよりも怖い。とくにあの銃口の瞳では。
「イヤだなぁ、ちょっとした冗談ですよぅ。イットワズジョゥク、オーケーですか?」
ぴょこぴょこと黒神の顔に近付く天使だが、
「あぅうっ!」
再度コンクリートだ。
見ていて胸が痛まない訳でもないけど、可笑しくて笑ってしまった。
「あらぁ?わたし達の夫婦漫才がうけてますよ?」
「夫じゃない。」
「出た!お約束ですっ!」
「ネタじゃねぇから……」
駄目だ……この二人、呼吸がぴったりだ。こらえきれずに笑ってしまう。
「えっとぉ・・・・・・わたしが・・・・・・」
言い出した天使はそこで黒神に睨まれ、一瞬口ごもる。
「相棒のつぁりえるです。つぁらって呼んで下さいっ。」
「えっと、黒神さんに、つぁらちゃん?俺は裕紀、三原裕紀です。」
「「さん(ちゃん)はいい(です)よ。」」
二人の声がハモった。
「それで、アンタたちは一体何者なんだ?」
俺は黒神を見つめた。銃口の瞳が俺を見返す。
「先ず、訊きたいことは?」
そう訊かれて俺はまごついた。
知りたいこと、気になることは沢山あるけど、いざそう訊かれると答えに詰まる。
「そうだな・・・・・・アンタ達の素性?そして俺の状態?そして俺は今後どうしたらいいのか?」
そこまで言って案外少ない事に気づく。人間案外とっさのことには頭が回らないのかもしれないなと一人で感心した。
「ふむ。」
黒神は唸って腕を組む。煙草を口に咥えたまま。紫煙がゆらゆらと立ち昇っているのが見えた気がした。
「順に答えていくとな、俺は“案内人”、または“導く者”だ。」
ふっと紫煙を吐き出す。
右手の天使、つぁらは大人しくしている様で、実はこちゃこちゃ動いていた。
あれは全く何なんだ?本当にただの人形なのか?
「死んだ人間、――ここではお前さんを天上につれて行く役目だ。」
現世にそのままのさばって悪霊になったりするのを防ぐためだと黒神は言った。
「こいつは見たまま、天使だ。」
え、そこには“人形”が当て嵌まるのでは?と思ったが流石に言えなかった。
「天使サリエルって聞いたことないか?」
「ないね。」
即答だ。
「ないならいいよ。そいつの生まれ変わりだと思ってくれて構わない。」
生まれ変わりねぇ・・・・・・
当のつぁらは俺の視線に気付いたのか、小首を傾げて笑うような仕種をした。勿論表情は変わらない。仕種だけだ。
黒神は、と言うと空を仰いで紫煙を吐き出していた。俺が黙り込んだので間だと思ったのだろう。
「ごめん、続けてくれないか。」
俺が軽く詫びてみると、黒神は謝ることじゃないとか何とか言いながら話し出した。
「そして、お前さんの状態は……かなり危険な状態だ。」
深刻な表情。だけど……
「今、この俺の状態は?」
あぁ、と黒神が頷いた。
「今は霊体。だから人には見えない。俺もな。だから此処にいても大丈夫。」
大丈夫って言われてもね……
「最後に、今お前さんがすべきことは、俺と天上に行くこと。」
……死ねってこと、か。
「やっぱり俺って死ぬべき存在なのか?」
そうなのか?その手帳に名が載ったからには、死ななきゃならないのか?
黒神は答えない。
だまって俺を見ている。
銃口の瞳、光の差さない薄暗い瞳を通して。
「……俺が死ぬ期日はいつになってる?」
そうだ。死んでしまうならせめて挨拶してから死のう。
残された時間で悔いのないようにしたい。
そんな単純な願いを願った俺は、まぁなんと楽観したものだろう。自分を外から見る、もう一つの自分が言う。
でも確かに俺はそう思った。悔いのない様に死にたい、つまりは、死んでも構わないと言うことだ。何処かでそう感じた自分を、客観的な自分は嘲笑う。
『生きなくていいのか?』と。
いや、生きたい。
でも、自分は別にこの世が好きではなかった。運命を捩曲げてまで生きなくてもいい。
あれ?でもこれは運命じゃなかったんだっけ?あれ?じゃあ俺は死に抗うべきなのか?抗ってもいいのか?でも死は運命。誰も止められない。人生が川だとしたら、死はさしずめ海だ。回避出来ない、川の終着。
終着に着くその日付はつぁらが告げる
「明日の朝です。」
……明日?明日になったら俺は、名実共に死人になるのか?
いくらなんでもそれはないだろ……。抗おうにも短い。
冷静な自分が俺を更に嘲笑う。
でも致し方ない。死を受け入れようとしたのも、死に恐怖したのも俺だ。
俺と、冷静な自分が色々と言い合い、行動に統制が取れなくなる。
俺は無意識のうちに“ドッキリです”と書かれた看板とか、カメラとかを探していた。以前見たことがある。
“あなたは明日死にます”と告げて、その人の一日を追う企画。
でも、カメラも看板もない。気遣わし気に俺を見つめるつぁらと、空に紫煙を吹き出す黒神が見えるだけ。
風は頬に冷たく、いつの間にか膝を、手をついていたコンクリートが痛い。
あの企画の彼女はどうしてた?
俺はどうして明日を迎えればいいんだ?
亜里沙……。そこで浮かぶのは亜里沙の笑顔だ。
俺の*****。
「そこで、だ。お前さんはどうしたい?」
黒神が訊いてくる。
どう……どうって?
「俺達が今日お前さんに会いに来たのは、それなりの理由があるんだ。」
理由……?俺に、早めに、死を、伝える、訳……。
「ただ死なせるだけなら明日来ればいい。」
違うか?と言う黒神の声がやけに遠い。
これは、早めに死を告げられた今日は、何の為?黒神の放った言葉が俺の表面を滑って消える。頭に落ちて来ない。
「これはもらとりあむなんですよぅ。」
つぁらがひょこっと動いて、俺の俯いてる顔を覗き込む。
モラトリアム……執行猶予か。その猶予を貰っても俺はどうしたらいい?挨拶……か?亜里沙に、何か言ってから死にたい。ずっと好きだった、俺の*****。
でも……もう、顔も思い出せない。
名前と、俺は亜里沙が好きだったという事実だけが残っている。好きと言う感情も思い出せない。
ただ、知識として、文字列の様に好きだったと知っているだけ。
「本来、人は死ぬとき、全てを失う。」
黒神がゆっくり話し出すのを何とは無しに聞いていた。
「地位や名誉、愛する人。体も、記憶さえも。」
全てを置いて逝かなきゃならない。と黒神は唸る様に言った。
「そうしないと疵が付く、痕が残る。拭っても消えない、そうとうエグいやつがな。現世の魂に、来世の躯に悪影響を及ぼすんだ。」
そして輪廻にもな。とこれは吐き出す様に黒神は言う。
「待てよ、でも、俺は……」
覚えてる。名前を、自分の名、好きだった者の名を。
そう言おうとする俺を黒神は遮った。
「そうなんだよ。お前さんは覚えてる。記憶の一部をしっかり握りしめたままで死んだんだ。」
つまり、どういうこと?
「このまま天上に行ったら輪廻の環に入れないんですよぅ。」
つぁらだ。緊迫感に欠けるその声は、しかしあんまり嫌じゃなかった。
「お前さんだって生まれ変わってから、前世の念を持ち越したくないだろ?だから俺達は正式にお前さんが死ぬ前に、お前さんにその記憶を手放して貰わなければならない。」
だから早く来たんだよ。と黒神は紫煙と共に吐き出した。
「手放すって言ってもね……。そう簡単に忘れられるもんじゃないよ。」
俺は弱々しく反論する。
正直参っていた。
生前の俺に何があったのか知らないが……。素直に死ねよお前……と言いたくもなる。
「まぁそうだろうな。」
黒神が頷く。
「その為には生前のお前さんがやり残したと思ったことをすればいいんだよ。」
と、黒神は続けた。
「やり残したこと……。」
黒神がひたと俺を見る。
“見透かすような瞳”を持つ人には会ったことがある。あれは……誰だったろう?でも黒神の瞳はそれとは違う。人を射抜く空洞の瞳。何の感慨も示さず、何の光も差さない、空虚で無機質な瞳。
こちらを見つめるつぁらのガラスの瞳の方が、戸惑いとか気遣いとか、感情を剥き出しにしているように思えてくる。
「考えろ。お前さんは何をしたい?お前さんが掴んでいる記憶の欠片は何を意味する?」
「記憶の欠片……。」
きぃん、と何かが響いた。
“生徒手帳”
“白い花”
フラッシュバック
“女の顔”
“机”
俺の頭に入り込んで
“光るモニター”
“泣く男の子”
――否、もとから在ったのか
“見下ろす女の子”
“白い仮面”
俺の記憶の欠片
“嘲りの表情”
“写真立て”
けれどそれらは、
“ひび”
“叩く……”
意味の解らない、静止画。
そして
「自分な***て言***めなさ***あんた***な私が***たいじゃない!」
響き渡る女声が脳を撹拌する。
この声は……。
彼女は……亜里沙は、俺に何を伝えたかった?
思い出せない。それでも……。
「亜里沙に……話しを……話しを聞かないと。そして……伝えないと……。」
「何の為に」
何の、ため……?
それは……。やり残したことをしろ、と言うから……。
輪廻の環に戻る為か?でも、そんな、別に輪廻なんていいじゃないか。始まりも終わりもない環に、入る必要なんて何処にもない。
それとも輪廻に迷惑をかけないように、か?生前の念は輪廻にも悪影響だと言っていたな。
そうか……俺なんかの為に迷惑をかけることなんてない、か。
いや……。そんなこと関係ない。
「亜里沙が……何かを伝えたがってた……。俺も最期に……ずっと思ってた、ことを、伝えないと……。」
「それは?」
「判らない……。でも何か、凄く大切な、言うべきことがあった気がするんだ。」
「判らないことをどうやって伝える?お前さん自身も判らないものを、どうやって相手に判ってもらう?」
……いや、これはそんなに難しいことじゃない。
たったの一言、それだけを伝えられれば、いい。
「亜里沙に会えば判るさ。」
朧げな亜里沙の顔が笑顔になった、そんな気がした。それとも、俺の思い込みだろうか?
「会えば判る……そうかもな。そう思いたい、よな。」
黒神が呟く。
酷く遠い目をして。
まるで何か、愛おしいものが彼方にあるかの様な、淋しい、切ない表情。彼のその銃口の瞳には何が映っているのだろう。全く光りの差すことのないその瞳に映るもの。
彼の瞳に光りを宿した人はいるのだろうか、と出し抜けに考えた。
ふと黒神の右手を見ると、つぁらが気遣わし気に黒神を見ていた。そんなつぁらの顔が朱い。
あ、
「夕焼けだ……。」
思わず声をあげてしまう。
今まさに地平線に陽がその姿を沈めんとするところだった。
それは本当に見事な夕焼けで、ビルの屋上から見るそれは、いっそ神々しい。真っ朱なその球の放つ光りは、全てを朱く、朱く染め上げている。
“夕焼けってあたしの一番好きな天気かも。”
声が……
“それは……天気と言わないと思うよ。”
声が聞こえる
“何でよー。空模様を天気とするなら、夕焼けも立派な天気の一部でしょ?”
この声と……
“あ、あぁ。そうかもね。で、何で夕焼けが好きなの?”
そしてこの声、
“明日が晴れると思うと嬉しくならない?”
間違いなく、
“……それだけ?”
俺と、
“むぅ。まぁ夕焼けそのものももちろん好きだよー。あの赤さ、あのきれいさ!どれを取っても素敵でしょ?!”
亜里沙の声だ。
“そんなもんかなー。だって、ただ空が朱く染まるだけでしょ?”
心ないことを言う俺。
“そんな単純なものじゃないよー。もぅ、一度は外に出てみなよ。”
憤慨する亜里沙。
“嫌だよ。面倒だ。”
素気ない返事をする俺。
“部屋から一歩出るだけで凄く世界が広がるのにー。勿体ないよ。”
そうだ……。
“わかってはいるけどね……。”
亜里沙は……。
“ねぇ……あたしはさ……裕紀に……”
俺の……。
“……明日提出の宿題ってあった?”
*****になってくれたんだ。
“え?ぁ、あぁ!なかったと思うよ。”
それでも俺は……*****で……。
「すごくきれいですねぇー。」
つぁらの声で我に返った。
俺達三人は廃ビルの屋上で夕焼けを眺めている。何処かで亜里沙も見てるのだろうか。
「会いに、行くのか。」
黒神が俺に、念を押すように言った。
「ああ。」
亜里沙の言葉を聞きに、亜里沙に伝えに。