0:緒論―新月の光の下で
死のうと思っていた。
今年の正月、よそから着物一反もらった。
お年玉としてである。着物の布地は麻であった。
鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。
夏まで生きていようと思った。(太宰治)
◇
ある新月の晩、草木も眠る丑三つ時。
――それでも眼下の街は眠らない。
煌々と明かりを灯し、全力を以って夜に挑み、押し返す。
月明かりもなく、星の輝きすらもない。
本来なら暗闇が街を覆っている筈が、不夜城と化した街に、闇は似合わない。
病んでるな……と男は呟いた。街の光りも届かないそこ、日本一高いテレビ塔のてっぺんに、彼はいた。
何だか色の薄いサングラスをかけている。
散髪されたことはあっても、櫛を使ったことがない様な髪。うっかり洗濯機で洗ってしまったかの様な型の崩れたスーツ。折り目の消えた長いスラックス――余った分は蛇腹状にたくれている。そして古ぼけた革靴。その全てが黒で統一されていた。
スーツの中に見えるシャツも、ネクタイも、何故か左手についている手袋も黒だ。
そんな、今にも闇に溶けそうな彼の、最後の防波堤の様に白いものがあった。
彼の右手にはめられた、天使のパペット。口がやたらと大きいことを除けば何の変哲もないものだ。全体の割りに大きな丸い顔の下にひらひらの服がついていて、背中に羽が生えている。そして、それこそが天使の印と言わんばかりに頭には輪っかが浮かぶ。
「何がですか?」
幼い声が先程の男の呟きに答えた。
「……。」
男は答えない。
眼下の街を見下ろし、ぽつんと言った。
「不慮の事故ってのは嫌だな。」
「え、今更……ですか?今までに何件も見てきたでしょうに。」
幼い声が反ってくる。丁寧な口調だがそこに男に気遣う響きは全くない。ただ思ったことを当たり前に口にしたかの様な声が男の傍らから聞こえた。
「あぁ……今更、だな。」
男が呟く。
「ところで、“ふりょ”って何ですか?」
幼い声が男に問うた。
「……此処は寒いな……。」
男は無視して呟く。
「そうですね。」
幼い声が笑った。