『なろう』にいる、とある作家さん江
『ペン・筆・word』は剣よりも強いですよね。
きっと。
普段僕はエッセイに書く時は堅苦しい癖が出ますが、今回はとある作家さんに向けた激励とペンについて語るので、崩します。
その前に一つ蘊蓄を。
国会答弁で話題になった『忖度』という言葉は、「忖(寸)を度る」意味で、中国最古の詩集『詩経』に出てきたそうです。なるほど漢字を別ければ意味は分かりやすいですね。
「寸法を度る 転じて 心情を推し量る」
続いて似た意味の『斟酌』という言葉。これはわりかし使われますね。僕も昔から使っていました。「察した上で酌をする」。つまり、
「心情を推し量った上で行動をとる」
似て非なるものではなく、微に入り細を穿たなければ相違すら表面化しない日本語の不思議さがあります。
閑話休題として、本題に戻りましょう。
最近エッセイが面白いので読む事が多いのですが、ある作家さんのエッセイにふと目を奪われました。
了承は得ていないので投稿名と表題、内容は書きません。当然コンタクトもしておりません。感想はと言うと、単純な疑問をただ言葉にしてライティングしてあるだけ。内容に関しての感想は、良く言えば「一般論で正論」、悪く言うならば「夢物語で綺麗事」。
これが直感の印象です。
当然、あれよあれよと感想欄が埋まっていきます。それほど単純明快な題目であり、文に携わる人の集まりなのですから、感想に置き換えられた受け売りの言葉に画面が支配されていきます。恥ずかしながら僕も受け売りを感想に置き換えた人間の一人です。
『正鵠を得る(または射る)』という言葉がありますね。
感想のなかには、正鵠でない、文字通り的外れなものもありました。
感想欄には読者の言葉のみが続き、作者の返信がありません。俗に言う「ネット炎上」の起こり、つまり煙がほのかに立つ様子、とでもいいましょうか。
非常に心が痛みました。作者さんの人となりは知り得ませんが、どんな方が書いたにせよ、雰囲気として作者は出るに出れない状況なのではないか、と感想を書いた人間として心が痛みました。
何故かというと、作者さんははかなりお若い人だったのです。恐らく僕の年齢の半分ぐらいでしょうか。そして何より、その題目は『夢物語』であり、それでいてもなお、間違えようのない『正論』だったからです。
「作家は批評に対しての批評はしてはいけない」とどこかで見聞し、それは僕も大いに賛同するので、明らかにペンの暴力たる感想についても我慢をしました。単純ながら避けて通れない題目を訴えた後進なり得る人に、衒学的な批判のみをぶつける姿勢に辟易したからです。中にはペンの持つ意味をしっかりと持った方もいらっしゃいましたが。
知識を持ちうるいい歳をした大人であれば「何を勉強していたのですか?」と言えますが、若くして声を大にした後進に道を示さず、更にはペンの暴力を振るう始末に呆れました。
僕は思います。
「若いから何をやってもいいんだよ」、「若いから無知でもいいんだよ」ではなく、「若いのであれば学びましょう」と教えてあげるのもペンの強みだと思います。
もし万が一、作者さんが声高に訴えた内容に関して、今後口を閉ざしペンを置いてしまったら、それは悪意あるペンの暴力が一つの可能性を潰した事に他なりません。万が一と強調します。若い人はそれだけ周りに左右されるものです。
悲喜こもごもが渦巻くサイトで見た若い叫びは、次第に肉付き血を通わせ、繁茂した立派な樹になるべきだと思いました。
画面の向こうにいる姿が見えない誰かに対して忖度や斟酌ができる人間こそ、大和の心を持った人なのではないかと思いながら、今回はペンを置きます。