振り返れば、夏。
蝉の鳴き声がわん…と反響して、津波のようにあたしを襲った。
夏真っ盛り、といわんばかりに照りつける太陽光線が、地面をジリジリと焼き焦がす。
「はあ?!結婚?」
ちゅるる、と思い切りよく啜っていたお昼ご飯のそうめんを巻き散らかしそうな勢いで大声を出したあたしは、うるさい、とぺしりと頭を叩かれてくしゃりとぶすくれた顔をする。
「あんたもそろそろ結婚考えてもいい歳でしょ。なんにもせんでぼーっとしとるより、花嫁修業でもしていい貰い手見つけなさいよ」
「別にぼーっとしてる訳じゃないし。ちゃんと働いとるし」
ブツブツ反論しながら、勢いよく啜っていたために顎まで滴っていた汁を腕でぐいっと拭う。ついでに頬についていた葱を指先で摘み、ポイッと口に放り込んだ。
「あっもうあんたは!そういうことしとるから嫁にいけないんでしょうが!」
「ふぁいふぁいほへんははーい(はいはいごめんなさーい)」
母親が怒るのを尻目に、右手に皿、口には箸をそれぞれ咥え、肩甲骨ほどまで伸びた黒髪を揺らしながらリズミカルに階段を駆け上がる。撤退撤退。口煩いモードのときは逃げるに越したことはない。
…それにしても。
「結婚、かあ…」
空調が効いていて快適な自分の部屋のベッドにぼふんと横になると、さっき言われたことを反芻する。閉め切った窓の外ではミーンミンミン…と必死に蝉が鳴き喚いているのが微かに耳に届いて、煩わしく感じた。
(ここだけ取り残されとるみたい)
世間を取り巻く全ての要素から。
きゅうっと喉が縮こまったような気がして、あたしは思わずそこをさすった。
ー二十七歳。この歳になると周りの友人たちも次々に結婚していき、「そろそろヤバい」と思ってきてはいる。三十路までに結婚したいから、早く子どもが欲しいから。そんな理由で結婚を決めた人たちだってたくさん見てきた。
(でもそれって結局妥協じゃん)
あたしには考えられない。これからの長い人生を共に歩んでいく人を、そんな簡単な理由で選ぶなんて。好きかどうかも分からないような、これから先好きでいられるかも分からないような、そんな不安定な感情や利益で繋がっているだけなのに。
(…あたしには、無理だよ)
そんな相手に、あたしはあたしを、渡せない。
脱力して突っ伏した布団からは、嗅ぎ慣れた太陽の包み込むようなあたたかい匂いがした。
上司のセクハラに耐え切れず、会社を辞めOLから解き放たれたのがちょうど一年前。仕事のできる女性社員として結構評判がよかったあたしも今やフリーターで、バイトを転々としている。人間関係を気にすることなく働ける代わりに、慣れてくる頃には辞めてしまうんだけど。
居るだけで全てが用意され、食べ、働き、風呂に入り寝る。ずっと変わることのない怠惰なルーチンワーク。
「これぞ求めていた生活、なんつって」
ごろんと仰向けになりながら呟く。確かに親の言う通り、働いているといったところでたかがアルバイトだし、そんなに稼いでるわけでもない。なかなかのクズ具合。
「ま、ありがたい、はなし、よね…」
思考の海にとっぷりと沈みながら次第に意識は薄れ、そのまま引きずり込まれるように眠りに落ちた。
* * * * *
ー夢を見た。
小学校や中学、高校・大学生。これまでの人生の中でできたたくさんの友人たちと、あたしは一本のだだっ広い道を歩いている。見渡す限り白いその道を談笑しながら歩いていると、細く枝分かれした道がぽつぽつと現れ始めた。皆は黙ってその細い道に次々と歩いて行って、引き留めたいのに声が出なくて。気付けば一人ぼっち。いつの間にかりは真っ暗で足元すら見えず、黒に押し潰されそうで怖くなって蹲って、誰か助けて、って心の中で唱えながら泣いていてー、
「……。夢か」
瞼を開くとそこはいつもの自分の部屋だった。布団を蹴飛ばして大の字で寝ていたみたいだ。ここが現実だと知らしめるように、オレンジの雲の下で物悲しげにミンミン…と蝉が鳴き続けている。一階ではもう夕食の準備を始めているのか、トトトン、トトトンとリズミカルな音と共に漂ってくる柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。
「うわ、」
クーラーを付けっぱなしにしていたにも関わらずビッショリと寝汗をかいていたらしく、身動ぎすると服や髪がべったりと肌に張り付く。特有のツンとした臭いが鼻をついて、思わず顔を顰めた。最悪。
取り敢えず夕食の前にお風呂に入ろう。そう思い立ちベッドから降りてぺたぺた一階の風呂に向かおうとする。
「え」
頬を濡らしていた液体に気付いたのはそのときだった。
(泣いてたんか、あたし)
半ば乾きかけているそれはざらりとしていて、触ると引き攣れたような感覚がした。
* * * * *
パンッ。
「いーただーきまーす」
風呂から上がって綺麗さっぱり気持ちもスッキリしたあたしはご機嫌なまま夕食の席につく。甘めに味付けされた、焦げ目もないつややかな卵焼きに、あげと大根が入った味噌汁。てかてかと魅惑的に光るブリの照り焼き。シンプルにふわっとかつおと醤油をかけただけのほうれん草のお浸しに、そっと添えられたお新香。好物ばかりだ。ふっくらとした熱々のご飯を山盛りにして、本能の赴くままにかき込んだ。少し控えめな味付けが舌に馴染む。
(あーこの味この味)
外で食べるのも勿論美味しいが、やはりお袋の味の安心感には負ける。
「あー胃に染み渡る…」
「なにを二日酔いのサラリーマンみたいなこというとるの」
華麗に母親に突っ込まれたが聞こえなかったことにする。だって美味しいんだもん。
「そういえば、明日から新しく違うバイト掛け持ちするから」
ふと思い出して告げる。この前面接をした怪しげな雑貨屋のバイトに受かっていたんだった。時給もそこそこで家からそこまで遠いわけでもない。店が建っている場所からして既に異彩を放っていたけれど(薄暗い路地裏にあったからね)、逆に客が少なくて楽そうだった。
「あんたそんなに辞めては始めて辞めては始めてって繰り返しとって大丈夫なの?
そんなんやからいい人も見つからんのとちゃう。長くおっていい人つかまえなさいよ」
「そんなん無理。まずいい人なんか見つけたくてもおらんし」
「あんたがそう思ってるだけで実はおるかもしれんでしょ」
やめてよ。フリーターで二十七歳、化粧っ気のない薄くて平べったい顔に、肩甲骨くらいまである伸ばしっぱなしの黒髪。こんな女誰が好きになるというのだろうか。
(そんなことばっかり言うからあんな夢見たんよ)
上昇した気分は溶けかけのアイスクリームみたいにべちゃりと地面に落下する。
(結婚って、そんなに大切なことなん)
噛み締めるご飯が急速に味をなくしていくように感じた。
* * * * *
「…行ってきまーす」
いつもよりハリのない声でそう言ってドアを開けると、ムアッとしたアスファルトの熱気と太陽の鋭い光が一気に私を貫く。とどめとでもいうように蝉の大合唱が鼓膜を激しく叩き、夏そのものが襲ってくるようなその暴力的な勢いに目眩がした。…キツい。それでも今日は新しいバイトの一発目だから休むことはできない。フリーターで、結婚する覚悟も勇気もないあたしに残された唯一簡単な道が、アルバイトなんだから。
「おはようございます、今日から働かせていただく有馬花と申しますけれども…」
そろりとドアを開けると、そこにかけられていた鈴がチリンチリン…と軽やかな音をたてて出迎える。それと同時に、森の中にいるかのような深く落ち着いたヒノキの香りがふわりとあたしを包んだ。ひんやりとした空気が火照った身体をゆっくりと冷ましていき、知らず知らずの内にほっと息をつく。
「…あの、すみませーん…」
シン、とした店内には誰も見当たらない、客どころか店員すらも。どうしよう、と困惑しながらも手持ち無沙汰になって、周囲の商品に目を向けた。カタカタカタ、と小刻みにレールの上を走るカラフルな汽車があったかと思えば、その横には黒光りした万年筆が無造作に置いてある。後ろを向けば木でできた壁掛け時計がカチカチと秒を刻んでいて、足元にはなぜか駄菓子屋で置いているような大きいプラスティックの入れ物に入ったさきいかが置いてある。
「…なんでさきいか…」
「わたしが好きだからだよ」
「ッ!?」
突然くすぐるような、しかし張りのある声が耳元で聞こえてズザザッと飛び退いた。なに誰どこ?え、さっきまで誰も居なかったよね。
恐怖と驚きで震えながら声の聞こえた方向を見やると、…いた。人が。しかもあたしより年上っぽい女の人が。
「おーおー、なんだ。驚いて奇声を発しでもするかと思ったのに静かだな」
艶のある黒髪を肩で綺麗に切リ揃え、赤い口紅をひいたその女性はくつくつと一人笑っている。…静かなんじゃなくて驚きすぎて声出んかっただけよ失礼な。ていうかどこから出てきたんだろう。
「…ああ、どこから湧いて出たのかと考えているのか?そこだよそこ」
「そこ?」
ん、と指で示したそこはローテーブルの下だった。
(…えー…ずっとここに隠れてたん?這いつくばって?)
ものすごくいい顔をしながら一人で頷いているが、なかなかにやばい人物なのではないだろうか。というか誰だ。客?
「わたしは見ての通りここの店主だ、有馬花」
よっこらせ、とレジの近くにあったふかふかの椅子に座るとゆったりと脚を組み、あたしの方を品定めするようにじいっと見つめる。
「でも、面接のときは違う方にしていただきましたけど…」
「あー、あれな。丁度店に来てた常連客をつかまえてちょちょっと」
「え」
ちょちょっとなに。まさか客にあたしの面接させたってこと?
おそるおそる手を挙げて質問するとこともなげに頷く。…客に面接させて採用って、本当に大丈夫なのかこの店。…いや、取り敢えずそれは置いておくとして。失礼な奴だな、大丈夫に決まっているだろうと腕組みをしてフンッと鼻を鳴らしているこの不遜な態度の店主はなぜあたしの考えていることが分かるのか。
「有馬、君の考えていることは非常に分かりやすいぞ。顔に出ている」
ちなみにわたしの名は早川坩堝だ、坩堝と呼べ、とにやりと唇を彩る赤を吊り上げてそう言い放つ店主は、…坩堝さんは、男を惑わす娼婦のように美しく淫蕩な笑みを見せた。
* * * * *
「…」
「…」
会話のなくなった店内は、商品たちがカタカタ、カチカチとたてる音に加えて、時折本のページをめくる音だけに支配されていた。
(…き、気まずい)
取り敢えず客が来ても話しかけられるまで適当に放っておけ、と言い放ったあと、椅子に座ったまま本を読み続けている坩堝さんをちらりと盗み見る。
「あの、いつもこんな感じなんですか」
「こんな感じ、とは」
「いや…お客さんはどのくらい来るのかなー、とか坩堝さんはいつも本を読んでらっしゃるのかなー、とか」
「客は一日に一人二人来るぐらいだ。それから本は暇潰しに読んでいる」
一日に一人二人…?!そんなの絶対にバイトを雇う必要はないと思うんだが。
「あたし、店員として必要ですか…?」
恐る恐るそう尋ねるといらないな、とバッサリ即答された。
(えぇ…じゃあなんで雇ったん…)
意味が分からない、とがっくり脱力していると、初めて本から視線を外した黒目があたしの方をじっと見つめる。
「君はわたしの暇潰し要員だ」
パタンと本を閉じて至極当然であるかのような顔でそう告げた坩堝さんを、間抜けな顔で見つめてしまう。
(暇潰し要員?バイトじゃなくて?)
「なんだか面倒臭くうじうじとした悩み事を抱えているようだったからな、聞いていたらわたしの暇も潰れるんじゃないかと思ったのさ」
そういいながら坩堝さんは立ち上がり、あたしの近くに置いてあったさきいかをプラスティックの入れ物ごと掴む。こいこいと手招きして自分の席の斜め前にもう一つ椅子を置くとまた元の場所に戻り、蓋を開けてさきいかを食べ始める。くっちゃくっちゃ、という咀嚼音と共に磯の香りが広がった。
「ほれ、話してみろ」
あたしを座らせると坩堝さんはそう促す。
(…初対面の人に悩みなんて話せるわけない)
「初対面だからいいんじゃないか。有馬、君のことをわたしは何も知らないんだから」
―何も知らない。それは冷たいようでいて、何故かとても甘い言葉だった。この人は二十七年間のあたしの人生を知らない。あたしの家族も、境遇も、好きな曲も、人も、何もかも知らないのだ。もしかしたら今日で会わなくなるかもしれないし、明日会わなくなるかもしれない。通りすがりAのような人。
「…結婚って、どう思いますか」
「種の存続のための面倒な過程」
「…したいと思いますか、結婚」
「いや、思わないな」
「どうしてですか」
「わたしは別に自分の血を後世に残したいと考えていないからな」
「…寂しくないですか」
「いや全く。何者にも縛られることない生活は楽だぞ」
歯に衣着せぬ物言いでリズムよく返ってくる会話。その流れが心地よくて、気付けばあたしは言葉をポロポロと零していた。
「…でも、世間体が、あるじゃないですか」
ポロリ、と。
「周りがどんどん結婚して幸せになってるのに、あたしは仕事すら辞めちゃって、家族に迷惑かけて」
ポロポロ、と。
「でも怖いんです、本当に結婚しとったら幸せになれるん?妥協してどうやって生きていけばいいん、あたしには…分からん…」
言葉と共に、温かいしずくが化粧っ気のない肌を転がり落ちていく。俯いて歪む視界の中で、震える自分の手を弱々しく見つめた。
「…」
坩堝さんは黙っている。きっと呆れたんだ、うじうじ悩んでいるだけのあたしに。
(…もう帰ろう)
暇潰しはこれで済んだはずだ。そもそも暇潰しになったかすら分からないけれど。そう思って立ち上がろうとしたあたしの耳には、呆れた声が届いた。
「なんだ、そんなことか」
(ほら、やっぱり)
「有馬、君は何が幸せだと思っているんだ?」
(…え)
「…しあわせ?」
予想外の言葉に戸惑う。
「今君は幸せではないのか。君にとっての幸せとはなんだ?一体自分の何と比較して幸せだと言っているんだ」
「え、…あたし、は」
「憧れている結婚をすれば幸せか?子どもを産めば幸せか?君が羨んできた人間たちは本当に幸せなのか?」
…じゃあ、何故ニュースでは子どもを殺した夫婦や夫を殺した女が出てくるんだろうな。
そう言い放った坩堝さんの顔を歪めた皮肉な笑みは、あたしの心臓を深く刺し貫いて、ビリビリと震わせた。
幸せってなんだ。あたしにとっての幸せ。
…あたしは、今が不幸だと思ったことはない。そこそこ恵まれていて幸せな生活。親がいて、家があって、ご飯もあって。
「そうだな」
あたしは、人と比べていただけ?
「さてね。それは人かもしれないし、自分の理想かもしれない。ただ手っ取り早く〝幸せ〟とやらに見えたものが結婚なんじゃないかね」
幸せの具現化とでもいえばいいか。そう言い換えてくれた。
「幸せは星の数ほどあるよ、有馬。人によって感じ方が違うだけで」
舞台女優のように大きく手を広げて、坩堝さんはそのよく通る美しい声で続ける。
「幸か不幸か、人生先は長い。呆れるほどに挑戦をして、飽きるほどに失敗をすればいいじゃないか」
人生山あり谷あり、と言うだろう?
その中で、自分にとっての最たる幸福を見つけられたら。
それは最高にエキサイティングだな、有馬。
* * * * *
胸の内にわだかまっていたものを全て出し尽したあたしは、坩堝さんの暇潰し要員として用済みになったからと店を追い出された。空は赤く染まりつつあって、もう夕方になりつつあるのだと初めて気付く。まとわりつくような暑さは少し冷えていた身体に馴染み、蝉の鳴き声に煩わしさを感じることも、もうなかった。
「ただいまー」
ガラリと玄関のドアを開けると母親がパタパタと駆け寄ってくる。
「おかえり!どうだったの今日バイトは。結構早かったけど」
「んー…何かこう、人生相談的なのされた」
通り過ぎつつ呟くと、不思議そうな母親の声が聞こえた。
「結婚相手は見つかりますかーとでも相談しとったの?」
「あー、結婚?まあいい相手ができたらそのとき考えるわ」
笑いながら振り返ってそう返事をする。
「それよりあたし、取り敢えず再就職でもしよっかな」
「え、嘘。どういう風の吹き回しよ?」
そう問いただすために追いかけてきた母親に、我慢しきれず笑い声をあげた。
「なーいしょ!」
(人によって幸せはそれぞれで、その時々によっても感じ方は違う。だからこそ〝つよいおんな〟になれ、有馬。揺らがぬ自己があれば、何があってもきっと楽しく生きられるさ)
あのとき言われた最後の言葉を心の中でそっと反芻して、あたしは力強く一歩を踏み出した。