〈過去を変えろ〉
リーシア・エインワーズーーアークと子供のころから一緒に修練をし、功を競い合い共に出世し、最後は彼を守るために死した人物。豊かな胸としなやかな腰のラインを銀の甲冑で覆い、腰まで届く紅色の長髪を黒いリボンでうなじに一本に結った幼馴染の少女が隣にいた。
「どうして――」
生きているんだ。その言葉は出なかった。いや、出せなかった。彼女の存在を疑う事などできなかった。
「…………」
リーシアは怪訝な表情で彼を窺っていた。
「……な、なに?」
彼女に鼻先がくっ付きそうになるまで半眼で近づかれて、彼は焦り身体をのけ反らせた。しかし、空いたスペースも詰め寄られる。そこで、彼は思い出した。自分が馬に乗っていることを。
「うわぁ!?」
彼の上半身は馬の上には既にあらず落馬しかける。手綱にしがみつこうと、でたらめに手を伸ばす。そして彼が掴んだのは呆れ顔の彼女の手だった。
思いっきり引っ張られ馬上に納まる。今度はしっかりと手綱を掴んでおいた。
「ごめん」
頭を下げると、わざとらしい嘆息が聞こえた。どうやら、そうとう呆れられているらしい。
「まず、謝る前に言うことがあるだろう?」
彼女の半眼に少し怯んだが、今では恒例になった言葉を言った。
「ありがとう」
その言葉で、彼女は納得し、美しく、それでもあどけなさが残る笑みを見せてくれた。だけど、彼はその笑顔に笑い返せなかった。子供のころから彼は彼女に迷惑ばかりかけ、謝ることが多かった。そんな彼を彼女は何度も助け、こう言った。『謝るより、助けてもらったのなら感謝しなさい』その後に笑顔を見せ、彼を安心させていた。
だが、この恒例の言葉が最後に交わされたのは――今見ている光景が幻想なら彼女が死地へ向かうときだった。
敵に追われ、逃げ切ることが出来なくなってしまったとき、彼女は殿を自ら志願した。そのときも、自分の力不足を泣いて謝る彼を慰めなどせず、呆れ顔で諭し、いつもと変わらずに微笑み、彼の許を少数の兵を率いて去っていた。それが最後の別れかと思っていた。しかし、世はとても惨酷だった。あのときのことは死んでも忘れないだろう。
「―――えていますか?」
「――!?」
過去の地獄に意識を戻していると、どこからか声が聞こえた。周りを見るが自分に話しかけているような人は見当たらない。
「何か、言ったか?」
隣のリ―シアに訊いたが、何を、というふうに首を傾がれてしまった。幻聴かと思ったが、それは再び聞こえた。
「聞こえていますか?」
間違いない。まるで、鈴を転がしたかのような少女の声だ。しかし、戦場にこんな声をした少女はいただろうか?
記憶の中を巡っている彼に三度声が聞こえた。
「聞こえたら、返事をしてください」
返事? 彼は逡巡した。姿が見えず、居場所も判らない者に返事をする方法が解らなかった。だから、彼は一番普通に、聞こえているよ、と口に出した。
「よかった。失敗したかと思いました」
少女は安堵したようで嬉しそうに笑った。彼もなぜか、つられて嬉しくなった。
「君は何者なんだ?」
彼は虚空に話しかけた。返ってきた言葉は驚いたものだった。
「私は未来から来ました。リオンといいます」
少女胸を張って自慢げに答えた――姿は見えないのでただの想像だが。いや、今はそんなことが気になっているのではない。
ミライカラキマシタ? どういうことだ?
彼は頭をフル回転させた。そして一つの答えに行きつく。
「ああ。これが走馬灯というやつか」
聞いたことがある。死ぬ間際に思い出が頭の中を巡り、それが幻覚として見えてしまう事を。それならば、記憶の混乱で未来からの存在が登場しても詮無い事だろう。すぐに自分は死ぬのだから。彼はそう考え、目を閉じた。
「走馬灯ですか? ん~、半分正解で半分不正解です」
「どういうことだ?」
彼は死を割り切ってしまったのか、特に気にする様子もなく訊いた。
「私たちは、あなたの経た時間。つまり、あなたの過去にいます」
「へぇ~…………――何!?」
「うるさい」
驚きに声をあげた彼をリーシアが朱槍の石突きで小突いた。
「何をさっきから、ぶつぶつ言っているのだ。これから私たちの人生を変える戦なのだぞ。シャキっとしろ、シャキっと」
何かが、おかしい。リーシアには彼女の声は聞こえていないらしい。なぜ、自分にだけ話しかけてくるのだろう? 彼は頭を擦りながら透明な少女に訊いた。しかし、少女は口籠って、なかなか答えてくれなかった。彼の心に不安が満ちていく。そんなにも言いにくいことなのか?
「分かりました。お教えします」
少女は覚悟を決めたように、彼はそれに固唾を飲み込んだ。
「あなたの隣にいる方、リーシアさんや周りにいる人々は死にました。未来が途絶えた人に私の声は聞こえません」
あぁ、そうか。未来が途絶えた者に未来から来たものと繋がる術はない。なぜか、アークの心に納得というものがストンと落ちた。……………………いや、待てよ。なら俺はここに居て少女と話しているのはおかしい。槍に貫かれ確かな死を味わったはずだ。それに人はいつか死ぬのだから、未来は在るようで無いに等しい。それに今、少女はリーシアの名を口にした。彼女と何か繋がりがあるのか? いや、在るわけがない。リーシアは亡くなってしまうのだから。
「あなたは死んでいません。死ぬ間際に私の力でこうして過去に来ました」
俺は死んでない――? 俺の未来は途絶えていないということか? というか何故、俺だけが死ななかった。死なせてくれなかった。
彼からは怒りが溢れた。仲間は、リーシアは死んだ。俺と戦い、俺を守り、死んだ。俺も戦って死にたかった。仲間に助けられたのだから、自害は全く頭に無かった。忠誠を誓った国の為に最後まで剣を振り続け、皆のいる処に行きたかった。
「余計でしたか……?」
どうやら彼は口に出していたらしい。なら、遠慮はいらない。彼は不満を吐露する。少女はそれを黙して聴いている。
「おい、しっかりしろ!!」
怒り、恨みを口に出している彼をリーシアが肩を掴み揺らした。
「正気に戻れ! 今日、様子がおかしいぞ」
彼はハッとし、リーシアに振り返った。彼女の瞳は潤んでいた。
「大丈夫だ。なんでもない」
とっさに出たのは、それだけ、彼女の目を見て話せなかった。
そうか、と彼女は俯き、それ以上は追及してこなかった。
彼は自分自身に悪態を吐いた。彼女を泣かしてしまったこと、そして、彼女を死地に送ってしまうこと。
「変えたいですか?」
変える? 何を、だ
「先程申しました通り、ここはあなたの経た時間。過去なのだと」
あぁ、言った。確かにこれは俺がいた過去だ。
「あなたはこの後、なにが起こるのか知っているのではないですか?」
……それが、どうした。
「ならあなたは変えられる。――未来を」
俺が……変える――未来
「そのときが来たら、また」
手に何かが包まれ消えた。
「おい――」
呼び止めた声は、ラッパの音に掻き消された。
開戦の合図がミリタ大平原に響く。もうすぐ最後になる戦いが始まる。周りの将兵たちは領主の旗、国の旗――黒地に金刺繍の鷲をそれぞれに掲げ、風になびかしている。彼も父から受け継いだ領主の旗を掲げる。隣の隊ではリーシアのエインワーズ家の旗が掲げられている。ラッパの音が鳴った後、彼はリーシアと別れた。結局話せず仕舞いだった
「未来を……か」
彼は少女の言葉が頭から離れなかった。その間も周りの時間は流れていく。
彼の隊の兵たちは、開戦間近になっても命じて来ない領主を不安げに見つめた。一人の兵――彼の従騎士が領主である彼に近づいて行った。
「領主様、我々はどうすればよろしいですか?」
部下の言葉に無言で返す。しかし、すぐに何かを思いつく。
「ここで、待っていてくれ。すぐに戻る!」
兵の制止も聞かずに彼は馬を走らせていってしまった。彼が目指すのは悲しい別れをしてしまう彼女の下へ。
彼は自分を激しく憎んだ。何を長々と悩んでいたんだ。何が戦って死にたかっただ。
こんな奇跡を前にして、何もしないなんて傲慢にも程がある。変えるのだ――再び、彼女にあのような思いをさせないために。
彼がリーシアのもとにたどり着いたときリーシアはすでに兜をかぶり、収まらない紅の髪を背中へと流していた。
「リーシア!!」
「? ……――どうしたのだ!?」
リーシアは彼を認めると、兜を脱ぎ、目を見開いた。周りの兵たちもこの事態に動揺している。
「俺は――」
空気を深く吸い込み、伝えたい言葉を吐き出す。
「俺は……アーク・ユースティスは絶対に君を救い出す!!」
「ぬなぁ!?」
リーシアは頓狂な声を上げてしまった。
「な、な、な、何を急に言い出すのだ」
「だから、俺の話を聴いてくれ」
アークの突然の宣言に顔を赤らめていたが、有無を言わせぬ表情にリーシアは落ち着きを取り戻し、真剣な表情で彼の言葉を待った。
「俺自身もまだ混乱しているが、この戦いの結末を知っている」
「それがホントなら、すごいな」
リーシアは全く意に介した様子はないが、それでも全面的に否定せずに話を聴いてくれている。
「俺たちは勝ち戦に持っていける」
「本当か!」
リーシアはうれしさゆえになのか、声をあげた。やはり、彼女も怖かったのだ。戦いに負けることが。しかし、その喜びはすぐに消え去る。なぜなら――
「だけど失敗したら”味方に裏切られて、たくさんの仲間がこの地で討たれる”」
嘘だろ、リーシアの顔が蒼白に変わっていく。唇が震えて上手く言葉が紡げていない。アークは彼女の瞳を見られなくなって俯いてしまった。まただ、また彼女を泣かせてしまった。そして、俺はその涙から逃げた。でも、今回は救えるんだ。だから、これからの作戦を伝えようとしたが、できなかった。
「――――じない……」
「リーシア? ――――!?」
リーシアを不審に思い、彼女を見ると彼に戦慄が奔った。
彼女がまるで、別人のように変貌していた。顔から表情は消え、双眸は他者を射殺せるほどの冷たさを放ち、それとは逆に紅髪はまるで怒りで燃え上がっているようだった。
「私は絶対に信じない。ファラスを裏切る者などいない。たとえ君でも、仲間を謀るのは許さない。そんな空言を言っている暇があるのなら、早々に自分の隊へ戻れ」
アークに話す間を与えずに言い切ると、彼女は兜を被り直し、紅髪を背に流し顔を隠してしまった。様子がおかしい彼女に追い縋ろうとするが、周りの彼女の騎兵に止められ諫められてしまった。
自分の隊に戻るとアークは自兵の一部を他の隊へと潜伏させた。この戦いで裏切り者が出るのは既に分かっている。だが、あの戦いのとき、彼は前へ出ていた為、後ろで蜂起した裏切り者の正体を知らなかったのだ。だが、これで行動を知れる。
兵たちの前に黒い修道服を着た者たちが並び、代表者が演説をした。それが終わると、辺りで鬨の声が上がる。
第一陣を任されている部隊長が叫ぶように命じると重装歩兵一万が横隊を組み、歩みを揃えながら進撃した。敵方も兵を繰り出す。右手の大盾を構え、左手の長槍を前に突き出した第一陣が敵勢とぶつかると、第二陣軽装歩兵・騎兵二万が半分ずつに分かれ、左右から攻め立てた。重装歩兵横隊が壁となり長槍で敵を貫くが、敵の歩兵たちも大盾を引き剥がし槌矛で鎧を砕いてくる。
一時は拮抗したかに見えたが、ファラス軍が徐々に押していった。
「よし、好機だ。出るぞ」
リーシアは朱槍を前方に構え突撃した。それを見届けると、アークも剣を抜き放ち号令した。リーシア、アークと同じく第三陣を任されていた将兵たちも突撃した。
敵勢約四万、味方ファラス歩兵三万五千、騎兵八千、総勢四万三千、――彼らの国ファラスが戦に集めることのできた最後の兵たちが大平原で激突した。