〈救いたいもの〉
「陽が沈んだわね。行きましょう」
小声で囁くマリーにアークは頷く。
彼らはファラス軍が陣を構えている戦場に真っ直ぐ向かわずに迂回していた。理由は先に陣払いしたガイナス軍が街道周辺に兵を配置している可能性があったからだ。そのため迂回した先の森に息を潜めていたのだ。その間、空腹を紛らわせるために木の実や草の汁を啜ったのは忘れられない思い出になっただろう。
松明に火を灯さず、月明を頼りに行軍する。舗装されていない道は疲労している身体には酷だったが、不満を漏らす者は誰一人いない。
「夜明けまでには着くといいな」
「そうね……」
「そうですね」
兵を率いている三人の騎士も疲れを隠すことが出来なくなっている。
「なあ、マリー。過去に戻れるとしたら、何がしたい?」
アークの唐突な問いに、マリーは首を傾げる。
「なに、あんた? 宗教か何か?」
「宗教家の売り文句じゃない。本当にそうだったら何がしたいか、言ってくれ」
マリーは訝しがるが、考えるふりをする。信じてはいないのだろう。
「百騎兵を取り戻すこと、かな」
かつて共に戦場を駆けた自兵たちを、そして幼少のころから散るまで助け合った姉妹の事を思い、目を伏せる。今亡き同胞の冥福を祈り、空を見上げる。
「それなら手を貸してくれ」
アークは過去に戻り、未来を変えられることを語った。だが、
「寝言は寝てから言いなさい」
マリーは鼻を鳴らすと、月明の先を歩いて行ってしまった。
「信じてはもらえませんね」
ハルバードを杖のように突き、アークの隣に並ぶ。
「実を言うと、私も半信半疑です」
「言葉だけじゃ、無理があるか?」
「それは……そうですね。まだ過去に戻ったことがありませんからね」
ルナは苦笑をアークに向ける。それにアークは快活そうに笑う。
「なんとかなるだろう」
笑みで会話する二人に、前で歩いていたマリーが駆け寄ってきた。
「アーク、ルナ、見て、見て村があるわ!」
マリーの指差す方向、四百メートルほど先に月明の中では何もないように見えるが、平原にしては岩のように黒いものが転々として、わずかだが火の灯りも覗えた。
「良く見えたな」
感心するアークにマリーは鼻を高くした。
「狙撃のために視力は良くなっているのよ」
鼻歌を歌いながら再び先を進むマリー。アークたちも後を追うが、
「……?」
唐突にマリーは足を止めた。アークたちを手で制すと、自らの近衛兵を呼ぶ。
「わたしの銃を」
ここに、呼ばれた〈百騎兵〉の兵士は跪き、ライフルド・マスケットを捧げる。
マリーは礼を言うと、弾と火薬を込めて歩いていく。近衛兵は無言で彼女の後に続く。
「おい、どうしたんだ?」
様子のおかしい彼女に声をかけるも返事はない。
アークはルナにそのままの速さで行軍させるように命じると、マリーの許まで駆けた。
「急にどうしたんだ?」
マリーに追いつき並歩して問うが、やはり返事はない。
結局、村まで五十メートルほどになった時に風が吹くまで気づくことが出来なかった。
「これは――!?」
風にのる生命が拒絶する臭い。
「腐臭よ」
マリーは今頃になって気づいたアークを嘲笑うように言った。
「何で気づかなかったんだろう。ガイナスに支配された土地に無事な村などあるわけがないことに」
マリーの嘲笑は次には自らに向けられていた。
「村が見つかって、助かると思っていた。――馬鹿みたい」
マリーは俯く。そんな彼女と自らの鈍さに歯噛みをするアークを近衛兵が守るように囲んだ。
「何者だ?」
声の方を見ると、村の入口から松明がぞろぞろと出てきて、その下の顔を照らす。
――ガイナス兵だ。
アークは剣を抜く。だが、それよりも速く、彼の隣で銃声が響いた。
銃声の刹那、ガイナス兵の一人が胸を抑え、うつぶせに倒れた。彼の持っていた松明は地面に落ち、火が消える。
「……――敵襲!」
数秒かかって事に気付いたガイナス兵たちが声を上げ、村に知らせる。
「マリー、お前――」
「話しかけないで、集中できない」
マリーは次の射撃の準備をすると、近衛兵に指示を出す。
「アリエラ、あなたは私の背中を守りなさい。他はガイナス兵を一人残らずね」
五人の近衛兵は短く返事をすると、それぞれの使命を全うするために動く。
女近衛兵はマリーに付き従い、他の四人は村まで一気に駆け、入口に居た十人ほどのガイナス兵に襲いかかる。
応戦しようと剣を抜き、刃を振るうガイナス兵たちであったが、近衛兵隊の強固な甲冑に阻まれ、返り討ちにされる。
数分で入口に居たガイナス兵は蹂躙され、近衛兵たちは駆足で村に残る敵兵へ向かう。
マリーは部下が作った道を感慨もせずに通り、村へ入る。
目の前で起こった出来事にアークは戦慄した。これが最強とうたわれた〈百騎兵〉の、いや、百もいない、馬で駆けていないにも関わらず、いとも容易く蹂躙が行える実力は騎士として素晴らしく感じた。それでも、
「これはダメだ」
ガイナス兵を憎む気持ちは分かる。だけど、力の使い方が間違っている。
アークはマリーを止めるために村に入る。
村は銃声と悲鳴に支配されていた。
「敵だ! 応戦しろ」
隊長格と思われる兵士が指示を飛ばすが、銃声がそれを掻き消す。
銃声を発している少女はカラクリで動く人形のように銃を撃ち続ける。それを女近衛兵が守る。その周りでは他の近衛兵が敵兵を狩っていく。
「ひぃ、なんだこいつら!?」
腰が抜けた者、逃げようとする者も、だ
「殺せ、全員殺せ」
「マリー!」
少女の名を呼ぶと彼女は振り返り、"銃口をこちらに向けた"。
「邪魔しないで」
銃口が自らに向けられてアークは動けなくなってしまう。
「敵は村から退いている。これ以上の殺戮は必要ないだろう?」
「必要あるわ。これは制裁よ。ガイナスを滅ぼすまで終わらない」
アークは言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
彼女の冷たい睨み。そこから涙がこぼれるところを見てしまったからだ。
二人が動けないでいると、家屋が音を立てて崩れた。それは赤々と燃えて周りの家屋にまで広がっていく。どこかで松明の火が引火してしまったらしい。
――アークさん
鈴のような声が聞こえる。
横を見ると、異彩色の瞳と髪の少女リオンが立っていた。
「このままでは彼女の未来は断たれます。何とかして彼女を引き戻してください」
「そんな、どうすれば――」
「彼女は仲間を失った悲しみを、復讐したい気持ちを必死に抑えていました。ですが惨状を目の当たりにして村人たちのための制裁に心が侵されています。自らの復讐心を村人のためと偽っているんです」
ですから、リオンが次の言葉を発しようとしたとき、銃声が響き、アークとリオンの間の地面を抉る。
「誰と話しているの……敵を殺し終えるまで静かに待ってなさい」
マリーは振り返る。彼女の前には近衛兵たちが跪いていた。
「ガイナス兵は?」
「はい、一人残らず」
そう、マリーはそれだけを言い、左右が炎に呑まれた土の道を歩く。ガイナス兵の骸もタダの物のように踏みながら歩く。
ふと、足を止めてある一点を見る。
本来は家畜が居るだろう柵の中にはガイナス兵とは違う骸が積み重なって投棄されていた。
柵を越えると一層強い腐臭が鼻から肺へと入ってくる。でもマリーは鼻を何かで覆おうとはしなかった。
腐臭を放つ村人であった骸たちは土で汚れ、中には服を剥かれた女性の骸、赤ん坊の骸まであった。
マリーはポーチから残っていた黒色の火薬を全て骸にかけ、燃えていた廃材を骸に置いた。初めは燻るだけであった骸も火薬に火が点くと爆発はせずに静かに燃え始めた。それにマリーは両手の指を絡め、瞳を閉じた。後についてきた近衛兵とアーク、リオンもそれに倣った。
そうこうしているうちに火の手は強まり、呼吸も辛くなりはじめる。
馬蹄の音が近づいてくる。
「皆さん、ご無事で。さあ、早く行きましょう」
馬で駆けてきたルナがアークたちを迎える。ルナを先頭にアークとリオンは出口を目指す。マリーも俯きながらも後をついてきている。
――――けて。
聞こえた。音を立てながら燃える炎とは違う音。
「……今の」
マリーは振り返る。後ろに付き従っていた近衛兵たちも同じく振り返る。
ただの異音。それにしてはどうしても気になってしまう音。
「どうされました?」
近衛兵の一人が訊く。
「今、何か聞こえなかった?」
近衛兵たちは顔を見合わせ、首を振る。
「そう。少し疲れているのかしら」
マリーは近衛兵たちに苦笑すると、歩みだすために一歩足を進める。
――たすけて。
マリーは驚きに振り返る。確かに聞こえた。幻聴ではない助けを求める声が。
「この村には誰もいなかったの?」
マリーの問いに近衛兵の一人が頷く。
「はい。村中を探しましたが村人は居りませんでした」
マリーは近衛兵の報告を信じずに辺りを見渡す。
「早く行くぞ」
アークがマリーの肩に手を置くと、彼女はそれを振り払う。
「どこかにまだ生きている村人が居るはずなの。わたしは探して来るわ」
焦りを抑えられずにマリーは駆けだす。
「あ、おい」
アークが止めるもマリーは行ってしまった。
「では、我々も」
近衛兵たちもアークに頭を下げると散らばって行ってしまった。
「アークさん、探しましょう。彼女が求めるものを」
「わたしもお手伝いいたします」
アーク、リオン、ルナの三人はそれぞれに散らばり生存者を探した。
「どこ、どこにいるの?」
マリーは声をあげ探す。だが煙で視界が悪く、肺も焼けるように熱い。
「ごほッ、ごほッ、どこに」
マリーは苦しみに膝を着けてしまう。のどの痛みに声も出ない。
「大丈夫か、マリー?」
「なんで来ちゃうかな」
アークは笑みだけ返すと、マリーに肩を貸す。
「アークさん。あっちから声が聞こえます」
リオンの言葉にそちらを見やり意識を集中させる。
「たす、け……」
弱いが確かに聞こえた。マリーも同じようで頷いた。三人はそこまで歩み寄る。そこにあったのは、
「この中か!」
石造りの古い井戸だった。中は暗いが確かに誰かいる。
「聞こえる?」
マリーが声を出し、井戸の中に問いかける。
「誰?」
子供の声だ。
「今助けてあげる」
マリーは釣瓶から紐を取り、自らに巻く。その端をアークに渡す。
「ちゃんと掴んでなさいよね」
マリーはそれを言い残すと井戸に足を入れる。
「危険だ。俺が行く」
「あんたじゃ重たくて私が引っ張りあげられないわよ」
マリーは苦笑を返すと、ゆっくり井戸の内側を蹴って下りていく。
その度にアークの紐を握っている手に力が入る。
数分経った頃、中から声があがる。それを合図にアークは紐を担ぎ、一歩一歩井戸に背を向けて歩く。そしてやっとのことでマリーを上げると、彼女の腕には十歳ほどの少女が大事に抱かれていた。
アークは少女を覗く。煉瓦色と思われる髪はがさついていて、華奢な身体は逆に濡れている。瞳が薄く開き、何かを呟いてはいるが先程までとは違い空気を震わすにはとても弱かった。
「マリー様!」
近くで生存者の探索を行っていた近衛兵の一人が駆け寄ってきた。マリーは彼を認めるとすぐに指示を出す。
「森で採った木の実。あれまだあるわよね。早く頂戴」
近衛兵は慌てながらも腰の麻袋から赤い木の実を数粒取り出す。マリーはそれを受け取り一つ口に含むと、そっと少女と唇を合わせる。口を離すと少女が口を動かし咀嚼していることを確かめる。その間にもマリーは木の実を口に含む。少女の口が止まると、また唇を合わせて木の実を食べさせていく。
少女が木の実を食べる姿に安堵するアークと近衛兵だったが、マリーだけは別だった。
「身体が冷たい。このままじゃ」
炎に囲まれていて肌が焼けるほどの暑さを感じているアークたちとは違い、井戸に居た少女は冷たい水の中でガイナス兵から身を隠れていたため。衰弱した少女の身体は氷のように冷たいままだったのだ。
「馬を早く連れてきて!」
指示された近衛兵は重いはずの鎧を感じさせない走りで出口に向かった。
「あっち向いていて!」
呆然としているアークにマリーは睨む。
「え、なんで?」
「殺すわよ?」
マリーの殺気にアークはすぐに背を向けた。マリーはそれを確認すると、少女を左腕だけで抱えて右手で器用に革鎧、鎖帷子を外していく。脱ぐときの擦れる音にアークがドキドキしているのはマリーには知られない方が良いだろう。
最後の絹の服の裾を広げ、少女をその中に入れて肌で温める。
「大丈夫。絶対助けてあげるから」
少女は小さく頷くとゆっくりと瞳を閉じた。
――ミリタ大平原 ガイナス軍 野営地 大本営――
大本営の中にはガイナス軍の将たちが顔を合わせていた。
「ファラス軍も粘りますなぁ」
中年の騎士が髭を撫でながら言った。
「そんなことはない。我々はファラスを圧倒している」
同年代の騎士が言葉を返す。
「しかし、対陣してから三日ですよ。そろそろ決着か停戦か決めませんか?」
若い騎士が提案を出す。
「何を言うておる。停戦などありえん!」
老齢の騎士が膝を自らの殴り、声を荒げる。彼の声に本営内の騎士たちは一様に黙り込む。
「確かに、ここまで来てファラスに猶予を与えてやる必要はない」
この戦場での大将格の騎士が決定を下す。
「明日、我々はこのミリタの大地にてファラスの者どもを殲滅する!」
大将が拳を突き上げると、他の騎士も賛同を示した。
騎士たちが気炎を上げる中、末席に居た男は静かに本営を辞した。
「明日で決着か」
顎に黒ひげを蓄えた男は騎士ではない。かっちりとした黒い服を身に纏い、だが鍛えられた筋肉は隠しきれていない。その男の腰には極東から輸入した刀と大陸西側から伝わった短銃が携えられている。
男は自らの天幕に着くと、敬礼してきた自らと同じ黒服の守備兵を労い、中へと入る。中には机と椅子の一式と書類の山だった。
「グランド代表~」
書類の山から名を呼ばれた男は紙をどかして中に埋まっていた黒軍服の茶髪少女を引っ張り出す。
「何をしているのだユージン補佐官?」
襟首を掴まれただけで軽々と持ち上げられた小柄な少女は怪訝そうに見てくる上司を大きく円らな瞳で睨む。
「代表が書類の山を整理しないから雪崩に巻き込まれたんです!?」
長めの茶髪を両端で結んだ――確か帝都でツインテールと呼ばれていた髪の少女は手足をバタつかせて怒る。ツインテールも動きに合わせて揺れる。どうやらご立腹らしい。
それに黒ひげの男グランドは
「それはお前がちっちゃいからじゃないのか?」
と言った。
「むきぃ~!? うるさい、うるさい、うるさ~ぁい!」
ぶんぶん腕を振りグランドを殴ろうとするユージンだったが、
「代表、お客様がおこしです」
「了解した」
「えッ!? ――ぐえッ」
グランドが手を離すとユージンは落下して潰された蛙のような声をあげた。
「入りますよ……何をしているんですか?」
ローブを着た灰髪の女ユリマラは天幕内の様子を見るなり、グランドを半眼で見た。それもそうであろう。中に入るなり書類で地面が覆われ奥には紙の山。その手前、こちらを見やる黒ひげの男。その足元でうつぶせに倒れながら呪詛を吐く茶髪の小柄な少女。
「幼女を愛でる趣味も程々にしてください」
「誰が幼女じゃぁぁ!!」
ユージンの手から起き上がりざまに銀色の物が放たれた。それをユリマラは首を傾けるだけで躱す。
「避けるなぁぁ!」
抗議しながらもユージンは袖に隠していたナイフをユリマラに投げる。
「避けなかったら死にます」
「なら掠りぐらいしろぉぉ!」
「掠ったら塗ってある毒で死にます」
毒ナイフを投げるユージン。それを笑いながら避けるユリマラ。グランドから見たら二人はとても仲の好い姉妹に見えたであろう。
「それで対象は?」
書類をまとめながら報告を聴く。
「丸焦げにしてきましたよ」
「……何をしてきたんだ?」
グランドは呆れて頭を抱える。
「ハァ、ハァ、目撃者は討ち漏らしてないでしょうね?」
ユージンが息を切らしながら疑いの眼差しで問いかける。どうやら毒ナイフは投げきってしまったらしい。
「私がですか? まさか」
ユリマラは笑って返す。だが嘘だ。彼女は故意に兵士を逃がしている。
「そうね。帝国騎士様である、あんたが逃すとは思えないわね」
皮肉交じりに嘲笑するユージンにユリマラは嘆息する。
「私の実力を褒めるより、外の部下の解毒をしたほうがいいんじゃないんですか。先輩?」
「ああぁぁッ!? やばい!」
ユリマラが一瞥した天幕の布は毒ナイフで切り裂かれ、外が窺える。そこでは背中にナイフが刺さった黒服の兵士が痙攣していた。
ユージンはそれを認めると、何度も謝りながら救急箱を抱え飛び出していった。
「まったくおっちょこちょいだな。すまないな、慌ただしくて」
「いえ、先輩はあれが可愛いのです」
グランドの苦笑にユリマラは愛おしそうに微笑む。
「それで、彼は仲間になってくれそうか?」
書類をどかし空いた椅子に座り、獣のような相貌でグランドはユリマラを見据える。
「トオルさんですか? あの方をあなたたち『軍』に渡したりしません」
机を挟み、冷笑を向ける。その手には得物の直刀。
「それは残念だな。彼から提供される技術、戦法は騎士に未だ縋り続ける東側の国にとっては革新的だ。彼さえいれば西側のように平民が統べる素晴らしい国が実現できるというのに」
グランドは、さも残念そうに唸る。
「ユリマラよ、なぜ貴様は彼を独占する?」
「あなたたちに力を与えないためです。『軍』が力を持てば『帝室』を脅かしかねませんからね」
「嘘だな」
グランドは嗤いでユリマラの感情を逆撫でする。
「彼ならまだしも貴様や元傭兵である貴様の部下が『帝室』に忠を尽くすはずがなかろう?」
「そのようなことはありません。私たちはガイナス帝国に命を捧げる所存です」
グランドの挑発にユリマラも嗤いで返すが、いつもの余裕の笑みはなく、焦りと怒りが感じられた。
グランドは諦めたように息を吐く。そして笑った。
「そうか。ならば、もう退室していい。”ディア・グレー”――」
その言葉を聞いた途端、ユリマラから表情が消え、直刀が掲げられた。
「死ね」
ユリマラから発せられた言葉。だが、グランドはいたずらが成功した子供のように笑みを深くした。
直刀が振り下ろされる。
「…………」
ユリマラの直刀はグランドに振り下ろされることなく、自らの背後を斬った。
背後から飛んできたナイフと直刀は一瞬だけ鋭い金属音を発すると、殺意を無くした。
「ユリマラ。殺気は出すなって教えたよね?」
ナイフを逆手で構えたままユージンはユリマラを睨む。その額からは緊張で汗が流れていた。
「早く得物をしまいなさい。さもないと叛逆者として殺すわ」
「…………」
ユリマラは無言だった。そんな彼女をユージンは恐れている。
ガイナス帝国の政敵を消し去るために身寄りのない少女たちを殺し屋に仕立て上げた〈教会〉が創設した裏部隊〈暗殺教団〉その訓練生だったころ、ユリマラと共に過ごしたユージンは笑いながら人を殺せる彼女の狂気を知っている。そして感情で人を殺す彼女の本当の恐ろしさも。
二人は長く、しかし時間で言えば数十秒のなか対峙した。
「…………ぷッ、ふふふ」
沈黙を破ったのはユリマラだった。
「怖いですよ先輩。私が本気で先輩の上官を殺すと思ったんですか?」
ユリマラは、いつものように他人を小馬鹿にするように笑った。
「でしょうね。あなたが恩ある私を困らせることをするはずがないわよね。騙されたわ」
ユージンは笑みを見せる。だが、ナイフは後ろ手に隠すだけだ。
「先輩のそういうところが好きです。では、これで」
ユリマラが直刀を腰に収め、天幕を辞す。それを見届けるとユージンは緊張が解けたのかナイフを収めて尻餅をついた。
「疲れたあああ~」
たった一分ほどのことにユージンは寿命が縮んだ思いをした。しかし、それを笑う声がある。
「ははは、助かったぞユージン補佐官。夕飯は俺のおごりだ」
豪快に笑うグランド。それを恨みを込めてユージンが睨む。
「ユリマラに何をおっしゃたんですか?」
「べつに。ただ、親しみを込めて彼女のことを呼んだだけだ」
「それは禁句です。二度とやめてください」
どうやらユージンには意味が通じるらしい。
「確かに、四十にもなってションベンを漏らすのは嫌だからな」
グランドは椅子から立ち上がり、未だ立ち上がれないユージンに手を差し伸べる。
「下品です……私はパスタで」
ユージンは手を借り立ち上がると、軍服の汚れを叩き落とし、グランドと共に天幕を後にした。
ユリマラはグランドの天幕を出た後、特殊戦士部隊に与えられた天幕群の一つ、ユリマラ個人の天幕に戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「お姉ちゃん、お帰りなさい!」
帰りを知らせるユリマラに白長髪の少女が駆け寄ってきた。ユリマラはその白い髪を優しく撫でる。
「良い子にしていましたか? 変な男に襲われていませんか?」
「子供を託したくせに……ひどいなお前」
天幕内にいたもう一人の人物。迷彩服のトオルだった。彼にはユリマラが別件でいないときに少女の面倒を見てもらっていた。
トオルは立ち上がり、天幕の出口に向かう。
「食事ですか? それなら私も――」
「いや、構わない。その子と一緒にいてやれ。それと――」
振り返りユリマラを見据える。その瞳には少しの怒りがにじんでいる。
「その子にはまだ早すぎる。後ろのものは隠しておけ」
それだけを言うと、トオルは天幕を辞した。それを見届けるとユリマラは深く溜息をついた。天幕内に唯一ある調度品の机を見る。
「完全に忘れていましたわ」
白髪の少女の髪を手で梳く。そして自らの机に乗せられた細長い木製容器を開いた。そこには木と鉄でできた火を噴く杖。マスケット銃。その性能を超えた初の施条銃ライフルド・マスケット。それが最新鋭の兵器だった大陸東の国々。だが、彼女の前にあるのはそれすらも上回る魔の銃。
「お姉ちゃん。それな~に?」
白髪の少女がユリマラの後ろから銃を見つめ、問いかける。少女にはこれが人を殺す武器ということすら判らずに純粋な心で訊いてきたのだろう。
ユリマラは先程のトオルの言葉を思い出し、逡巡する。そして答えた。
「これはあなたのお母さんの形見です。いつか時が来たら、あなたのものになります。それまで私が預かっているのです」
不思議そうに見つめてくる少女に目線を合わせてユリマラは語りかける。
「私のお母さんの?」
「そうです。だから、私がいいよ、というまで箱を開けてはだめですよ」
「は~い!」
白髪の少女は元気よく手を挙げる。その様子にユリマラは心の底から微笑む。
「いい子ですね。”ユリィ”」