■record.Ⅲ ジ・ゴッズアイ
地球と同じ半径で太陽の周囲を回る宇宙コロニー・SP1の名物は拉麺である。地球の公転が描く円と、直角に交わる公転円を軌跡とするこのコロニーの初代の統治者が、かつて中国人と呼ばれた人種の血を引いていたため──と多くの者は思っている。
「んが、実際にゃここの初代のお偉いさんはアメリカ人だ。みんな忘れてるがここの本名は『ステイツ・プロビショナル(暫定の)・ナンバーワン』つってな、当時は合衆国って呼ばれてた国の仮の家一号だったそうだ」
中華風な内装の店内で、どろりと固体に近い濃厚スープにひどく柔らかい麺の拉麺を啜りながら、ジュド・ホルスゲイザーは自らの知識を披露した。
イタリアの探検家アメリゴ=ベスプッチに由来する名を持っていたアメリカ合衆国は、人類の発祥の地たる地球が風船のように膨らみ巨大なマスクメロンになってしまうまでは、確かに人類の先端を行く国家だった。しかし歴史書に在るとおり、膨張した後の地球に国家という枠組みは存在し得ず、全ての地球人は『復讐軍』を母体として集まったのだ。そこに国や人種による差別は生まれなかった。当時の誰もが、地獄と化した地球を見捨てた月と火星を憎んでいたのだから。そして紆余曲折の後、現在ではどの人種も全て〈ヘブン〉国民と呼ばれている。
「相変わらず妙なことは知っているのね、あなた。それにしても、そんなのよく平気で食べられるわね……むしろ感動的だわ」
ごく普通のしょうゆベースの拉麺を食しているメノウは、ジュドの食べている、個体と液体の境界が曖昧な膠質(コロイド状)の食物を指して言った。麺をつまみ上げると粘度の高いスープがからみつき、ぼとり、ぼとり、とドンブリの中へ落ちていくのである。もはや彼女には男の食べている物が拉麺とは思えなかった。
「何言ってやがる、うまいんだぞ。拉麺はやっぱりこってりに限るな」
「こってり、ね……豚の膏を丸ごと溶かしたようにしか見えないけど」
メノウはスープが大粒の塊となってこぼれ落ちていく様を見て、小さな溜息を吐いた。流石の彼女も、目の前の物体に食欲が失せてきたのだった。
「そこがいいんじゃねえか」
嬉しそうに断言したジュドに、メノウはメンマを一つ口に入れてから淡々とした口調で言った。
「知ってるかしら。牛の餌になってる肉骨粉は、元々は同じ牛なのよ」
「……お前、何が言いたいんだ?」
「その拉麺のスープ、豚骨よね?」
「……ほぉう、なるほど。その喧嘩、ちゃんと買ってやろうじゃねえか。いくらだ」
「残念ね、今品切れ中なの」
ジュドの恫喝をさらりと受け流し、ふと窓にミラーシェードを向けたメノウはそこに妙な光景を発見した。
「まったく口の減らない小娘が……ん?」
窓に視線を固定したままのメノウに気付き、ジュドも漆黒のサングラスを窓に向けた。
外の通りに面した大きな填め殺しの窓ごしに、一直線に伸びる道路の向こうから、大勢の軍服に追われている金髪の女性がこちらへ走ってきていた。派手なドレスに身を包んだ女性はしきりに背後を気にしつつ、必死に逃げているようだった。
「大勢の侍従を引き連れて走ってくるお姫様……なんてわけはねえか」
「来るわよ」
ふざけてみたジュドに、メノウは冷静な声をかけて立ち上がった。男も少女の意図を察して、まだ残っている拉麺もどきに未練がましい視線を向けながらも立ち上がる。二人は申し合わせたように懐から煙草の箱を取り出して、中の一本をおもむろにくわえた。周囲の客達が二人に奇異の視線を向ける。急に立ち上がり、飲食店で煙草を口にする男と少女は異質だった。親子のようにも恋人のようにも兄妹のようにも見える二人は、各々の煙草に火を点けると、一拍の間をおいて煙を吐き出した。
呟きはほぼ同時に生まれた。
「さて」
「逃げるか」
突っ込んできた女性の蹴りによって窓が砕けたのは、二人が弾けるように飛び退いた次の瞬間だった。
悲鳴と絶叫の嵐が巻き起こった。強化ガラスの割れるけたたましい音と共に飛び込んできた金髪の女性は、先程までメノウとジュドが使用していたテーブルに着地し、乗っていた物をすべからくひっくり返した。
「ええい、しつこいねぇっ!」
吐き捨てた女性はドレスの裾をつまんでテーブルからテーブルへと猫のように跳躍し、拉麺のドンブリを蹴飛ばして回った。その姿が厨房へ消えると、遅れて、割れた窓から黒と金の軍服に身を固めた男達が店内へ乱入してくる。その中の一人が、混乱して逃げまどう人々に声を張り上げた。
「私はヘブン教国軍少佐、ザリッツ・ブリュートスだ。現在、犯罪者を追う任務を帯びて行動中である。協力されたし!」
無駄な口上だった。混乱と恐慌の網をかぶせられた人々はブリュートス少佐の声に耳を貸さず、我も我もと出入り口へ殺到していった。若い少佐は舌打ちを禁じ得ない。
「探せ! 人混みに紛れて逃げるつもりだぞ、決して逃がすな! あのウオッカ・ブライトンを甘く見るなよ!」
指示を飛ばして彼はその場に留まる。良い形容詞が思いつかず「あの」と表現するしかない賢しい女狐は、店内をかき回して挙げ句に入ってきたところから逃げるという意表を突くかもしれない、そう考えたからだった。咄嗟にそこまで思考の及ぶところが、彼の非凡な才の一面であろう。過日、バージナル研究所を脱走した素体から受けた股間の傷は、間接的ながら教皇猊下の【奇跡】によって癒えていた。
「ん?」
レイガンを手に待ち構えていると、視界の両端に人影が映った。と思ったときには彼の顔の両隣に剣呑な筒が突きつけられていた。
「……!?」
「動くなよ」
「動かないで」
異口同音に言われたブリュートス少佐は、高圧的な言葉に従ったと言うよりも、他に何もできなかったと言った方が正しいだろう。唯一彼が動かせたのは口のみだった。
「貴様ら、何者だ?」
銃口から迸る不可視の鎖に絡め取られた少佐は、目だけを動かして両隣に立つ人物の顔を確認した。一方は黒のサングラスをかけた雪のような髪の男。背が高く、突きつける銃口も斜めから降り注ぐような形になっている。もう一方はミラーシェードで目を隠している野干玉のような黒髪の少女で、男とは対照的に下から突き上げるように拳銃をこちらへ向けている。、悠然とくわえた煙草だけが年齢も性別も異なる二人の共通項だった。
「〈ヘブン〉がこんな所にまで何の用? 流布の人員が足りなくて軍が駆り出されたのかしら」
少女の皮肉に、ブリュートスは奥歯を噛み締めて表情の変化に制動をかけた。彼とメノウは一度、同じ時、同じ場所にいたことがあるのだが、その時ブリュートスは股間への衝撃に気絶していたため二人の接点は神のみが知る。
「先程も言ったとおり、犯罪者の追跡だ」
少佐は軍人らしい意地から、冷静沈着のふりをした。
「ほう、警察はどうしたってんだ。犯罪者ぐらいで出張るほど〈ヘブン〉の軍はタガが弱くなっちまったのか?」
「犯罪者の程度にもよる。あのウオッカ・ブライトンは国家反逆罪を犯した重罪人なのだ」
ジュドのからかうような口調にブリュートスは語調を強めた。本来ならば彼の言い種は侮辱罪にあたる。また、偉大なる教皇猊下の尖兵である彼を侮辱することは間接的な不敬罪にあたるのだが、当然ジュド・ホルスゲイザーには関係のない法律だった。
「ウオッカ・ブライトン?」
顎をしゃくり、彼は身振りで「知ってるか?」とメノウに聞いた。
「大物の賞金首ね。何かというと〈ヘブン〉に反逆するために太陽系中を飛び回ってるわ」
「そりゃぁ、ちょうどいいな。金もつきかけていたところだ、そろそろ賞金稼ぎでもするか」
「そうだ、ウオッカ・ブライトンは反教国的な行動をとる政治犯だ。したがって我々は──」
「ああ、すまん。お前、もういいぞ」
「何──!?」
真上から首筋に落ちてきた太い腕の一撃に続き、鞭のようにしなった蹴りが股間を潰した。握りつぶされるカエルの如き呻きを天使の鐘に変え、哀れな少佐の意識は天国へ誘われていったのだった。
大昔の世紀末にエドヴァルド・ムンクが描いた油絵の如き表情で崩れ落ちる軍人を後目に、二人はウオッカ・ブライトンという名の女性が飛び込んでいった方向、拉麺屋の厨房へと身体を向けた。既に一般客は姿を消し、店内は静まり返っている。澱みのない動作で背中合わせに立った二人は銃口を厨房へ向け、じっと何かを待った。
「足元がぬるぬるするの、これあなたが食べていたヤツじゃない? 最悪ね」
「うまいもんってのはどうしようもない欠陥を持ってたりする物なんだよ」
「それに動物臭い」
「臭ぇもんほどうめぇもんだ」
「言い訳にしか聞こえないのは私の耳がおかしいからかしら」
「補聴器買ってやろうか」
「むしろあなたの舌を改造した方がメリット大きいわよ。臭いしぬるぬるするから、私が行くわ」
「俺の舌がなくなったら美食業界はどうなる。気を付けろよ」
「あなたも転ばないようにね」
濃紺のデニムジャンパー、明るい黄色のブラウス、ジャンパーと同じ素材のミニスカートと、その下には黒のスマートパンツ、足元を白のアーミーシューズで固めているメノウは慎重からほど遠い歩調で、しかし一切の音を立てずに厨房へ向かった。ウオッカ・ブライトンは拉麺の受け渡しをするカウンターから飛び込んでいったが、メノウは常識に則って厨房の入り口から入った。厨房の中もご多分に漏れずひっくり返っている。人の姿は見えない。
「…………」
口径の大きい回転弾倉銃を片手に引っ提げたメノウは煙草をその場に捨て、無造作に厨房の中央まで脚を進めて辺りを見回した。周囲の風景が彼女のミラーシェードに映り、流れていく。
前触れもなく巨大な冷蔵庫の扉が開き、猛禽が如き影が躍り出た。撃ち放たれた矢の如くメノウに襲いかかる。
「シッ!」「──!」
鋭い風切り音を伴って繰り出されたのは刃のような蹴りだ。空中を水平に切り裂いたそれを間一髪、メノウは身を屈めてかわした。その際に拳銃を振り回す愚を避けるために懐へ戻し、もう一つの手で頭上を通り過ぎようとする人影の服の裾を掴む。
「っきゃ!?」
急激な制動に奇声が上がった。直線的に行こうとする人体を引きながら横向きの力を加え、立ち上がりざまに真横へ払い投げる。その先には調理器具を収めた棚があったが、推定50キログラムの物体を受け止めたそれは抗議の悲鳴を上げながら派手に倒れた。
「おい、大丈夫かメノウ!?」
外から心配するジュドの声が聞こえたが、答える余裕はなかった。勢いよく、決して柔らかくない調理器具の棚に激突したはずの人物がすぐに身を起こしたからである。動きがどこか雌の虎を思わせる彼女が、ウオッカ・ブライトンであろう。先程のドレス姿から打って変わり、長いやや癖のある金髪を高めに結い、冷蔵庫の中で着替えたのだろうか、黒を基調として赤、青、黄色を散りばめた半袖のチャイナブラウスとパンツという出で立ちをしている。
「〈ヘブン〉の手下のわりにはやるじゃないか!」
メノウの知らない拳法の型を構え、威勢の良い声を叩き付けてウオッカは飛び出した。左腕を真っ直ぐ前へ伸ばし、それを一本の槍と想定して突き込む。単純なりにそれは体重の乗った強力な一撃となるが、メノウは風に吹かれる柳の如く左半身を後ろに開いてさらりと拳の槍を避け、待ちかまえていたように肘を叩き込んだ。相対的な高速をもって硬い肘の先端がウオッカの額に勢いよく突き刺さる。
「──っ!?」
鉛のような予想外の手応えにメノウの肘が激痛を訴え、跳ね返された。ウオッカは止まらない。メノウはすぐさま後ろへ飛び退いてウオッカの突進をかわしたのだが、少女の背後にあった冷蔵庫に女格闘家の拳が入った瞬間、そら恐ろしい轟音がして彼女の拳は金属の扉を突き破り、突き刺さったのである。メノウは感嘆の口笛を吹いた。
「とんでもない怪力ね。あなた、ウオッカ・ブライトン?」
確認するまでもないと思われたが、念には念を入れてメノウは聞いた。明確な肯定を含んだ声が返った。
「はっ、あたしの名前も知らずに捕まえにきたのかい? 舐められたものだね、このウオッカさんも!」
「まあね」
しれっと言ったメノウは軽くステップを踏み、刹那、身動きのとれなくなったウオッカの左足へ神速の回し蹴りを炸裂させた。
「っ……!」
やはり返ってきたのはまるで鉄の塊を蹴ったような感触だった。逆に蹴った脚の方が痺れる始末である。
「はん、そんな生半可な蹴りじゃ痛くも痒くもないね」
にやりと笑みを浮かべたウオッカは、まるでそれが紙で出来ているかのように金属製の扉からあっさりと左腕を引き抜いた。さほどの筋肉質でもないというのに、それだけで彼女が人間離れした膂力の持ち主であることが伺える。
「随分前から指名手配されているのに捕まらないだけのことはあるわね」
素直な賞賛の言葉をかけるメノウ。それに続く彼女の動きは常人には知覚できなかったであろう。水の中を行くような自然な一歩でウオッカに肉薄すると、一六ビートの楽曲に合わせて激しいダンスを踊るように、目にも止まらぬ連続攻撃を開始したのだ。拳、掌、手刀、指突、裏拳、肘、爪先、膝、踵──小規模の竜巻が無数の飛礫をぶちまけたかと思える勢いだった。ウオッカの背後には冷蔵庫があったため、彼女の身体は全ての衝撃を受け止めるしかなかった。しかし。
「それだけかい?」
ウオッカの軽い調子の一言が強風となって全てを吹き飛ばしたかのようだった。メノウは瞬時に距離を開け、けろりとしているウオッカに向けて一度はしまった拳銃を抜いた。
「……念のために聞くけど、あなた妖怪よね?」
抑えるように努めたのだが、それでも多少荒くなった呼吸は隠しようがなかった。ついてもない埃を払うように服を叩いていたウオッカは、苦し紛れの皮肉に頬を真っ赤に染めた。
「よっ、妖怪!? なんて言い種だいこの小娘! あたしゃまだ二五歳だよ!」
両手を腰に当て、胸を張ってそう主張する。メノウは『怪物』という意味で『妖怪』と称したのだが、ウオッカは『若作りの年寄り』と受け取ったようである。
その時、外で待機していたジュドがようやく厨房へ入ってきた。
「おいメノウ、いつまで時間かけ──っと」
ウオッカの姿を認めるとすぐに拳銃を向ける。彼の使用している銃もメノウと同じく旧時代の火薬銃である。少女の回転弾倉式とは違い、まだ少しは新しい型の物だが、それでも現行のレイガン型に比べればかなり古い物であることには違いない。
「おいおい、お前にしちゃ珍しく時間喰うじゃねえか。どうしたってんだ?」
その台詞はメノウに向けたものだった。親ばかならぬ師匠ばかと言うのだろうか、ジュドはメノウと一対一で闘って勝てる者はそうはいるまい、と思っていたのである。それにやや少女は息を上げている様子で、そんな姿を見るのも久しぶりだった。
「ちょっとね。正攻法にこだわってみたのよ」
激しく動いたためにめくれ上がってしまったミニスカートを、銃を握る逆の手で直しつつメノウは答えた。
「でも相手が悪すぎたみたい。人間だったらよかったんだけど」
「こらこら、人を無視しておしゃべりかい? 人を舐めるのもいい加減にしなよ」
「そういうお前さんもなかなかの余裕だな。追い詰められてるんだぜ?」
油断なく銃口を突きつけたまま、ジュドはウオッカとの距離を詰める。ウオッカの蒼穹色の瞳が嘲りの光を宿し、彼女はせせら笑った。
「はっ、追い詰められた? あたしが? なーにをしゃらくさいことを。このウオッカさんが〈ヘブン〉の手下にそう簡単に捕まるってのかい。冗談じゃないね」
「〈ヘブン〉の手下だぁ?」
ジュドは説明を求める視線をメノウに向けた。メノウはウオッカを見据えたまま肩をすくめた。
「勘違いしているのよ。私たちが〈ヘブン〉だって」
「…………」
その沈黙は火山が噴火する直前に起こす痙攣に似ていた。次の瞬間、ジュドの口から憤激の溶岩が噴き出した。
「この俺が〈ヘブン〉だと、どこに目ぇ付けてやがんだこの小娘!」
メノウが止める間もなく、なんとジュドはいきなりウオッカに歩み寄ってその胸ぐらを乱暴に掴んだのだった。ウオッカも負けじとジュドの胸ぐらを掴み上げ、そして二人の男女は激烈な舌戦を開始したのである。
「何言ってんだい、いかにもな格好をして人に銃を向けたのはあんたらだろ! あたしの目はごまかせないよ! あんたら『闇十字』だろ、わかってるんだよそれぐらい!」
「闇十字だぁ!? ちょっと待てコラ、俺の何処をどう見たらそんな反吐の出る名前が出て来るってんだ! こちとら〈ヘブン〉を嫌って七年の筋金入りだぞ!」
「はん、たかだか七年で何をイバっているんだい! あたしゃ一五の頃から十年間も反対運動してたっていう超弩級の筋金が入っているんだよ! 図体がでかいだけの新人がでかい面すんじゃないよ!」
「お前こそたかだか三年の差で何をイバっていやがる! 俺ぁな自分の艦にも『HEAVEN’S BETRAYER』って名前をつけてんだぞ! 小娘にわかるかこの凄さが! ええ!」
一体何を自慢し合っているのやら、とメノウは呆れて溜息を吐いた。その時、彼女の聴覚が微かな音を感知した。すぐに人数を分析し、推測を上乗せして口にする。
「本物の〈ヘブン〉の手下が戻ってきたみたいよ」
「ああそうかい! そりゃあ大変だよ、本物の〈ヘブン〉が戻ってくるなんてね! 大体あんたらも艦にそんな名前を付けているならヤバイのは一緒だろ! ……ありゃ?」
ウオッカはようやく自分の言っていることの不整合さに気付いたようだった。二・三度目を瞬かせ、きょとんとする。ジュドの胸ぐらを掴む体勢を崩さないまま、顔をメノウに向ける。メノウはすでに戦意を喪失したと言うよりも放り捨てており、銃を下ろしていた。
「すると、あんたら、〈ヘブン〉じゃないのかい?」
「だからさっきからそう言ってるだろうが!」
ジュドの噛み付かんばかりの勢いに、毒気を抜かれたような表情のウオッカは空いている方の手で後頭部を掻いた。
「じゃ、あんたら、何者?」
間抜けな質問だった。
「ああ、なるほど、賞金稼ぎかい。そりゃ拳銃を突きつけもするだろうねぇ」
ウオッカは納得の態で頷き、かんらからと笑った。高く結った、やや癖のある黄金色の髪、メノウほどではないにしろ白い肌、そばかすの浮いた顔、陽光が煌めくような空色の瞳、身長は一七七センチと高く、体型は中肉と言ったところか。ジュドの身長が一九三センチ、メノウが一七二センチであるから、彼女はちょうど二人の中間である。
場所はウオッカの所有する九二のアジトの中の一つだという、廃棄されて随分経つプールバーである。教国兵が外を歩き回っているため、三人は一旦ここへ隠れてやりすごすことにしたのだ。
「…………」
メノウはウオッカ・ブライトンの全身をくまなく観察したが、やはり腑に落ちないことがあった。薄暗い照明に浮かびあがるビリヤードの台に胡座をかいて腰掛け、大きな声で笑う彼女の身体はどこからどう見ても年頃の女性のものであり、殴ったときに生じる鉛のような感触は連想できない。女性特有の丸みと合わせて、見た目の印象はむしろ柔らかそうにしか見えないのだが。
「……ん? なんだい、人のことジロジロ見て。気味が悪いね」
止まり木のようなハイチェアに足を組んで座り、カウンターに肘を乗せてチャイナ服の女性を値踏みするように見ていたメノウに、ウオッカは言葉通り気味が悪そうな顔をして両手で自分の身体を抱きしめた。
「これは好奇心からの質問だけど、あなたこそ一体何者なの? 正直、人間とは思えないわ」
「なんだいそりゃ? 不躾だねぇ、あたしが妖怪か仙人かってのかい?」
「そうね。予想できる答えを強いて言えば、陳腐だけど改造人間、アンドロイド、サイボーグあたりかしら」
「何だそりゃ? わけがわかんねぇぞ」
カウンターの棚にある酒瓶を物色していたジュドがメノウに視線を向けた。彼の反応とは逆に、ウオッカは子供が誉められたときにするような笑みを顔に浮かべる。
「ジュド、あなたが彼女の目と耳と顎、それと胸と腹に掌打を本気で叩き込んだとしても彼女は倒れないわよ、きっと」
そう言われてジュドは自らの身体を眺めた。分厚い、大きな掌。岩の如き筋肉、丸太のような脚、それらを集めて体重計に乗せると三桁の数字が表示されるであろう。そこから生み出される破壊のエネルギーは想像を絶する。
「……ますますわけがわからんぞ。自慢じゃねえがそれで生きてる奴ぁ人間じゃねえと思うが……」
「だから言ってるのよ。人間とは思えない、って。実際、私があれだけ急所に攻撃したっていうのに平然としているのよ、現に彼女は」
「ほう……」
感嘆の声を漏らし、ジュドはウオッカに向けてサングラス越しに『メタル・アイ』を発動させた。彼の両の眼窩を埋める、瞳孔の無い水銀の如き義眼は、物質の持つ「目」と呼ばれる弱点を見破り、その未来を『予知』──正確には『予知に限りなく近い先読み』を──することが出来る。無論、目に異常のある者、義眼を使用している者、特殊な能力を持つ者を『異端』として取り締まるこの社会に置いては、彼は最大級の『異端』である。男の特殊な視線が目に見えない波動となってウオッカを照らした。
「……こいつぁ、すげぇな」
ジュドは小さく呻いた。通常、人体をして「目」は無限無数にある。筋肉の隙間、経絡と経穴、間接など、ジュドからしてみれば人間など玩具以上に壊れやすい、壊しやすいものである。そのため「目」がぐちゃぐちゃに絡み合い、『メタル・アイ』に映る光景には整合性の「せ」の字もない。しかし、ウオッカの身体は違ったのだ。筋肉の隙間を示す「目」だけが、美しいと称しても良いほどに、頭頂から爪先まで整流していたのである。これはつまり、筋肉の流れに沿ってナイフのような刃を突き込まない限り、彼女はどのような攻撃を受けても何の痛痒も感じないということだ。突き刺す角度によっては刃すらその皮膚を貫けないかも知れなかった。
「んん? なんだい、何が『すごい』って?」
地獄耳か、ジュドの義眼のことを知らないウオッカは素直に疑問を口にした。蒼穹色の瞳が生き生きと動く。
「いや、こっちの話だ。で、お前さん人間じゃないんだろ?」
「ほんっとに不躾な連中だね、全く。あたしは単に他の人間とちょっと体質が違うだけだよ」
「どんな風に?」
ウオッカが抽象的なことしか言わなかったため、メノウは詳細を求めた。ウオッカは視線を宙に泳がせ、目当ての本を探すために記憶の図書館をさまよい歩く。
「うーん……そう聞かれると説明に困るね。そうだねぇ……昔かかった医者が言ってた事だけど、あたしの骨は強化セラミック並に硬くありつつ針金のようにしなる、とか。筋肉繊維がワイヤー並だとか。総合して液体金属人間みたいなモンだとか」
指折り数え、挙げていく。その声は何処か、喜びに飛び跳ねるような響きがある。表に出ないよう抑えてはいるが、その特殊な体質が彼女の自慢であることは間違いないだろう。メノウはある人物の名前を連想した。
「まるでアレス・フォルスターね」
史上最強の戦士と名高い、破壊の軍神の名を持つ人物、それがアレス・フォルスターである。火星出身の彼はその名に恥じない好戦的な性格の持ち主で、地球の英雄とまで言われるアキラ・インビシブル・御堂とはヴァリアブルリヴェンジャー戦での好敵手であったという。当時の人々は二人の闘いを『破壊神アレス・エニューアリオスと暴風神素戔鳴尊の闘い』と称したほどである。そんな彼は幼い頃から戦闘訓練を受け、様々な改造手術を全身に施し、挙げ句には人としての身体を捨てるという人生を送った。そして液体金属の身体に脳と神経を隠した彼は、生粋の、そして最強の戦士として歴史に名を残したのである。また最終的にはアキラ・インビシブル・御堂に敗れた彼であるが、その生死は未だ不明であり、一部の歴史家達は『アレス・フォルスターは今なお生きてこの世の何処かにいる』という説を謳ってやまない。
なるほど、とメノウは心の中で納得した。やはり彼女は人間ではなかったのだ。道理で自分の攻撃がまるで通用しないわけである。堅固な骨格に支えられた強靱な筋肉が、全ての衝撃をゴムのように吸収し、拡散し、消滅させていたのだ。例え衝撃が貫通したとしても、彼女の内部にあるのもまたゴムの臓器である。まともにダメージなど与えられるわけがなかったのだ。まさに人間を超えた『超人』と呼べよう。今また新しい人類として『フォースタイプ』が生まれつつあるのかも知れない、とはメノウの考えすぎだろうか。
「まあ、そんなバケモンほどじゃないんだけどね。突然変異ってやつさ。おかげで目も悪くないのに生まれたときから『異端』扱いされてさ、苦労したんだよ、あたしゃ」
「それで、反〈ヘブン〉の犯罪者になった、というわけね」
「色々と紆余曲折を経て、さ。人を単細胞みたいに言わないでおくれ」
腕を組んだウオッカはメノウの言いように憮然と唇を尖らせた。歳や背格好に似合わず、その口調や仕種はどこか幼く、下手をすればただ背の高い少女にすら見えた。
「お前……『異端』だったのか」
ジュドは本屋で一年前に発売した月刊誌を見つけたような顔をした。事実、目に異常を持たない『異端』というのは非常に稀な存在なのである。〈ヘブン〉の歴史においても未だ三人しかいない。彼らに共通するのは超人的な力を持つ点であり、ある者は膨大な知識を持つサードタイプの兵器開発者で、ある者は巨大な武勲を誇るセカンドタイプの戦闘機乗りで、ある者は強力なカリスマ性を持つファーストタイプの指導者だった。彼らは『異端』である象徴云々を関係なく、その比類無き力によって存在そのものを『異端』とされてしまったのである。
「そうさ。……ところであんたら、まだあたしのこと捕まえて賞金をいただこうとか考えていたりするのかい?」
唐突な、トーンを低くした声での質問にジュドは肩をすくめ、口の端をつり上げる皮肉な笑みをひらめかせた。
「悪いがやる気が失せたぜ。ここまで喋った奴とドンパチやるのはごめんだな。なあ?」
彼は振り返り、メノウに同意を求めた。が、そこに氷の彫像を思わせる少女の姿を見つけてしまい、その瞬間、彼の肝に霜が降りた。
「ええ、勿論よ」
メノウの肯定的な言葉に、しかしジュドの不安の氷は溶けなかった。メノウの声は氷塊と氷塊をぶつけ合うような響きで、その台詞は、ジュドが示したのとは違う事柄を主語にしているのではないか、と思わずにはいられなかったのだ。そして、その危惧が正解であることはすぐに判明した。
「私たちはこと〈ヘブン〉に置いては敵じゃないらしいわね。でも、それで賞金首と賞金稼ぎの関係が消えるわけじゃないわ」
「へぇ、なるほどね」
メノウの淡々とした口調に、気圧の低いウオッカの声が相づちを打ち、室温は急激に低下した。ウオッカの顔に、にやり、と不敵な笑みが浮かび上がる。
「さっき、あたしに全然かなわなかったことをもう忘れたらしいねぇ」
指名手配中の女政治犯は「よっ」とかけ声をあげてビリヤード台から飛び降りた。その動きはまさに雌の虎を思わせ、蒼穹色の眼光は鋭く、メノウのミラーシェードに映る。
「あなたこそ上には上がいることを知らないようね」
若すぎる賞金稼ぎの少女もまた、左手をジャンパーのポケットに入れてラップトップパソコンの存在を確かめ、ハイチェアから床に足を着ける。ウオッカを虎とすれば、彼女の身のこなしは豹を余人に連想させるだろう。苛烈な光を宿す黒曜石と、青く曇ったガラス玉の金銀妖瞳はミラーシェードに隠されているが、それを貫く視線をウオッカは確かに感じた。二人の女の全身から不可視の波動が解き放たれ、廃れたプールバーの空気は発火直前の精霊エネルギーの如くだった。ウオッカは両手の指を鳴らし、メノウはだらりと垂らした右腕を前へ斜に構える。
「言っとくけど、あんたの使う鉛玉はあたしには効かないよ。今時レイガンも持ってない迂闊さを呪うんだね」
「あなたこそ、賞金をかけられているのに丸腰でうろついていた愚劣さを後悔する事ね」
前哨戦たる舌戦ではメノウに分があったようだ、とジュドは採点したが、すぐさま事態が悪い方向へ転がっていくのを止めねばならないと気付いた。
「おいお前ら、外に〈ヘブン〉の奴らがいるかもしれねえんだぞ。大概にしろよ」
たしなめる男の低い声は二人に無視された。二人はなおも目と目の間に火花を散らし、全身から迸る戦意を隠そうともしない。ウオッカが、ゆっくり右手の人差し指を立てた。メノウはそれを指突の構えと見なし、さらに身体の角度を修正して正中線を隠す。険悪なにらみ合いをやめようとしない女二人に業を煮やしたジュドが、今度は怒鳴ろうとしたその時、女賞金首の口から意表を突いた台詞が転がり出た。
「一つ、提案が在るんだけどいいかい?」
「は?」
不穏な空気を切り裂く素っ頓狂な声を声を落としたのはジュドだった。立てた指は指突ではなく、単に数字としてのものだったのだ。あるいはその指は緊迫感で膨らんでいた風船に穴を開けたのかも知れない。
「……何」
短く促すメノウの声からは、気勢を削がれたような所はなかった。
「取引をしないかい?」
「まともな内容なら一考するわ」
言外に、まともな内容など出せるわけがない、と言う皮肉を受けても、あるいは気付かず、ウオッカは真剣な表情で頷いた。
「なら聞いておくれ。正直このままガチンコするのは個人的には好きなんだけど、流石のあたしでも分が悪いのはわかる。何せさっきは手も足も出なかった小娘が妙に自信たっぷりだし、そもそも二対一だからね。だから取引をしようじゃないか。あたしはあんたらに情報をやる。だからあんたらはあたしの首を諦めて、出来れば同じ『異端』同士仲良くやっていく。どうだい?」
「愚にも付かない話ね」
冷然たる声でメノウは遮断した。ウオッカの弁はまさしく論外だった。
「知っているのかしら、あなたの首には一億もの大金がかかっているのよ。並大抵の情報なんかじゃ代わりがきかないわ」
ウオッカはその答えを予想していたような表情で小さく口笛を吹いた。
「並以上の情報ならいいんだろ? もちろん、そこの所はわきまえているさ」
「なら聞いてみようかしら、その情報とやらを」
「おっと、全部は話さないよ。ほんのさわりだけだからね。……その情報ってのは『神卓の騎士』に関してのものさ」
それは光と音を伴わない雷であった。薄暗いプールバーの中央に落ちたそれは、周囲の空気を激しく震わせた。雷を放った当人は先程の険しい顔から打って変わったように会心の笑みを満面に浮かべた。目の前の冷静沈着そうな少女から、確かに「はっ」とした気配を感じたのだ。
「──!? 本当か!?」
声を荒げたのはやはりメノウではなくジュドの方だった。ウオッカは両手を腰にやって悪戯を成功させた少年の顔を銀髪の男に向けた。
「ああ、確かな筋の情報だよ。なにせあたし自身がその顔を見てきたんだからね」
「だ、誰だ!? どいつが来てるんだ? 何処に?」
矢継ぎ早に質問を浴びせるジュドに、ウオッカは茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。
「だから、その情報を取り引きしようって言ってんじゃないか。あたしの首と引き替えに、ね。さあ、どうだい?」
絶対の自信という鎧を着込んだウオッカの顔は確信に輝いていた。彼女は知っているのだ。『神卓の騎士』という固有名詞と彼女の首とを天秤に掛けた場合、遥かに前者の方が重いということを。
「…………」
すでに勝利を収めた気になっているウオッカの視線を受けて、メノウはしばらく沈黙を保ち考え込んでいたが、やがてジャンパーのポケットから左手を抜いた。やれやれと溜息と共に肩をすくめ、そして降参とばかりにミラーシェードを外して彼女の『異端』たる所以の金銀妖瞳を露出させたのだった。
「商談成立、だね」
一億の賞金をかけられた国家反逆罪の政治犯である『異端』は、見えない悪魔の尻尾を振って満足げに頷くのだった。
「閣下、なにもこのような些末事に対して、あなた様が陣頭に立つ必要はないと思うのですが」
SP1を統治する任務を負っているマーティス・マクファーレン中将は、『鉄仮面』という異名に恥じない鉄面皮を以て具申した。口の向く先は、SP1の四つある宇宙港の一つに停泊した戦艦『ヘルメス』から降り立った青年である。マクファーレンは彼を迎えに来たのだ。白と基調として各所に金を散りばめた軍服で包まれた均整のとれた長身に、背中まで伸びる濃紺の髪を乗せ、彫りの深い白い顔に紅い色眼鏡をかけている。青年は、こちらは黒と基調とした軍服をまとったマクファーレン中将の進言に、優しげな微笑を以て応えた。
「マクファーレン中将、事に大も小も無いのです。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすと言います。どうかヴァルハラ教皇猊下の真意をお察し下さい」
短く、抽象的な言葉だったが、中将は彼のいわんとする事を理解した。
「はっ。失言でした。お許し下さい」
「ちなみに獅子と書いてシーズーとも読むのですが、ペキニーズとラサアプソの混血により誕生したといわれる犬です。お間違えのなきよう」
「はっ?」
男の冗談に『鉄仮面』中将は真面目に聞き返した。あるいは彼のここ数年動いていない表情筋の理由は、ユーモアセンスの欠乏にあるのかもしれない。青年は冗談を流されたことには頓着せず、悠然と話題を変えた。
「ところで中将、『異端』についてはどれほどの事がわかっているのでしょう?」
「はっ。こちらで用意いたしました車の中に、タクマ閣下のための資料をまとめてあります。詳細はそちらの方で」
「なるほど、ありがとうございます」
柔和な態度で礼を言って、ヴィクトリアス・シロウ・タクマ卿は歩き出した。警護に当たっているマクファーレンの部下達が一斉に、彼の前に敬礼で舗装された道を創った。
教国軍全将兵の憧憬と畏敬を受ける立場に彼、ヴィクトリアスはあった。その地位は元帥よりも高く、その権力は枢機卿に次ぐ。そしてその実力と言えば、比類する者はいなかった。
その名も『神卓の騎士』──実に古めかしい響きを持つ称号である。
〈ヘブン〉の暗部『闇十字』と表裏一体に語られることの多い『神卓の騎士』とは、有り体に言えば前者と同じ戦闘のプロフェッショナル集団といえよう。どちらも〈ヘブン〉に仕える者の中から選ばれた精鋭の中の精鋭であるが、その存在意義はまさに光と影。『闇十字』は〈ヘブン〉の裏にわだかまる闇に潜み、『神卓の騎士』は眩い光輝の中を華麗に駆ける。前者が暗殺、謀略、恫喝などの外道行為を主とするのに対して、後者は反〈ヘブン〉を取り締まり成敗する正道を往くのだ。当然脚光を浴びるのは『神卓の騎士』であり、『闇十字』に関して民衆はその名どころか存在すら知らない。その上、場合によっては『闇十字』が誇るべき武勲も全て『神卓の騎士』のものとして公表されるため、ますます『神卓の騎士』の威光と名声は強化されるのである。
信仰に近い波動が、尊敬という名の絨毯を歩く彼に向けられる。兵士にしてみれば目の前を往く白と金の軍服は、英雄の証であり、勇者としての勲章だった。かの英雄は栄光に見合う実力と共に、教皇猊下から【奇跡】の力を施されているのだから、信者としての羨望の眼差しもあるのだった。
マクファーレン中将が車のドアを開き、ヴィクトリアスは礼を言って乗り込んだ。すぐ隣にマクファーレンが同席し、護衛を伴って車が走り出す。精霊機関の発明と合わせて、車や船、飛行機もまたその動力に精霊エネルギーを利用するモノが多い。かつてのガソリン車より静かに走り出した車の中、ヴィクトリアスは資料に目を通し、隣に座る中将に疑問の氷を溶かす熱を求めた。
「このウオッカ・ブライトンなる女性は『反逆を使嗾する物』を盗んだとありますが、『反逆を使嗾する物』とは一体何なのですか?」
漆黒の髪と黒瞳のマクファーレン中将は青白い顔に一ミクロンの感情も表さず、率直に答えた。
「『異端』の眼球です」
「眼球、ですか。義眼ではなくて?」
「はっ。どのようなものであるかは未だ不明ですが、いずこかで手術によって取り出した物だと思われます」
「元々の眼球をくりぬき、義眼を入れなければならない……私が言うのも何ですが『異端』の方々は大変ですよね」
「お優しき言葉、感服します。ですが、いささか無用の情けかと思われます。『異端』は存在その物が邪悪なのですから、同情の余地はないと思われます故」
「そうですね。残念ながら、『異端』として生まれたことが彼らの罪なのですから。……ふむ、するとウオッカ・ブライトンはその眼球を拠り所に、反乱軍を結集しようとしているのでしょうね」
「おそらくそうであると、小官も推測いたします。ウオッカ・ブライトンはタイプSの『異端』ですが、それだけでは求心力とはなり得ません。まず間違いなく、手に入れた眼球を自らに移植させて反乱軍の頭首になろうとすること疑いありません」
マクファーレン中将の言葉の中にあった単語の一つに、ヴィクトリアスは口元を優雅にほころばせた。
「タイプSですか。それだけでも私が来た価値があるではありませんか。どのような方なのです?」
彼の部下をして「マーティス・マクファーレン中将閣下は、冷徹鋭利、明敏犀利、単純明快を旨にして生きているに違いない」と言わしめる答えはこうだった。
「怪力の持ち主です。非常な頑丈な体躯をしておりまして、弾圧用のゴム弾では一切ダメージを与えられません」
「それはすごいですね」
素直な感想をヴィクトリアスは口にした。彼の表現もまた、マクファーレンと負けず劣らず単純明快を極めていた。
「うん、本当にすごいねー」
という軽い調子の声は、助手席の方から聞こえた。極めて珍しいことに、この時マーティス・マクファーレンの顔が驚愕に染まった。彼の部下達が見れば総じて腰を抜かしたに違いない。
「何者だ!」
中将は躊躇なくレイガンを抜きはなった。この車内には運転手を除けば彼とヴィクトリアスしかいないはずなのだ。いつの間に進入したのか、空であるはずの助手席に一人の男が座っている。それは、肩口まで伸びた黒髪に、太陽の輝きを閉じこめたような金色の瞳を持つ、黒尽くめの男だった。彼はわざとらしく声に女性的なしなを作り、マクファーレンの誰何の声に答える。
「何者っていわれてもねぇん、か弱い乙女に見えたら嬉しいなー、とか。あははは」
「貴様、何を企んでいる。反逆か?」
「暗殺だよ」
ふてぶてしく言い放つと同時に助手席の背もたれを貫いて闇色の刃が飛び出した。まるでヴィクトリアスの胸元へ吸い込まれるように進んだ切っ先を、『神卓の騎士』は咄嗟に両掌で叩くように挟んだ。が、刀身には潤滑油と思しきものが塗られており、その進行は止められなかった。行く手を阻む全ての者を退けた死神の爪は、果たしてヴィクトリアスの胸の中央へ突き立った。マクファーレン中将が叫ぶ。
「閣下!? ──殺せ!」
最後の一言は運転手に向けた命令だった。同時にマクファーレンもレイガンの引き金を引き、殺人光線を発射する。しかし、その時には既に男の姿は幻のように消えていた。一条のエネルギービームが空しくフロントガラスを打ち砕く。
「ま、マクファーレン中将!」
運転手である士官が叫び、それに「何だ!?」と問うよりも早くマクファーレン中将は助手席に残された手榴弾に気付いた。「何故、私の名を呼ぶ前に掴んで捨てなかったのか」という無益な質問を、中将は天上へ持ってゆくこととなる。彼の青白い手が手榴弾を掴んだ、まさにその時であった。
突如、爆発炎上した車の中から、驚くべき事に人影が歩み出てきた。護衛として『神卓の騎士』と中将の前後を走っていた車から飛び出した兵士達は、見慣れぬ【奇跡】を前に感声をあげ、一斉に跪いた。爆炎の中から出てきたのは、服こそ着てはいなかったが、無傷のヴィクトリアス・シロウ・タクマその人だったのである。まさしく【奇跡】の体現であった。過不足のない筋肉を鎧う身体には擦過傷も火傷もない。黒の刃が突き刺さった胸の中央部にさえ。色眼鏡を失ったヴィクトリアスの眼窩にはまっていたのは、透明色の瞳だった。
「どなたか、服をお願いします」
彼が言うと、身長の近い兵士が四人も我も我もと服を脱いだ。その中から一人の服を受け取り礼を述べると──その兵士は感激のあまりむせび泣き、ヴィクトリアスに永遠の忠誠を誓った──彼は別の車へと乗り込み、黒と金の軍服を身に纏う。
「マクファーレン元帥の葬儀を私の名の下、盛大に行って下さい。また、遺族に不自由をさせないよう取りはからうようにお願いします。この件に関しては私が責任を負いますから」
窓を開けて車内からそう指示したヴィクトリアスは、自らを狙った暗殺者に関しては一言も触れなかった。兵士達はこの時、かのタクマ卿を守護する任務に殉じた『鉄仮面』中将が元帥に叙せられたことを知った。部下の忠義に正当な評価を下した『神卓の騎士』に、彼らは最大級の憧憬と畏敬を敬礼に籠めて表したのだった。
「ここにもやはり〈ヘブン〉を憎むことしかできない哀れな人々がいるのですね」
再び走り出した車の中で、ヴィクトリアスは呟いた。彼は微笑を浮かべ、遠い目をする。
「猊下、やはりこれは天命なのです。マクファーレン中将、否、元帥の犠牲は無駄にはいたしません。必ずや〈ヘブン〉に平和をもたらして見せましょう」
厳かにあらず、むしろ優雅と言っても良いそれは、誓いの言葉だった。
ウオッカはビリヤード台の上に一枚の写真を置いた。
「ここSP1に来ている『神卓の騎士』はこいつ。ヴィクトリアス・シロウ・タクマ卿だよ。これは確かだね。あの白い軍服に、濃紺の髪、濃厚な顔、優男の雰囲気、遠くから見ても間違えようがないさ。しかも早速暗殺されそうになったって言うのにケロリとしていたよ」
「一体誰にそんな無駄なことを頼んだの」
「……ありゃ? あたし、自分が頼んだとは言ってないけど?」
メノウのさりげない追及にウオッカは視線をあさっての方向へ飛ばし、肩をすくめて白々しくしらばくれた。
教国兵を〈ヘブン〉の手足とするならば、『神卓の騎士』は教皇の直接的な手足と言って良いだろう。文字通り世界を掌握しているヴァルハラ教皇の直属の配下である彼らには、聖なる加護が与えられている。その『聖なる加護』の力こそが、反〈ヘブン〉を理念とする者達の畏怖と忌避を呼ぶ原因である。まず第一として、彼らは不死身と名高い。第二に、人としての枠を遥かに超えた能力を持っている。第三に、限りなく至高に近い権力を有している。『神卓の騎士』に関して、昔の反逆者ゴスン・カーバインがこんな言葉を残している。
「『神卓の騎士』に目をつけられたら終わりだ。逃げ切れやしない。世界中を敵にするのと同じなんだからな。俺は知っているんだ、知り合いが『神卓の騎士』のリストに載って、どうなっちまったかを。どいつも惨めなもんだったぜ。休まず走り続け、眠らず逃げ続けないといけないんだ。一人は追い詰められたあまりに発狂しちまった。一人は開き直って『神卓の騎士』と相対したが、一瞬で挽肉にされたよ。いいか、平和に安全に反逆したかったら、奴らに目をつけられないことだ。わかったな」
そう言った彼は数年後、当時の『神卓の騎士』コリースーダン卿によって追い詰められ、最後には自殺した。
今や、どれほど〈ヘブン〉を嫌悪している者でも『神卓の騎士』をまともに相手取ろうとする無謀な人間はいない。彼らにとって『神卓の騎士』は死神とイコールであり、生きる天災であった。
「だがよ、なんでまたこんな所に『神卓の騎士』が来てやがんだ」
銀色の目に嫌悪感の光を宿して写真を見たジュドは、吐き捨てるように言った。彼の〈ヘブン〉嫌いはその末端にまで至るのだから、『神卓の騎士』に対してはそれこそ反吐が出る思いであろう。
「ああ、それは多分、これだね」
ウオッカは明朗な笑顔で頷き、ビリヤード台の足元においていたバッグを取り出した。開いたジッパーの向こうから現れたのは、薄く蛍光グリーンに光る液体を満たしたガラス管だった。その中にぷかりと浮かぶ二つの眼球に、ジュドとメノウは視線を集中させ、不意に気付いた。
「おい、こいつぁ……」
「間違いないわね」
ジュドの呻きにメノウは同意した。特殊な保存液につけられている眼球は、ピンクダイヤモンドが如き輝きを秘めており、その瞳孔の中に、白いメビウスリングを抱え込んでいたのだ。世にも不思議な自然の宝石に、二人の記憶野は刺激されずにはいられなかった。二人の脳裏に、幼き黒い肌の女神の如く愛らしい少女の姿が浮かび上がる。
「お前、これをどこで手に入れた?」
瞳孔のない目を持つ男の口調は、質問というより詰問であった。驚くとは思っていたが、想像以上の反応にウオッカは少したじろいだ。
「いや、まあ、ちょっとしたツテで、ね……」
本来ならば闊達である彼女の口調はよどんでいた。空気の急激な変調と多少の後ろめたさが相まって、彼女の罪悪感が地球のように膨れ上がったのであろう。視線を泳がせるウオッカが先程のように白々しくしらばくれようとしているのを見抜き、メノウは先手を打った。
「雪音」
「ぎくっ」
『馬鹿正直』の典型として辞書に載せてもよい反応であった。三人の意識の中に、共通した像が現れた。それは肩口まで伸びた黒髪と、いたずらっぽく光る金色の目が印象的な長身の青年の形をしている。
「買ったのね、彼から。反〈ヘブン〉の旗にするために」
「…………」
ウオッカの沈黙は肯定の代弁だった。
「でもってタクマ卿の暗殺まで頼んだってのか」
「……な、何で知ってるのさ、あんたら!」
追い詰められた政治犯は反撃に出た。ウオッカは、潜り込んだアンダーグラウンドのオークションでこの『異端の眼球』を競り落としたのであって、何ら悪いことはしていないはずなのだ。なのに、何故このように詰問口調でつつかれなくてはならないのか、彼女には不満だった。そもそものオークションが犯罪であるのだが、それはこの際は考慮に入れないウオッカである。
「知り合いだよ。……しかしあの野郎、帰ってこねえと思ったらこんなことで油売ってやがったとはな」
淡い光を放つ保存液の中で浮かぶ、セリア・ドリューの瞳だった物から、ジュドは別れた後の少女のことを想像せずにはいられなかった。
「ったく、恐かったろうに」
ちゃんとした義眼を用意できたのか、あの兄貴はちゃんと面倒を見ているのか、今、あの娘は笑顔を浮かべているのか──心配せずにいられないのがジュド・ホルスゲイザーという男だった。
「雪音に暗殺を依頼したのはどうして?」
「いや、あれはあっちが勝手に言いだしたんだよ。暗殺を依頼しないか、安くしておくから、ってね。あんまりしつこいから言ってやったんだよ。ちょうど『神卓の騎士』の一人がこっちに向かっているらしいから、あいつらが本当に不死身なのかどうか試してきておくれ、って」
それで本当に実行しちまうのがアイツらしいぜ、とジュドは胸中で毒づく。あの青年は人生のギャンブラーだ。今回は自分の命すらチップにして、『神卓の騎士』という大物を獲得しようと博打を打ったのだろう。
「で、その様子を見に行ってヴィクトリアス・シロウ・タクマの顔を見た、写真を撮った、と言うわけね。それで雪音はどこにいるの?」
「さあ?」
「さあ? じゃねえだろ。なんでわかんねえんだ」
「とっくに代価は払ってあるからね。どっか行ったんじゃないのかい?」
不意に嫌な予感がして、ジュドは聞きた。
「……ちょっと待て、代価? 代金じゃないのか?」
「ああ、ほっぺにキスしてくれって言われたんでね」
予想通りの答えに、ジュドは額を抑えた。苦々しく吐き出す。
「……恥だ。今度あったら縁を切ってやる」
彼は固く心に決めたが、「今度」とつくあたりが彼の限界といえよう。耳の端でジュドの守られない誓いを聞きながら、メノウは一人、思考の淵へ沈んでいる。
記憶に間違いがなければ、ヴィクトリアス・シロウ・タクマというのは『神卓の騎士』の中でも新参の部類に入る。おそらく、いわゆる「不老不死の身体」と言われている『形状記憶法則』と、いくつかの簡単な【裏技】を与えられているだけだろう。
「…………」
これはきっと悪い考えではない、とメノウは思う。本当ならば口約束など破り、目の前にいる女の首を〈ヘブン〉に差し出して一億の大金を手に入れたいところだが、そのような蛮行は銀髪銀目の男が許すまい。ならば、自分が雪音と同じように『神卓の騎士』の暗殺を請け負えばいい。頬にキスという子供だましの代価ではなく、高い代金でもって。
そう、自分には彼の男を殺すことが出来るのだから。
なによりそれは、おもしろそうではないか。メノウは自らの体内に禁断の果実が実るのを感じた。それには穴が空いており、そこから頭を出した蛇がゆっくりと首をもたげ、少女の心臓に食らいつく。いつだったか、彼女はジュドにこう言ったことがある。
「今じゃ世の中は、ゲームなリアルよ」──と。
そう、ゲームならば同じ事を何度も繰り返すのはつまらないことである。上に向かい、より強大な敵を求めるべきだろう。強い敵、高額の報酬。過去にあったゲームのキャッチコピーにもこうあった。印象的な言葉だったため、記憶槽の上部をたゆたっている。
『自分より強い奴に会いに行く』
今のメノウの心境は、まさしくこの言葉に当てはまった。どくり、と心臓が一つ強い鼓動を打った。その時。
「……ちょいと、聞いているのかい?」
ウオッカの訝しげな声がメノウを現実へと引きずりあげた。眠りの風船を割られたようにメノウは感じたが、おくびにも出さなかった。
「……何?」
「だから、あんたの目、なんでそんなのなのさって聞いてるじゃないか」
「目……?」
ウオッカの右手がメノウの左目を指さしていた。そこには曇ったガラス玉のようにも見える青い瞳が収まっている。刹那、黒曜石の瞳に微妙な色が揺れて消える。メノウは記憶の扉を開いて、知りうる知識を詩的に披露した。
「これは遺伝子異常の一つよ。創造主の手違いとか、神様の気まぐれとか、天使の悪戯とか言われているそうね」
「いやそうじゃなくてさ。なんでそんなガラス玉みたいなんだい? 何かの病気かい?」
それは意外な観察力だったのか、それとも直感による閃きだったのか、ウオッカは今までほとんどの者が気付かず、気付いたとしても口に出さなかったメノウの不自然な点を、ずばりと指摘したのだった。メノウは空気に触れていた左目を掌で覆い隠し、本人は意識していない鋭さを内包したウオッカの舌鋒を、巧みに避けた。
「逆に聞くけど、あなたのその体質は病気といえる?」
「へ? あたしかい? ……ふーむ……」
「そういうことよ。ところで、今度はこちらから提案があるんだけど」
考え込んだウオッカの隙をついて、メノウは話を終わらせた。次の話題を提示する。
「提案?」
聞き返すウオッカの語を継いで、ジュドが茶々を入れた。
「まさか俺達が反〈ヘブン〉の組織にはいる、とか言うなよ?」
本気が五一%の口調では茶々を入れ損なったといえよう。彼の言葉はメノウに完全に無視された。麗しい金銀妖瞳の少女の言葉は、単刀直入だった。
「ヴィクトリアス・シロウ・タクマ卿の暗殺を私達に依頼する気はないかしら?」
「「はぁ!?」」
無音無光の雷より強力なそれは、炎と風の発生しない無音の爆弾だった。
ウィリアム・エーディルは今になっても、これでよかったのか? 本当にこれでよかったのか? やっぱり自分の人生は狂っているのではないだろうか?──という自問自答の無限地獄から脱出することが出来ないでいた。
彼は現在、あんなに疎遠であろうと努めてきた裏の世界に身を浸していた。あのメノウ・ヒラサカと秘密を共有することに耐えきれず、バージナル研究所の上司にサンプルナンバーファイブ『バオ』を逃亡させてしまった失敗を報告し、あっさり首を切られ、失意のあまり失踪した末路であった。故郷である火星を離れ、小さなコロニーの古ぼけたビルの一室で、一日中情報を収集している姿を客観的に見れば、なんと情けないことであろうか。しかも、しかもである。家族が聞けば仰天するか、下手をすれば発狂するであろう立場に自分はあるのだ。
反〈ヘブン〉組織『REVOLT DRINKERS(反逆する酒好き達)』の情報収集担当ウィリアム・エーディル。
それが現在の彼を表す文字列であった。そう、反逆者! あのヴァルハラ教皇猊下へ叛意の旗を翻す側に、彼はいるのだった。これというのも、このコロニーへやって来て数日、とうとうなけなしの金さえ無くなったときにウオッカ・ブライトンなる女に拾われたのが運命の岐路だったに違いない。あの時の自分は自暴自棄になって『こうなったら技術面だけじゃなくて全体面で〈ヘブン〉に対抗するのも悪くはない』と考えて無法者の一員となったのだが、それ以来、何度も何度も同じ問いが頭の中を巡り回るのである。
「はぁ……」
もはや室内の大気は一度ならずウィリアムの溜息の材料となっていた。狭い部屋は寝起きするためのベッドと、小さな冷蔵庫、スーパーコンピューターとサーバーによって占められている。彼はその隅の椅子に太った身体を乗せ、ディスプレイを前にネットワークから混沌として流れ込んでくる情報を有意義なものとそうでないものとに分ける作業をしていた。
背後のドアが三度ノックされた。ウィリアムが返事をする前にドアは開かれ、見慣れた人物が部屋へ入ってきた。
「相変わらずむさ苦しい匂いのする部屋だねぇ。いよっ、調子はどうだい?」
「ああ、ブライトンさん。今日はこの間みたいにおもしろい情報は特に」
言葉の途中でウィリアムは全身を凍り付かせた。振り返った彼はそこに実在する悪夢を見てしまったのだ。その名も、メノウ・ヒラサカ。瞬きを繰り返しても、長い黒髪、白皙の肌、紅い唇の持ち主は幻のように消えたりはしなかった。
「……うわあっ!?」
慌てて立ち上がろうとした彼は、慌てすぎて脚をひっかけて転んだ。一時的に痛覚が麻痺しているのか、不思議と痛いとは思わなかった。それ以上に恐怖が彼の脳内を圧迫していたのだ。
「く、来るなぁっ! ぼ、僕は悪くない、悪くないぞ! 僕は最善と思う行動をとったんだ、そりゃ契約違反になるのはわかってたけどしかたなかったんだ! こんなところまで追ってくるなんてしつこいじゃないか! あ、そ、そうだ、僕は君を売ったりなんかしてない、ただ単にサンプルに逃げられたことを報告しただけだ、だから、だから、こっ、殺さないで、殺さないでくれぇぇぇぇぇ!」
じたばたと泣きわめくその姿はまるで解体される前の豚そのものだった。挙げ句に脂肪の塊のような尻を向けてパソコンラックの下に頭を潜り込ませて震える男は、いっそ哀れを誘う。
ウオッカは醜いものを見るように眉をひそめ、肩越しにメノウを振り返った。
「あんた、何かしたのかい?」
「色々と紆余曲折があって、ね。人を盛りのついた辻斬りみたいな顔で見ないでくれるかしら」
「知り合いか、メノウ?」
メノウの背後に立つジュドが、バイブレーション機能が搭載された肉の塊を一瞥して聞いた。
「ウィリアム・エーディル。少し前の火星での件で失踪した依頼人よ」
「ほう、そりゃまたすごい偶然だな。運命って奴か?」
運命論を信じないメノウは肩をすくめただけだった。
ウオッカにビル──元々はラブホテルだったようだ──の一室を与えられ、ソファに向かい合って座ったメノウとジュドは煙草を吸って時間を潰していた。ウオッカは現在、メノウに払う報酬を集めるため外に出ていた。
「今、他の反抗組織とも連絡をとっているところだよ。見てな、三億ぐらいすぐに集めてやるさ」
ウオッカはそう言って片目を閉じてみせた。しかし、すぐに表情を引き締め、メノウに問う。
「それよりもあんた、本当にあの『神卓の騎士』を殺せるのかい?」
メノウは肩をすくめた。
「できなかったらそれまで。料金は後払いだからあなた達にもデメリットはないはずよ?」
「……そりゃそうだ」
たった一言で納得して金策にでかけたウオッカの感性は、特殊であると断言できるだろう。彼女が一体どのような根拠で自分の言葉を信じるつもりになったのか、メノウには理解できないし、しようとする気もない。だがやはり、歯に衣着せぬ言い方をしてしまえば、彼女はおかしい。それとも、本当はメノウの中に隠れている何かを、見いだしたとでも言うのだろうか。もしメノウの心の内をウオッカが知り得たのなら、彼女はこう答えたであろう。「伊達や酔狂なくしてこんなアホなことやってられないさ」と。
「お前、本気か?」
ジュドの低い声が静寂の薄いベールを引き裂いた。たゆとう紫煙越しに見える顔には「真剣」という文字が書いてある。闇の輝きという矛盾した存在を凝縮したような右の瞳に男の顔を映し、メノウは呟くように質問に答えた。
「質問の意図がわからないわ」
「ふざけるなよ。言葉遊びをするつもりはねえぞ」
「なら逆に聞くわ。冗談だとでも思っているの? あなたが言っているのはただの願望よ?」
メノウの辛辣な指摘に、ジュドの顔を自嘲の翳りが斜めに滑り落ちた。
「ああ、俺はエゴイストだからな」
口の端をつり上げ皮肉るように吐いたその名詞は、かつてメノウが彼に向かって言い放った言葉だった。毎度のこと正論を説くジュドに、いつだったか──かなり昔のことだと思うのだが──メノウはこう吐き捨てたのだ。「いい加減にしてよ、このエゴイスト。あなたの価値観が普遍だなんて、ただの思いこみよ。私には私の考えがあるの。説教なんてもう沢山だわ」──と。今よりも二十センチ以上も背の低いメノウの言葉が、今でもジュドの胸には焼き付いている。
思えば、あの時の少女は今よりも感情的だった──そんな感慨を追い払い、ジュドは語を次いだ。
「お前、『神卓の騎士』がどんなものかわかってるんだろうが。それなのに何故だ? どうしてだ? その歳で死に場所をさがしてるわけでもないだろう」
「言葉を返すようだけど、私は『神卓の騎士』がどんなものか、実際にはよく知らないわ。今まではその名前を聞くたびにあなたが逃げていたから、それについていっていただけよ? そう言うあなたこそ、『神卓の騎士』の本性を知っているとでも?」
「ああ。知っているさ」
第三者から見ればメノウの父と言っても過言ではない、尋常ならざる瞳を持つ男の声は、苦虫を噛みつぶしたかのように濁っていた。瞳孔のない瞳は何の感情をも映し出さず、彼の中で蠢く苦さの根元をメノウは見透かすことが出来なかった。
「そう。なら大丈夫ね」
「……なんだと? どういうことだ」
「あなたは『神卓の騎士』の本性を知っているんでしょ? なのに今でも生きているわ。ということは『神卓の騎士』の風聞のほとんどはハリボテに決まってるわ」
ジュドの顔はさらに苦いものへと変化した。彼は今更ながら、この少女の精神構造を見てみたいという欲求を覚える。悪を許容し、正義をエゴと称し、非常識を好む。神秘的な金銀妖瞳と相まって半神的な美貌の少女が内包する精神の地平は、豊かな森など生まれようもないコンクリートで敷き詰められているのではないだろうか。
「メノウ、お前は昔からそうだ。七年前だったか、お前を拾ったのは。そん時十歳だったお前に何があったのか、俺は知らねえ。聞くべきじゃねえと思ったからだ。だが今はこう思う。あの時俺がお前の話を聞いてやってれば、お前はそこまで歪まなかったんじゃねえか、ってな」
そのような昔話は無益であることをジュドは知悉していたため、口には出さなかった。そもそもそのような湿気の多い話は、彼の気質に合わなかった。そして、わかってもいたのだ。これを言っても、少女はむしろ礼を言うであろうことを。「あなたのエゴで洗脳しないでくれてよかったわ」──と。だから彼は別のことを口にした。
「言うことを聞かなけりゃもう『HEAVEN’S BETRAYER』の敷居はまたがせねえ、と言ったらどうする?」
わずかだがメノウの指に挟まれた煙草の先端が動いた。このような反応を見ると、ジュドはやはり少女に対する希望を捨てきれなくなるのである。やはりこいつも感情の通う人間なのだ、と。
「……あなたがそれを望むのなら、そうすればいいわ。私に拒否する権利はないはずよ。あなたはあなたの道、私は私の道を行くだけなんだから」
「強がるな。このご時世だ、宇宙に出る方法がなかったらお前だって困るだろ」
「そうね。否定はしないわ」
黒と青の視線をジュドと合わせないようにして、メノウは煙草を灰皿に押しつけた。ジュドは内心でほくそ笑む。そう、彼女にもこのように可愛いところもあるのだ。やはり年長者は包む込むような対応をとらなければ、と彼は再確認する。
「だから条件を出す。『神卓の騎士』を相手にするとき、俺に全面的なバックアップをさせろ。で、やばいときは引き返す。文句あるか?」
「好きにすればいいわ」
「おう、好きにさせてもらおうじゃねえか」
舌戦に勝利を収めたジュドは口一杯に笑みを広げた。呵々と笑うジュドに、メノウは溜息を吐いて視線を逸らした。その左目は現実を透かして近い未来を見るかのように、一瞬だが生気を放ったようだった。
ウオッカが作戦図案を持って部屋へ入ってきたのはそのちょうど一分後のことである。
SP1のほぼ中央に位置する中央司令ビルに割り当てられた執務室で、炎上してしまった資料のコピーを読んでいたヴィクトリアスは、小さく唸った。
「……ふむ。彼女の体質は、あるいはある種の【奇跡】なのかもしれませんね。ですが、教皇猊下に反旗を翻したのはいただけません。自ら【奇跡】を『異端』の力に貶めるとは……何と不幸なことでしょうか。そうは思いませんか?」
先進的かつ機能的なために殺風景とならざるをえない執務室にいるのは彼を含めて二人で、残る一人、『神卓の騎士』であるヴィクトリアスを補佐する任務を帯びたユナ・ミカミという名の女性士官は、突然同意を求められて動揺した。少尉である自分に、元帥より位の高い『神卓の騎士』が柔和な声をかけるとは思ってもみなかったのである。
「え、う、あ、は、ひゃい!」
声をひっくり返してあられもなく狼狽するユナ少尉に、ヴィクトリアスは優雅な微笑を向けた。
「少尉、あまり緊張なさらないで下さい。伝染して、私の背筋まで物差しのようになってしまいそうです」
「は、はい、申し訳在りません!」
まるで憧れの男性教師と直面した女子学生のようだ、とはヴィクトリアスは口にしなかった。彼は確かに、美男子と称して良い相貌の持ち主だった。『神卓の騎士』としての条件の一つに、美貌も密かに含まれているのである。
「それで、ウオッカ・ブライトンの所在はまだ掴めないのですか?」
「いえ、それが、まだ……」
「そうですか。では資料も読み終わったことですし、ティータイムとしゃれ込みませんか、ミカミ少尉?」
「あ、は、わ、私でよろしければ!」
のぼせそうなほどに頬を紅潮させるユナに、多くの者が微笑みを禁じ得ないことであろう。ヴィクトリアスの纏う優しげな雰囲気がユナを少しでしゃばらせ、彼女はこの階の端にある、陽光降り注ぐサロンへと彼を案内した。白い床と壁に、純白のテーブルセットが一つ。柔らかな陽の光が優しい陰影を創っている。ここでヴィクトリアスは騎士とは思えない意外な名人芸を披露し、絶妙のタイミングと温度のミントティーをごちそうした。
「少尉、あなたは教皇猊下のご尊顔をご拝見したことはおありですか?」
「いえ、小官のような未熟者にはまだ刺激が強いと思われますゆえ……そもそも分に過ぎますから。閣下はご拝見されたことがお有りなのですよね?」
「ええ」
「聞いてもよろしいでしょうか?」
ヴィクトリアスは優しく目を細め、それを見たユナの鼓動がますます高鳴る。
「あなたが望むのであれば。そうですね、教皇猊下はそれはそれは美しい方です。世界中の美神に愛されているのでしょう」
ユナはヴィクトリアスの表現に小首を傾げた。ヘブン教における神と言えばオーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラ教皇猊下が唯一であるのに、彼の比喩表現は教義から外れている。彼女の表情に気付いたのか、ヴィクトリアスは口元をほころばせて弁解した。
「ああ、私はあまり頭の固い方ではないのです。勿論、教皇猊下を崇拝してはいます。が、他の邪教の神も、文字だけの存在であるのですから、そう躍起になって抹消することもないと考えているのです」
「なるほど……確かに。実在する神は教皇猊下ただ一人だけですものね」
「ええ、そうです。また敢えて邪教の神を使って例えるのならば、全ての知神をも凌駕されるでしょう。どんな精巧な糸でもかなわないその黒髪。天才彫刻家を持ってしても再現できない鼻梁と唇。そして……」
「そして?」
この時のヴィクトリアスの微笑は、斜めに差し込む陽光と相まって、けぶるように美しかった──と後にユナ・ミカミは証言を残している。
「宇宙を凝縮したような、あの美しい瞳こそが我が教皇猊下の最大の魅力である、と私は思っているのです」
紅いサングラスで覆われたヴィクトリアスの瞳が、別の世界へ焦点を合わせるのをユナは見た。一体どんなものをその網膜に映し出しているのかを知りたいと思ったが、聞くのは憚られた。それに、彼女は彼女で彼に言い様に多少の違和感を感じ、思いをはせずにはいられなかった。ヴィクトリアスは詩的な表現で教皇猊下を描写してくれたのだが、それは、未だ見ぬ女性の姿を彷彿とさせた。教皇猊下は男性であるはずなのに、一体どうしてなのだろうか。それとも真実は、教皇猊下は女性なのであろうか。少し考え、やはり教皇猊下は神秘的なのだ、と結論を出して思考を停止させた。
ヴィクトリアスの意識が現実に戻ってくるのを待って、彼女は心に暖めておいた質問を口にした。
「教皇猊下は大層お美しい瞳をお持ちだとか。確か……龍眼と」
「おや、あなた方の間ではそう呼ばれるのですか?」
ヴィクトリアスのどこかからかうような口調での質問に、ユナは真面目に驚いて反問した。
「もしかして、他にも名前があるのですか?」
「ええ。あなたの言う『龍眼』の他には『心眼』『神眼』『超眼』『霊眼』『皇眼』……様々な俗称があります。多すぎてこれ以上が挙げられませんね。まっこと、人の想像力とは限りなく多様性に満ちているものです」
「なるほど、そんなに……では、本当の名前はなんというのでしょうか?」
「本当の名前?」
ユナの素朴な疑問に、ヴィクトリアスは軽く驚いたような声をあげて、二・三度瞬きをした。彼女は遠慮がちに頷き、質問の意図を説明しようとする。
「はい。『龍眼』も俗称のうちであるのならば、やはり……おかしな言い方ですが『正式名称』があるのでは……?」
ヴィクトリアスは溜息を吐いた。それは、あまり優秀ではないが熱意は十分にある生徒に質問された内容を、どのように説明するべきかと黙考する教師のようにも見えた。
「……少尉、少尉。あなたは何かを勘違いされているようです」
「え?」
目を丸くするユナに、ヴィクトリアスは説明した。実に簡潔に。
「例えば試みに問いますが、アナタのその鳶色の瞳には何かしら固有名詞がついていますか?」
「あっ……」
さっとユナの頬が紅潮した。ヴィクトリアスの言わんとすることに気付いたのである。
「教皇猊下の瞳は、どこまで行こうとも教皇猊下の瞳です。それ以上もそれ以下もありません。それに名前を付けても所詮は俗称としかなりません。……わかりますね?」
「は、はい、申し訳ありません。浅慮でした」
赤面して頭を下げるユナに、ヴィクトリアスは優雅に笑った。
「謝るようなことではありませんよ。それに、私に対して謝られても、私が困ります」
そう言ってヴィクトリアスは窓に瞳を向けた。そちらには室内と空とを斜めに分け隔つ、壁一面の強化ガラスがある。そこから差し込む陽光を目の中で踊らせて、彼は自ら入れた紅茶に口を付けた。少しだけ口に含んでカップを受け皿に戻すと、光を真っ正面から浴びたままヴィクトリアスは続けた。
「それに、教皇猊下もこう仰っています。大切なことは『気付くこと』だと。気付く前の過去に価値はなく、気付いた瞬間、それからの未来にこそ意義があるのだ、と。少尉もどうか、そのような生き方をなさって下さい」
感情の抜け落ちた彼の顔を、透明だ、とユナは感じた。彼はすぐ目の前にいるのに、いるとわかっているのに、不思議と陽光が彼をガラスのように透き通っていくのを感じた。言葉は自然と唇から滑り出た。
「……尊い、御方なのですね、やっぱり」
ヴィクトリアスが再び振り向き、サングラスの奥の目をとても嬉しそうに細めた。
「ええ、それはもう。この世界に唯一無二の御方です」
「……羨ましいです。そのような御方の近くにいられる閣下が」
「いえいえ、少尉も信心を忘れず使命に精励すれば、必ず教皇猊下のご尊顔を拝見できるときも来ましょう」
「はい。がんばります」
満面に笑みを浮かべるヴィクトリアスに、ユナもまた笑顔を向けた。穏やかに、ゆったりと流れるこの時間が、永遠のものであればいいのに──彼女はそう思った。
SP1中央指令ビルの見取り図を広げたウオッカは、武者震いを隠そうともしなかった。震える指でとある一室を指さす。
「くぅ~……っ、興奮するねぇ! これはあたしの推測だけど、タクマ卿はこの部屋にいるはずだよ。ここは前々から『神卓の騎士』が来るたんびに執務室にされているからね。今回もそれに則っているはずだよ」
そこは一二〇階建てのビルの中央部、六〇階にあった。〈ヘブン〉の価値観では左右であろうと上下であろうと端は良い場所だとはされていない。むしろ真ん中、中央を良しとする教えがある。『神卓の騎士』は何処へ往こうともその場の最高司令官を超越するため、このような指令ビルでは必ず中央の階の中央の部屋を彼ら専用に確保しているのだった。
「で、どうするんだい?」
興奮さめやらぬといった様子のウオッカは、期待に満ちた眼差しをメノウに向けた。この金銀妖瞳の少女には自分を「あっ」と言わせるような何か凄い作戦案があるに違いない、と彼女は思っていたのだ。軍師に見立てられたメノウは視線をミラーシェードで隠したまま、さらりと言った。
「特にないわ」
ウオッカは笑顔のまま凍り付いた。
「……はい?」
「普通に忍び込んで銃を一発撃ち込めばすむわよ」
「と、っとと、ちょいまち! そんな安直な方法でほんとに大丈夫なのかい!? あんた『神卓の騎士』、『神卓の騎士』だよ!? もうちょっとほら、神算鬼謀っていうかなんというかさぁ……ちょっとオッサン、何とか言いなよ」
「おっさん!? この、近頃のガキは……!」
オッサン呼ばわりされたジュドは不平をたらたら漏らしながら、ウオッカの指さす見取り図に見入った。しばし置いて、彼は一つの案を提出した。
「ウオッカ、お前をおとりにして呼び寄せればいいんじゃねえか? やっこさんもお前ならのこのこ出てくるだろ。しかもご丁寧に、お一人様でな」
あの『神卓の騎士』の前にまな板の鯉の如く出ることを提案された『REVOLTDRINKERS』の頭首は、尻込みするどころか積極的に賛成した。
「お、いいねぇ。あたしゃ何でもするよ。あのいけ好かない教皇の鼻っ面をあかしてやれるんならね」
それはおそらく本心であろう、とメノウは分析する。明敏犀利な彼女は物事を単純化して把握することが出来る。そんな少女のウオッカに対する評価は「伊達と酔狂を基準に生き、そして殉じる女」であった。この事を本人に言ってもおそらくは否定しなかったであろうし、こうも返しただろう。「あんただって人のこと言えないだろ?」と。
「却下」
メノウはジュドの発案を一言で切って捨てた。ウオッカが目を丸くする。
「なんでだい?」
「言ったはずよ。あなたにはデメリットの無いようにする、って。万が一にもあなたが死んだら報酬がもらえないわ」
「……口の減らない小娘だねぇ」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
その後、メノウの立案によって作戦は流れるように組み立てられていった。まず建築用に使用され、現在は壁の中に隠れているエレベーター空間を進入経路とする。これには当然エネルギーは供給されていないので、自力で昇るしかないだろう。次に、六〇階の階段を一つを残して全て爆破する。一つだけ残った階段の、階上の踊り場をジュドが、階下の踊り場をウオッカが防御する。これはメノウとヴィクトリアスとの一騎打ちを演出し、邪魔をさせないための陽動でもある。見事メノウがヴィクトリアスを討ち取った暁には、再び進入した経路から脱出し、最後にそこを爆破して作戦は終了する。最悪、ジュドとウオッカがビルから脱出できれば問題はない。ウオッカは知らないが、メノウには教皇と同じ力がある。その気になれば【裏技】を駆使してビルに潜入することも可能なのだから。
今回このような形になったのは、ジュドとの「全面的にバックアップさせる」という約束と、ウオッカから「あたしにも助太刀させること」との依頼条件があったためだった。ジュドはともかく、ウオッカに関しては相手が『神卓の騎士』でなければそう簡単に殺される女でもないだろうとの判断と、万が一にも彼女が死亡した場合はウィリアム・エーディルを代理人として報酬を支払うという条件で参戦に応じた。助太刀として参入することを奇想天外な依頼条件として提示し、そこまでしてついてこようとするウオッカにメノウは飾ることなくこう言った。
「好きにすればいいと思うけど、物好きね。むしろ変態の域に入るわよ」
「違うね、あたしのは変態の粋だよ。大体あんた、あの『神卓の騎士』を殺れるって自信があるんだろう?」
「ええ。事象的にはやってみなければわからないけど、物理的には可能だわ」
「小難しい話はやめておくれ。出来るってんならあの『神卓の騎士』をぶっ飛ばす、せっかくの晴れ舞台なんだ。参加しないのはあたしの矜持が許さないね」
「そういった矜持で死んだ人間がどれぐらいいるのか知っているかしら」
「こういった矜持で成功した人間を何人もあたしは知ってるんだよ」
「口の減らないオバサンね」
「はっ倒すよ小娘!」
女二人の醸し出す険悪な空気をかき消すのに苦心したジュドが、メノウの立てた作戦に一言の感想を述べた。
「ろくでもねえ作戦だぜ」
「いいのよ。私はろくでなしの方が好みなんだから」
ミラーシェードを外して振り返り、無機質な碧眼にジュドの異相を映し、メノウは辛辣な言葉を口にした。
「『HEAVEN’S BETRAYER(あんな艦)』に乗っているのが、良い証拠だと思わない?」 ジュドに効果的な反論を期待するのは、黒い物を「白い」と言うようなものだった。
作戦を開始する前に雪音と連絡をとるのは必然である、とジュドは思っていたが、彼の携帯端末に通信を要求しても、金色の目の暗殺者は出ようとはしなかった。ようやく連絡がついたのはSP1の地下深く、下水道の中を中央指令ビルへ向けて移動しているときだ。携帯端末の小さなディスプレイに、闇色のゴーグルをかけた雪音の笑顔が映る。
「はーい」
「はーい、じゃねえだろこのバカ野郎! 今までどこほっつき歩いてた!」
「ああもう最悪ぅー。だから出たくなかったんだよねぇ。ジュドさんさぁ、もう少しあたしに対して寛容さを示して欲しいってゆーかぁー」
「気色悪いしゃべり方をやめろ! いいから、今どこにいる!?」
トンネル内に野太い大声を反響させるジュドに、雪音はけらけらと笑ってみせた。
「メノちゃんの顔見せてくんなきゃ教えなーい」
「ふざけるな!」
男の背後で少女と女が顔を見合わせ、メノウは軽く肩をすくめ、ウオッカは両手を腰に当てて嘆息した。メノウがジュドに手を差し出し、無言のまま携帯端末を渡すように要求した。
「雪音、あなた今どこにいるの?」
「やほやほやっほー、メノちゃん元気~? 俺ね、今ね、SP1にいるんだよ」
「それは奇遇ね。私たちも今SP1にいるのよ」
「えっ、嘘、マジ!? じゃあ後でお茶しない? ホテル行かない?」
「前みたいに銃身を口の中に突っ込まれたいのね」
「すみませんごめんなさい遠慮させて下さい」
「で、どこにいるの?」
「うーん……ちょっと野暮用でさ」
狭いディスプレイの中、雪音は片手で頭を掻いたようだった。
「セリア・ドリューの目を売った代金はもちろん残ってるわよね?」
雪音の動きが石化したように止まった。一瞬だが、隣で見ていたジュドが携帯端末の故障かと思うほど、見事な硬直だった。先程の勢いは何処へいったのか、雪音はばつの悪そうな声を零す。
「……まいったなー、雪音ちゃんドッキリ。どこで聞いたの?」
「今ちょうど、ウオッカ・ブライトンの依頼を受けているのよ」
「あっちゃー……運が悪いね、俺も」
「最後の質問よ。あなたは今どこにいるの?」
「うん、今いるのは中央指令ビルってところだよ。頼まれた仕事がまだ終わってなくてさ」
「それもまた奇遇ね。私もこれからそこに『神卓の騎士』を暗殺しに行くところよ」
「……へ?」
「後ろでジュドが言ってるわ。もう一度『HEAVEN’S BETRAYER』の敷居をまたぎたいなら協力しろ、そうすればドリュー兄妹の件には目をつぶってやるって」
「おい、俺はそんなこと……」
「しぃーっ」
否定しかけたジュドを止めたのはウオッカだった。唇の前に人差し指を立てて「そのまま言わせておきな」という意思を表す。メノウがディスプレイに描かれた薄っぺらい雪音に、脅し文句をつきつけた。
「協力するなら金の玉をあげるわ。拒否するなら鉛の玉をあげる。さあ、どうする?」
青年のとるべき選択肢は、たった一つしか提示されなかった。
ヴィクトリアスは当然、【奇跡】を与えられているから『神卓の騎士』なのではなく、有能な軍人であるからこそ爆発炎上する車の中から無傷で出てこられる【奇跡】と『神卓の騎士』の称号を賜っているのである。
彼は、SP1中央司令ビル長官『鉄仮面』マーティス・マクファーレンの代理を務めることとなったアルカネス・フェイバウアー少将に依頼して、独自の捜査部隊を臨時に編成し、反逆者であり『異端』であるウオッカ・ブライトンへ四方八方から捜索の手を伸ばしていた。これに関して彼の非凡だった点は、「ウオッカ・ブライトンを探せ」とではなく「誰でも良いから反逆を目論んでいる者を捕らえよ」と命令したところにあるだろう。ヴィクトリアスはウオッカ・ブライトンという一つの種子を掌中へ収めるために、その数世代前の種から育てることにしたのである。一人の反逆者が一人の反逆者へと繋がる道を示し、それはやがてウオッカ・ブライトンに繋がるだろう、と。
事実、それは成功の芽を吹こうとしていた。ヴィクトリアスはウィリアム・エーディルという名の肥料の存在を知り、現時点ではむろん知りようもなかったが、それさえを手に入れれていれば成功という大樹は実り、ウオッカ・ブライトンは彼の手に落ちていたのである。
しかし彼がウィリアム・エーディルに剣を向ける前に、事態は急速に転がっていくのだった。
夕刻、ヴィクトリアスは今日二度目のティータイムを満喫していた。相伴をつとめるのは彼の臨時の副官ユナ・ミカミ少尉である。彼女は捜索任務における実務的な部分を担当しており、部下からの報告をまとめてヴィクトリアスに提出する義務があった。
「本日は計三名の者を、反逆未遂罪、不敬罪の二つの罪状で逮捕しましたが、どの人物からもウオッカ・ブライトンの名は聞けても、その居場所は聞き出せませんでした。現在も新たに得た手がかりから捜査の範囲を広げています」
「ご苦労様です」
優しいヴィクトリアスの微笑でねぎらわれたユナは、軍人らしく堅苦しい表情の堤防を持ちこたえさせることが出来なかった。つい、つられて彼女もヴィクトリアスに向かって桜色の笑みを浮かべてしまう。すぐに表情を引き締めるのだが。
「いえ、半日も費やしながら思ったほどの成果を上げられませんでした。申し訳ありません」
かしこまり、頭を下げようとするユナをヴィクトリアスは制止した。
「いいえ、それでいいのですよ。私は彼女、ウオッカ・ブライトンをすぐに捕まえようとは思っていないのですから」
「は?」
間の抜けた声をこぼしてしまってからユナはその非礼さに気付き、慌てて言葉を重ねた。
「あ、いえ、しかし、それでは捜査の意味がないのでは?」
ヴィクトリアスは壁一面を占める強化ガラスに顔を向け、夕映えに彩られた町並みを見下ろした。SP1は地上から一〇〇キロほどの上空を、目に見えない液体金属に覆われている。これは開発者のヴェンデッタ・フォン・ゼックスの名に由来して『ヴェンクス』と呼ばれ、体積の七〇%を金属で占めるSP1の環境調整機能を有している。この金属は透明と言うよりも不可視で、肉眼で確認できないため太陽の光は何の障害もなくSP1の地上へ降り注ぐことが可能である。また、SP1の公転軌道は地球のそれを九〇度方向けだけで、自転周期は二五時間である。彼らに寂寥感すら漂う光を与える夕日は、火星やガニュミードやカリストのような疑似映像ではなく、正真正銘の本物だった。
「今日この言葉を使うのは二度目ですが、大切なのは気付くことです」
ヴィクトリアスは夕日に向かって語るようだった。夕焼けの光線が彫りの深い彼の顔に微妙な陰影を与え、笑顔に隠されている精悍さを浮かび上がらせる。
「我々『神卓の騎士』は常に、反逆者には過ちに気付くような措置を執ってきました。そうすることで数多くの人を改心させてきました」
同時に多くの狂人と死人を大量生産したことに、彼は触れない。触れることに意識が至らないのだ。彼は〈ヘブン〉の正義を心の底、脳髄の芯から信じており、その功徳に比べれば、それに伴う多少の弊害などは無視しても問題ないのである。
「私たちの任務の本質は、彼女を捕らえることにはないのです。彼女の心に、〈ヘブン〉の尊さを気付かせる、その一点にあるのです」
その横顔をメノウが見れば「反吐が出るわね、そのエゴイストぶりには」と痛烈な批判を口にしたかも知れない。だが、夕焼けに照らされる彼を見つめているのはユナ・ミカミ少尉だった。彼女の表情は蒙を啓かれた信者の顔で、その瞳は超越者に心酔する眼差しで、その声は感動に打ち震えていた。
「目から鱗が落ちるような思いです、閣下。まだまだ私は閣下の深慮には及びません。影を踏むことすらかなわないと思います」
熱っぽく己を見つめる女性に、ヴィクトリアスが笑顔を浮かべ、優しい声で朱色の大気を撫でた。
「こそばゆいですね。私は、あなたが思っているほど大した人間ではありませんよ」
それは謙遜ではなく、心の底から彼は自身をそう評していた。そのような態度こそがユナの狂熱にも似た陶酔を煽っているのだが、彼は気付いていなかった。
不意に、自らの視界が微かに揺れているのを二人はほぼ同時に認識した。震動はやがて肌でも感じられるようになり、その触感は、徐々に大きさを増していくように思えた。その考えは見事的中したようにも、はずれたようにも見える。地上十三階からゆるやかに上昇してきた震動に続き、彼と彼女のいる六十階にも複数の爆発音が炸裂したのだ。
穏和に滞留していた空気を、無骨な轟音が粉々に打ち砕いた。場所は近いようで、激しい震動がテーブル上のティーカップを倒し、内容物を床に垂れ流させる。
「な、なに!?」
「何事でしょうか?」
椅子を蹴って立ち上がるユナとは対照的に、このような時でもヴィクトリアスの語調は静謐の属性を捨てていなかった。むしろ、のんびりと称してもよいくらいだろう。ユナは一瞬でも狼狽してしまったことを、冷静沈着なヴィクトリアスを見て恥じた。
ユナが混乱から脱して携帯通信機を使用することに思い当たる前に、甲高い電子音がSP1中央指令ビル全域に鳴り響いた。次いで、ヴィクトリアスの白と金の軍服の腕に取り付けられた携帯通信端末が着信音を放つ。回線を繋げると、殉職した中央司令官マーティス・マクファーレン元帥の代理を担うフェイバウアー少将の声が溢れた。
「閣下、無事でございますか!? どうやら爆発は十三階とそちらの階で連鎖的に起こった模様です! すぐに警護の者を回しますので速やかに脱出して下さい!」
「心配ご無用」
ヴィクトリアスの声は少将の緊張をときほぐそうとしているのかと思うほど、悠然としていた。そばで見ていたユナ・ミカミ少尉は彼の穏やかな雰囲気によって覆い隠されてしまっていた畏敬の念を思い出した。そう、この人は比類無き『神卓の騎士』であったのだ。この程度、些末事に過ぎないのだろう。そのたたずまいは、それだけでユナに勇気を与える。
「テロでしょうか? 首謀者がウオッカ・ブライトンなら話は早いのですが。……ああ、少尉。危険ですからあなたは逃げて下さい」
「い、いいえ! 私も行きます!」
眼前の、いついかなるときでも落ち着きをなくさない、まるで本当に天上宮殿のオーディーンの尖兵のようなヴィクトリアスに、ユナは心の奥から心酔していた。しかしこの時初めて、ヴィクトリアスは厳かな表情を彼女に見せたのである。
「いけませんよ。あなたはまだ若い。それに女性です。危険に近寄ってはいけませんよ。何よりもあなたにはこれから、新しく〈ヘブン〉の民、教皇猊下の庇護を受ける者を誕生させるという使命があるのです。わかりますか?」
足音や指示を飛ばす声が遠く近くサロンへ届く中、ヴィクトリアスは立ち上がり、ユナの両肩に手を置いてそう諭した。ゆっくりとユナの瞳に理解の色が広がってゆくが、この『神卓の騎士』と共に闘うという魅力は、女性ですら虜囚にするようであった。未練がましい声が少尉の唇からこぼれる。
「ですが……」
「あまり使いたくありませんが、この言葉はこのような時に使うもののようですね。……命令ですから、聞いて下さいませんか」
それは命令という名の懇願だった。ここまで言われては、もはや彼女に拒否することはできなかった。ずるい、とは思わなかった。思いもつかなかった。
「……はい」
「私のことならば心配しなくても大丈夫です。教皇猊下のご加護がありますから」
「はい」
「それでは、あなたにも教皇猊下のご加護がありますように」
「はい」
二人はお互いの無事を祈るため、一歩退き、両手を胸に当てて目を閉じた。きっかり三秒を数え、今度は敬礼をほどこしあう。驚いたのはユナの方だった。『神卓の騎士』は本来、敬礼を受けるだけの存在だったのだから。不意に微笑み、言葉は彼女の心の中から流れるように出た。
「御武運を」
「ええ。任せて下さい」
ヴィクトリアスの微笑みを一生忘れないでおこう、とユナ・ミカミは心に誓った。
先に潜入していた雪音が、影のように動いて仕掛けた時限爆弾は一秒の誤差もなく作動した。十三階の各所に陽動用の爆弾が四つ取り付けられ、本命の爆弾は六十階に点在する全ての階段に──例外として一つは残し──セットされた。タイミングはメノウ、ジュド、ウオッカの三人が六十階の隅に隠されている、廃棄された建築用エレベーターから這い出てくるのと、ほぼ同時であった。この非凡なる調整の妙に関して、ジュドは「あいつは絶対に勘でやりやがった。今回は絶対、運良く賭けに勝っただけだ。下手すりゃ失敗していたぞ、絶対」と語っている。
教国兵にとって、中央指令ビルのさらに中央の階に現れた三人は、まるで時空を超えてきたように思われた。突然の爆発に慌てふためく兵士達は廊下に出た途端、どこからともなく現れた三人の男女を発見することになる。しばし自失の時間が流れすぎ、事態は激流となった。
「──敵」
襲、と叫ぼうとした若い仕官はメノウの撃った銃弾によって喉に巨大な風穴を空けられた。次いで悲鳴を上げると思われた女性仕官は跳弾のような動きでその背後に移動したウオッカの手刀を延髄に叩き込まれた。残った者は両手に散弾銃を構えたジュドの放つゴム弾によって次々と倒されてゆく。
「メノウ! 無駄に殺すんじゃねえ! 殺るのはタクマだけで十分だろ!」
「必要はないけど無駄じゃないわ。ここまで来て善人ぶるのはよして」
教国兵を殺し、あるいは打ち倒しながら廊下を駆ける三人の男女の姿は「多彩」というよりも「異色」であった。一見、何の変哲もない格好だが、ミラーシェードで顔を隠した少女の手には無骨な鉄製の拳銃が握られている。その服装が町中を歩いているのとそう変わらないため、余計に拳銃に対して違和感が湧く。その後ろを走る雪の如き銀髪の男は、両手にゴム弾を装填した散弾銃、両肩にはベルトで固定した自動小銃、腰に巻いたベルトにはスタングレネードを釣り、全身これ武器といった装いである。それら全てが致死性の低い物であることが彼の性格を言葉無く語っているだろう。残る一人は性別すら判別しがたい、鏡面処理を施した重厚な装甲服に身を包んでいた。頭の先端から爪先まで完全に覆う銀色の装甲服は、試作段階のロボットを思わせる。その総重量は七〇キロ近いが、身に纏った者の筋力は尋常ではないようで、重いはずの装甲服はまるで絹で出来ているように見えた。
「あんたらって毎度毎度そんな言い合いしているのかい?」
「悪いか!」
呆れた口調のウオッカに、ジュドは噛み付くように叫ぶ。
「悪かないけどさ、嬢ちゃんの言う通りここまで来ておいてそりゃないんじゃないかい? あたしら今、暗殺に来てるんだよ?」
「わかってらあ! だけどな、メノウなら無益な殺生なんざしないで切り抜けられるんだよ!」
「無益じゃない殺生がどこにあるってんだい」
驚異的なのは彼らがこれらの会話を、次々と現れる教国兵士を撃退しながら交わしていることであろう。廊下を駆け、メノウは銃を撃ち放ち、時には銃床や肘を以て叩きのめす。ウオッカは蝶の如く自在に宙を飛び回り、装甲服に包まれた拳を振り回す。ジュドはそんな二人の殿を務めながら、正確極まる射撃の腕を披露していた。
ジュド・ホルスゲイザーは矛盾の人である。彼のことをある程度知っている者は皆、そう語る。メノウの知る限り、彼は殺人によって手を紅く染めたことはない。「人殺しはしない」──それが彼の信念であるならば問題はないのだが、それを貫徹するには彼の職業選択は明らかに間違えていると言える。雪音が主に暗殺を生業とするのに対し、彼とメノウは賞金稼ぎを主な生業としている。賞金稼ぎとは、現在の人類分布図が過去と比べて遥かに広大になった結果生じた職業の一つだ。今の時代、凶悪な犯罪者は警察機構によって指名手配と同時に莫大な賞金がかけられ、また、警察が本腰を入れないような小悪党でも私怨を抱く人物によって賞金がかけられる。そのように賞金をかけられた人物を捕獲することで糧を得るのが、今日の賞金稼ぎである。当然ながら、警察がかける以外の賞金はすべからく違法である。そんな賞金稼ぎの仕事には警察官以上の危険がつきまとう。特に賞金首を追い詰める際には、殺されることもあれば、殺してしまうこともある。むしろ、賞金首を殺すほどの覚悟を持たなければ返り討ちに合う──というのが賞金稼ぎの世界では常識だった。なのに何故、殺人を否定するジュド・ホルスゲイザーが賞金稼ぎの世界に身を浸しているのか。多くの者はその点に矛盾を感じ、ある者は人間臭さを感じて好意を抱き、ある者は「口先だけの男だ」と嫌悪を募らせる。
メノウ・ヒラサカは後者の人間だった。
拳銃から空薬莢を抜いて弾丸を再装填しながら、メノウの視線は敵を捜す。やがてT字路にさしかかると、彼女は振り返らずにこう言った。
「ロマンチストの妄言には付き合ってられないわ」
ジュドにはジュドの感覚と、価値観があるのだろう。そう思いつつも、メノウは彼の主張が理解できない。彼にとって世の中には『殺して良い人間』と『殺してはいけない人間』と『どうでもよい人間』とがいるのだろうが、メノウはそれをエゴとしか思えないのだ。
「人を撃ち殺すのと、蟻を踏み殺すのと、どんな違いがあるっていうのよ」
そう言い残した少女は颯爽と通路を右に折れ、駆け去っていった。ここより右は六〇階の中央部、左は唯一残した階段へ続く。メノウの役割はタクマ卿の暗殺であり、ジュドの役割はわざと作った防衛線を維持することである。そのため彼の喉から飛び出しかけた怒声は波動になることなく、胸の内で燃焼するに留まった。
「──ったく! いつまでわからず屋なんだアイツは! そんな理屈で世の中に通じるわけがないだろう!」
部屋に潜んで廊下へ飛び出す機会をうかがっている兵士達を弾幕で牽制しながら、ジュドは喚く。怒りの燃えかすを逞しい口から吐き出すジュドに、ウオッカは口笛を吹いてこう言った。
「あんた、まるでお父さんだね」
「ほっとけ! お前にも言っとくぞ、タクマ以外の殺しは御法度だ! 人殺しと蟻殺しは全然違うんだからな!」
「まあ、人間より蟻んこの方がちっちゃいしねぇ。蟻は死んでも面倒がないんだけど、人間は片づけるのも大変そうだしねぇ。えらい違うね」
「そういう問題じゃねえ!」
銃声よりも大きな怒声を張り上げたジュドは廊下にスタングレネードを二つ転がせ、ウオッカと共に左の角へ姿を消した。
炸裂する光と音は、『メタル・アイ』の所持者の不満を表しているようにも見えた。
執務室に戻ったヴィクトリアスは、出し抜けに壁を貫く大音響に全身を揺すぶられた。衝撃波の如き大気の振動を受けた『神卓の騎士』は、しかし意に介することなく自らの机に歩み寄り、そこに立てかけてあった一振りの軍刀を手に取る。緩やかに反る、細い三日月を結晶化させたような剣だった。朱塗りの鞘に収まった、階級を示す下げ緒すらない殺風景な軍刀を握るヴィクトリアスの表情は、先程と変わらず真摯だった。
ヴィクトリアスの全てをかけていると言っても過言ではない人物から下賜された軍刀を、眼前に掲げ、全身の力を収斂させているような、静かな動きで鞘から抜く。音もなく姿を現した刀身に、赤の眼鏡に色付けされた彼の瞳が映った。
『神卓の騎士』は瞼を閉じ、口の動きだけで何かを呟いた。それは決意の宣誓だったのか、それとも、まじないの呪文であったのか。開かれたヴィクトリアスの双眸に、新しく強い光が生じていた。
軍刀を左手に提げて執務室を辞したヴィクトリアスは、遠く戦闘の音を聞きながら、悠々と廊下を歩く。
「暗殺であれば、自ずと敵は私の所までやってくるはず。迎え撃つために広い場所で待ちましょうか」
白を基調に金を散りばめた軍服を身に纏った青年には、王者の風格すら漂っていた。いついかなる時も泰然としていること、それは『神卓の騎士』ではなく、彼固有の属性であった。
ヴィクトリアスの台詞は、しかしその目的を達することなく阻止される。狭い廊下を歩く彼の背後に、突然、長身の影が現れたのだ。音も光もなく影は動き、右手に握られた漆黒の刃がヴィクトリアスの首めがけて疾風迅雷の勢いで飛んだ。
刹那、澄んだ快音が廊下に反響する。
「残念ながら、私に不意打ちは通用しませんよ」
神速をもって鞘から軍刀を抜き放ち、暗殺者の毒牙を払いのけたヴィクトリアスは、やはり悠然たる面もちで振り返った。
「……おや? あなたは」
「やっほー。ご無沙汰してまーす、不死身の騎士様」
肩口まで伸びた黒髪を持つ、金色の瞳が印象的な暗殺者はひらひらと手を振った。軽率なその行為に、他の『神卓の騎士』ならば眉をしかめたであろうが、ヴィクトリアスはそのような狭量とは無縁だった。身体を雪音に向けながら、口元に微苦笑を浮かべる。
「不死身とはいえ、痛いものは痛いもので、熱いものは熱いものですよ。あの時はしてやられました、本当に。貴重な人材も失いました」
ふと、赤く染まったヴィクトリアスの瞳に憐憫の淡い光が浮かんだが、彼はすぐに戦士としての表情を取り戻した。鋭い眼光を眼前の青年に突き刺す。生真面目な顔で自分を見据える時代錯誤な騎士に、雪音は、あは、と短く笑ってみせた。
「ごめんねー、俺にも都合とか事情があってさ。まあそもそも野郎の命に対しては毛ほどの価値も認めてないんだけど」
黒髪の青年の口元は笑っていたが、その目は違っていた。鋭く、険しく、獲物を見つめる猛禽の瞳だった。
一瞬、鮮血のような赤に染められた視線と、不気味に輝く金色の眼差しが音を立ててぶつかり合う。拮抗を崩したのは、両者のいずれでもなかった。
「閣下! タクマ閣下!」
どこから迷い込んできたのか、雪音の背後から黒と金の軍服がワンセット現れたのだ。壮年の兵士はすぐさま、自分とタクマ卿との間を遮る暗殺者に殺意の切っ先を向け、腰のホルスターからレイガンを引き抜く。その銃口が雪音の背を捕らえるより早く、忽然と黒尽くめの姿が兵士の視界から消える。
「!?」
次の瞬間には兵士は光を吸収する闇色の刃に喉をかっ切られ、絶命していた。叫び声もなく、鮮血の噴水と化した壮年の兵士は崩れ落ちる。その光景を背後に置いて雪音は振り返り、夜叉の視線でヴィクトリアスを貫き、そして蜃気楼のように姿を消す。
ヴィクトリアスは歴戦の勇者であった。人が突然姿を消すという異様な光景に、彼は動じていなかった。彼は見慣れていたのだ。宇宙船のワープエンジンを必要としない、亜空間跳躍を。かつてクードス・ワープ・シュライターデンが開明し実践した技術を、何の援護もなく生身で実行する──教皇猊下の【奇跡】を。『神卓の騎士』にも三人、この【奇跡】を下賜された者がいるのだ。しかし。
──暗殺者の彼が、何故?
その疑問が浮かんで消える頃には、背後を振り返るヴィクトリアスの軍刀と、そこに突如として現れた雪音の刀とが奏でる快音は、軽く十を超えていた。二人の技量の水準は高く、その標高に優劣はほとんどなかった。斬撃はまるで激流に斬りつけたかのように受け流され、時に弾き返される。突きは刀身の腹で受け止められ、逆に突き込んだ刃を軌条にして敵は懐に飛び込んでくる。それを空いた手と脚で突き放し、間合いを開く。
そうした高水準の均衡を崩したのは死神の加護を得た方だった。不意に、雪音の視線が真っ向からヴィクトリアスの瞳を射た。黄金色の輝きが波動となって自らの脳髄に侵入するのを、ヴィクトリアスは理性ではなく本能で悟った。
「……くっ……!?」
血色に透き通った視界が、出し抜けに歪む。途端、痛覚神経を鷲掴みにされたような激痛が炸裂した。一瞬だが、今度こそヴィクトリアスは完全に視力を失った。そしてその隙を見逃す雪音ではない。吸い込まれるようにして黒い刀身が白の軍服の腹部に突き刺さり、背部から飛び出した。真紅に輝く液体に濡れた細く薄い金属は、その勢いのまま寝返りを打つ。うめき声が漏れ、肉がねじ切られ、絞られた血が噴き出す。余人であれば死を免れないであろう。しかし、ヴィクトリアスは他ならぬ『神卓の騎士』だった。
雪音の刃はさらに軍服を斬り裂き、右の脇腹を食い破って外へ飛び出そうとしたが、ヴィクトリアスはそれを素手で強く握りしめたのである。当然、刃が掌に食い込み新たな血が滴ったが、逆に言えばそれ以上の傷は生じなかった。
肉を切らせて骨を断つ──『神卓の騎士』が誕生して以来、これは彼らの十八番だった。武器の自由を奪われた雪音が、ほんの一刹那だが硬直する。ヴィクトリアスは軍刀を握った右拳を、黒髪の青年の頬に叩きつけた。
「!」
手応えは十分にあった。雪音の上半身が大きくのけ反る。ヴィクトリアスは一歩退き、間合いを剣のものに調整すると、先程は近すぎて振るえなかった軍刀を振りかぶる。が、それを振り下ろすよりも早くバネのような動きで戻ってきた雪音の上半身が、閃光のような右拳をヴィクトリアスの顔面に突き刺した。
「……!」
色眼鏡が砕け散り、同じように大きくのけ反ったヴィクトリアスは、しかし一歩も引かずその場に踏みとどまった。至近距離で剣を握る愚を悟った彼は、抜いた時と同様の速度で軍刀を鞘に収め、両脇を締める。
殴り合いが始まった。白と金の軍服の騎士と、黒尽くめの暗殺者が技もなくただ力任せに互いの拳を交える。ヴィクトリアスの腹を鞘にしていた漆黒の刀は激しい動きに合わせてするりと抜け落ちた。柄頭が床と接吻して音を立てる頃には、まるで時間を巻き戻したように外に飛び出した血が吸い上げられ、腹と背にあいた傷が塞がっている。不死身と名高い『神卓の騎士』の本領──【奇跡】の顕現だった。
「うわー、気色悪っ」
素直な感想を雪音は口にした。彼は右足を器用に使って、床に転がった刀を蹴り上げて回収しながら大きく後ろへ下がり、突如現れた銀弧を避ける。ヴィクトリアスの居合だった。
「いやー、流石は不死身の騎士様だね。並じゃない、ナイ」
唇の右端からこぼれる血を左手で拭いながら、節をつけて言った雪音は右手の刀身にちらりと目を落とす。つい先程まで人体の中にあったはずだというのに、それには一滴の血液も付着してはいなかった。全て、ヴィクトリアスの体内に戻ったのである。
ヴィクトリアスは精悍な顔に微笑を浮かべた。
「それほどでもありません。正直、私をここまで手こずらせているのは、あなたで三人目です」
誠意とも皮肉ともとれるその言葉に雪音は、あは、と笑った。
「アライヤダ、なにその余裕? っていうかさ、手こずるだけで終わると思っているんなら舐めすぎだよお前?」
雪音の爪先から空気を貫く音が走った。靴先に仕込まれていた無数の小さな針がヴィクトリアスの顔へ飛礫のように飛ぶ。これをヴィクトリアスは精密機械の動きをもって軍刀で叩き落とすが、その間隙をついて雪音の姿が掻き消えた。
ヴィクトリアスの行動はすでに決まっていた。生身による亜空間跳躍能力を持つ者の癖を、彼は知っているのだ。亜空間を跳躍できる者は必ず相手の死角に現れようとする──それは定石だった。ヴィクトリアスの背中に殺気が凝縮していく。
雪音がヴィクトリアスの背後に現れた。
「……!」
無形の気合いと共にヴィクトリアスは渾身の力を込めて、軍刀の切っ先を脇の間から背後へと突き刺した。確かな手応え、しかしやや浅い。雪音の上を行こうとしたヴィクトリアスの、さらに上を黄金色の瞳の青年は行っていた。軍刀は雪音の左の掌を貫いていたのだ。今度はヴィクトリアスが武器の自由を奪われる。
「さっきのお返し」
囁きかけるように黒塗りの刃が、再びヴィクトリアスの体内に侵入した。今度は身体ではなく、頭部に。右耳から潜り込んだ切っ先が、左耳の後ろから顔を出す。
「これで死ななきゃ、完璧アウトだなー、っと」
軽い口調で言い放つ雪音だったが、頭部を貫かれても動くヴィクトリアスの両手に気付いて顔を強張らせる。『神卓の騎士』の指の動きは、糸を紡ぐような、あやとりをしているような、意味のないものに見えた。しかし次の瞬間、その両掌が、見えない首を締め上げるような形を取った。
「がっ……!?」
いきなり気道を圧迫され、雪音は無様な呻きを漏らした。呼吸が止まる。ヴィクトリアスの手どころか、彼の喉にまとわりつくものは何もないというのに。
【奇跡】。
それがこの事象の名称だった。『神卓の騎士』ヴィクトリアス・シロウ・タクマは〈ヘブン〉教国教皇より『離れた物体に影響を与える』という【奇跡】の力を下賜されているのだ。彼の両腕は距離を超越して対象に触れることができる。そのための神経器官すら体内に形成されている。ヴィクトリアスは不可視の腕を大気に泳がせ、自らの触感、圧力、果てには刃の一撃すら遠方に届かせられるのである。メノウに言わせれば「ただ単に手が伸びているだけよ」となるが。
これもまた、不可視の手によって引き抜かれるようにして、ヴィクトリアスの頭部に突き刺さっていた黒い刃が血を一滴も纏わず、喉を押さえて悶える雪音の足元へ落ちた。
「今、何が起こっているのか理解できますか?」
ヴィクトリアスの口調は、神の啓示を語る聖者のものだった。彼は雪音の首を縛る両手をそのままに、振り返る。透明な瞳が、いっそ優しげに黒髪の暗殺者を見つめた。
「これが教皇猊下の御力です。あなたのような矮小な人間には到底及ばない力なのです。それをまず、理解してください」
雪音の姿がヴィクトリアスの眼前から消え失せ、十数メートル向こうに現れる。ヴィクトリアスの【奇跡】は距離の確認と両手の形によって固定されるため、対象が急激な運動をした場合はついて行けない場合があった。雪音の喉にかかっていた圧力が消失する。目に見えない戒めから逃れた雪音は、顔に苦さを滲ませながらも金色の瞳を輝かせ、茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「悪いんだけどサ、俺が信じるのはたった一人の女神様だけだよ。ねぇ、メノちゃん?」
刹那、まるで脳髄に雷撃を落とされたかのような悪寒がヴィクトリアスを貫いた。
「!?」
痙攣のような動きで思わず振り返ったヴィクトリアスの視線の先に、左手を上着のポケットに入れ、右手に無骨な拳銃を構えた一人の少女が立っていた。
「アナタのような矮小な人間には到底及ばない力で良ければ、これからいくらでもプレゼントしてあげるわ」
薔薇の刺を多分に含んだ言葉を『神卓の騎士』に投げつけ、ミラーシェードで瞳を隠した黒髪の少女は、引き金を引いた。
戦闘という行為を美しく見せる技術を持つ者は稀であるが、ウオッカ・ブライトンはその領域に身を置く者だった。
「そらそら、どうしたんだい? かかってきな!」
鏡面処理を施した装甲服に身を包んだ彼女は、常人ならば動けなくなるほどの重量を背負いながらも、軽やかに階段型の舞台で踊っていた。六十階に駆けつけようとする教国兵達が彼女に躍りかかるが、その全ては機関銃のように放たれる拳で叩き落とされてゆく。ウオッカの怪力をその身を以て知った者は例外なく、骨を砕かれるか内臓を破裂させられ、崩れ落ちた。
レイガンを抜き破壊光線を放った兵士は、鏡面処理を施した装甲が光を乱射し、拡散させ、虹色の光芒を描く美しい結果を見た。そしてそれが彼の最期に見る光景となる。次の刹那には彼の鳩尾にウオッカの爪先がめり込み、急所を完璧に貫かれた彼は運悪くあの世へと旅立ったのだ。
「ほらほらどうしたんだい! 〈ヘブン〉の連中はみんな腰抜けかい? このウオッカさんを止められないと痛い目見るどころか、運が悪けりゃ死んじまうよ!」
まさに鬼神の舞踏と呼んで良い、それは敢闘だった。一人に肉薄し、肘を胸に突き刺して吹き飛ばす。その先には別の教国兵がいて、不幸な彼は僚友の下敷きになる。動かなくなった仲間をようやくどけてレイガンを向けると、彼女は既に別の誰かを殴り飛ばしていて、引き金を引いた瞬間に彼の意識は銃弾のような蹴りで蹴飛ばされた。
まるで余人と比べて重力の制限が十分の一にも百分の一にも見える彼女は、飛び回りながらこう叫んだ。
「さあ、次の相手は誰だい? あたしゃちょっとストレスが溜まってるんだよ。発散させておくれ!」
不幸にも教国兵達は、金銀妖瞳の少女が彼女にそそぎ込んだストレスの八つ当たりを受けているのだった。
三メートルほどの眼下で暴れ回るウオッカを眺めながら、ジュドは上の階から降りて来るであろう教国兵を、煙草をくわえ、これまた古めかしい自動小銃を手にして待ちかまえていた。やがて足音が降りてきて、彼は煙草の煙を吐きながら銃口を斜め上へと構える。
「悪いがここは通せねえな」
瞳孔のない銀色の瞳がその真価を発揮する。ようやく六一階と六十階の間にある踊り場に着いた兵士は、出し抜けに右足の関節に激痛を打ち込まれた。立つ力を失い、駆け下りてきた勢いそのままに転がる。次いで両肩にも血を吸い上げる種を打ち込まれ、彼は一秒も経たず戦闘不能状態に陥れられたのだった。
「鉛玉はレイガンと違って体内に残る。すぐには動けないぜ」
続けて五人ほどの教国兵が頭上の踊り場に現れ、ジュドは照準を合わせる。瞬く間に三人を戦闘不能にしたが、残る二人にはレイガンを抜く隙を与えてしまった。しかし『メタル・アイ』を持つ男は『異端』の名にふさわしい超人であった。
兵士二人がレイガンを斉射する。亜光速で飛ぶエネルギービームが巨躯を貫く情景を、彼らは等しく脳裏に描いた。しかし。
「甘ぇな」
その一言が彼らの想像を吹き飛ばした。気付いたときには銀髪の大男は射線上から大きく離れた場所にいたのだった。
「馬鹿な!」
彼らはレイガンを避ける人間を初めて見たのだった。理屈でも現実でも、亜光速で空間を疾駆するエネルギービームを避けられる人間はいない。ジュドが小さな光の龍の牙をかわしえたのは、レイガンを握る兵士の手の動きと銃口の向きを先読みした結果に他ならない。
「……ったく、血生臭えのはこれっきりにしたいもんだぜ」
正確無比を誇る銀目の狙撃手は、そう言ってくわえた煙草を吐き捨てたのだった。
銃口が火を吹くと同時、ヴィクトリアスは軍刀を振り上げた。【奇跡】の刃が彼を護り、銃弾は風の神に嫌われたように弾き飛ぶ。
「あなたも私を暗殺しに来たのですか?」
「答える義理はないわ」
静かに問うた声に、メノウは氷柱の如き声で答えた。さらに銃声が重なる。これもヴィクトリアスは冷静に弾き、今度は反撃に出た。振り上げた軍刀を、勢いよく振り下ろす。刹那、空間は歪み、物理法則が書き換えられる。ヴィクトリアスの両腕の周囲の影響力は距離を超え、意識の向かう対象に影響を与えることが可能になる。しかし、
「ハーディス」
この一言が何もかもを止めた。ヴィクトリアスは己が体内にある【奇跡】の器官が停止するのをはっきりと感じた。遠く離れた大気を切り裂く感覚が失せ、彼はただ無様な空振りをする。
「……なっ!?」
ヴィクトリアスの受けた衝撃は並大抵のものではなかった。今まさに、彼が心底から信じていた神の力が、霧散してしまったのだ。
「……馬鹿な!」
常の静謐さが弾け飛び、驚愕が取って代わった。精悍な顔が引きつり、色のない瞳が大きく見開かれ、たった一つの呪文で【奇跡】をうち消した少女を凝視する。
「驚いている暇があるのかしら?」
その少女、メノウ・ヒラサカは銃身の角度を修正して、既にヴィクトリアスを照準していた。銃声が轟き、驚き戦く彼は避けようもなく、続けざまに突き刺さる鉛玉を受ける。ヴィクトリアスは大きく体をよじらせ、しばし茫然自失の時間を過ごす。やがて、
「……効きませんよ、残念ながら」
彼は微かだが笑みを取り戻して、そう言った。メノウと雪音の目の前で、銃弾が穿った孔は瞬く間に潜り込んだ金属を吐き出し、その口を閉じてしまう。
「知っているでしょう。『神卓の騎士』である私の身体は教皇猊下のご加護によって守られています。傷は付けられても、私を殺すことはかないませんよ」
「……それはどうかしらね?」
メノウの声がヴィクトリアスの自信に冷水を浴びせる。眉をひそめた藍色の髪の青年を、彼女はしばし見据えてから、口を開いた。
「形状記憶法則。ある状態を世界そのものに記憶させて、どんな要因でそれが変更されてもすぐに修正する。プロテクトプログラムみたいなものよ。わかるかしら、『神卓の騎士』様?」
ヴィクトリアスはメノウの言ったことに対し、きわめて常識の範囲内の反応をした。
「……お嬢さん、あなたが何者で、何の話かはわかりませんが、【奇跡】とは科学を超越したものなのですよ」
柔らかい中にも信心の棘を内包した口調で彼は諭したが、ミラーシェードで顔を隠した少女はそれを無視した。足元に一振りの刀と幾つもの銃弾を置いて立つ『神卓の騎士』の向こうへ、声をかける。
「雪音、ここはもういいわ。あなたはあなたの役割があるはずよ」
「了解。うまくいったらほっぺにキスぐらいしてくれるのかな?」
「ええ、楽しみにしていて」
「うわ、ラッキー! 何事も言ってみるもんだねー」
歓声を上げた雪音は、メノウに金色のウインクを飛ばすと、逃走経路を確保するために走り去っていった。彼はメノウがヴィクトリアスをしとめた後、ジュドとウオッカが逃走するための通路を防御するという大任を任せられていたのだ。
雪音の姿が消えた頃──ヴィクトリアスは気付いていないが、雪音は一切の足音を立てずに去っていた──、メノウは今更ながらヴィクトリアスに確認した。
「あなたが、『神卓の騎士』、ヴィクトリアス・シロウ・タクマ?」
「いかにも、わたしがヴィクトリアス・シロウ・タクマです。失礼ですが、あなたのお名前は?」
「通りすがりの暗殺者よ」
意外な返答に面食らったヴィクトリアスは、一瞬の間をおいて真剣な視線をメノウに放つ。
「私は、真剣に聞いているのですが」
「私も真剣に答えたわよ。何か不服でも?」
メノウのミラーシェードに移っているヴィクトリアスは、暗殺者の少女から目を逸らし、考え込んでいた。ややあって、彼は再びメノウに問いかける。
「……なるほど。では、通りすがりの暗殺者の方。もう幾つか、お聞きしたいことがあります。よろしいでしょうか」
溜息とも吐息ともとれない息を一つ、メノウは吐いた。
「そんなに冥土の土産が欲しいのかしら?」
「まあ、そういうことにしておいてください。……もしかすると先程の男性は、『闇十字』の方ではありませんか?」
「さあ、興味ないわね」
メノウの返答はどこまでも素っ気ない。ヴィクトリアスは落胆の息を吐く。
「……これもだめですか。では、これが本題なのですが……あなたは何者なのでしょうか?」
ヴィクトリアスの両目が、鋭く細められた。透明な瞳から迸る視線は、まさに不可視の刃である。『神卓の騎士』の眼力は物理的な圧力すら伴い、メノウを釘付けにしようとする。
「今先程、あなたへ向けたはずの私の【奇跡】が顕現しませんでした。……そう、あの時、あなたは確かに私の【奇跡】をたったの一言でうち消した。一体、なにをしたのですか? 正直、思いもよらないものを見て、私は混乱の極みにあります」
メノウは嘲笑も浮かべず、淡々と呟く。
「その割には随分と口が動くのね」
「動揺しているからこそです」
「なら、もっと動揺させてあげるわ」
メノウは右手の拳銃を懐にしまい、次いで、その手をヴィクトリアスに向けて突き出す。
「?」
ヴィクトリアスの目が訝しげに細められた時だった。彼の右耳が何者かに抓まれ、引っ張られたのは。
「……っ!?」
耳の辺りを飛び回る蝿を払うような動作をヴィクトリアスはしたが、その手に触れる物は何もなかった。直感が、彼の脳裏を一閃する。
「まさか……?」
少女を見ると、その右手は、何かを抓んで引っ張るような形をしている。距離を超えて、ヴィクトリアスの右耳を引っ張っているのだ。
驚きのあまりに目を剥いた『神卓の騎士』に、メノウは冷淡に告げる。
「いつまで不死身の特権階級にいるつもり? ヴァンパイアにも天敵はいるのよ。今日は、あなたが狩られる番」
メノウが手を開くと、途端にヴィクトリアスの耳は自由になった。白い、彫刻では再現できようもないしなやかな手が、再び拳銃を握る。無骨なフォルムが不思議とよく似合う。
初めて、メノウの声に感情がこもった。
「ブツクサ言わず、死になさい」
出し抜けに自分に向かって駆け出した少女に対して、ヴィクトリアスは得体の知れない恐怖を感じた。心臓を掴まれるようなこの純粋な感情を、彼は『神卓の騎士』になって以来、初めて思い出した。冷静さが瓦解し、軍刀を握る掌からどっと汗が噴き出した。
一秒も必要とせず彼我の距離を詰めたメノウは、拳銃をナイフのように使う。銃身を刃として、ヴィクトリアスへ突き込む。
ぎちり、とヴィクトリアスの全身の筋肉が軋んだかと思うと、軍刀が飛び跳ね、拳銃の前に立ちはだかった。金属同士が噛み合い、大きくいびつな音を立てる。激突の衝撃に震える右手に構わず、メノウはそのまま引き金を引いた。
鉛玉がヴィクトリアスの右膝を食い破るが、彼は表情を変えず、苦悶の声すら漏らさない。痛みには慣れている。しかし、膝を損傷したため右足に力が入らず、体勢が崩れた。視線が下がる。ヴィクトリアスは左手を、軍刀と噛み合う金属の塊に伸ばす。拳銃を奪おうとしたのだが、その掌は二つの銃声によって粉々に千切れ飛んだ。しかし、彼にはもう一つ、目に見えない手が残っている。
意識を集中し、見えざる神の手で拳銃を握ろうとしたヴィクトリアスは側頭部をメノウの拳に勢いよく殴られる。視界がぶれ、彼の【奇跡】はフック一つで遮られた。
すぐに傷は再生するはず──再生速度を身体で覚えている青年は再び千切れ飛んだ左手をメノウに向けようとして、異変に気付く。
肉体の再生が始まっていない。
「!?」
手首から先のない左腕が空を掻く。ヴィクトリアスは床に右膝をついて、咄嗟に左足で床を蹴り、背後に転がった。それは間合いを開く逃げの手だったが、彼の敵は見た目より甘くなかった。
「遅いわね」
その声は逃げようとする方向から聞こえた。廊下の上を一回転したヴィクトリアスは着地した途端、背中に何かが触れるを感じた。感触からして、それは靴底だった。
「……!」
しゃがみこむ形となったヴィクトリアスの背を、メノウが靴底が受け止めていたのだ。
──いつの間に!?
亜空間跳躍、という単語が閃いた瞬間、衝撃を伴う鈍痛がヴィクトリアスの背中に炸裂し、彼は床に這い蹲った。それは、ありうべからざる光景だった。代々〈ヘブン〉において名声と栄光の花束を両手に携え、羨望という名のスポットライトを浴びてきた『神卓の騎士』が地面にはいつくばり、その白い軍服に泥を塗るとは。この瞬間、天上にいる『神卓の騎士』の犠牲者達が喝采を挙げたことであろう。
「『神卓の騎士』っていうのは、【裏技】がなければ二流の賞金稼ぎ並の小物を指すのかしら? 期待を裏切らないで欲しい物ね」
傷が塞がらない、あふれ出す血が止まらない──【奇跡】が自分を守護していないという事実が、ヴィクトリアスを急かした。彼は背後を振り向きもせずに体を起こし、もはや殺気を隠さない軍刀の一撃をメノウがいるはずの空間へ叩き込む。
神速の一撃をメノウは拳銃の銃身で受け止める。
「ぁああああああッッ!」
手足を縛る不可視の鎖を振り払うように、ヴィクトリアスは裂帛の気合いを一つ。力の入らない右足を引きずりながら、右腕一本だけで猛然とメノウに斬りかかる。
ヴィクトリアスにとって眼前の少女は、黒い翼を広げた堕天使だった。少女は豪風をいなすようにヴィクトリアスの刃を、剣に比べて小さな拳銃だけで受け止め、薙ぎ払い、受け流しては、巻き込む。その動作には恐怖心の欠片も見られない。
それでも彼の連打はメノウを追い詰めており、たまらなくなったメノウは横に逃げ、ヴィクトリアスとの距離を開いた。
その瞬間からヴィクトリアスの身体は驚異的な再生を始める。流れ出た血が全て体内に戻り、飛び散った肉片は時を逆行するようにして、元の形へと戻った。左手と右膝に感覚がよみがえる。
「これは……」
力を取り戻した肉体を呆然と見下ろすヴィクトリアスの耳に、メノウの溜息が届いた。
「あなた、自分が使っているモノのことも理解していないの? 呆れたものね。それとも、あなたの敬愛する教皇猊下野郎は何も教えてくれなかったのかしら?」
「教皇猊下を愚弄することは許しません」
「好きにすればいいわ」
遮断するように走ったヴィクトリアスの言葉を、まるで枯れ葉のようにメノウは一言で吹き飛ばす。
──彼女には【奇跡】は届かない。そして、近づいていると肉体は再生しない──
ヴィクトリアスはそれらの事実を胸の内で反芻する。
彼は常人より優れているとはいえ人間であり、全知全能ではなかった。故に彼の与り知らぬ事ではあるが、メノウの半径二メートル以内は彼女のラップトップパソコン『ハーディス』の行使する【裏技】によって、全ての物理法則にプロテクトがかけられているのだ。よって彼の中にある【奇跡】の器官は周囲の物理法則を書き換えること叶わず、数多くの背信者を屠ってきた不可視の刃も、いかなる傷をも修復してきた再生能力も、メノウの前では顕現を許されないのである。
しかし、ヴィクトリアスにすれば単純に一つの真実がわかれば、それでよかった。
──彼女の前では、教皇猊下の前に立つように、私はただの人間なのだ。
そういった思考は覚悟に繋がった。思えば、自らを護る【奇跡】の力に頼りすぎていた。いや、自惚れすらあった。自分は死なない、傷ついてもすぐに治る──と。結果、金色の瞳の暗殺者にも、眼前の少女にも、通常ならば何度命を奪われていることか。
これは愚かにも自己過信してしまった自分に対して、神が与えたもうた試練なのだ。
軍刀を構えるヴィクトリアスから隙が消えるのを、メノウはミラーシェード越しに見ていた。そうでなくてはいけない、と彼女は胸の内で囁く。多くの反逆者に恐れられてきた『神卓の騎士』なのだ。与えられた再生能力に依存しているだけの者を殺すだけならば、ここまで来た甲斐がない。あの教皇猊下と呼ばれている男に認められたほどの能力を見なければ意味がない。その為にメノウはこの青年を殺しに来たのだから。
そう、誰にも成し遂げられなかったこと──『神卓の騎士』を殺害すること──を、自分ならば果たすことが出来る。だからこそ、メノウにはヴィクトリアスの本領を知る資格があるのだ。
メノウが拳銃から空薬莢を抜き、弾倉に新しい弾丸を装填しようとしたとき、彼女の身体はその意志に反して動いていた。背後へ飛びしざる。ミラーシェードが二つに別れ、視界が明瞭になってから、メノウは自身が動いた理由を知る。
ヴィクトリアスが目の前にいた。足元からすくったように、軍刀を振り上げている。
「……亜空間跳躍?」
薔薇色の唇からこぼれ出た皮肉は、真っ二つに切り裂かれたミラーシェードが、床と接吻する音にかき消された。磨き上げたブラックダイアの如き右目と、蒼穹を曇りガラスで包み込んだかのような左目が露わになる。メノウは手首の力だけで拳銃をヴィクトリアスに投げつけるが、小さな鉄塊は銀色に光によって壁に叩き付けられた。苛烈な斬撃がメノウに迫る。
「──異端?」
「あなたに言われたくないわね」
メノウの右手に超硬セラミックの戦闘ナイフが現れていた。少女はあくまで左腕を上着のポケットに隠したまま、ヴィクトリアスの剣を受けた。雪音ほどではないが、メノウの技量も並ではない。が、ナイフと軍刀の長さの差、また、女と男の腕力の差がこの場合は大きい。あっという間にメノウは壁際へ追い詰められる。はずだった。
燕のように軽やかに動く少女の背が壁に触れた途端、沈み込んだ。
「!」
物質透過。本来ならばメノウの眉間を貫くはずだった切っ先は、ただ壁に細い溝を穿つ。メノウの姿は壁の向こうへ完全に消えた。
だが、
「逃しません」
ヴィクトリアスの軍刀の切っ先が、壁の中へ埋まっていく。尋常ではない膂力が分厚い壁を切り裂いているのだ。さらにメノウから離れたため、彼をとりまく【奇跡】が息を吹き返し、不可視の刃が壁を完全に貫いた。実体と虚像を合わせて二倍の長さを得た剣は、コンクリートと鉄と音響吸収素材をまとめて丸く切り抜く。
壁の向こう側からその光景を見たメノウは、ぼそりと呟く。
「意外と力押し馬鹿なのね」
何もあちらが壁の切り抜いた部分を押し込んでくるのを黙って見ていることはない。メノウはすらりと長い足を、壁に描かれた円の中央へ勢いよく叩き付け、靴底で押し込んだ。ヴィクトリアスの軍刀の切れ味は余程のものだったのだろう、予想以上に滑らかに壁は廊下へ蹴り飛ばされていった。
開いた大きな穴の向こうに、しかしヴィクトリアスの姿はない。斬撃の気配が、メノウの左側に突如として現れ、少女は反射的に飛び跳ねる。風を切る音より速い銀色の弧が、メノウの左脇腹をかすった。ラップトップパソコンとメノウの左手を隠していたポケットが削り取られる。メノウは小さく舌打ちする。
「気付いていないとお思いでしたか?」
壁にもう一つ窓を作って室内に身を移したヴィクトリアスは、いっそ無表情に言い放った。彼の色素の薄い瞳と、メノウの金銀妖瞳の視線がかち合う。
「いい気になるにはまだ早いんじゃないかしら?」
メノウは空中でナイフとラップトップパソコンを素早く持ち変える。それと同時に前へ出てヴィクトリアスに斬りかかった。その時だ。爆音が衝撃となって二人の身体を揺るがせたのは。
「「!?」」
後になって判明したことだが、この爆発は雪音が最後に仕掛けた爆弾に依る物だった。彼曰く「いやー、実はここを脱出した後にトドメの一発と思って仕掛けてたんだよ? でも、まさかあんなに早く爆発するなんてさぁ。雪音ちゃんビックリ。あははは」、台詞の後半がジュドの怒号によって掻き消されたのは言うまでもない。
原因がどうあれ、『神卓の騎士』と金銀妖瞳の暗殺者は震動に体勢を崩す。そして二人は、互いの隙を見逃すような愚者ではなかった。ヴィクトリアスが無理な体勢から軍刀を無秩序に振り回し、その軌道上にあったメノウのナイフが弾かれ、【奇跡】の剣が少女以外の全てを切り裂く。武器を失ったメノウは、それでも右手にラップトップパソコンを握ったままヴィクトリアスに肉薄し、左の掌底をヴィクトリアスの喉へ叩き込む。
刹那、床が割れた。床だけではない、壁も天井も、室内にあった全てのものに線が走り、次の瞬間にはパズルのように崩れた。当然、メノウとヴィクトリアスは重力に引かれ、瓦礫と共に落下する。
爆発によらない轟音が去り、瓦礫の中で形勢を制していたのは、ヴィクトリアスだった。
六一階から五九階まで吹き抜け構造になった巨大な穴の底で、瓦礫の山の上で、青年と少女は折り重なって倒れている。形としてはヴィクトリアスはメノウを瓦礫から救ったことになるが、それ以上に危険な物をメノウの喉元に突きつけていた。
粉塵にまみれてなお輝きを失っていない刃が、メノウの喉にあてられている。既にミリ単位で皮膚を裂き、微量の血が刃先を流れていた。一方、瓦礫に全身を殴打されたヴィクトリアスの軍服は至る所が敗れていたが、赤い染みなどはなかった。幾つもの鋭い瓦礫が彼を傷つけたが、全ては砂時計が逆流するように治癒したのだった。
「……何をためらっているのかしら?」
自らに覆い被さったまま微動だにしない青年に、メノウは黒と青の瞳から冷たい視線を投げかける。落下時の衝撃により、彼女は両手に持っていた武器を手放していた。二つとも、彼女らが倒れている瓦礫の山の裾に転がっている。『ハーディス』による【裏技】の加護も、ナイフによる殺傷能力をも失ったメノウは今、完全な死に体だった。
「いえ、これだけは聞いておきたいのです」
「甘いのね。そうやって余裕を見せていると痛い目を見るわよ」
「ええ、あなたのお知り合いにも同じような事を言われました」
ヴィクトリアスは微笑む。その表情が彼の優位の確定を、何よりも雄弁に語っていた。
「しつこいようですが、貴女の正体に私は興味があります」
「女を口説くのには、時と場合が肝心よ。最低ね」
「真面目に答えて下さい」
メノウの喉に掛かる刃に力がこもり、新たな血が刃先を滑り、切っ先からしたたり落ちる。それでもメノウは表情筋を一ミリも動かさず、ただ冷然とヴィクトリアスの瞳を見据えている。黒い右目と、青い左目がまるで運命の流れを見定めているかのように、静かに『神卓の騎士』を見つめている。ヴィクトリアスはその視線に胸をかき乱される。
──何を、一体何を考えているのでしょうか、この少女は……?
第三者から見れば一秒にも満たない、しかしヴィクトリアスには永遠にも感じられた沈黙の後、紡がれた言葉はこうだった。
「しつこい男は嫌われるわよ?」
軍刀が走り抜けた。風を裂く音が鋭く鳴り響く。振り抜いた白刃から鮮血が飛び散り、半瞬を置いて、メノウの真っ白な喉から真っ赤な血液が迸る。
自らの喉から噴き出す血を無視して、少女は動いた。
「なっ……!?」
馬鹿な、その言葉を喉から押し出すより早く、ヴィクトリアスは気管を潰された。軍刀を振り切って無防備だった彼の顎の下に、メノウの右肘が突き刺さる。止まらない血飛沫がヴィクトリアスの軍服を染めていく──後から、時の王が現実をやり直させるように命令したかの如く、飛び出した血が逆流し、メノウの喉元へ戻っていく。
「……!」
愕然とする以外、ヴィクトリアスに術はなかった。
疾風のようにメノウはヴィクトリアスの懐から脱出し、瓦礫の一つを手にとり、青年の頭を殴りつけた。激痛がヴィクトリアスの頭を貫通するが、傷はすぐに消え、すでに気管も回復している。それよりも彼は目に見た光景に唖然としていた。右手に衝撃が発生して軍刀を手放してしまう、それでも彼の意識は脳裏に焼き付いたものに釘付けだった。
「……何故!」
あまりの理不尽さに我知らずヴィクトリアスは叫んでいた。彼女の【奇跡】の源が、上着の中に隠されていたラップトップパソコンであることに、間違いはなかったはずだ。事実、あれを手放した少女に近寄っても、ヴィクトリアスの【奇跡】は眠りにつかなかった。今も神の加護は彼を愛撫し、傷ついた身体をすぐに癒してくれる。
「──なのに何故!」
その神の加護が彼女まで癒すのか!
顔を上げたヴィクトリアスの視線の先に、『異端』の少女が立っている。彼と同様、身につけている服は所々破れ、泥に汚れているが、まったくの無傷だ。その右手に、手放したはずの拳銃が握られている。瓦礫の中から探し出してきたらしく、既に汚れた弾倉には新しい弾丸が装填されている。
ヴィクトリアスはもはや憎しみすら込めて、メノウを見上げ、睨んでいた。彼の精神の地平は、決して穏やかな丘陵だけで成っているのではなかった。そこには僅かながらも、荒野と渓谷が存在するのである。彼は今、その一面を露わにしていた。
「言ったでしょ? 余裕を見せていると後悔するって。あなた、学習能力がないのね」
ラップトップパソコンはまだヴィクトリアスの足元にある。やや高い位置から見下ろす形になったメノウは視線でそれを確認してから、不意に左手を顔の前に挙げた。
どんな精巧な糸でもかなわないその黒髪。天才彫刻家を持ってしても再現できない鼻梁と唇。美の神が全身全霊を尽くして守っているのであろう、白皙の肌。
美貌の少女の拳銃を握っていない方の手が左目にかかり、下ろされると、その掌には蒼く曇ったカラーコンタクトが現れていた。
「……!」
ヴィクトリアスは生唾を飲み込んだ。彼の精密な頭脳を持ってさえ、目の前にある現実は許容範囲を超えていた。光のない閃光と、感触のない衝撃とが彼の意識を漂白していた。そんなバカな、そんなバカな、と叫ぶ自分の声が頭蓋骨の中で反響しているようだった。
震える声を、ヴィクトリアスはようやく絞り出した。
「……馬鹿な……あなたは一体……」
「言ったはずよ。通りすがりの暗殺者、とね」
宇宙を凝縮したような美しい瞳が、そこにはあった。
この時のヴィクトリアスには、鉄面皮だと思っていた少女が、初めて口元に笑みを浮かべたように見えた。
黒い宝石の中に、散りばめられた極彩色の輝き、瑠璃色に揺らめく光彩。華美な修飾が無駄に思えるほど、ただただ、美しい瞳。
神の瞳。
今、彼は理性ではなく、本能で全てを理解した。誇りを蹂躙されたような理不尽さは消え去り、爽快な説得力が取って代わっていた。
全ては当然のことだったのだ。
抗しようのない脱力感が全身に広がっていくのを、ヴィクトリアスは感じた。時と運命を司るものがいるとすれば、それはきっと、年老いた魔女のような顔をしていることだろう。【奇跡】の腕で拾われようとしていた軍刀が、瓦礫の上に落下して情けない音を立てた。
「教皇猊下……」
力無く、救いを求めるようでも思いを込めるようでもなく、その名を呟いたヴィクトリアスに、メノウは指さすような仕種で銃口を向けて引き金を引いた。右肩、右胸、左胸、左肩と畳みかけるように鉛玉がヴィクトリアスの身体を捻り貫き、着弾の衝撃が身構えもしなかった彼を退かせる。『聖なる加護』に守られた男が三歩後退すると、メノウは風のように間合いを詰めた。瓦礫の山を滑り降り、左足でナイフの刃を踏み、右の爪先をラップトップパソコンの下に差し込んで蹴り上げる。浮き上がった『ハーディス』を左手で掴む。
手を伸ばせば届く距離に、ヴィクトリアスがいた。色のない瞳で、無表情ではない透明な表情で、メノウを見下ろしている。
音響吸収迷彩を施されたラップトップパソコンは主の手の中に戻った途端、再び本領を発揮し、メノウの周囲の物理法則を固定させる。この瞬間から見えざる神の手は、現実の軍靴の下に組み敷かれる。
抵抗のそぶりを見せないヴィクトリアスの額に、メノウは銃口を突きつけた。本来ならば、これほどの近距離であればメノウが引き金を引くより早く、ヴィクトリアスの腕は銃身を掴んで銃口を逸らせることが可能である。しかし、そういった気配をメノウは感じなかった。
「……つまらないわね。『神卓の騎士』というのはこの程度だったの?」
心の底から退屈そうな、メノウの声だった。答えるヴィクトリアスの声は、穏やかだった。
「ええ。今の私は、あなたに刃向かうほど愚かではありません」
「まるでパブロフの犬ね。この目を見ただけで赤ん坊以下だわ。そんなにコレが恐いのかしら」
「いいえ」
けぶる様な微笑を浮かべて、ヴィクトリアスは首を横に振る。
「自分の宝物を自ら破棄する者はいません」
「随分な勘違いね。私をどこかの誰かと間違えてないかしら」
「何処かで見たような気が、しないではなかったのですよ。あなたの顔を」
焦点の合わない、どこか遠くを見つめるような視線をメノウの左目にそそぎ込むヴィクトリアスは、額に向けられた銃口など意に介していないようであった。
「お嬢さん、あなたはまだ知らないのでしょう。気付いていないのでしょう。あなたは間違いなく神の御子。この世の次世代を担う──」
「それ以上くだらないことを言わないで欲しいわね。反吐が出るわ」
吐き捨てたメノウに、それでもヴィクトリアスは微笑みを絶やさない。その瞳が、全てを見透かしている、と主張しているように見えて、メノウは不快感を禁じ得ない。蒙昧な宗教信者を、メノウは心の底から嫌っている。彼らは自らの妄想の世界に生きており、その外からの言葉には耳など向けないのである。小さく溜息をつき、もう殺してしまおうと決めた。
引き金に掛かった指に力がこもる。
「私を殺すのですか?」
唐突な、しかし静かな問いに、メノウはつまなさそうに答える。
「ええ、そういう依頼なの」
「考え直して下さいませんか?」
「今更命乞い?」
氷の剣の如き視線が、ヴィクトリアスの顔に突き刺さる。
「違います。あなたは、人を裁くのは人であるべきだと思いますか?」
「あなた達は神が裁くべきだと言いたいんでしょうね」
「その通りです。人には、人を裁く権利も、殺す権利もありません。資格もありません」
「つまらないお説教ね」
「聞いて下さい。本来、人と人は殺し合う生き物ではないのです。人は平等であり、対等なのです。人には、他人を殺す権利や資格など、持ち合わせていないのです。ですから──」
「詭弁ね。しかも偽善だわ。良いことを教えてあげる」
微笑を、メノウは微笑を浮かべて、拳銃の撃鉄を上げた。世にも美しい二つの宝石が、現代の騎士の顔を見つめている。その視線に脳髄を貫かれて、ヴィクトリアスは指先一つ動かせない硬直状態に陥る。理由は、わからない。
紅い唇が、言葉を紡いだ。
「権利だとか資格だとか……この引き金を引くのにそんなものは必要ないのよ」
しなやかな指が、引き金を引いた。
全身に返り血を浴びたメノウは、ヴィクトリアスの身体が倒れる前に地面に膝をついた。頬を伝う血が透明な汗に薄められている。口を開くと、途端に荒い息がこぼれ出てきた。
荒れ狂う嵐のような脱力感と、メノウは闘っていた。睡魔が足首に手をかけて、意識を深淵へと誘おうとしている。言葉に出来ない空腹感が、目眩を引き寄せている。『ハーディス』の補佐無しで【裏技】を使用した結果であった。
生身による【裏技】の使用は、使用者に途方もないエネルギーを要求する。この世界の物理法則を局所的とはいえ書き換えるためには、まず公式に則った計算が必要なのだが、メノウは普段はその計算を手元のラップトップパソコン『ハーディス』に任せているのだ。しかし、『ハーディス』がない場合は、その領域を脳内に開放して割り当てなければならない。これにより脳は極限状態まで活動レベルを上昇させ、体内のエネルギー──糖分、塩分、アミノ酸など──を次々と消費してゆく。これを防ぐためには人体を動かすエネルギーを別の者へと『書き換えれ』ば良いのだが、メノウはそこまで手を回すことが出来なかった。
「……やれやれ、ね……」
顔についた返り血を拭うのも億劫だった。メノウは震える手でラップトップパソコンを開き、キーを叩くと言うよりつつくようにして短い文章を作成し、ジュドの携帯端末へと送った。
『先に帰る』
送信完了も確認せず、突風に吹かれて消える蝋燭の炎のように、メノウは姿を消した。
後には、頭部を失った男の死体だけが残されていた。
record.3 ジ・ゴッズアイ
無事に『HEAVEN’S BETRAYER』へと帰還したジュドは、二四時間ぶりに愛用のシートへ腰を下ろしていたが、その顔は憮然としていた。
「まあ、こうやって仕事も無事終わって、金ももらって、万々歳と行きたい所なんだが、一つ言いたいことがある」
「ああ、そう」
ソファに座って煙草を吸っているメノウが、適当な相づちを打つ。睡眠と食事と風呂を済ませた彼女は、白のカジュアルシャツと黒のスマートパンツというシンプルな服装に着替えていた。
ジュドは不機嫌これ極まりといった態で、メノウの対岸に座るチャイナ服の女性を指さした。
「なんで、そいつが、ここに、いるんだ」
プロテインドリンクを飲んでいたウオッカ・ブライトンは、常人の二倍は太い指を突きつけられて、憮然と唇を尖らせた。
「なにさ、けちくさい男だね。別にひとりぐらい増えたって構わないじゃないか」
「構うわ! さっさと出て行け!」
「ジュド、もう宇宙に出ているわよ」
「放り出せ! この艦にはお前と雪音だけで手一杯だ!」
「そういえば、雪音は?」
ウオッカの持ち上げた質問に、メノウはつまらなさそうに答える。
「SP1に残ったわ。後で合流するって言っていたわ」
「金はどうしたんだ? あの嬢ちゃんの目を売り払った金は」
「私の口座に振り込ませてあるわ」
「なんだい、ならちょうど一人分あまってるじゃないか。ちょっとぐらいいいだろぅ? 同じ『異端』同士仲良くしようじゃないか」
「やかましい! いいから次の港で降りろ出て行け二度と顔を見せるな!」
「なんだってぇ!? さっきから聞いてりゃ言いたい放題言ってくれて! あんた──」
ジュドとウオッカの低次元な口論を耳の端に捉えながら、メノウはスクリーンを一瞥した。
そこに映っているのは、大きな瞳孔をあけられた月と、大きく膨らんでしまった地球。「まるで風船を見守る化け物の目だ」と誰かが言った、その光景だ。
マスクメロン型に変形した地球を見つめる黒と青の金銀妖瞳には、感情の揺れは見いだせない。
しばらく黙ってスクリーンを眺め、二人の口論に参加していなかったメノウだが、不意にぽつりと、二人の動きを止める言葉を言い放った。
「そういえば、ウィリアム・エーディルは?」
――完
ご愛読ありがとうございました。
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