■record.Ⅱ カミカゼ・ロックンロール
「女の子とお姉さんとおばさまとおばあさん、つまり女性に危害が加えられるのを黙って見ていられない性分でさ」
肩口まで届く黒髪に、目を隠す漆黒のゴーグル、黒のタートルネックセーターに同色のスラックスという、およそ肌色と黒だけしか身に纏っていない男は、飄々と言い放った。細めの長身で、背景とのコントラストも手伝い、きりりと見える青年だった。口元に微苦笑を浮かべている。
ふざけているのか本気なのか判別しがたい言葉をかけられたのは、人気のない裏通りで二人の男女を囲んでいた軍服の男達だった。黒を基調として金を散りばめた華麗な軍服に身を包んだ四人の男の内、二人が青年の声に振り返った。一人が口火を切る。
「何者だ。我々は現在任務遂行中の……」
「いや、ほら、あたしってばフェミニストだから」
「──!?」
声はすぐ横から聞こえ、男達は身体に電流を流されたように振り向いた。黒髪の青年は先程いた場所から、音もなく、気配もさせず、いつの間にか彼らのすぐ側にまで来ていた。
「もちろん野郎は論外だし、軍人っていうのは諸々の事情で大嫌いでさ」
「貴様ッ、邪魔だてすると──!」
「邪魔だてすると何?」
「ぐえっ……!」
威嚇として怒声を上げた兵士の喉を、青年は右手で無造作にひっつかんだ。二人の身長差は頭一つ分あり、兵士は抵抗空しく持ち上げられ、宙で無様に暴れる羽目になる。
「貴様……我々が〈ヘブン〉と知っての狼藉か!?」
「貴様貴様ってうるさいしー、どうでもいいけど狼藉って難しい言葉よく知ってたよね、あたしってば」
「貴様ぁっ!」
残る三人の兵士がレイガンを抜いた。それを見越していたように青年は右手に掴んだ兵士を盾にし、次の瞬間、前に押すようにして投げ飛ばした。人間一人の体重をぶつけられた三人の兵士はたまらず転倒する。
「まったく、ここまで言ってもわっかんないかなぁ? つまり野郎は消えちゃいなさいってこーとー、おぅけぃ?」
いつの間に掏ったのか、青年の左手には先程持ち上げられていた兵士のレイガンが握られていた。銀色の銃口が、地に伏せた四人の兵士を見下ろす。
「ま、まて」
「〈ヘブン〉の神様に祈りなよ」
無慈悲な道化師のように言った青年は、躊躇いなく引き金を引いた。
兵士に囲まれていたのは二人の男女で、男は二十歳になるかならないか、女は小さく見て小学生、大きく見ても中学生がせいぜいだろう。二人とも黒褐色の皮膚、縮れた頭髪、幅広い鼻という特徴を持っていて、黒色人種の兄妹であるのは疑い得ない。顔の筋肉を強張らせた兄は妹を背に隠して、強硬にも青年を睨み据えていた。
「いやあ、お嬢ちゃん、大丈夫だったかな? 恐い恐いお兄ちゃんは退治して上げたから、安心してお礼のキスでもしてくれると嬉しいなっ」
中腰で妹と視線を合わせた青年は、あっけらかんと笑った。そんな彼のすぐ足元には四つの死体が転がっており、初めて殺人の現場を目にしたのであろう、幼い少女の顔は恐怖に凍り付いていた。
小さい妹を守るように兄が青年との間に身体を入れて、ゴーグル越しの視線を遮断した。その行為に対して青年は唇を尖らせた。
「あ、何? 恩人に向かってそーゆー態度とっちゃうの? いやーん、世の中って恩知らずが多いのねぇ」
「た、助けてくれたことには礼を言います。けど、セリアには近づかないで欲しい……」
絞り出したような兄の声は、どうしようもなく震えていた。言葉とは裏腹に表情にも青年に対する嫌悪と畏怖とが見て取れた。
「へぇー、セリアちゃんって言うんだ、可愛い名前だねぇ。あ、俺、雪音ね。ハンドルネームなんだけどさ、よろしく。ああ、そうそう、名刺があるんだよね、ほら」
雪音と名乗った青年はスラックスのポケットからサイフを取りだし、中から名刺を二枚抜いてそれぞれを兄妹に手渡した。兄妹はそれを素直に受け取り、雪音は胸に手を当てて、あは、と笑い、自慢げに言った。
「賞金稼ぎとか用心棒とか暗殺とかやってるから、よかったら訪ねてきてね。可愛い女の子にはサービスするし、『身体で払う』ってのもアリだからさ。ちなみに守備範囲はかなり広いからもう少し成長してからでもベリグねっ」
親指を立てて見せた黒尽くめの青年は、やはりあっけらかんとしていた。目の前で殺人を見せられた二人にとっては、ぞっとするような言い種だったであろう。人殺しでも請け負う──その言葉に嘘はなかった。
「それじゃ、気を付けて帰りなよ」
そう言い残して雪音は颯爽と踵を返した。彼の背中を見送った後、兄妹はそろって手元の名刺に目を落とした。そこにはこう書いてあった。
〔愛の伝道師 雪音 合い言葉は『HEAVEN’S BETRAYER(天国の嫌われ者)』〕
ガニュミードは木星に知られている衛星の七番目、かつ最大の衛星である。ガニメデとも呼ぶ。ギリシャ神話においてガニメデはトロヤ国出身の類い希なる美少年で、彼を気に入ったゼウス神が神々の酌をさせるために天界へ連れ去ったという。ガニュミードの側には彼の次に大きいカリストがいる。カリストはゼウスに愛されたが、ヘラの嫉妬を受けて熊に変えられた妖精である。カリストはガニュミードと違って多くのクレーターを纏っており、その中で最大のものが『ヴァルハラ』と命名されていた。
ヴァルハラはその名が由来してか、〈ヘブン〉の聖地と定められており、宇宙統一国家〈ヘブン〉を統べるオーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラなる人物を崇めることが盛んな街だった。そのような場所は無論『異端』に関する目も厳しいため、治安はよいのだが、要するに蒙昧な狂信者の中に好んで入る『異端(悪魔)』はいないということである。
「聖地と言えば聞こえは良いけど、要するに『こっからここまで俺の領地』と言っている子供のようなもんじゃないか。宇宙を統べたほどの者がそんなことにすら気付けないなんて、情けない奴に支配されたもんだよ、我々も。……だけど、そんな情けない奴に敗れた我々は、情けない以上に愚かなのだろうね……やれやれ」
かつて『復讐軍』と名乗っていた地球軍においてブリッツ方面司令部最高司令官を務めたタモツ・ミキヤス元帥は晩年にそう語ったという。
危険極まりないカリストを避けた『HEAVEN’S BETRAYER』はガニュミードのトロヤ宇宙港をも避けて、『ゲイの神様』という名前の小さな宇宙港に停泊していた。『ゲイの神様』とは言わずもがなゼウスを指す。そこは、『HEAVEN’S BETRAYER』のような艦を相手に商売をする、隠れた港だった。法外な場所につき、その値段も法外ではあるが、〈ヘブン〉に刃向かう者、〈ヘブン〉に追われる者にとってはなくてはならない場所である。
木星近辺は基本的に〈ヘブン〉が宇宙を統一するまではほとんど手をつけられていなかったため、どの街も火星や月のものより比較的若い。だからだろうか、歴史の浅い木星近辺は新しいものを創って行こうという活気に満ち満ちていた。だが、抑えきれない人々のエネルギーは眩い輝きを放つと同時に、どうしようもなく影の部分を生んでしまうのである。故にガニュミードには聖地のすぐ側であるにもかかわらず、不実な無法者の集まる地帯が存在する。その名も『ブラックダイヤモンド』と言い、荒くれ者達は『天国と隣り合わせの地獄』と呼んでいるのだった。
いくつかの店と行きつけの酒場に顔を出した雪音は、予定より大分遅れて現在の拠点『HEAVEN’S BETRAYER』へ足を向けた。雑然とした街の通りを歩きつつも、雪音はスラックスのポケットから携帯端末を取り出して艦に通信回線を繋いだ。
「遅えぞ! なにやってやがる!」
「うっわー、いきなりオヤジが出るなんて最悪」
小さなディスプレイ一杯に映ったジュド・ホルスゲイザーのサングラスに、雪音は心より神の采配を呪った。
「相手が俺だと何か不満でもあるってのか? あぁ?」
「俺の女神様はどこー、オヤジ消えてー、ってなわけでメノちゃんは?」
「相も変わらずイヤミな女ったらしが……メノウなら厨房でメシ喰ってるよ。お前の客と一緒にな」
「客? どんな?」
「黒色人種の兄妹で、かたっぽは二十歳前後、もうかたっぽは十四・五だ。少し前にお前から名刺をもらったとか言っていたが?」
「あ……ああー、あの子たちね、はいはい、なーるほど。いやぁ、お早いお着きで」
「お前が遅ぇんだよクソッタレ、指定の時間から一体いくら経ってると思ってやがんだ!」
「あたし、過去は振り返らない主義なのよぅ」
「ああもう、カマ言葉を使うな、気色悪い!」
「気にしない、気にしなーい」
とにかく「すぐに戻る」との旨を伝えて通信を切った雪音は、そのしりから近場の酒場に足を運んで一杯の黒ビールを注文したのだった。
「やっぱブラックダイヤの黒ビールはおいしいね、マスター。俺、これから黒人の子達と会うんだけどさ……黒人と会うだけに呑むのは黒ビール……なんちゃって、あはははっ」
つまらないジョークに無論、バーテンダーも近くにいた客も、誰も笑いはしなかった。
「僕はトニー・ドリューと言います。こっちは妹のセリア・ドリューです」
トニーと名乗った若者は、自分の背後に隠れている妹のセリアを前に押し出した。
「ほら、セリアも挨拶するんだよ」
セリアという少女は背が低く、幼い顔立ちをしている。彼女を見る者は多く見積もっても一五歳ほどと見て、しかし同時に八歳や九歳という回答に身構えるだろう。
「…………」
しばしの沈黙の後、セリアはそのままお辞儀をした。トニーが言うには、彼女は失語症であるらしかった。また、若者は一九歳で、少女は一三歳だという。トニーは白のポロシャツと焦げ茶の綿パンツ、セリアはフリルの多くついた可愛らしいピンクのワンピースという格好をしていることから、良家の出身であることが推し量れた。
『HEAVEN’S BETRAYER』の食堂から艦橋へと案内したジュドは二人の相手を雪音に任せて、スクリーン前のシートにふんぞり返っていた。その態度を言葉にするならば「お前の客だ、好きにしやがれ」と言ったところだろうか。まあ、客が来ていたおかげで余計なお小言を聞かされずにすんで良かった、と酒の匂いのついた雪音は思う。
ドリュー兄妹にソファを勧め、自身も腰を下ろしながら、視線を艦橋の入り口へ向けると、彼はそこに女神を見た。天賦の才を持つ糸紡ぎ師をもってしても再現できないであろう緑の黒髪、見る者に豹を連想させる均整のとれたしなやかな肢体、常に美神のヴェールに守られているかの如く染み一つ見当たらない白い肌──仮にセリアを『可憐な美少女』と称するならば、彼女はまったき『絶世の美女』と言って良かった。
「やっほー、メノちゃーん、ひっさしぶりー」
雪音は明るい声と共にソファからヒラヒラと手を振ったが、腕を組んで入り口付近の壁にもたれているメノウ・ヒラサカは応えず、顎でドリュー兄妹を示した。合理主義の彼女らしく、言外に「余計なおしゃべりは無用よ」と言っているのだろう。頷いた雪音は、口元に微笑を浮かべてトニーに促した。
「そんじゃ、ま、依頼を聞こうか?」
「は、はい。あの、雪音さんは、用心棒もしてくださるんですよね?」
「まあね、内容にもよるけど。用心棒が欲しいの?」
「はい。あ、僕ではなくて、妹の用心棒を捜していたんです。そこに雪音さんが名刺をくれたので、ちょうどいいと思いまして……」
「ああ、そういえば〈ヘブン〉の奴らになんかされてたよね。アレってなんで?」
「おいメノウ、茶でも出してやれ」
突然ジュドがシートから立ち上がり、雪音の隣に座った。〈ヘブン〉という単語に心動くものがあったに違いない、と雪音は見当をつけた。このジュドという男は、何があったかは知らないが、とにもかくにも〈ヘブン〉が大嫌いなのである。もっとも〈ヘブン〉を、さらに言えば教皇猊下なる人物を毛嫌いしているのは雪音も同じだが。
メノウが何も言わないまま食堂へ向かうと、ジュドは自ら折った話の腰を修正した。
「で、なんで軍に追われてるんだ? わかりやすく頼むぜ」
黒い肌の若者は緊張しているようだった。無理もない話である。彼の目の前に座っているのは『賞金稼ぎ』で『用心棒』で『暗殺者』で、その上、場所はそんな無法者の住みかで、隣には大切な妹を連れてきているのだ。トニーが心を静めるには、あと十年ほど経験が足りないだろう。
「わ、わかりやすくですか? ええっと……わかりやすく言いますと……」
「言いますと?」
僅かな、唾を飲み干すほどの沈黙を挟み、トニーは意を決したように言った。
「妹は──セリアは、宇宙人なんです」
静寂が訪れた。
瞬間、雪音もジュドもどう反応すればよいのか、まったくわからなかった。会話のとっかかりをなくしてしまったまま七秒が過ぎ、ジュドが絞り出すように言った。
「……すまん、よく聞こえなかった。もう一度たのむ」
「ですから、妹のセリアは宇宙人なんです」
「いやいやいやいや」
雪音は思わず、精神にまとわりつこうとしている何かを両手で振り払った。
「いや、ちょっと待ってちょっと待って。えと、トニー君だっけ? 冗談はいいから、もうちょっとマジな話をさ」
「僕は本気です!」
トニーは真剣な顔で言い切った。
「お待たせ。紅茶で良かったかしら」
その時、食堂からトレイに五つのティーカップを乗せて、メノウが戻ってきた。白いセーターに黒いスマートパンツというさりげなく大人っぽい出で立ちの少女が紅茶を振る舞う中、トニーはまくしたてた。
「嘘だと疑いになると思いますし、自分でもまだ整理がついていないんですけど、本当なんです。だったらお前も宇宙人か、と聞かれたらそれは違うんです。正確にはセリアは宇宙人だったのではなくて、宇宙人になってしまったんです。一週間ほど前の事です。僕が本を読んでいると、セリアが部屋にやってきて、目が痛いと訴えました。僕たちはカリストのヴァルハラに住んでいたのですが、そこでは『異端』に対する目が厳しく、僕は心の中で、もしセリアの目が見えなくなったら大変なことになる、と思いました。義眼を填めているだけでも『異端』扱いされますから、あそこでは。だからすぐに行きつけの医者に診察してもらったのですが、どこにも異常はなくて、ほっと一安心……したのが間違いでした。医者にお礼を言って帰ろうとしたときでした。何の前触れもなくセリアの目の色が変わったんです。比喩じゃありません、本当に色が変わったんです。それに、目の中におかしなものが入っていて……」
トニーは隣に座るセリアを見た。兄の視線を受けたセリアは小首を傾げたが、トニーが頷くと、少女も頷き、小さな両手を顔に当てた。やがて手が下ろされ、そこに現れたのは、黒のカラーコンタクトレンズだった。そして少女の顔に視線を転じるとそこには、まるでピンクダイヤのような美しい瞳が輝きを放っていたのである。それだけではない。瞳をよく覗き込むと、中に何かが見て取れた。信じられないことに少女の瞳孔の中には、白いメビウスリングが封じ込められていたのだ。
紛れもない、『異端』の中の『異端』であった。
一般的に『異端』とは瞳に異常のある者、義眼を使用している者を指すが、これは正確ではない。それは〈ヘブン〉教の性格上、反乱軍『フレイムラビット』総司令官ジョナサン・マクブライトのオッド・アイのような、反逆・弑逆の象徴的なものとして戒めているに過ぎず、その真の意図は違う場所にある。
『異端』の本来の意味するところ、それは、実際に反逆や弑逆の象徴として祭り上げられる可能性を大いに持つ人物のことを指す。ただのオッド・アイや金銀妖瞳は巷に溢れており、〈ヘブン〉に検挙された者は生殖能力を奪われた後に隔離施設に放り込まれるが、尋常ならざる瞳を持つ者への対応は苛烈を極める。本人は勿論、その一族全員が死刑に処されるのである。
このような話がある。昔、『異端』の隔離施設に入れられたピーター・ラグゼイという青年がいたが、彼は自らの黒と青の金銀妖瞳が気に入らず、手術をして両目を特殊な義眼に変えてしまった。その義眼とは七つの色を持ち、玩具のように虹色の光線を発射できるという呆れたものだった。しかしその翌日、ピーターは通りがかった警官に即刻射殺された。例えそれがどんなものであろうとも、他人より突出した者は注目を集め、いつかは〈ヘブン〉に対して不穏な思想を持つ者達の拠り所となる可能性があるため──というのが当時の警察の発表だった。
つまり、人として考えられぬ形・色の瞳をしている者こそが本物の『異端』なのである。セリアの瞳はまさしく常人が持ち得ぬものであり、〈ヘブン〉にとっては反逆と弑逆の母になりかねない存在だった。
「ははぁ……なるほど、これは確かに〈ヘブン〉に殺されるだろうねぇ」
台詞ほどには緊迫感のない雪音の声だった。まじまじとセリアの顔を眺めるその視線には、感嘆以外のものが含まれているようにも見える。
「だがなぁ、それにしたって宇宙人ってのは何だぁ? 突拍子がなさすぎだぜ」
「根拠はあるの?」
紅茶を口に含んだメノウが訪ねると、トニーは神妙に頷いた。
「セリアが寝言で言ったんです。太陽系を調べる、とか、いつか侵略するために、とか、その、宇宙人的なことを色々と。だけど数日後にはセリアは言葉を失いました。僕が思うに、セリアの瞳は宇宙人の監視カメラで、失語症になったのは秘密が漏洩することを恐れた宇宙人が目を通じてセリアの脳に何かしたに違いありません」
熱っぽく持論を語るトニーに、彼以外の全員が、空気が白けていくのを感じていた。
「君、なんでそんなにマジな顔してるのさ……」
これは自分の次元にあった話ではない──そう感じた雪音は、呆れ果てた声を零したのだった。
宇宙人云々はともかくとして、セリア・ドリューが〈ヘブン〉に命を狙われていることに変わりはない。依頼を要約すると『ドリュー兄妹を未だ〈ヘブン〉の影響の弱い冥王星の衛星カロンまで送り届ける』となるのだった。
「両親はどうしたの?」
と雪音が聞くと、セリアは俯いて首を振り、トニーは沈んだ声で答えた。
「〈ヘブン〉に殺されました……多分、もう、親戚の叔母さんや叔父さん達も……」
「ふーん」
素っ気ない相槌にセリアとトニーは驚いた。内心、同情と慰めに満ちた言葉を期待していたのだろう、不意に感じた雪音の冷淡さに、二人はまさに冷水を浴びせられたような顔をした。そう、軽い口調と態度についつい忘れていたが、彼は先刻、四人の人間を無慈悲にも殺したではないか。そのような人物には他人の痛みや悲しみなど想像し難いに違いないのだ。今更ながらトニーは胸の中に潜んでいた不安の種を見出したのだった。
二人の反応に気が付いて、慌てたように雪音は言い直した。
「ああ、ごめん、悪気はなかったんだよ? ただ職業柄、よく聞く話だったからね。うん、御愁傷様」
へら、と笑うその顔に説得力はなかった。
「報酬の方はいかほどいただけるのかしら」
メノウが助け船を出して話題を変えた。
「相場がどれほどするのかわからないのですが……いえ、それ以前に、失礼かも知れませんが、確認したいことがあります」
「何だ?」
紅茶に手をつけていないジュドが問うた。彼はコーヒー党だった。それを知った上でメノウが持ってきた紅茶は「おいメノウ、茶でも出してやれ」とぞんざいな言葉で使い走りさせたジュドに対する、ささやかな報復である。
「僕たち兄妹はついこの間まで〈ヘブン〉の教えを信じて、教皇猊下を崇拝していました。セリアの瞳がこんなことになってしまいましたが、正直、僕は今でも信仰心が未練たらしく残っています。ですから、気になることがあります。あなた方は〈ヘブン〉を、教皇猊下を恐れませんか? 僕たちはもはや『異端』です。僕たちに協力することは、例えそれがビジネスであろうとも、立派な反逆罪になります。それでも、あなた方は僕たちと取引をして下さいますか?」
このような念を押された青年と中年と少女の三人は、一瞬だが、トニーが何を言っているのかを理解できないでいるようだった。
「ぶっちゃけた話、僕は、あなた方が裏切るのではないかと危ぶんでいます。さらに失礼ついでに言うならば、あなた方の力量もわかりません。取引をする場合は、できるだけ実績を示していただきたいと思っています」
「ほぉう……なるほど」
ジュドは唸って、眼前に座る若者に対する評価に修正をくわえた。上品そうな身なりに大人しげな振る舞いから想像して『安全な箱の中で育った世間知らずのお坊ちゃん』と見なしていたのだが、なかなかどうして、肝が据わっているではないか。彼は報酬の交渉に入った途端、口調が明晰になり、冷静に相手の心理を推察し、言うべき事をはっきり言ったのだ。宇宙人がどうのこうのと言っていたときは脳味噌が足りないのではないか、とも思ったが、妹を守るためもあるのだろう、意外としっかりしている。
そして弾けたのは笑い声だった。腹に響くジュドの豪快な笑い声に、本当に心の底から楽しそうに笑う雪音の声が重なり合って、艦橋を満たした。ただ一人、メノウだけが苦笑めいた表情で軽く肩をすくめた。
笑われた方は真剣だった。既に一種の臨戦態勢に入ったトニーは内心では戸惑いつつも、先程のように表情には出さなかった。
「何がおかしいんですか」
「いやいやいやいや、ごめんごめんごめん。いやー、今のは良かったよホント、久しぶりのヒットだった」
身体をくの字に曲げてなおも、くくく、と笑みを零す雪音に、トニーは妹の手前、怒鳴ることも出来ずに憮然と睨み付けた。
「はー、笑った笑った、あたしこんなに笑ったの久しぶりだわ。しっかし、トニーちゃんがそういうこと気にしてたなんてね。でも今更過ぎるっつーか何つーか、まあ一理は在るんだけどさ。この商売、相手を信用しないと話になんないよ? ねえ?」
にやついた顔で雪音は右のジュドと左のメノウに同意を求めた。二人はそれぞれ頷き、そして、顔を隠すサングラスとミラーシェードに手をかけた。
「それと、俺達が裏切る可能性ってのはまるっきり無いから。証拠に──ほら」
言いながら、雪音も目を隠しているゴーグルに手をかけた。
サングラスが、ミラーシェードが、ゴーグルがそれぞれ外された。
露わになったのは、水銀を流し込んだような目と、黒と青の金銀妖瞳、そして、夜叉の如き金色の瞳。
目の前に三人の『異端』がいた。
利発な若者も、可憐な少女も、その光景に等しく息を呑んだ。この瞬間、言葉に出来ない戦慄が兄妹の全身を駆け抜けた。彼らの目には、すぐそこにいる三人の人間が異世界のオーラを放つ、まるで地獄を統べる魔王のように映ったのだった。
黄金色の輝きを持つ瞳が、可愛らしく片目をつぶった。
「名刺にも書いてあったでしょ? 合い言葉は『HEAVEN’S BETRAYER(天国の嫌われ者)』ってさ。で、力量はこれからちゃんと証明するから、とくとごろうじろう、ってね。少なくとも〈ヘブン〉よりマシなのは保証するよ?」
『異端』の青年は胸を張って言ったのだった。
『HEAVEN’S BETRAYER』は旧式の戦艦である。かつて地球の大海原を股に掛けた船に酷似したデザインで、黒い装甲の上に白い文字が踊って船名を主張している。各所に姿勢制御推進器を備え、後部に十字型の巨大な加速推進器を持ち、頭部と下腹部に大小合わせて六つの巨大な砲塔を抱えている。現在の宇宙船のデザインは、上下左右の観念のない宇宙空間に対応した紡錘型や卵型が多いため、『HEAVEN’S BETRAYER』は宇宙港にあってどの船よりも古くさく見えた。よって、この艦を見かけたほとんどの者は等しく『オーナーは骨董品が好きなのだろう』という感想を抱くのである。
「しっかし、ほんっと、古っくせー船だぜ、こいつ」
ロウナス・アストライアは露骨な感想を口にした。
紫に染めた跳ねっ返りの髪、甘いマスク──と彼は自称している──、白のタキシードという出で立ちの彼はシートに寝そべり、操作卓に脚を乗せてくつろいでいた。目の前のスクリーンには望遠レンズで捉えた、宇宙港を発ち無窮の空間を往く『HEAVEN’S BETRAYER』の側面が映っている。
ロウナスは無造作に自慢の髪をかきあげた。紫の髪は歴史上の英雄『アキラ・インビシブル・御堂』に憧れて染めたものである。過去、復讐軍の精鋭として『ヴァリアブルリヴェンジャー試作一号・シュラト』を駆り、月にルナティックキャノン(狂気の穴)を穿ち、かつての月の軍『ムーンラビット』を火星まで退けたセカンドタイプの梟雄を、ロウナスは憧憬していた。何という強さ、何という激しさ、そして、何という格好良さだろう! 史実に寄れば彼の勇者はヴァリアブルリベンジャーの動力源である精霊と交信する際、その無限の同調が身体に変化を来たし、頭髪が冥界の王の如く紫に染まったという。ロウナスはその影響を受けて元々は赤かった髪を、丁寧に紫色に染めているのだった。彼は形から入る男で、その内『ロウナス・インビシブル(無敵)・アストライア』と名乗りたいと思っている。
「見た目で油断してはいけない。外見がああでも、中身まで古いとは限らんぞ」
「昔の小説みたく、光の速度で走るかもってか? それならそれで望むとこだぜ。俺の技量につく値段も高くなるだろうよ」
副座で──何処が面白いのかロウナスにはまるで理解できない──分厚い恋愛小説を読んでいたドレッドヘアの男が諌めの言葉を発した。それに対してロウナスは不敵に笑って見せた。
黒い肌を持つドレッドヘアの男の名はクロム・アインドといい、彼とロウナスは『ダブルレオポルド』と名乗る賞金稼ぎの二人組である。ブラックジャガーという名の卵型宇宙船を乗りこなし、その渾名の通り、黒豹よろしく音も立てずに獲物を狩ることを得意としている。
「どうでも良いが、お前さん、いい加減そのつまらなそうなブツを置いて、見張りを変われ。そろそろ飽きてきた」
「お前さんと替わってから、まだ五分も経っていないはずだが?」
「気のせいにしておいてくれ。退屈のせいか眠くて目が赤くなりそうだぜ」
「なら、兎に転職するといい。月生まれのお前さんにはお似合いじゃないかね」
「そういうお前さんは火星生まれのくせにしてやたらと冷静なんだな。軍神マルスのご加護よりも恋愛神キューピッドの加護を得たってか? もしかして実は水星生まれだろ」
「いや、水星生まれなら商業と盗賊の守護神メルクリウスの加護を選ぶだろうさ、私なら。恋愛もスリルに満ちているが、他人の人生を奪う賞金稼ぎはそれ以上にスリル満点だからな」
口の減らないおっさんだ、と二四歳のロウナスはわずか四歳違いのクロムに対して胸の中だけで舌打ちをした。
クロムは恋愛小説のワンシーン──何事もそつなくこなせてしまう天才肌の青年が、全てに置いて平均を下回るが気持ちだけは一生懸命な少女に惹かれ始める──から目をはずし、スクリーンに映る、ロウナス曰く「古っくせー船」を見た。
「まあ、願わくば、マルスの父である天空神ユピテルの加護があらんことを祈ろう。ドリュー兄妹は間違いなくあの洒落た名前の戦艦に乗り込んでいるのだろう?」
「ああ、信用できる筋からの情報だ。間違いはないはずだぜ。しっかし、ほんっと、ふっざけた名前だぜ、こいつ」
「『HEAVEN’S BETRAYER(神を裏切る者)』……か。いいじゃないか、私は好きだね、こういうセンスは」
「この世で教皇猊下に逆らって生きていけるかよ」
「だが現にあの艦はここにある。宇宙は広い。教皇猊下の威光が届かない場所だってある。盲信は足元を突き崩すこともあるぞ、ロウナス」
「ほっとけ。クロム、あんたは良い奴だが、時々説教めいた所があるのがたまにきずだな」
「素直に喜んでおこう」
「誉めてないぜ」
宇宙空間に潜む黒豹は、腹の内で様々な言葉を渦巻かせながら、絶好の機会が来るまで静かに獲物を見張っているのだった。
「なんだ、考え事か?」
「ええ、宇宙人について、ね」
自らの手でコーヒーを入れて艦橋に戻ってきたジュドに、ソファで腕と足を組んで考え事をしていたメノウはそう答え、銀目の巨漢を困惑の淵に落とした。
「あぁ?」
「考えてみる価値はあるわ。セリアだったかしら。あの子の目は見たでしょ?」
「ああ、確かにみょうちくりんな目だったな。流石の俺も初めて見た」
「ジュド、あなた、歴史の本筋は大体において理解できてる?」
「ま、まぁな」
ジュドがどもったのはあまり自信がなかったからである。
「マスクメロンになった地球に復讐軍が発生して、月と火星に対して戦争をしかけた辺りは?」
「ああ、それならバッチリだ。俺ぁてっきりもっと昔のことかと思ったぜ」
メノウは頷き、滔々と語りだした。
「復讐軍は当時の新兵器ヴァリアブルリベンジャーで月の『ムーンラビット』を火星まで撤退させて、『フレイムマーズ』との内紛を誘った」
「おう。それで、そのままの勢いで勝つかと思いきや、地球で〈ヘブン〉が生まれて復讐軍を飲みこんじまったんだよな、確か」
「そう、その時よ。その時が、オーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラが歴史の表舞台に立った時」
宇宙を統べる教皇を呼び捨てるのは立派な不敬罪にあたるが、無論二人は気にも止めなかった。
「なんだ? つまり、何が言いたいんだ、お前?」
「つまり、その瞬間から世界は一瞬前から大きく変わってしまったのよ。神のいなかった世界から、神のいる世界へ。まあこれは、神の定義を【人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与え、信仰・崇拝の対象となるもの】とした場合だけど」
「……それがなんだってんだ?」
「わからない? あの瞬間からこの世界は何でもありになったのよ。【裏技】によってね」
メノウはテーブル上の使い古された箱から煙草を一本とりだした。くわえず、煙草は手に持ったまま逆の手でライターを握る。
「例えばこんな風に……ハーディス」
一言でラップトップパソコンを起動させたメノウは、慣れた動作でジッポライターに火を点けて煙草の先端を近づけた。その瞬間、赤く燃え上がるものと思われた煙草はしかし、ひび割れるような音を立てて雪色に染まったのだった。
「物質が高熱で凍り付くようなことが、夢や幻想や机上の空論じゃなくて現実に存在する世界に、ここはなってしまったのよ。わかる?」
非常識な現象を顕現させたメノウはライターをポケットにしまい、ごみと化した煙草をジュドに向かって放り投げた。ジュドは反射的にそれを掴み取ろうとして、掴み損ない、まだ少ししか飲んでいないコーヒーの中へ落としてしまうという馬鹿を見た。
「ぬを!? メノウ、お前、なんつーことを! わざわざいちいち豆から挽いたんだぞ!」
「とどのつまり、宇宙人がいる可能性はこの際考慮に入れないとしたとしても、宇宙人が生まれる可能性はゼロではないわ」
ジュドの抗議を完璧に無視してメノウは一つの結論を出した。
「よって、トニー・ドリューの言っていたことはあながち嘘じゃない……そういう可能性もあるってことよ。コーヒーぐらいでガタガタ言うのはみっともないわよ」
「ほっとけ!」
メノウは煙草の箱から再び一本をとりだし、今度はくわえて火を点けた。深く吸い、ゆっくり長く煙を吐く。その立ち上る様をどこか遠い目で眺めながら続ける。
「他にも理由はあるわ。【奇跡】とは名付けているものの、結局は教皇が使っているのも【裏技】よ。世界を造り換え、現実を書き換えている。だけど世の中はそんなに甘くはないわ」
「どう甘くないってんだ?」
コーヒーを諦めたジュドもメノウに倣って煙草に手を伸ばした。
「濃いコーヒーみたいなものよ。どれだけ砂糖を入れてもそう簡単に酸味は消えないわ。世界を建造物に例えたとして、ちょこちょこ何度も改装していて他の部分に影響がないと思う? しわ寄せは必ずあるわ。それも人間の想像力じゃ及びもつかない複雑難解な原理で、ね」
「じゃあ何か? あの嬢ちゃんの目もそのとばっちりだってのか」
「そうとしか考えられないわ。人の目が突然形を変えてしまうなんてね。目だけじゃないわ。身体や脳にも影響が出ているはずよ」
「言い切るってこたぁ、根拠でもあんのか?」
「さっき彼は、妹が失語症だと言ったわ。しかも、それはおそらく宇宙人の仕業だ、ってね。実際についこの間まで健康だった人間が失語症になっているじゃない」
ソファに腰を下ろし、メノウと同じく腕と足を組んだジュドはしばし考え、ある可能性を指摘した。
「だがよ、元々失語症になりやすかったっつーか、偶然、時期が重なって失語症になったってこともあるだろうよ?」
「そうね。あるいは身分も失語症も目が変化したのも全て嘘で、私たちを騙している可能性だってあるわ」
メノウはジュドの言葉をあっさり肯定した上、さらなる可能性を示唆したのだった。ジュドは思わず呻いた。
「……騙すってお前、まさか……あんな、たかが一九のガキだぞ?」
「私は一七のガキよ」
「……なるほど……確かに」
そう言われてみればそうだった、とジュドは呟く。彼の前にいる少女は時として一七という年齢に十も二十も足したような雰囲気を放つのである。
「いずれにせよ、何事も油断せずに警戒しておいて損はないわ。特にあなたは子供には甘いから、気を付ける事ね」
立ち上がりざまに放たれたメノウの台詞に、ジュドは瞬時に顔つきを険しくした。艦橋から出ていく金銀妖瞳の少女の背に向かって、開いた彼の口から溢れ出たのは、珍しく毒性のきついものだった。
「ああそうさ、俺は甘い。甘いだろうな、どっかの誰かさんみたく子供を殺したりできねえし! したくねえしな!」
敢えて視線を床に固定させたまま吐き出された言葉は、空気を震わせ目に見えない物を切り裂いたが、メノウの歩みを止めることは出来なかった。
トニー・ドリューは心の奥に聖域を持ち、そこには一つの誓いが立てられていた。それは彼と同じ黒い肌と縮れた髪の、まるで幼き頃のシヴァの妻神の如き容姿を持つ少女の形をしている。そしてその誓いには一言、『守護』と刻まれているのだ。
元々は小型とはいえ戦艦だった『HEAVEN’S BETRAYER』の内部には、本来ならば兵士が使用するために設けられた住居空間がある。その中の一室を割り当てられた兄妹は軽く中を清掃した後、互いのベッドに腰掛け、これからの事について小声で語り合っていた。
「これで本当にいいの? お兄ちゃん」
「いいんだよ、お前が喋るとろくな事にならないんだから」
「でも……やっぱりよくないよ、助けてくれる人を騙すなんて」
「バカ、今更何を言うんだ。相手は人殺しで、しかも『異端』だぞ? 信用できるわけがないじゃないか」
「だけど……いけないことだよ……」
失語症として振舞うように要請された少女はうつむき、罪悪感に圧迫される心の軋みを訴える。『自分がセリアを守る』という使命感で体中を満たしているトニーは、それを表面上は悪く思ったが、無意識に一種の陶酔状態にあったため、その良心はいささかも痛まなかった。
「わかっている。だけどセリア、世の中はお前が思っているほど綺麗なわけじゃないんだ。教皇猊下も仰っていたじゃないか、世界は光り輝く宝石である、しかし今はまだ原石のため私が磨こう……って。そう、世界はまだ輝いていないんだ。悪意や憎悪に満ちあふれているんだ。それらから身を守るためには、僕たちも仮とはいえ、そういうマントで身を守らなくちゃいけない。わかるね?」
姫を守護する騎士気取りのトニーの言葉は、当然セリアにも詭弁に聞こえたが、少女は兄に対して横に振る首を持っていなかった。その上、全ての原因は彼女の顔に生まれた超常的なピンクダイヤにあった。全ては妹のため、そう考えて行動してくれる兄を疎むことはセリアには不可能だったのである。
「カロンに到着したら目に義眼を入れる手術をしよう。嫌かも知れないけど、仕方ないんだ。義眼なら教皇猊下も命だけは助けてくれるよ。わかるだろ?」
「うん……」
眼球を取り除くという想像は、幼い胸を目に見えない魔物の手によってきつく締め上げた。膝の上に載せた小さな手が強く握られ、微かに震える。それでもトニーは妹の不安に気付かない。
「後、最後の最後まで油断せずに彼らの前では絶対に喋らないこと」
愚鈍なまでに盲目的な兄は、小さな妹にそう念を押した。
「僕がうまく成功報酬という条件になるよう交渉したんだ。お前が喋ったら僕たちがお金をあまり持っていないことがばれちゃうからね。そうなったら艦を下ろされるかもしれないんだ。……いいね?」
自分の身体の一部が他動的に変化する恐怖というのは、病気にかかった経験を持つ者にしかわからないだろう。今、セリアの心の中は不安と恐怖という触手に蚕食されつつある。一三歳の少女には過ぎる重荷を兄から次から次へ負わされ、それでも少女はそれに耐えようとしている。少女は変わり果てた瞳からは、一度も涙を流してはいない。限界は決して遠くはなかった。それでも、セリアは頷く。
「うん……喋らないように気を付けるね……お兄ちゃん」
そして、笑顔すら浮かべるのだった。
「そーゆーことするときは本当に最後まで口にしない方がいいよぉ、って言っても遅いか」
自室にて、盗聴器と同調しているワイヤレスイヤホンを耳に入れていた雪音は、こぼれる笑みと共に呟いた。
十分世間慣れしているつもりだろうが、トニーも所詮は良家育ちの青二才な世間知らず、と言わざるを得ない。割り当てられた部屋に盗聴器が仕掛けられている事まで考えが及ばなかったのだから。
「しっかし、教皇猊下様っていうのはそんなにイイ人でもないと思うんだけどねぇ」
雪音は口元に冷笑を浮かべた。まさか、と言うか何と言うべきか、あの二人がこっちを騙そうとしていたなんてね。いやはや、はてさて、こいつはどう料理するべきかな? メノちゃんに報告するのは簡単だけど、それはちょっとおもしろくない。銃でドキューンしてエアロックからポイッに決まっているし。個人的にはもっと面白い事態を期待したいところだよ。うん、ちょうどよく、多分同業者だと思うけど、この艦を補足している戦艦も確認しているし。何とかそいつらとうまく絡ませて大騒ぎできないものかなぁ?
ジュドをして「あいつは生粋のギャンブラーだ。命だってチップにしやがる。しかも他人のものまでな」と言わしめる彼は、当然ながら『HEAVEN’S BETRAYER』が他の戦艦に補足されていることを誰にも報告していない。そっと胸のうちに秘めている。
主に暗殺を生業とする者として、彼ほどふさわしくない者もいるまい。しかし彼は優秀な暗殺者であり、戦闘機乗り(ファイター)でもある。過去の実績は全て闇色の雪に埋もれているため杳として知れないが、その実力は確かに彼の行動の根拠たりえているのだ。
ベッドに寝ころんでしばしぼんやりとしていた雪音は、やがて会心の笑みを浮かべ、黄金色の瞳をさらに輝かせた。
起きあがり、ベッドに立てかけておいた黒塗りの鞘に収められた愛刀を一瞥し、続いて自分の胸元に視線を落とす。シャツのはだけたそこには、黒い十字架の入れ墨が刻まれていた。消えない黒十字にそっと指を這わせ、何処か慈しむように撫でる。
「ま、コネクションっていうのは利用するためにあるもんだし、ね」
猫のように目を細めて笑うその顔をトニーが見たならば、地獄を侮っていた罪人の如く後悔したに違いない。
その表情は誰がどれほど控えめに見ようとも、邪悪という形容ははずしようもなかった。
「依頼人から催促が来た」
古い友人から結婚式の招待状が来た、と言い換えても違和感のない口調でクロムは言った。ロウナスは胡乱げに聞き返した。
「なんだと? 依頼人ってのはどの依頼人だ」
「依頼人と言えば決まっているだろう。闇十字の皆様から早くドリュー兄妹を確保せよとのお達しだ」
ロウナスは鼻で笑った。
「はっ、たかだか〈ヘブン〉の暗部が何を偉そうに」
「さりとて、依頼人であることには変わりはなかろう。催促には応じねばならん。まさか無視するわけにもいくまい」
「何度も言うようだが、クロム、あんたはいい奴だがくどいのがたまにきずだな。それぐらい言われなくとも俺にだってわかっているさ」
吐き捨て、白のタキシードに身を包んだ気障な男はシートから無造作に立ち上がった。その動きは黒豹と言うよりも、眠たげな獅子に例えて良いだろう。普段は大人しく静かにしているが、それでも内に秘めた力が内圧でたわんでいることを感じさせた。
「まあ、成功率は下がるが、お前さんなら大丈夫だろう。私は艦から援護しよう」
「了解」
投げ遣りな相槌を打って艦橋から出ていく紫の髪の男に、クロムは声をかけた。
「なあ、ロウナス」
「なんだ、クロム」
返ってきたのは反発するような声だった。どうやら彼より四つ若いこの男は、名指しで呼ばれるのを嫌っているようだった。無論、クロムはそれをわかっていたが、立ち止まってもらいたくて敢えて名を呼んだ。
「実は二十年ほど眠らせた秘蔵のウィスキーがある。この仕事が終わったら共に飲まないかね」
ロウナスは薄気味悪そうにドレッドヘアの相棒を振り返った。彼より四つ多く歳を喰っている男は、堅実そうな顔からの想像を裏切らず、黒いスーツに身を固めている。むしろ頭にかぶさったドレッドヘアに違和感を感じるロウナスである。
「なんだ突然? アンタにしちゃ珍しい事言うんだな」
「なに、お前さんとはそれなりに長い付き合いだが、まだ酒を一緒に飲んだことがないとふと思ったんだが、どうかね」
肩をすくめたロウナスは、シニカルな笑いを浮かべた。
「あいにく、男と飲む酒は知らないんでな」
「教えて差し上げよう」
「丁重に断っているんだ、わかってくれ」
「そうか、それは残念だ」
クロムは声を立てて笑った。まるで邪気のないその笑顔に、ロウナスは「やれやれまったく」と呟いて艦橋を出ていった。彼らは互いに歯車が噛み合っていないと感じているのだが、端から見れば比類するものがないほど息が合っているのである。それがこれまでの成功の秘訣だったと言うことに彼らが気付くのは、まだ先の話である。
操船をコンピューターに任せつつも、スクリーン前の指揮シートに座っていたジュドが『敵』の第一発見者だった。隕石とも、偶然居合わせた宇宙船とも疑う必要はなかった。レーダーの端に映った艦影は、まるでこちらを挑発するかのように明らかな敵対信号を放っていたのだ。そして赤い光で表現された敵意は、新たな赤い点を撃ち出したのである。
「回避運動だ!」
肝を潰されたジュドは我知らず叫んでいた。命令を受理した電子脳はすぐさま実行に移し、艦の右側面の推進器を全力で噴射した。
スクリーンに映る、慌ただしく鉄鋼弾を避けた『HEAVEN’S BETRAYER』にクロムは冷淡に言った。
「ようやくこちらに気付いたようだが、やや遅かったな。ロウナス、準備はOKか?」
「OKだ」
力強い、頼もしい応答があった。
可動型加速器から推進剤を爆発的に噴出する卵型戦艦ブラックジャガーは、『HEAVEN’S BETRAYER』に向かって宇宙空間を駆けながら装甲の一部を開き、中から光り輝く人影を吐き出した。否、人間ではない。それは人型のロボットだった。ロウナス・アストライアを核とする純白のヴァリアブルリヴェンジャーである。かつてアキラ・インビシブル・御堂のヴァリアブルリヴェンジャーも目を見張るような天使の純白だったという。あいにくロウナスの精霊同調レベルは無限ではないので、英雄機のように白い翼が生えたりはしない。あるいはロウナスならば、自作で付けてしまうのかも知れないが。
本来ならばヴァリアブルリベンジャーの操縦は、卵型の容器に薄い青緑の生体液を満たし、その中にパイロットは裸で入って皮膚の動きや神経の伝達を過不足なく機体に伝えるのだが、ロウナスはあくまで英雄に憧れ、形式から入る男だった。古い型の、操縦桿とボタンのひしめき合う狭い操縦席でロウナスは舌なめずりをした。
「では、おそれ多くも〈ヘブン〉教皇猊下に楯突く名前の戦艦に、きついお灸を据えてやるとするか」
不敵に言い放ち、ロウナスは意識を『前進すること』に傾けた。
ヴァリアブルリヴェンジャーは精霊を動力源とする。『精霊』とは平たく言えばレイガンにも使用されているエネルギーの総称を指す。このエネルギーは擬似的な意識を持っているため、その特性に着目して「半生命体」とも言われている。ヴァリアブルリヴェンジャーに関して言えば搭乗者の精神状態によってエネルギー効率が変わるため、ひどく不安定な存在とも言えるだろう。しかしこの『精霊』と呼称されるエネルギーは、宇宙全体に満ちているのが最大の特徴だった。「突き詰めてゆけば世の全ての存在はエネルギーの塊である」とはエネルギー理論を学んだ者ならば当然の認識である。いわば精霊とは擬似的ではあるが意識をもつ点で『エネルギー未満』であるため、物質として存在し得ず、特殊な機関によってエネルギーに加工されて初めて力を発揮する存在なのである。余談だが『精霊』という呼称は正式のものであるのだが、この命名に関して発見者である月の科学者、アルディン・ホートネッドはこう語っている。
「月の科学者はロマンチストなのさ」
剛胆なロウナスの精神を鏡に映したように、ロウナスのヴァリアブルリヴェンジャー・斗羅刹の精霊機関は唸りを上げ、機体の背面全体から推進エネルギーを放出した。黒い宇宙に散らばる星々の光を背景に、純白の騎士が空間を駆ける。
「まずはご挨拶だ、遠慮せずに受け取れよ!」
トラセツの右腕に装着している大口径ビームガンが咆哮を上げた。
「ちぃっ! いきなり襲いかかるなんざ、卑怯って単語をしらねえのか!」
舌打ちしたジュドの言葉をクロムが聞いたならば「奇襲も立派な戦術の一つだ」と返したことだろう。ジュドは毒づきながらも操作卓を叩き、敵襲警報をセットし、頭上から半径2メートルほどの半球型ディスプレイを降ろした。これは操船を容易にするための全方位モニターとなる。擬似的だが宇宙空間に浮かぶ人になったジュドは、指揮シートの操作卓から立て続けにコマンドを叩き込んだ。
「これでも俺は艦長でもあるんだからな、舐めるなよ!」
聞こえるはずのないはったりをかまして、銀目の男は小型戦艦を急速旋回させる。加速推進器が絶叫し、姿勢制御推進器が悲鳴を上げた。直径二メートルを超えるエネルギーの束が右側面の装甲をかすり、無窮の空間を駆け去って行った。
「ほう、なかなかの運動性能だ。やはり見た目で騙されてはいかんな」
大きく迂回して『HEAVEN’S BETRAYER』の後背に出るために移動中のブラックジャガーで、クロムはジュドの操船に感嘆の息を吐いた。
警報の音を除けば、急な運動をしたにも関わらず『HEAVEN’S BETRAYER』内は静かなものだった。艦内では慣性制御が完璧に行われているのだ。緊急事態を告げる警報に、自室で読書をしていたメノウはすぐさま艦橋に駆けつけた。彼女が何事かを問うより早くジュドが叫ぶ。
「やっこさん、同業者だ! 機械人形で攻撃しかけてきやがった!」
「近くに他の戦艦かヴァリアブルがいるはずよ、背後に回って挟撃するつもりだわ」
メノウの予測は正しかったが、時期が早かった。メノウの言葉に頷いたジュドは砲塔の一部を後方へ向けたのだが、これによってクロムに挟撃作戦を看破したことを知らせてしまったのだ。
「気付いたのか、用心したのかはわからないが、作戦変更だな。ロウナス、プランAをBに変更する。白兵戦だ」
「了解」
二人の連携に遅滞という単語は存在しなかった。トラセツのビームガンが間断なく連射され、ようやく展開した『HEAVEN’S BETRAYER』のエネルギー中和力場の耐久力を削る。そうしつつもトラセツは彗星よろしく光の尾を引いて『HEAVEN’S BETRAYER』に肉薄する。
その時だ。『HEAVEN’S BETRAYER』の下部ハッチが開き、トラセツとは対照的な漆黒のヴァリアブルリヴェンジャーが飛び出した。スクリーンに向かってジュドが誰何の声をあげる。
「誰だ! 雪音か!?」
「大当たり(イグザクトリィ)」
頭部センサーから金色の光を放つ騎士は、くすりと笑って軽快に肯定し、純白の騎士に躍りかかる。ロウナスが肉食獣めいた表情を浮かべ、通信回線の向こうにいる相手を恫喝する。
「この俺と一騎打ちしようってか? 上等、いい度胸だぜ!」
「アライヤダ、白い天使に乗っているのはむさい男なの? 雪音ちゃん幻滅ぅー」
「なに? 女なのか?」
「違うな、音声の波形パターンから見て高確率で男だ」
「どうでもいいことをわざわざ言うな! 気が散る!」
ロウナスの疑問にクロムが答えたのだが、相棒のたたいた余計な口に彼は怒鳴りつけた。
雪音のヴァリアブルリヴェンジャー・黒雨の閃)が超振動ブレードをケースから抜き放ち、トラセツは背負っていた長大な槍斧を構える。前者は光が反射しないよう刀身まで黒く塗装されていて、刀の形をしているが修飾はまるっきり無い。しいて言えば刀型の武器である。後者は機体と同じく真っ白に漂白された人工ダイヤモンド製だ。雪音はロウナスと同じく操縦桿とボタンひしめく操縦席で口笛を吹いた。
「いやー、君ってそこそこできるデショ? どうせなら楽しませてくれると嬉しいんだけどさ」
「ほざけ! その軽口があの世でも叩けるかどうか試してやる!」
漆黒の刃と純白の穂先が音もなく激突した。二機のヴァリアブルリヴェンジャーの各所から推進エネルギーが幾度も迸り、形を変え位置を変え、上下左右に入り乱れながらトラセツとコクーノセンは打ち合う。
「ジュド、今の内に天頂方向に移動して。ヴァリアブルの戦闘に巻き込まれるわ」
「おう。それよりあのガキ共はどうした?」
『HEAVEN’S BETRAYER』はトリッキーな動きをした。左側面から推進剤を噴射したかと思うと、そのまま側転し、それを連続して行いながら徐々に天頂方向へ上昇していったのだ。ジュド曰く「こうするとエネルギー中和力場が補強されるんだよ」とのことだが、事実無根の迷信、というよりもジンクスに近いものだった。
「部屋で大人しくしているはずじゃないの? あなた、警報と同時に二人の部屋にロックをかけなかったの?」
「…………」
この場合、沈黙は明らかに肯定の意味を持っていた。メノウは小さく溜息をついて肩をすくめた。
「呆れた。逃げ出されても知らないわよ」
この依頼のメインは雪音のため、メノウの態度は淡泊に過ぎた。彼ら三人の間では不文律が存在し、それは『互いがとってきた依頼の責任はとってきた本人が請け負う』というものだった。逆に言えば、本来ならばメノウとジュドの二人は雪音がとってきた依頼に協力する筋合いはないとも言えるのだ。
「レーダーに他の反応は?」
「待て、今、範囲を拡大する」
操作卓が太い指に叩かれて、小型3D映像機に立体型レーダーを表示した。中央の青い点が『HEAVEN’S BETRAYER』とすると、その周囲を動き回っている緑と赤の点がコクーノセンとトラセツである。さらにその周囲を囲むように黄色の点が無数にあるが、これは小隕石群と思われる。その黄色の中を一つの赤い点が隠れるように移動していた。ちょうど『HEAVEN’S BETRAYER』から見て右下の辺りだ。
「コイツだ、コイツが最初いきなり仕掛けてきやがったんだ」
ジュドが腹立たしそうに愚痴ると、まるでその声を聞いていたかのように赤い粒が小隕石群から抜け出て、真っ直ぐこちらに向かって速度を上げた。メノウは静かにその意図を察する。
「仕掛けてくるつもりよ。しかも白兵戦を、ね」
「ああ、わかってる。狙いはあのガキ共に決まってるからな。こっちを落とすようなバカはしねえだろ」
「そこまでわかってるなら、どうするかもわかるわね?」
「勿論だ! お前、俺のことバカだと思ってねえか?」
「否定も肯定もしないわ」
「しろ! どっちか!」
「じゃあ肯定するわ」
「肯定するな!」
「じゃ、私は白兵戦の準備と二人の確認をしてくるから」
わめくジュドをさりげない態度で受け流して、メノウは艦橋から出ていこうとした。直前に金銀妖瞳の少女は振り返り、生気が溢れ聡明な光の宿る黒い瞳を向け、念を押した。
「相手にドッキングされる前に、こっちから艦首を突き刺す──OK?」
ジュドはやけくそ気味に叫んだ。
「ああ、ついでに何個か推進器ぶっ潰してやらぁ!」
「その意気よ」
トニー・ドリューとセリア・ドリューは既に割り当てられていた部屋を出て、警報の響き渡る中、手を繋いで廊下を走っていた。
「お兄ちゃん、どこに行くの?」
「いいからいいから、ついておいで」
不安そうなセリアに、トニーは目を輝かせた。この非常事態はトニーにとって嬉しい誤算といえた。内心、隙を見て宇宙シャトルを盗み、この戦艦から逃げ出そうと思っていたのだ。彼は今、妹の手を引いて格納庫に向かってるのだった。当然、それは幼いながらもセリアの察するところであり、少女は控えめに注意した。
「お兄ちゃん……悪いことは、ダメだよ……?」
「悪い事なんてしないさ。これは、必要なことなんだ」
トニーは綻び一つない完璧な笑顔を妹に向けた。セリアは兄のこの表情が好きだった。猿みたいだけど、太陽みたいに明るくて、とても楽しそうな顔だったから。そんな兄の笑顔を見ていると、自分もなんだか嬉しくなってくるから。
二人は見知らぬ艦内を歩き回り、ようやく格納庫に到着した。あの三人の『異端』の物だろうか、二機のヴァリアブルリヴェンジャーと単座の小型宇宙艇が三機、そして宇宙シャトルが二機、整備済みの状態であった。
「これがスペースシャトルか……」
トニーが瞳を輝かせてシャトルを見上げ、呟いた瞬間だった。
轟音と共に、慣性制御装置では抑えきれない衝撃が『HEAVEN’S BETRAYER』を揺るがせた。
「うわあっ!?」「きゃっ!」
縦にも横にも動く容赦のない揺動に二人はひとたまりもなく転倒した。二人は知りようもなかったがこの瞬間、火花散るようなジュドとクロムの操船技術の激闘の末、『HEAVEN’S BETRAYER』は見事ブラックジャガーの腹部にその尖った艦首を突き込んだのだった。
それは、凝縮した悪意の中から誕生した意地の悪い魔女が、ちょっとしたきまぐれを起こした瞬間だった。
「あいたたた……セリア、セリア! 大丈夫かい!?」
「うん、お兄ちゃん、セリアは大丈夫だよ」
「よかった…………ん?」
視界の端に映った光景にトニーが振り返ると、格納庫の壁の一部が崩れ、その向こうにはこことは異なる空間があった。ブラックジャガーの内部であった。『HEAVEN’S BETRAYER』がその上半身を潜り込ませたため、その最前部にあった格納庫はブラックジャガーの内部と物理的に直結してしまったのである。
「……教皇猊下のお導きだ」
妹のピンクダイヤの瞳に負けない程、つぶらな黒い瞳を輝かせたトニーは、確信のこもった声で言ったのだった。
『HEAVEN’S BETRAYER』とブラックジャガーが衝突したのと同時、雪音とロウナスの勝負も一応の決着を見た。
二機のヴァリアブルリヴェンジャーは宇宙空間にあってその動きは軽快さと鋭さに恵まれていた。超振動ブレードと人工ダイヤモンドの刃が火花を散らし、絶対零度の空間を裂く。精霊による推進エネルギーは果てなく噴射され、互いの目を灼いた。ヴァリアブルリヴェンジャー同士の戦闘は、肉体面よりも精神面が重視される。精神状態が精霊との同調を左右し、その結果が機体の出力に反映されるためだ。
「ほらほらどうしたの? ほら、足元がお留守」
「クソが!」
余裕のある雪音に対し、ロウナスは追い込まれていた。刃を黒く塗装しているのは伊達ではなかった。光を吸収する塗料が使われているため、超振動ブレードの軌跡を視覚で追えないのだ。それでもそのほとんどを純白の槍斧で防いでいるのは、ひとえにロウナスの実力、長年の経験で培われた戦士の本能だった。
斬りつけ、弾き、突き、受け止め、巻き込み、薙ぎ払い、受け流し、振り上げ、振り下ろす。二人の一流の戦闘機乗りが技術の粋を結晶化させた闘いだった。
コクーノセンが右腕の超振動ブレードを振り下ろし、トラセツはその斬撃を槍斧の柄で受け止めた。刹那、トラセツは機体の前面から一斉に推進エネルギーを放出した。
「うわ危なっ」
さして緊迫感を感じさせない声を上げて雪音はコクーノセンを退かせた。トラセツは後退と合わせて右腕の大口径ビームガンをコクーノセンに向け、三回連続、引き金を引いた。光の槍はしかし、コクーノセンの左腕に装着されているエネルギー中和力場に防がれた。
刹那、ロウナスは会心の笑みを浮かべたであろう。急速に後退していくトラセツの背後には、黒豹の腹に噛み付いた背信者がいたのである。
「あっ、やばっ!」
雪音のそう言うのが早いか、トラセツは後ろ向きのまま『HEAVEN’S BETRAYER』に激突し、その身をめり込ませたのだった。
電磁石で『HEAVEN’S BETRAYER』の装甲に張り付いたトラセツの背中からレーザー光線が突き出され、ゆっくりと円を描いた。スペーススーツに覆われた脚がただの蓋と化した装甲を蹴り飛ばし、開いた穴からヘルメットをかぶった男が現れた。労働時間を迎えた艦の安全機構が瞬間凝固剤で空いた穴を塞ぐと、男はヘルメットを外し、紫の髪を久々に露出した。その表情は屈辱に苦々しく歪んでいる。
「くそっ!」
ロウナスは吐き捨て、ヘルメットを床に叩き付けた。彼は己の技量に絶対の自信を持っていたが、つい先程その矜持をしたたかに傷つけられたのだ。こうやって艦内に潜入するのはプランBの予定通りであり、あの黒い機体の裏をかけたのは喜ぶべき事だったが、それ以外は不満だらけだった。
「こうなったら仕事を終わらせた後、何が何でも決着を付けてやる」
再戦を心に誓い、歩き出した彼の前に立ちはだかる人物がいた。ロウナスは上から下へ視線を這わせる。長い黒髪に目を隠すミラーシェード、白い肌に紅い唇、白のセーターに黒のスマートパンツ、そして白いアーミーシューズ。モノクロの色彩の中、唇の赤だけが異様に艶めかしく見えた。ロウナスは知らないが、メノウ・ヒラサカというのが彼女の名前である。
「…………」
無言のメノウに、ロウナスは彼特有のシニカルな笑みを浮かべた。
「へえ、この艦には妙齢の女が乗り込んでいるのか。こいつはいい。ケツの一つでも触らせてもらおうか」
そう言って両手の指をいやらしく蠢かせる。冗談めいた口調ではあるが、その目は笑っていなかった。真剣にメノウをどうやり過ごそうかと考えているのか、あるいは本気で彼女の尻を触ろうとしているのか、おそらくは双方だろう。
メノウの紅い唇がゆっくりと曲線を描き、笑みを象った。妖艶な笑みだった。彼女がやや前傾姿勢をとり、右手を腰へ、左手を膝へ乗せると、背を這っていた黒髪が自然と肩を流れ落ちる。色気が匂い立つようなしなを作った少女は、よく透る声で挑発した。
「触れる物なら触っても良いわよ。それどころか、触れたら何をしても良いわ。無抵抗でいてあげる」
「例えば、その邪魔な服をひん剥いても?」
「ええ、無抵抗よ」
「じゃあ、この船に乗っているVIPを攫うときでも?」
「ええ、お好きに」
「その話、乗った!」
ロウナスは床を蹴った。両手を顔の前に構え、一挙に距離を詰める。その左腕が空気を唸らせ真っ直ぐ走る直前、足元に落ちていたコインを拾うような何気なさでメノウは腰を落とした。
「!?」
事態はロウナスの行動も合わせて、全て予定されていたように動いた。ロウナスの左拳は空を切り、斜め下から放たれたメノウの左肘が男の胸を突いた。
「かっ……!?」
気道を断たれたロウナスの身体は呼吸困難に陥り、あっけなく押し戻されたが、彼は諦めず軽快な足さばきをもって少女の側面に回り込み、既にそこに用意されていたメノウの脚につまづいて派手に転倒した。
「のわっ! ……っのっ!」
不屈の精神を持つ戦闘機乗りはすぐさま起きあがり、すぐそこにあるメノウの脚を払おうとした。が、それを行動に移そうと全身に指令を送った直後、彼の意思を見透かしたように少女は跳躍していた。当然、鍛え抜かれた彼の脚は空しく大気をかき回しただけだ。
「そろそろこちらから仕掛けてもいいかしら?」
着地したメノウは悠然と言った。慌てて飛び退いたロウナスはあることに気づき、屈辱に顔を赤く歪め、舌打ちした。彼女は最初の位置からほとんど動いていなかったのである。
「女のくせになかなかやるじゃないか」
「あなたもね。私の知っている中じゃ最強よ」
氷の棘でできたそれは、皮肉を超えた嘲弄だった。音を立ててロウナスの理性の糸は切れた。自信家の彼は嘲りを受けることに慣れていなかった。
「……調子に乗ってんじゃねえぞ!」
激情にとりつかれたロウナスは吼え、それこそ野獣の動きでメノウに襲いかかった。刹那、衝撃が彼の視界を真っ白に漂白した。
「!」
それは頬への平手打ちだった。意外と言えば意外な攻撃にロウナスは瞬間、呆気にとられた。そして、よく考えればいつの間に手を出されたのか、という思考を得るほど彼に余裕は与えられなかった。続く衝撃と痛覚が耳、胸、腹、顎に生まれたのである。
実践の基本は武術などの『型』を捨てることから始まる。メノウはジュドからそう教わった。目に見えない気配を感じ、流れを知り、それに乗る。重要なのは呼吸を知ることだ。肉体で唯一制御可能な自律神経系である呼吸を支配し、その拍と律動を自在に操る。呼吸はやがて血に溶け、全身を流れる血は細胞を活性化させ、感覚を鋭敏にする。呼吸を制することで自己を支配し、制御することができるのだ。そして相手の呼吸も知れば、場を支配・制御することも可能になる。つまりは舞踏。武闘は相手と織りなす舞踏でもあるのだ。そこには型などなく、即興のダンスのように直感と経験だけが全てを紡ぎ、戦闘というタペストリーを創り上げるのである。
ロウナスはダンサーとしては三流だったため、展開は全てメノウの手に委ねられ、彼はただただリードされるまま無様なダンスを踊ったのだった。
ロウナスは、不思議と激痛と呼べるほどの痛みを感じていなかった。それよりも頭が朦朧として、気分が悪くなり、意識が薄くなっていくのを感じていた。人体の三分の二は水分のため、人間は水の入った革袋として想定できるのだが、その場合、拳よりも掌による打撃のほうが脳や臓器、神経により多くのダメージを与えるのである。
「こっ、なくそぁっ!」
自棄になって振り上げた蹴りでロウナスは連打を遮った。直後、当然の如く酩酊したような状態の彼は勢いよく横転する。その状態のまま、気分の悪さに耐えかねて胃の中の物を吐き出した。
「おげぇ……えっ……!」
水っぽい音を立てて胃液を吐き出すと、ロウナスは頭を振って意識をはっきりさせようとした。視界の揺れが収まるまで十秒以上かかった。ようやく立てるほどに感覚が回復すると、視界に黒い銃口が映った。
「……!」
メノウが古くさい拳銃を構えてロウナスが立つのを待っていたのだ。
「ゲームオーバーね」
「……そういえば、負けたときのペナルティを聞いてなかったな」
不敵な表情を浮かべようとして、ロウナスは失敗した。
「知っていることを洗いざらい喋ってもらおうかしら」
「……こいつは、俺としたことが魅力的な尻に惹かれて判断を誤ったらしいな」
「女を甘く見るからよ」
「やれやれ……」
ロウナスは大仰に溜息を吐いて見せて、両手を上げて降参の意を表した。この時、またしても神が悪戯心を呼び覚まし、悪魔が意地の悪い笑みを浮かべ、二人の人間にアドリブを要求した。再度、慣性制御装置の手に余る振動が船内を駆け抜けたのだ。
「「──!?」」
慣性力によって二人の身体は宙に浮き、メノウから見て前方、ロウナスから見て後方へ向けて吹っ飛んだ。廊下の上空を滑空したロウナスは、足を壁に向けた状態で行き止まりのドアに激突し、背に生まれた衝撃に息を止めた。次の瞬間、彼は勝利の女神がこちらに豊満な尻を向けていることを知った。それは黒髪の、白いセーターと黒いスマートパンツに身を包んだ女神だった。魅力的な尻がこちらへ近づいてくる、そのすぐ側では拳銃が手を離れて浮いている。手を伸ばせば触れる、と思った彼はほぼ脊髄反射で手を伸ばした。
柔軟な感触を期待していた掌が得たのは、硬いゴムのそれだった。
「……あ?」
空中で身を捻ったメノウがアーミーシューズを、伸ばしたロウナスの手に乗せたのである。
「二回目のゲームオーバーね。このスケベ」
語尾には微かな嫌悪感が滲んでいた。ロウナスの掌を足場としてメノウの拳が山なりの軌跡を描き、その一撃は疑似重力加速度を得て彗星の如くロウナスの頬にめり込んだ。
「がっ──!」
床に叩き付けられて跳ねたロウナスに、横向きの螺旋を描いて戻ってきた鎖鉄球のような拳が、こめかみへ再度見舞われた。
「ごっ──!?」
そして最後、すらりと伸びた右脚が横向きの螺旋軌道に乗り、居合い抜きよろしくの速度で吸い込まれるようにロウナスの首筋へ叩き込まれたのだった。
ひとたまりもなくロウナスは気絶した。
一方その頃、ブラックジャガーに艦首を突き刺したジュドと、『HEAVEN’S BETRAYER』に艦首を潜り込まされたクロムとが別の廊下にて相対していた。
「私の名前はクロム・アインドという。先程、この戦艦を操縦していたのはお前さんかね」
「俺はジュド・ホルスゲイザーだ。ということはさっきのウゼェ操縦はアンタの仕業か」
二人の男の会話は自己紹介から始まるという、珍妙なものだった。
「なに、それほどでもない」
「誉めてないぞ」
「敵に嫌われるのは戦士として正しいことだろう」
「敵を作らない方が人として正しいぜ」
黒いスーツを纏ったドレッドヘアの男と、黒い革の上下という出で立ちの銀髪の男は、出会い方さえ間違わなければ友となりえたかもしれなかった。クロムの黒の瞳と、ジュドのサングラスによって隠された銀色の瞳が互いを映し合う。ドレッドヘアの男は両手に弾圧用のゴム弾機銃を握り、異相の男は右手をポケットに突っ込み、左手に一メートル半ほどの超硬セラミックの棒を下げていた。
「なるほど、道理だ。しかし既に状況はこうなっている。悪いことは言わない。私は暴力を好まない。ドリュー兄妹を引き渡してくれればそれでいいのだ」
「奇遇だな、俺も無用な争いは好きじゃねえ。だからとっとと帰ってくれ」
自然な動きでクロムは機関銃を構え、筒先をジュドに向けた。ジュドもまた違和感のない動きで左手の超硬セラミックの棒を剣のように持ち、切っ先でクロムの顔を指した。
「平行線か」
「いきなり撃ってきて今更話し合いもクソもないだろうが」
「なるほど、道理だ。……しかし、残念だな」
「妙なところだけ気が合うじゃねえか。俺も割に合わない仕事はゴメンだ」
ふっ、とクロムが口元に笑みを浮かべ、ジュドもにやりと笑った。それが合図だった。クロムの指が引き金を引いて機関銃がゴムで出来た衝撃の塊を連射した。それに対し、ジュドは神業を以て応じた。一見無造作に振り回された超硬セラミックの棒が、しかし的確に全てのゴム弾を叩き飛ばしたのである。
「……驚いたな。年齢からしてファーストタイプだと思ったが」
銃弾の嵐をいったん止ませたクロムは、感嘆の息を吐いた。ジュドは右手をポケットに入れたままという余裕の態で、左手の棒を首の後ろに乗せた。
「間違ってはないぜ。確かに俺はファーストタイプだ」
「にしてはセカンドタイプ並の反射神経をしている」
探るような鋭い眼光に、不敵な笑みがひるがえった。
現在、人類は大きく分けて三つに分類される。ファーストタイプ、セカンドタイプ、サードタイプというふうに。ファーストタイプには特記すべき項目はなく、極一般の人類を指す。セカンドタイプとは直感力、反射神経に優れた人種を指して言う。彼らはつい最近生誕した人類に多いタイプで、新しい人類とも呼ばれている。有名な例を挙げるならば、英雄アキラ・インビシブル・御堂あたりが顕著だろう。変わってサードタイプはかなり特殊な部類で、現在でも歴史上において片手の指で足りるほどの人数しか確認されていない。サードタイプとは噛み砕いて言えば「コンピューターを超えた人間」と言えよう。彼らはいわゆる『瞬間記憶能力』と『瞬間計算能力』を併せ持つ天才的な頭脳を有しているのだ。その能力は文明の発展に多く貢献し、一番新しいサードタイプには『ヴァリアブルリヴェンジャー試作一号・シュラト』を開発した桜深楓博士が挙げられる。
クロムが言うようにジュドの反応はファーストタイプの反応速度を超えていた。その秘密は彼の水銀を流し込んだ如き瞳にあった。それは、物質の「目」と呼ばれる弱点と、移動する物体の過去と未来の軌跡を透視できるという、特殊な機能を有する唯一無二の義眼で、非公式ながら名称を『メタル・アイ』という。コードナンバーこそ付けられてはいないが、このような尋常ならざる物を製作できる者はただ一人、この世を統べる神、オーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラのみであろう。
「渋い男には秘密があるってな。次はこっちから行くぞ」
つまらない冗談でごまかしたジュドは、右手をポケットから抜いて駆け出した。すぐさまクロムの機関銃が弾幕を張るが、『メタル・アイ』の前には蜘蛛の巣でしかなかった。必要最低限のものだけ払い除け、ジュドは彼我の距離をあっという間に縮め、ドレッドヘアの男に肉薄した。彼は希代の『メタル・アイ』所持者だけでなく、メノウの戦闘の師でもあり、その攻撃は、「虚」ではなく「実」に富む。つまりフェイントなどの小細工など必要とせず、完璧な速度、最高の角度、絶妙の力加減を三位一体として避けようのない一撃を生むことが出来るのである。
「ふん!」
雷の如く超硬セラミックの棒が振り下ろされた。クロムもまた二流ではない戦士であり、その攻撃が避けえぬものであることを察知していたから、機関銃を以てその苛烈な一撃を受け止めようとした。が、ここで『メタル・アイ』がまたも本領を発揮して、超硬セラミックは最も脆い銃身の根本をしたたかに打ち、斬撃にも劣らない威力によってひびを入れたのである。枯れ木を踏み折ったような間抜けな音を断末魔にして、機関銃は半ばから折れた。
「こいつは驚いた」
衝撃を殺すために飛び退いたクロムは、ガラクタと化した機関銃を見て正直な感想を率直に口にした。いくら素材が同じ物とは言え、一撃、たったの一撃で超硬セラミックの銃が破壊されると誰が予測するだろうか。むしろクロムの反応は淡泊といって然るべきだった。
「ふむ、形勢は不利だな。悪いが撤退させてもらう」
彼は相棒と違って判断力に恵まれており、逃げるべき時に逃げることを知っていた。ドレッドヘアの男は無用の長物と化した機関銃をジュドに向かって投げつけると、颯爽ときびすを返しかけた。飛来するガラクタをたたき落としてジュドが制止の声をあげようとした。
「なんだと!? ちょっ、こら、まだ早──」
彼らが互いの艦を激突させた時と劣らぬ衝撃が生じたのは、その瞬間であった。震動が二人の足元を崩し、たまらず彼らは横転した。
「おお?」「ぬをっ!?」
揺動はすぐには収まらず、しばらく続いた。徐々に弱くなっていく揺れの中、ジュドは神や仏、運命に向かって抗議するように叫んだ。
「何事だ! 一体何が起こりやがった!」
悪い予感は彼ではなく、クロムの頭によぎった。
「まさか……」
明敏な彼の脳裏に浮かんだのは、不本意な直結を余儀なくされていたブラックジャガーと『HEAVEN’S BETRAYER』のどちらかが、結合した時と同じ勢いで離れたのでは、という可能性だった。
そしてそれは大いに的中していたのである。
「動いた!」
本来ならばクロム・アインドの腰を抱き留めているシートに腰を乗せたトニー・ドリューは、艦橋に驚喜の声を響かせた。彼の指によって待機モードにあったブラックジャガーのコンピューターが再起動した瞬間だった。
幾つかの推進器はジュドの手によって破壊されていたが、ブラックジャガーの可動型推進器が『HEAVEN’S BETRAYER』のある方向へ向けられ、推進剤を噴射する。その身に背信者の槍を突き込まれた黒豹は懸命にそれを抜こうともがいた。その努力は報われ、多少の引っかかりに伴い大きな震動を残しつつ、二隻の戦艦はその身を離した。
「動いた、動いたぞ! ははっ! 動いた!」
興奮状態に陥ったトニーは同じ言葉を熱っぽく何度も繰り返した。そのすぐ側では、全身に罪悪感という言葉が書いてある少女が、小さなピンクダイヤの瞳に大きな不安を除かせていた。
「お兄ちゃん……」
呼ぶ声も弱々しい。不安と恐怖と罪悪感という強力な魔物がセリアの心を食い散らかしていた。
「だ、ダメだよ、こんなの……! これ、泥棒だよっ? やっちゃいけないことだよ? 神様に怒られちゃうよ!」
溜まらなくなってセリアは叫んだ。幼いセリアの価値観もまた、トニーと同じく〈ヘブン〉の教えだった。その〈ヘブン〉の教えの中には大四悪というものがある。嘘、暴、盗、殺がそれであり、少女の兄が今まさに行おうとしているのはその内の一つ、盗だった。セリアは妹として、トニーの悪行を止めなければいけない。しかし彼女と同じ神を信じる兄の返答は、その志向を異にしていた。
「泥棒? 何を言っているんだい、セリア。この艦は、あのならず者たちの艦と喧嘩をしていたんだぞ。この艦の人間だってろくな奴じゃないに決まってるさ。この艦だってきっと、いいや、間違いなく盗品だよ。この艦をそんな奴から奪い返すのは正義だろ?」
トニーの弄する弁に、セリアは目に涙をためて、それでも強硬に首を横に振った。
「ううん、違う、違うよそんなのっ! 間違ってるよっ! お兄ちゃん、人の物は盗んじゃいけないんだよっ!?」
「大丈夫、大丈夫だよ、セリア。盗むわけじゃないんだ、後でこの艦はちゃんと持ち主に返してあげるんだ。それなら泥棒じゃないだろ?」
「誰に? 誰に、どうやって返すの?」
「それは……」
語を次ごうとして、トニーは沈黙した。上手い言い訳が思いつかなかったのである。彼はこの艦をどうしても盗みたかった。戦艦を奪取し、追っ手をまき、妹と二人っきりで宇宙空間を駆ける──彼はそうしたかったのだ。ロマンチシズムの極地であった。彼は『妹という姫を守る、格好いい騎士』としてありたかったのである。
もはや精神の視野が狭窄し、自分が何をしようとして何をしたかったのかわからなくなってきたトニーは、不意に生まれた苛立ちにセリアを怒鳴りつけた。本当は、戦艦がうまく動いて気分が良かったのに茶々を入れられたのが気にくわなかったのだ。
「うるさい! これでいいんだよ! 僕とお前が助かるにはこれしかないんだ!」
兄の剣幕にセリアは、ひうっ、と息を呑んだ。目が見開かれ、美しい桃色の瞳に溜まっていた涙が大粒の水滴となって頬をこぼれ落ちてゆく。
「あ……」
天上の神の放った小さな針がトニーの胸に届いたが、遅すぎるというものだった。良心の呵責に顔を青くしたトニーの前で、セリアの小さな口から何かの言葉がこぼれた。
「……や……」
「え……?」
「……いや」
ようやく聞こえたのは、拒絶の言葉だった。今度はトニーが目を見開く番だった。大人しい妹から初めて聞いた言葉に、彼は驚愕の表情を浮かべて全身を硬直させた。彼は自ら、セリアの中でくすぶっていた爆弾のスイッチを入れてしまったのだ。幼い少女はうつむき、ゆっくり首を振りながら、あらん限りの声で叫んだ。
「もういや! もういやぁ! もういやだよ、こんなの! おうちにかえりたい! おとうさんにあいたい! おかあさんにだっこしてもらいたいの!」
一三歳の少女の混じり気のない本音をぶつけられ、トニーの矜持にひびが入った。ロマンの世界にいた彼にとって、庇護の対象たる妹の口から自分以外の者を頼りとする言葉を聞かされたのは少なからぬ衝撃だった。
さんざんに喚いた後、セリアはその場にへたり込んで本格的に泣き始めた。赤ん坊のように号泣する妹に、トニーは大いに困惑し、狼狽した。
「せ、セリア? な、泣かないでくれよ、なあ、セリア、泣いてもしょうがないじゃないか。お前の目は危険なんだ、逃げないとまずいんだよ、わかってくれよ。ああ、もう……」
絶望の断崖の数センチ前で困り果てたトニーは、片手で髪をかき回しながら頭上を仰いだ。
ひやりとした感触が喉元に突きつけられ、形容できない戦慄が若者の全身を駆け抜けた。
「っ!?」
「いや、ほら、あたしってばフェミニストだからさ、泣いている女の子は放っておけないのよね。あと、女の子を泣かせてる奴も別の意味で放っておけない」
一体いつの間にこの部屋に来て隣に立ったのか、金色の瞳の暗殺者がそこにいた。片手に握った刀の刃を、どこか面倒くさそうに構えて、トニーの喉に寄せて。
手に触れられそうな殺気をトニーは感じていたが、あるいはそれは彼の錯覚だったのかもしれない。トニーの抱く後ろめたさや悔恨の念が雪音という青年を鏡にして、殺気という形をとったのであろう。
「ど、どうして……」
両手を挙げて降参の意を表しながら、トニーは問わずにいられなかった。艦橋は密室であるはずだったし、そもそも人が入ってくれば気付くようなものである。何故、自分は彼の侵入に気付かなかったのか。セリアも同じ事を思ったのか、泣きやんできょとんと突然現れた雪音を見つめている。
問われた雪音はくすりと笑い、愛嬌たっぷりのウィンクを一つ見せ、男性的に色っぽい声音でこう答えたのだった。
「企業秘密」
「まったく、ややこしい事になっちまったもんだぜ」
『HEAVEN’S BETRAYER』の艦橋でソファに腰を下ろしたジュドは、喉を反らし、心底疲れ果てたような声を漏らした。
あの後も騒動はしばらく続き、メノウによって捕虜となったロウナスはともかく、クロムの抗戦は巧緻の一言に尽きた。彼は格納庫から奪った小型宇宙艇でブラックジャガーを追いかけ、その中でも雪音を相手に白兵戦を繰り広げたのである。すったもんだの挙げ句、どこにもドリュー兄妹がいなかったことを知ったクロムの顔を見て、ジュドは同情を禁じ得なかった物だった。
「にしても、雪音も雪音だ! ったく、依頼人を勝手に逃がしちまいやがって。しかも追いかけてる途中で『もういいから』だとぉ? ざけてんじゃねえぞ、くそっ……」
ドリュー兄妹は、雪音の提供したクロムら所有のスペースシャトルに乗って行方をくらませている。おそらくは雪音も付き添っているのだろう。未だ『HEAVEN’S BETRAYER』の格納庫に『黒雨の閃』の姿はない。なおもぶつぶつとぼやき続けるジュドに、メノウが事実を明確にする言葉を口にした。
「骨折り損のくたびれ儲け、ね」
「言うな! 聞きたくねえっ」
ジュドの悲鳴を聞き流しながら、メノウは何光年も遠くにいる三人について考えていた。おそらく今頃は、雪音がのらりくらりと、しかし、しっかりと本質を抑えた説教をトニーにしていることだろう。メノウにはその情景が眼に浮かぶようだった。彼からの通信によってドリュー兄妹の行動の詳細と、失語症が嘘であったことは既にメノウとジュドの知るところである。勘違いをした、独善的とも言える浪漫主義の兄の暴走に、その妹はどれだけ振り回されたことであろうか。今回の騒動の質が悪いところは、トニー・ドリューにはけして悪気があったわけではない、という点にあるだろう。彼は本心から妹を守ろうとして、そのエネルギーを向ける方向を間違えてしまっただけなのである。
「どんな愛情も、優しさも、歪んでしまえば害悪になる……典型的な例ね」
「あぁ?」
「何でもないわ」
あの兄妹に残された選択肢は少ない。兄の方はともかく、妹に関しては皆無と言っていい。『異端』として殺されるか、『異端』たる由縁を捨てるか、その二つだけなのだ。雪音の助言、兄の激励、本人の意志を以て後者が選ばれるだろうが、事象の原因もその結果も、まことにもって『犬に噛まれた』と評するしかなかった。
「ところで」
「あぁ?」
「アレ、どうするのかしら?」
「どうすりゃいいんだよ?」
二人の視線は艦橋の隅の方へ注がれた。そこには両手両足を拘束されている二人の男が転がっていた。気絶しているロウナス・アストライアに、首をうなだれて落胆しているクロム・アインドだった。不意に顔を上げたクロムが、遠い目を天井に向けて、こう呟いた。
「苦しいこともあるだろう、云い度いこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣き度いこともあるだろう、これらを、じっ、とこらえてゆくのが男の修行である……」
そして再び首をうなだれたのだった。
「イソロク・ヤマモトだな」
「どうでもいいわ」
「お前な、あらゆることを理解することは私たちを寛大にする、って大昔の夫人の言葉があるの、知ってるか」
「スタール夫人ね。あなた、本は読まないくせに妙なことは知っているのね」
「ほっとけ」
ふとメノウとジュドの視線が合い、しばしの静寂が訪れた。やがて二人はほぼ同時に二匹の黒豹を一瞥し、演劇の脚本を読むように短い会話を見事に交わした。
「適当なところで捨てるか」
「そうね、そうしましょ」
どこからか雪音の声が聞こえてきそうだった。
「いや、ほら、あたしってばフェミニストだから」
それに倣うのも一興だろう、と黒髪の少女は煙草をくわえながら思うのだった。