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■record.Ⅰ デイドリーム・メモリーズ

 いきなり壁の中から出てきた女子高生に、黒いスーツの男達は為す術もなく倒された。


 三人いた見張りの男達が突然の闖入者に呆気にとられた瞬間、一人は喉に右の手刀を、一人は顎に掌打を、一人は腹に前蹴りを、それぞれ避けることも出来ずに直撃を受けた。二人は声を上げる間もなく気絶し、腹に一撃を喰らった男は腹を抱えて呻きつつも意識を保っていたが、


「!」


 突如、唇と歯を押しのけて口内に入ってきた鉄の感触に、喉を引きつらせた。今時鉄製という古くさい拳銃を口に突っ込まれた男は、全身の筋肉を硬直させた。だがそれでも相手の顔を確認する事だけは忘れなかった。


 ミラーシェードで顔を半分隠した、黒髪の女子高生だった。何故『女子高生』と思ったのかというと、この店が女子学生専門の『売り』の店であり、相手が彼のよく知る女子高の制服を着ていたからである。もしかすると実際には『女子高生』とは呼べない年齢の女なのかもしれないが、それよりも現時点で彼にとっての最大の問題点は、口の中に滲む鉄の味だった。体を動すどころか、声も出せない。


「聞きたいことがある。身振りで答えろ。すぐに答えれば命だけは助けてやる」


 右手に持った拳銃をさらに男の口内へ押し込むと、女子高生の唇から、変声機で低く加工された声が威圧的に発せられた。


「アルノーツ・シグリスはこの中か」


 少女は顎で男の背後を示す。そこには深紅の壁に焦げ茶色の扉がある。男は全身に脂汗をにじませながら、それでも視線はしっかり少女の顔に固定して小さく頷いた。その拍子に上の前歯が銃身に当たり、硬い音を立てた。


 刹那、男の両目に激痛が突き込まれ、光を失った彼が悲鳴を上げるより速く、喉への一撃がその意識を闇へ落とした。約束通り、命だけは助けられたのだった。


 少女は男の両目に突き刺した左の人差し指と中指を、気絶した男の服に擦りつけて血を拭い、ついでに銃口についた唾液も拭き取った。ミラーシェードを下にずらし、肉眼で三人の男が完全に気絶していることと、すぐ左にある階段と前方の廊下から男の仲間が来ていないことを確認する。


 ミラーシェードをずらすことによって露わになった瞳は、他者に美しいという感銘よりもまず、違和感を感じさせるものだった。少女の瞳は左右の色が異なっていた。右は黒曜石の如き勁烈けいれつな輝きを放つ黒。左はサファイアと言うよりもガラス玉のようにどこか無機質さを感じさせる青だった。右目が苛烈な光を放っているのに比べて、左目はまるで義眼のように生命力という物を感じさせなかった。色ではなく、その印象こそが他者に違和感を感じさせる原因だった。


 少女はミラーシェードを戻して再び瞳を隠すと、静かに焦げ茶色の扉に歩み寄り、耳を当てて中の様子を探った。話し声が聞こえる。男が二人。内容は聞き取れないが、少女の脳裏に二枚の指名手配書が浮かび上がった。『アルノーツ・シグリス』にその補佐役の『辺・青虎ペン・ツィンフー』、どちらも『菩提樹リンデンバウム』というふざけた名前のマフィアの幹部である。賞金は合わせて二五〇〇万。


 少女は扉から二歩離れると、すらりと伸びた健康的な右脚を勢い良く扉に叩き付けた。激しい音を立てて扉が打ち開けられると、部屋の中にいた二人の男が驚愕の顔を向けた。一人は執務机に座っており、もう一人はその机に向かい合う形で立っていた。少女からは執務机の前で振り返る男と、その横からこちらを覗くもう一人の顔が見える。おそらくは執務机に座っているのが『アルノーツ・シグリス』、こちらに振り向いているのが『辺・青虎』だと少女は推測した。


 辺が部外者の闖入ちんにゅうに気付き、スーツの懐に右手を入れる。だがその時には少女の銃口が彼の喉元を照準していた。それに気づき、辺もアルノーツも生ける彫像と化した。


「アルノーツ・シグリスに辺・青虎だな。お前達はDEAD OR ALIVEだ。抵抗したら殺す。諦めて降参した方が身のためだ」


 口早に放たれた言葉に容赦はなかった。アルノーツと辺は互いに視線を交わし合う。二人は迷っているようだった。相手は女、しかも子供。賞金稼ぎのようだが、抵抗すれば何とかなるのではないか?


 突然、辺の右肩が弾け飛んだ。身体から離れた右腕が壁にぶつかり、噴き出した血が雨のように執務机を打った。アルノーツが血の雨をかぶって目を剥き、辺がもんどりをうって倒れる。二人はその時点になってようやく、少女の構えた拳銃が銃弾を撃ちだしたことを知った。あり得ないことに、サイレンサーもつけていないのに銃声がしなかった。


 変声機で加工された太い声が、先程とは打って変わった口調で、気怠げに言った。


「なんなら殺してあげるから。本当はそっちの方が都合良いのよ。だから早く答えないと」


 銃口がアルノーツに向けられた。


 溜息一つ。


「生かしておくのが面倒になるわよ?」


 何気ない故に、言葉に出来ない凄みが含まれていた。


 少女の三倍は生きているであろう男は、観念したように両手を上げたのだった。




 record.1 デイドリーム・メモリーズ




 かつて歴史に名を残す『ヴァリアブルリヴェンジャー試作一号・シュラト』が穿ったという、月で最も巨大なクレーターの名を『ルナティックキャノン』という。月の表面積5分の1を占めるこの穴が、風船のように膨らんだ地球から見て、まるで砲口に見えるから──というのがその理由である。また、月の女神のルナと「気の狂った、常軌を逸した、気違いじみた」などの意味を持つルナティックとをかけてある。


「実にうまい。ルナティックキャノン(狂気の大砲)とはよく言ったものだ。狂気は凶器にして驕気。戦争の傷跡に付けるにはもってこいの名前だ。ところで、この穴を開けた当の『シュラト』の名前がどこにも使われていないのは何故なのだろうか?」


 と記した手記を残したのは、月における地球軍の侵略に多大な貢献をしたその『ヴァリアブルリヴェンジャー試作一号・シュラト』を開発せしめたサードタイプ、桜深楓おうみ かえで博士である。


「そりゃ勿論、漢字で書けば修羅斗なんて縁起の悪い文字になるからに決まってるだろ」


 旧暦二十二世紀の終わりに風船のように膨らみ、噴き出したマグマがひび割れた隙間を埋め、まるでマスクメロンのようになった地球と、それを見つめる月を臨んで男は呟いた。


 だが桜深博士と同じ疑問を抱いた者は多く、実際、現在ではルナティックキャノンを擁した月が眼球に見えるところから、風船(地球)を睨む『化けシュラトの目』と俗に呼ばれている。


 艦橋のシートに座して、前面のスクリーンに映る眼球と風船を見るとも無しに見ていた男は、不意に大きな欠伸をした。欠伸に比して大柄な身体が伸び広がり、その身を包む着古された黒革の上下が軋むように衣擦れの音を立てる。


 異相だった。限りなく白に近い白銀の髪に、ごつごつした岩のような大雑把な顔作りをしている。決して美形とは言えないが、他人に強烈な印象を与えずにはいられない造形だろう。だが異相を異相たらしめているものはその両目にあった。顔に空いた穴の内二つを埋めているのは、瞳孔のない水銀の如き眼球だったのだ。金属めいたその目は、まるで鏡のようにスクリーンの月と地球、そして宇宙を映している。


「ジュド」


 男の背後から声がかかった。ジュドと呼ばれた男は欠伸の余韻を噛み潰しながら振り返ると、眉の間に無数のしわを刻んだ。


「メノウ! お前また【やった】な? さっき宙警から『これからの捜査の参考にするため協力して欲しい』って名目で質問が来たぞ」


 大部分の非難に諦めの微粒子を含んだ声をぶつけられたのは、ミラーシェードをかけた黒髪の少女だった。ジュドは瞳のない視線を、艦橋に入ってきた制服姿の少女に突き刺す。


 メノウと呼ばれた少女はシートの裏のソファに歩み寄りながら、ジュドの質問に一ミリも表情筋を動かさず気怠げに答えた。


「面倒だったのよ。それより煙草は……ああ、あるわね」


 ソファに腰を下ろすとスカートのポケットからジッポライターを取り出し、ソファの前のテーブルに載っている煙草の箱から一本を取り出してくわえる。火を点けようとすると、ジュドが声をあげた。


「おい、それは俺のだぞ。勝手に吸うんじゃねぇ」


「ケチくさいわよ」


 メノウはジュドの抗議の声を短い言葉で切り捨て、煙草に火を点けた。甲高い音をたててジッポライターが閉じられる。やがて紫煙がたゆたい、天井へ昇っていった。


「うるせぇ、残り少ない上に火星までまだ日があるんだ。ケチくさくもなる」


 半ば形だけの抗議だったらしく、ジュドはそれ以上文句をつけずに再びスクリーンに顔を向けた。腕を組み、口の中で言葉をこねるようにもごもごさせる。


「大体な、無理はするなと言っただろ」


「またその話? 三回目よ」


「いいやこれはまた違う話になるだろ。俺ぁさっき宇宙警察からメールが来るまでお前が【裏技】を使ったことは知らなかったぞ」


「言う必要がなかったからよ」


 紫煙を吐きながら淡々と少ない言葉だけを返すメノウに、ジュドは発作的に声を荒げた。首だけで振り返り野太い声を張り上げる。


「だから、無理はするなと言っただろ! ただでさえ風船に近い宇宙センターだったんだ、俺を呼べば良かったじゃねえか! 【裏技】もそうだがお前のあれまでバレたらどうなると思ってるんだ!?」


「大丈夫よ。目撃者の目は潰しておいたし、約束通り誰も殺してないわ」


「なぁにが大丈夫だ! 目を潰す、喉を潰す、腕をもぐ! 俺のとってきた依頼以外じゃ簡単に殺す! お前それでも一七歳か!?」


「今、問題の焦点がずれたわよ。後、声を大きくしないで。耳が痛いわ」


「ぐ……!」


 冷静に指摘されたジュドは逃げるように視線をスクリーンに戻した。


「じゃあ話を戻す。いいか? ここは〈ヘブン〉の本拠地に近いんだ。見つかったら俺もお前もヤバイ。これはわかってるな?」


「もちろん。雪音は?」


「センターから別の船で月に行った、仕事らしい。その内帰ってくるさ。それで、だ。それにも関わらずお前はバレちゃヤバイ【裏技】を使う。これはどういうわけだ?」


「さっきも言ったとおりよ」


「ぁあ?」


「面倒くさかったのよ。あなたを呼ぶのも、あなたが来るまで待っているのも。店に侵入出来たまではよかったけど、アルノーツの部屋までの道が分からなかったし」


 メノウは呟くように言いながら左手をポケットに入れると、中から薄い筆箱ほどの大きさの黒い箱を取り出した。超薄型のラップトップコンピューターだ。ジュドはその薄く小さなコンピューターの中に、コードと称される古今東西の呪文書、魔術書、教本が特殊なフォーマットで収められていることを知っている。そしてそのコードこそが彼の危惧している【裏技】であり、かつて地球から発祥した宗教〈ヘブン〉が、慢性的な戦争状態にあった地球と月と火星の統一に用いた『力』であるということも、知っていた。


「大体、【コレ】の方があなたより役に立つのよ」


 ジュドはメノウの言い種に腹を立て、もう一度振り返って怒鳴りつけようとした。が、それよりも早くメノウの一言が彼に制動をかけた。


「それに言わせてもらえば、この船の名前の方がヤバイと思うわよ?」


 それは必殺の一撃だった。ジュドは出しかけた怒鳴り声を喉に詰まらせた。


「うぐっ……」




 太陽系を天頂方向から俯瞰すると、新暦六五〇年の八月二十六日現在、木星の公転軌道に沿って火星方面へ向かう小型の宇宙船、否、宇宙戦艦が一隻だけ見えるだろう。


 それはかつて最新鋭機と呼ばれた現在の老朽艦で、かつて斬新と言われた時代遅れのデザインをしている。


 元は白銀であった装甲を黒く塗り、両の側面に白いペンキでこんな文字列が激しいタッチで描かれている。




『HEAVEN’S BETRAYER(楽園に背を向けし者)』




 命名者および作者は、現在ジュド・ホルスゲイザーと名乗っている、その人であった。






 メノウ・ヒラサカは正式には名前を『比良坂瑪瑙』と書く。だがこの文字列を使用することはほとんどない。理由はごく単純に、読める者が極端に少ないからだ。特に、『比良坂』はともかく『瑪瑙』という字に関しては、以前こんな事を言われたこともある。


「なあ、あんたもしかして大昔の世界からタイムトリップしてきたんじゃねぇのかい? こりゃアレだろ、大昔の風船のどっかの文明で使われていた古代文字だろ。ん?」


 もちろんワードプロセッサーの漢字入力機能、主に日本語入力機能を使えばディスプレイに表示されるれっきとした文字ではあるのだが、これはこれであながち間違ってもいない。実際、メノウの先祖が発祥した日本という国は事実上消え去っているのだから。


 以上の理由だけではないが、とにかく彼女は『メノウ・ヒラサカ』を通称として使っている。よって『比良坂瑪瑙様へ』という出だしで届いたメールを読んだとき、彼女は思わずミラーシェードを外して色の異なる両目でその文を見直してしまった。


 彼女の両目はいわゆる『オッド・アイ』『金銀妖瞳ヘテロクロミア』と呼ばれるものだ。人間だけでなく、犬や猫にもこの現象が見られることもあり、原因としては遺伝子情報の突然変異等が挙げられる。医学用語では『虹彩異色症』という。この時代、目に異常──特に左右の目の色が違う、義眼であるなど──を持つ者は宇宙を統べる宗教〈ヘブン〉によって『異端』とされていた。全宇宙を唯一の価値観で統一しようとしている〈ヘブン〉にとって『異端』とは唾棄すべき、あってはならない存在として扱われる。『異端』は法を乱し、秩序を壊す、その象徴であるからだ。史実においては、かつて〈ヘブン〉軍と太陽系の覇権をかけて争った月と火星の統一軍『フレイムラビット』の総司令官ジョナサン・マクブライトが、青の瞳と赤の義眼のオッド・アイだったという。『異端』は〈ヘブン〉に発見されれば、たちまちその劣悪な遺伝子を後世に残さないための処置──すなわち生殖能力を剥奪され、また、反乱分子の象徴となる可能性があるために死ぬまで専用施設に閉じこめられることになる。よって、多くの『異端』はその瞳を隠し、社会の隅に潜んで生きている。メノウとジュドもまた、その中の一人だった。


「前略、比良坂瑪瑙様へ。突然のメールで大変失礼致します。私の名はウィリアム・エーディルと申します。兄のバークガー・エーディルからあなたのお名前と、武勇伝を聞きました。宇宙を股に掛けてご活躍しているとか。実を言いますと、私は現在非常に困った状況にあります。その件に関しまして、是非ともあなたの力をお借りしたいのですが、いかがでしょうか? これは正式な依頼とお受け取り下さい。内容は直接会ってお伝えしたいので、都合の良い日時をご指定してくださると幸いです。それでは、御返事をお待ちしております」


 長くもないメールを読んだメノウは一瞬だが迷った。依頼の内容は直接会って、の辺りが引っかかったのだ。「どんだけ記憶をほじくり返しても、こんな事が書いてある依頼にはろくなモンがなかったぜ」とはジュドの台詞であり、事実メノウ自身にも覚えがあった。


「…………」


 だが一瞬の思考の後、メノウはこの依頼を受諾する事を決めた。さらりとメールの返事を書いて送信する。


「依頼受諾 このメールの発信時間より6時間後 場所はバークガーの依頼と同じ」


 そっけなく、しかしメールの送信者が本当にバークガーの知り合いであるかどうかを試す文だった。バークガー・エーディルは数ヶ月前に「一人の賞金首を捕まえて自分の前まで引っ張ってきて欲しい」とメノウに依頼してきた人物である。報酬は賞金額の二倍だった。後で知ったがその賞金首は女の結婚詐欺常習犯で、バークガーはその数多き被害者の一人だった。メノウは女賞金首を引き渡し、報酬を受け取った後は干渉せずに艦に戻ったためバークガーが彼女をどうしたのかまでは知らない。


「おい、なんだ? 依頼でも来てるのか?」


 背後のソファに腰を落ち着けて雑誌を読んでいたジュドの声が、端末に向かうメノウの背にかけられた。メノウは依頼のメールを手元のラップトップに送信し、端末をリセットする。


「さあ? まだ依頼かどうか判らないわ。実際に会って内容を伝えたいらしいし」


「あ、バカお前、そういうのにはろくなモンがねえって前に言ったじゃねえか」


「いいのよ。私はろくでなしの方が好みなんだから」


 ミラーシェードを外して振り返り、無機質な碧眼にジュドの異相を映し、メノウは辛辣な言葉を口にした。


「こんな船に乗っているのが、良い証拠よ」


「……で、実際の打ち合わせの場所はどこだ?」


 ジュドはどうやら尖った悪魔の尻尾のような言葉を無視したようだった。


「火星よ。あと三時間もあればつくでしょ?」


「あ? 今の速度だと三日はかかるぞ? ああ、まあ、ワープエンジン使えば三時間でつくがな。急ぎか?」


「それなりに」


「ワープ用の燃料は金がかかるから嫌なんだがなぁ……」


「センターの依頼人からアルノーツと辺の賞金が振り込まれるはずよ。あなたが受けた依頼だけどメインで動いたのは私だったでしょ? 使う権利は主張できるわよ」


「ちっ……しかたねぇなぁ」


 雑誌を置いて立ち上がると、ジュドは艦の機関部へと向かっていった。


 メノウは端末の前から立ち上がり、よくジュドが座っているシートの横に立った。前方には宇宙空間を映すスクリーンがあり、そこには化け物の目に睨まれたマスクメロンのような風船がある。


 星々の光が淡く少女を照らし、その姿を控えめに彩っていた。彼女の腰に届くほどの黒髪は一本一本が絹糸のようでいて、柔軟性に満ちた流れを成している。白磁の肌に、名工が魂を込めて創り上げた彫刻の如き鼻梁と唇。そこに填め込まれた黒曜石の輝きを放つ宝石と、光を吸い込んで反射しない青いガラス玉の金銀妖瞳。違和感さえ除けば、美貌と称して良かった。美しい女神像よりもどこか、豹のしなやかさを感じさせるすらりと均整のとれた肢体を、黒のセーターとホワイトジーンズで包んでいる。彼女は十七歳だが高校生ではない。アルノーツを捕まえる際に着ていたものは現場で入手した衣装だった。


 メノウの視線は一途と言っていいほどに、変わり果てた地球に注がれている。右の瞳が苛烈な光を宿していた。怒りか憎しみか、あるいは怨念か。強い、強い視線だった。


 艦橋に警告音が響いた。空間跳躍の前兆だ。スクリーンに映っていた夜の空間が、より濃い闇に塗りつぶされる。今度の亜空間も光のない世界らしい。


 空間跳躍方法を発明し実践してのけた技術者の名をクードス・ワープ・シュライターデンという。彼の編み出した空間跳躍とは、かつては名前だけの存在であった亜空間へ突入し、再び元の空間へ戻ってくる──という、あまり独創的ではない方法であった。この場合の亜空間とは言い換えれば『異世界』であり、世界を構築する物理法則からして違う空間である。例えば酸素は鉄より重く、水は炎よりも熱く、金属は冷やせば溶ける──などなど、万物を支配する法則からして違う場所なのだ。実際、我が身をもって己が理論と発明の是が非を確認したクードスは、亜空間から帰ってきたとき、原形を留めぬほど溶解した宇宙船の中で体内の酸素に押しつぶされ、炎よりも高い熱を持った身体は半ば宇宙船の床と同化していた。この様な事態を避けるため、宇宙船の周囲だけを人類の生息する宇宙の法則に固定する発明をしたのが、宇宙の支配者〈ヘブン〉の教祖である。未だその発明の全容は明かされておらず、今やワープエンジンを持つ全ての宇宙船は〈ヘブン〉で生産されたものであった。


 その一隻に『HEAVEN’S BETRAYER』と刻まれているのはなかなかの喜劇とも言えた。


 メノウは何も映さなくなったスクリーンに背を向け、ミラーシェードで金銀妖瞳を隠した。


 やがて本格的に空間跳躍が始まるだろう。早めに艦を降りる準備をしておかなければならない。火星では仕事が待っている。


 メノウはジーンズのポケットから煙草とライターを取り出した。そしてくわえた煙草に火を灯し、首だけでスクリーンに振り返り、先程地球が映っていた辺りに吹きつけるつもりで煙を吐いたのだった。






 ウィリアム・エーディルはもう何度目か分からない質問を自分に対して投げかけていた。


 良いのだろうか? 本当に、良いのだろうか? この事件の解決を他者の手に委ねてしまって、本当に良いのだろうか?


 彼の悩みの根は相当に深かった。三日前に兄のバークガーから「困ってるんだろう? イイ奴知ってるぜ」と紹介された『裏業者』に連絡するのにも、二日も悩んだ。


 そして今、本当にその『裏業者』にこの悩みの種を預けて世話を任せても良いのか──という疑念が、彼の頭の中に焼き印の如くこびりついて離れない。


 ここ、火星半埋設コロニー・スコーピオンの内部気温は常に一定に保たれている。立体映像の太陽が春の陽光を柔らかに振りまく中、カフェテラスのちょうど中央のテーブルに頭を抱えてうずくまっているウィリアムの額には、玉のような汗がいくつも浮いていた。


 時刻は昼食をとるにはちょうどいい頃合いである。カフェテラスは繁盛しているとはお世辞にも言い難かった。ウィリアム以外の客は、彼から見て左後ろに三人、右前の隅に四人。二五個もあるテーブルの内たった三つのテーブルしか使われていないのだが、余裕のないウィリアムはその事に疑問を抱くどころか、気づきもしなかった。


「ウィリアム・エーディル?」


 よって、彼はすぐ前の席に座っていた女性からそう聞かれたとき、すぐ側に雷が落ちたかのように驚き、顔を上げて目を剥いた。


「…………!?」


 声も出なかった。自分の心臓の鼓動が痛いぐらい頭を叩いていた。一体いつの間に座っていたのだろうか、まるで気がつかなかった。いくら考え事をしていたとはいえ、こんなに近くまで来ていたのなら気付きそうなものなのに……


 まるで亜空間から現れたかのようなその女性は、顔の半分をミラーシェードで隠しており、紺色のパンツスーツに身を包んでいた。湾曲したマジックミラーに汗にまみれたウィリアムの顔が映っている。彼は慌ててハンカチを取り出して汗をふき取った。


「あ、申し訳ございません。はい、私がウィリアム・エーディルです。あの……あなたが比良坂瑪瑙さん……?」


 肯定のかわりに訂正が返ってきた。


「メノウ・ヒラサカでいいわ。そちらだと書くのが面倒だから。それにしてもよく知っていたわね、あんな難しい字」


「はい。私はこれでも学者でして、一応十カ国語をマスターしています」


「依頼の内容は?」


 ひそやかな自慢をあっさり無視されて、ウィリアムは不本意そうな表情を一瞬だが浮かべた。汗で重たくなったハンカチを仕舞いながら、咳払いを一つ。気を取り直して早速本題に入ろうとしたところで、ウェイトレスがテーブルに近づいてきた。


「コーヒー、灰皿」


 ウェイトレスが何かを言う前に裏稼業の女性は簡潔に注文した。ウィリアムは再び不本意そうな表情を浮かべる。彼はコーヒーの匂いも煙草の煙も嫌いなのだ。彼の手元には一度も口を付けずに冷ましてしまったレモンティーがある。


 ウェイトレスが去っていったのを確認してから──想像以上に軽く覚悟が決まってしまい──ウィリアムは口を開いた。


「まず単刀直入に言いますと、ある人物を捜して欲しいのです」


 懐から取り出した一枚の写真をメノウ・ヒラサカに差し出す。


「身長は一七〇センチ、体重は五五キロ、年齢は二一歳。顔は写真の通りです」


 言うべき事を言わなかったことに、この女性は気付くだろうか──そんな思いがウィリアムのどこかにあった。そしてその期待は報われた。


「名前は?」


 当然と言えば当然の質問なのだが、しかしウィリアムは答えられなかった。メノウ・ヒラサカの写真に注がれていた視線が、ウィリアムに向く。


「……わかりません」


「…………」


 沈黙が痛かった。メノウ・ヒラサカの視線がミラーシェードを超えて突き刺さるようだった。


 わかっている。身長や体重や年齢を知っていて、写真まで持っているのに名前がわからない、そんなバカなことがあるか、自分でもそう思う。


「……いえ、正確には、ありません。彼には戸籍がないんです」


 この時、メノウ・ヒラサカの洞察力はウィリアムの想像以上に鋭かった。


「あなた、何の学者なの?」


 「名前がない?」と安直に聞き返さず、その先を行く質問だった。この質問に答えることで、ウィリアムが探し求めている『ある人物』の正体をメノウ・ヒラサカはほぼ明確に推測できるであろう。あまりに的確な質問にウィリアムは内心で舌を巻いた。


「超能力研究所……と言えば胡散臭いと思われるでしょうが、具体的には亜空間法則に関して研究している研究所の者です。亜空間法則とはあの〈ヘブン〉が宇宙を統一する際に使ったという」


「モルモットね」


 文字通り、メノウ・ヒラサカの一言がウィリアムの台詞を遮断した。若い学者の顔が明確にこわばった。こうもあからさまに言われるとは思わなかったのだ。


 流石は裏の世界に身をやつしている者──とはウィリアムは思わなかった。彼は余裕のない人間だった。胸を突き刺した言葉に対して、彼女に対しては隠すだけ無駄かもしれない、と学者はあっさり観念したのだ。


「……彼はサンプルです。コードは『バオ』といいます。それが我々が彼に与えた名前です。バオは四日前、実践データを採取するための作戦遂行中、我々の監視を逃れて脱走しました。彼はサンプルの中でも五本の指に入る優等生でした。頭もいい。我々としては彼を失う訳にはいかないのです。今頃はおそらく何とかしてこの火星から脱出しようと図っているでしょう。バオは元々宇宙航行士だった人間をベースに」


「報酬は?」


 再びメノウ・ヒラサカの声が無形の壁となってウィリアムの言葉を喉元で押しとどめた。ウィリアムはいつしか彼女との会話に、言葉に出来ない圧迫感を感じ始めていた。彼女が自分の言葉を遮るたび、自分が馬鹿なおしゃべりになったような気がするのだ。


 彼が小切手を取り出そうと懐に手を入れたとき、ウェイトレスがコーヒーと灰皿を持ってきた。ウィリアムはいったん動きを止め、ウェイトレスが去るのを待つ。その間、メノウ・ヒラサカはウィリアムの了解も取らずに取り出した煙草をくわえ、火を点けた。昇り立つ紫煙にウィリアムが露骨に顔をしかめたのにも関わらず、彼女はそれを無視したようだった。


「兄の時と同じ金額の前金でどうでしょうか? 依頼完了の暁には、さらに同じ額を支払います」


「結構よ」


 ウィリアムは頷き、小切手にペンを走らせる。ふと、視線がメノウ・ヒラサカの口元に吸い寄せられた。煙草をくわえた赤い唇。刹那、胸の鼓動が高くなった。なまじ顔が半分隠されているせいか、露出している唇の赤に艶めかしいものを感じたのだ。慌てて目をそらし、書き終えた小切手をメノウ・ヒラサカの方へ滑らせた。


 これで商談成立である。


「それではよろしくお願いします」


 ウィリアムはそう言おうとしたが、出来なかった。その前に、彼から見て左後ろと右前の隅に座っていた者達が一斉に立ち上がり、こちらを向いたのだ。


「うわっ!? あ、え、え!?」


 よく見てみれば屈強な肉体を持つ男に、サングラスで顔を隠した女。数人の懐に不自然な膨らみが見て取れた。


「念のために言っておくけど、ここでの話は墓まで持って行くのが鉄則よ。特に、私を〈ヘブン〉に売った場合、彼らがあなたの顔を覚えているわ」


 メノウ・ヒラサカの、煙草を持っていない手がミラーシェードを外した。


 この時、ウィリアムは悟った。自分は誤ってしまったのだ、と。ここはおそらく裏稼業の人間がよく使う場所であり、だからこそこの時間帯でも客が少なかったのだろう。自分はまんまとここにおびき出されてしまったのだ。自分はもう破滅だ。人生の最後まで、この秘密を裏の人間と共有しなければならない。きっと耐えきられないだろう。裏の人間と手を結んだことが研究所にばれるか、あるいは自分から誰かに話したのを周囲を囲んでいる者達に嗅ぎ付けられるか。いや、そんなことはまったく関係なくても自分は破滅するに違いない。そうに決まっている。目の前の金銀妖瞳がその象徴なのだ。


 メノウ・ヒラサカの無機質な青い瞳に、ウィリアムのより蒼い顔が映っていた。






「おう、どうだった?」


「兄弟そろってデブで神経質そうな日系だったわ。ああいうの、昔はオタなんとかって言ったかしら?」


 結婚詐欺に騙されるのも仕方ない、とは口には出さなかった。


「ま、依頼はわりとまともよ」


「お前のまともは信用できねえな。何かデータはねえのか?」


「写真一枚なら」


 ジュドは煙草を持っていない方の手で写真を受け取った。


「どれどれ……ほー……しけたツラしてんな」


「あなたの顔と比べたらどんな顔もしけて見えるわ」


「…………」


 薔薇の刺のようなメノウの言葉を、ジュドは表面上、無視した。眉間のしわを四本ほど増やしたジュドは写真をスキャナに呑ませ、艦橋のスクリーンに拡大表示する。


 それは男性のバストアップだった。長めの金髪にやや垂れた青い瞳、頑なそうに引き結ばれた唇。全体的に細い印象を受けるが、よく見れば肩や胸にはしっかりとした質量感があり、服の下に眠っている筋肉が想像できた。


「で、こいつが何だって?」


 メノウに聞きつつジュドはさりげなく壁の鏡に顔を向けて、頬に手を添えた。先程メノウに言われたことを気にしているらしい。


「捜索願よ。このペットを探して下さい、報酬は弾みます。そんな感じね」


「ほぉぉ、じゃ、そのペットは一体どういう種類のなんていう犬なんだ?」


「超能力研究所でよく教育された跳ねっ返りの野良猫よ」


「超能力だぁ?」


 短くなった煙草を灰皿に押しつけながら、ジュドは露骨に顔をしかめた。時代がどれだけ進んでも超能力という単語は失笑を買う死語にすぎない。


「科学的に言えば『亜空間法則を呼び込んだかのように世界の法則を書き換える方法』──つまり、コレよ」


 メノウが取り出したラップトップパソコンを見てようやくジュドは合点がいった。


「【裏技】か!」




 空間跳躍技術の確立によって、かつては名前だけの存在であった亜空間はその実在を認められた。空間跳躍によって飛ぶ亜空間は異法則の世界であった。酸素は鉄より重く、水は炎よりも熱く、金属は冷やせば溶ける──そんな場所。過去、こう考えた者がいた。


「亜空間の法則を局部的にこちらの世界へ持ち込むことが出来れば、何かすごいことができるんじゃないだろうか」


 例えばアルミニウムがダイヤモンドよりも硬い世界から、その法則だけを呼び込めば、本物のダイヤモンドを使わずとも強固な装甲を持つ船や車、戦艦などが製造できる。


 馬鹿な話であった。誰もが笑い、誰もが言った。「そんなことは難しいを通り越して不可能というのだ」と。亜空間にはそれぞれ、万物を支配する法則がある。この世界と似た亜空間も在れば、まるきり違う場所もある。それを都合良く「この世界のこういう点だけ」を抜き出すのは夢物語だ──


 男は諦めなかった。男の言い分はこうだった。「お前たちが『無理』というのは『この世界の法則にのっとって考えれば無理』なのであろう。ではまず、『この方法が無理ではない世界の法則』を呼び出し、その上で別世界の法則を呼び込めばいいのだ」──とは言ったものの、その『無理ではない世界の法則』を呼び出すことすら無理なのである。悩みに悩み、考えに考えを重ね、男はついに発想を転換させた。


 この世界の法則を変えればよいのだ。そうすれば無限にあるであろう亜空間から望みの法則を探し出す必要もなく、思う通りの法則を作り上げ、望んだままの現象が起こるはずだ──と。


 やがて彼は科学を捨てた。過去の文献を漁り、歴史上の不思議な事件を調べだした。彼はこう考えたのだ。「過去には奇跡を起こした人間がいた。おそらく、その者達はなにかしらの方法でこの世界の法則をねじ曲げた、ないしは、造り替えていたのだ。その方法さえわかれば……」。挙げ句に彼は魔術書、呪文書にまで手を伸ばした。彼はかつて滅びた錬金術を復活させようとしたのだ。


 この世に運命というものが存在するのであれば、それは意地の悪い魔女の顔をしているのであろうか。それとも慈愛に満ちた美しい女神の姿をしているのだろうか。


 男は奇跡を起こしてしまった。


 世界を変える呪文と、それを響かせる方法を編み出してしまったのだ。


 それは例えるならば、コンピューターゲームのデータを書き換える改造コードであった。あり得ない、不正の割り込みを世界その物にかけ、世界に設定されたパラメーターを操作するのである。地球の重力速度を0にすれば、そこはもう大気のない宇宙空間になる。宇宙空間の酸素の密度を高くすれば、人は宇宙でも呼吸が出来る。


 好きに世界を変える事の出来る、神とも悪魔とも呼べる力だった。


 奇跡の体現者となった男は後に名を変え、安全な空間跳躍を可能とする技術を確立した。そして今なお生きて、地球に棲んでいる。


 男の現在の名はオーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラ。


 そして現在の地位を〈ヘブン教国教皇〉という。




 誰もが奇跡と呼ぶ力は、一部の者に『ゲームの裏技に似ているから』という理由で俗に【裏技】と呼ばれている。


「いいのか? 〈ヘブン〉が介入してくる確率、低くねーぞこりゃ」


 真剣な顔のジュドに、メノウは不適な表情を見せた。


「それはおもしろそうね。呆れるぐらい格好いい名前の持ち主に一泡吹かせられるかもしれないじゃない」


 今や信者を除けばほとんどの者が『オーディーン・ヘブン・ゴッド・ヴァルハラ』などというゲームや漫画、小説にも出てこない名前に対して失笑を禁じえないのだが、誰もその事を口にはしない。不敬罪にあたるためだ。


「いっそのことヴァルハラ帝国なりヘブン帝国なりを創って皇帝になればいいものを」


 とはジュド・ホルスゲイザーの弁である。


「今回は私のとってきた依頼だから私がメイン、あなたがサブね。私はスコーピオンの宇宙港を当たるから、情報収集をお願い」


「わかった。……なあ、メノウ」


「なに?」


「お前は俺と約束をしている。俺がとってきた依頼じゃ人は絶対に殺さねえってな。お前はその約束をちゃんと守ってくれている。ありがたいことだ」


「断るわ」


 いきなりの拒絶にジュドは目を見開いた。


「なっ!? ちょっ、おい、俺はまだ何も言ってねえぞ!」


「それならお前がとってきた依頼でも殺しはしねぇですむんじゃないのか?──そう言いたいんでしょう?」


 メノウの指摘にジュドは腕を組んで呻いた。


「むぐっ……そうだ。その通りだ」


「ジュド」


 メノウの言葉は溜息混じりだった。


「あなたは甘すぎるのよ。古くさいロマンチズムには付き合ってられないわ」


 冷たい声が、ジュドの水銀色の目の周囲を赤くさせた。


「古くさいとは何だ、古くさいとは! 大体ロマンヂズムじゃねえ、人道だ! お前は人の道ってやつがまるきりわかってねえ! 俺はだな──」


「いいわ、話は終わり。どうせ平行線になるだけよ」


「メノウ!」


 会話を打ち切って艦橋を出ていくメノウの背に、ジュドの怒声は空しく響いた。


 メノウは出入り口で立ち止まり、振り返らないまま言った。


「大昔、バーチャルリアリティーグラフィックの技術が開発された頃、こんな事が言われてたわ」


「ああ?」


「これはとてもリアルなゲームだ」


「…………」


 メノウの言わんとしていることを察して、ジュドは心に黒い染みが広がっていくのを感じた。それが、この少女の感覚なのか。この少女はそんな世界に生きているのか。彼女には全てがそう見えるのか。


 メノウが振り返り、蒼い左目にジュドの姿が写った。3Dゲームのキャラクターのような、無機質な瞳。


「今じゃ世の中は、ゲームなリアルよ」


 ジュドの胸に広がったのは、失望感だった。






 ベルナルド・ソルテンライク大佐は愉快なティータイムを、不愉快な着信音によって中断された。


「まったく誰だ、こんな時に」


 とても良い葉を我ながら丁寧に入れたというのに。ソルテンライクは毒づき、軍支給の携帯端末を手に取った。


 技術が発達し、映像と音声を同時に淀みなく交換できるようになった今でさえもサウンドオンリーの通信機は使用されている。顔が見えないからこそ良いのだ──と多くの人は言う。顔が見えているとついつい長話になる、通信費が高い、嫌いな人と会話するときは声は演技できるが顔は難しい、こちらがどんな格好をして何をしているかを知られたくない、移動が出来ない──等々、理由は様々だが、そこに『音声通信』というものの本質があるのであろう。


「ザリッツ・ブリュートス少佐です。ご報告申し上げます。先程、中央都から指令が届きました」


 ソルテンライク大佐の脳裏に、自分と同じ茶色の髪を持つ細身の青年の姿が浮かび上がる。さらに記憶の中から彼に対する評価を拾い起こすと、能力は高く意欲も十分、うかうかしていると追い抜かれる可能性もあるかもしれない、と出た。自然、大佐の声は高圧的になる。


「内容は」


「バージナル研究所からの依頼を大佐の部隊によって解決せよ、とのことです」


「依頼とは何だ」


「実験中に脱走した素体を無傷で確保して欲しい、とのことですが……」


 ブリュートス少佐の声が尻窄みになって消えたのは、音声だけでもわかるソルテンライク大佐の怒気を感じたからである。


「ふん、バージナルの愚か者共が! 図にのって教皇猊下きょうこうげいかの猿真似をした挙げ句がコレか。それ見たことか! まったく目に見えた結果だったというのに、今更我々の力を頼りにしおって! 少佐、そんな依頼は無視しろ。自分の尻は自分で拭くものだ」


「しかし……」


「気にするな、教皇猊下はそのような些末事など気にはされん。問題はない」


「あ、いえ、そうではないのです。小官、この件によってバージナル研究所に恩を売っておくのは無駄ではないと愚考する次第であります」


「ほう」


 ソルテンライクは部下の思惑に興味を持った。


「それは何故だ?」


「バージナル研究所では主に【奇跡】に関する研究を行っております。現在は試作段階ですが、それでも既に兵器として実用可能な物が開発されております。これがもし反乱分子の手に渡るとなると──」


「なるほど、猊下の宸襟しんきんを悩ませることにもなりかねん、と?」


「はい。また、協力関係を持つことにより我が軍にバージナル研究所の技術提供を要請することもできるかと」


「なるほど……」


 ソルテンライクは感嘆の声をこぼした。ブリュートスの言は理にかなっている。せっかくあちらが泣きついてきているのだ、今こそ我がヘブン教国軍ヘブンズアーミーの力と共に教皇猊下の威光を知らしめてやるべきだろう。宇宙を支配するのは〈ヘブン〉の教えだ。その支配の中には勿論、占有されるべき技術も含まれているのである。


 数秒の沈黙の後、大佐は厳かに命令を下した。


「よし、ブリュートス少佐に命じる。貴官は指揮下にある部隊を総動員し、速やかに事の解決に努めるべし!」


「はっ!」


 通信を切り、ソルテンライクは手つかずのままだったティーカップに触れた。まだ暖かい。紅茶の香に顎をくすぐらせ、意地の悪そうな笑みを浮かべた。頭蓋骨の内部に教皇猊下にお褒めの言葉を承る自分を想像しているのだ。


 軍に置いてここまで昇り上がれば後は楽なものだ。部下を働かせ、自分はこのようにティータイムを楽しめる。部下はよい駒だ。上手く使えば早めに我が地位を押し上げてくれる。そうすれば敬愛する教皇猊下に近づくことにもなるのだ。


 ソルテンライク大佐は部下の手柄を横取りしようとしていた。


 彼は気付いていなかった。ブリュートス少佐もまた、自らの武勲を立てるためにソルテンライクを煽動したということに。






「この星から脱出するにはどうするべきか。脱出した後はどこへ向かうべきか。それらのためには何を用意するべきか。それを考えなければならないな」


 青年は口に出して己に言い聞かせた。女性が見れば、頼りなさそうな男、と判断するだろう。だが黒のツナギに包まれたその身体は、顔からは想像できないほどの質量感を擁している。一見すれば違和感を感じる体格の青年は、スコーピオンに二つある宇宙港の一つ、スティンガー宇宙港内の男子トイレにいた。鍵をかけた個室の中で、蓋を閉めた洋式便所に腰掛けている。どんなに時代が進もうとも便所の形は昔からあまり変わらないものだった。


「まず予想されて当然なのは、研究所の人間が僕を捕まえようとしていることだ。僕がこの星から脱出しようとしているのは予測されていて、この港でも検問しているのはほぼ確実だと思う。下手をすれば指名手配、最悪、首に賞金をかけられているかもしれないな」


 考えている事を声に出してまとめるのが青年の癖だった。彼は口元を両手で覆い、個室の外に声が漏れないようにして小さく呟き続ける。


「極論を言えば、僕が僕だと分からなければいい。または、検問を上手く避けて船に乗ればいい。僕にはその両方が出来る。いや、だが、どうだろうか? 研究所の人間は僕の能力を知っている。宇宙船の中まで調べられたら見つかってしまうだろう。……いや、やっぱりそれはないか。研究所は僕の能力のことはできるだけ秘密にしておきたいはずだから。行われているのはごく普通の検問だろう」


 胸のポケットに引っかけられているのは漆黒のサングラスだ。彼には、目を隠さなければいけない理由がある。瞳を見れば一目瞭然だった。青年は、血を流し込んだゼリーのような、赤く綺麗な目をしていたのだ。


 『異端』である。


「ではそんな感じで船に乗るとして、何処へ行く船に乗ろうか? 風船は論外だな。……あれ? どうして僕は地球が風船で、〈ヘブン〉がヤバイとわかったのだろう? またしても記憶の断片か? まあ、これは今考える事じゃないか。残る選択肢は月か、ガニュミードが妥当だと思う。ああ、カリストは論外だな。あの星のヴァルハラは〈ヘブン〉の聖地だから。月もガニュミードはどちらも人口が多く、おそらくは潜在的に僕のような『異端』も多く内包しているだろうから、身を隠しやすい」


 膝の上にはコンタクトレンズの保存ケースが乗っており、開いたままのそこには、酵素洗浄液に浸かった青いカラーコンタクトが二つ。


「じゃあどちらに行くべきか? ここまで来ると選ぶべき場所は絞られてくるな。よし、月にしよう。こちらの方が近いから、貨物室の中に隠れている時間も少なくてすむし、飛行時間が長いということはそれだけでリスクが大きい。全ての宇宙船に連絡を入れられて調べられたらアウトなんだから、できるだけ早く目的地に着く方が良いはずだ。ここから先は……」


 両手をおろし、背筋を伸ばして大きな溜息を一つ吐いた。


「月の適当な街に身を隠しながら、情報を集めよう。僕は自分が何者かを知らなければいけない。何故そう思うのかは自分でも分からないのだけれど、僕は失った……いや、奪われた記憶を取り戻さなければいけない、そんな気がする……おっと」


 手で戸を立てないまま思考を口にしていたことに気付き、慌てて口元を覆う。耳を澄まして気配を探ったが、幸い、トイレには誰もいなかったようだ。ほっと胸をなで下ろし、彼はさらに頭を回転させる。


「次は何が必要なのか、だけど……船の中に数日間は隠れているのだから飲料と食糧は必須かな。あとは着替えと予備のカラーコンタクトとサングラス──は別に必要ないか。よし、じゃあ飲料と食糧だけであとは着の身着のまま」「ここかっ!」「おや?」


 唐突に大きな声が、宇宙港だけあって広い男子トイレの中に響き渡った。青年は訝しみ、声を殺して耳を澄ませた。


 複数の足音、素早く交わされる言葉、その中に聞き覚えのある単語がある。


 バオ。


「……僕はそんな名前じゃない……」


 顔を歪め、苦々しげに呟くと、意に添わずバオと呼ばれる青年はすぐさま冷静さを取り戻し、現状の把握に務めた。


「足音からして相手は複数。台詞からして何かしらの根拠があってここにやってきたはず。もしかしたら違うかもしれないが、十中八九、狙いは僕のはず……だけど何故?」


 自問した刹那、青年はついさっき口を覆わないまま喋っていたことを思い出した。おそらくはあれを誰かに聞かれてしまったのだ。青年は、もう喋りながら考え事をするのはよそう、と決意した。


 しまったなぁ。研究所の人たちだろうか? それとも研究所の依頼を受けた軍の人たちかもしれない。とにかく武装した人たちに見つかったはずだ。しかもさっき確認したとおり、ここには僕しかいない。ということは扉の閉じている個室はここだけだから……


「ここだな?」


 ほら、すぐ見つかった。


 バオというコードネームを持つ青年が籠もる個室は、九人の男に半包囲されていた。ブリュートス少佐率いるスコーピオン駐留軍の精鋭である。目的の『素体』が現れると思しき各所に兵士を配置し、彼直属の少数部隊で目標を探索するという布陣だった。


 黒を基調として各所に金色を配した懐古的な軍服に全身どころか心までも固めたブリュートス少佐は、バオが潜んでいるであろう個室の前に立ち、抵抗感をかきたてるような硬い声で言い放った。


「私はヘブン教国スコーピオン駐留軍少佐、ザリッツ・ブリュートスだ。単刀直入に言う。抵抗は無駄だ。おとなしくそこから出てくれば良し、出てこなければ少々痛い目にあってもらうことになる」


 こんな言い方で相手が本当におとなしくなると思っているのなら、こいつは本物の馬鹿だ、と、バオは思った。


 膝の上のコンタクトの保存ケースを閉じ、胸ポケットのサングラスで赤い瞳を隠す。とっくに顔写真がばらまかれているはずだが、何も知らない人間はごまかせるのだから、無駄にはならないだろう。


 仕方ない、やるしかないな。できることなら全部を穏便にすましかったのだけど、もうどうしようもないだろう。


 決して気が長くないブリュートス少佐は繰り返した。


「もう一度だけ繰り返す。抵抗は無駄だ。おとなしく出てこい。さもなくば両手両足を切り落としてから研究所に送り付けるぞ!」


 こんな言葉があるのを、僕は知っている。これもまた記憶の断片だろう。覚えていたと言うことはかなり印象に残っていたと言うことで、なるほど、今思い出してもとても良い言葉だと思う。


 三十六計、逃げるが勝ち。


「聞いているのか、コードネーム『バオ』!」


 返答はなかった。






 それが海であれ空であれ宇宙であろうとも、港というものは多くの人でごったがえしているものである。


 家族連れ、夫婦、恋人、学生など多くの人々が宇宙港の片隅にたたずむメノウのミラーシェードに写っては、通り過ぎていく。


 漆黒の革のキャップに真っ赤なビニールジャンパー、青い文字のプリント入りTシャツに濃紺のジーンズという格好のメノウは、長い黒髪をキャップの中にまとめているせいか、一見、少年に見える。だが、唯一ミラーシェードによって隠されていない唇や、キャップに収まらなかったうなじの後れ毛が、無言のうちに『女』を主張していた。


 現在身につけているミラーシェードのフレームには小さなイヤホンがついていて、それは受信専用の通信機になっている。イヤホンを目立たないように耳に入れ、メノウはジュドからの情報を待っていた。こちらからの応答はジャンパーのポケットに突っ込んだ手に握られている、ボタンが二つしかない通信機からする。これは目立たないが、YESとNOしか選択肢がない。


 イヤホンからは、先程の続きか、ジュドが延々人の道について説く声が流れていた。


『よく言うだろ、人という字は人と人が支え合っているんだ、ってよ。いや、どう見たって片方が片方にもたれかかっているようにしか見えんといえばそんな気もするが、そんなつまらないことはどうだっていいんだ。重要なのは人間は一人じゃ生きていけないってことなんだ』


 メノウは手に握った通信機のボタンを押した。『YES』


『お、わかっているじゃねえか。なるほど、これはわかっているんだな。じゃあこれだってわかるだろう。俺達は支え合うべきで、決して争うためにいるわけじゃねえんだ。別に無抵抗主義を貫徹しろっていうわけじゃねえぞ。ただ、戦うべき時とそうじゃねえ時ってのは確かにあるもんなんだ。わかるだろう?』


 メノウはボタンを押した。『NO』


『NOって言うな! なんでお前は──っとと、くそ、情報だ。いいかまた後でこの話の続きするからな』『NO』『却下だ却下! それよりもビンゴだ。やっこさん、宇宙港に出たらしい。お前の読みはちゃんと……お? おお?』


 メノウは二つのボタンを同時に押した。それの意味するところは、疑問。


『……ハズレ、だ。ちくしょう、お前そこシザース宇宙港だろ! 現場はスティンガー宇宙港だ! ……ああ!? なんだくそ、しかもやっぱり軍のやつら出てきてるぞ、どうなってんだ!? とにかく急げ!』


『YES』と答えてからメノウは目立たないようにゆっくり歩き出した。行き先は女子トイレ、個室に入って扉を閉め、しかし鍵はかけない。内心で先程のジュドの疑問にウィリアム・エーディルの顔を思い浮かべ、判断を誤った彼が軍にも協力を要請した可能性を考えている。


「ハーディス」


 通信機とは逆のポケットからラップトップパソコンを取り出すと、メノウは音声入力でHOSハイブリッド・オペレーション・システムを起動させた。音響吸収迷彩ブラックホールシールを施したラップトップパソコンは微かな音さえも漏らさない。


 そう、それは世界を変える呪文の収められた箱だった。現実というゲームに不正な割り込みをかけ、ありうべからざる事象を呼び起こす力の塊だった。この瞬間からメノウは万物を支配する法則を全て跳ね退け、自らに都合の良い法則を身に纏えるのである。


 狭いトイレの個室の中で、メノウは眼前の壁に向かって躊躇いもなく跳んだ。タイルばりの壁と接触する直前、少女の身体は奇形の法則に握られる。


 メノウは溶けるように壁に吸い込まれた。






 物質と物質が触れた場合、それはぶつかり合い、反発する。だが亜空間には触れ合った原子・分子が互いを避けあい、結果、すれ違う世界がある。物質透過の法則だ。その世界では他に対する干渉が不可能なため、この瞬間だけは呼吸を止めなければならなかった。


「毎度思うけど、この時の血液やら体液やら体内の気体はどう扱われているんだろうか? 生きているということは大丈夫なんだろうけど」


 などと男子トイレの壁を抜けて女子トイレに現れたバオは呟き、目を丸くした。彼は運が悪かった。そこもまた女子トイレの個室で、先客がいたのだ。不幸中の幸いか、その女性は若かった。美しくない悲鳴が上がった。


「きゃああああああああ────────っ!?」


「も、申し訳ない!」


 慌てて飛び出す。悲鳴を聞きつけた兵士達がこちらに向かう足音と声。逃げ場はなかったが、それでもバオの顔には余裕があった。女子トイレから廊下に出ると、前方に銃を携えたヘブン教国軍兵士がバオを見て「動くな!」と叫ぶ。黒のサングラスとツナギという格好の青年は当然の如く命令を無視して走り出した。通路をふさぐ兵士達めがけて。


「撃て!」


 ブリュートス少佐の下した出し抜けの命令に、兵士達は一瞬の戸惑いを見せた。こんな所で発砲を? 危険ではないだろうか?


 生じた隙をバオは見逃さなかった。助走をつけた彼は大きく前へ跳躍。刹那、彼は息を止め、体内の回路を『ON』に変更、物質透過の法則を纏い、兵士の群の中に飛び込んだ。


「なっ!?」


 兵士達は混乱した。宙を跳んで飛び込んできた男と激突するかと思えば、ただ呼吸の止まるような圧迫感だけを残して、相手はまるで幽霊のように何の抵抗もなく自分たちの身体を透り抜けていったのだ。


 回路を『OFF』にして、後方にいたブリュートス少佐の前に着地したバオは自らに架せられた慣性を最大限に利用した。バオの姿勢の低い体当たりと、ブリュートスの抜き出した特殊警棒が振り下ろされるのはほとんど同時だった。鞭のようにしなった特殊警棒がバオの背中を強かに打ち、長めの金髪に包まれた頭がブリュートスの股間を潰した。


 真上からの力にバオは床に叩き付けられ、ブリュートスは踏みつぶされたカエルのようなうめき声をこぼした。バオはすぐさま立ち上がり、哀れな少佐はそのまま気絶して倒れた。


 バオは再び回路を『ON』にすると同時にその場で跳躍。刹那、予測通り三条の閃光がバオの身体を貫いた。司令官を失った兵士達が、それでも指令を忠実に守ろうとレイガンを発砲してきたのだ。物質透過の鎧がバオを守護していたため効果はなかったが、もはや兵士達はこの異常事態に適応していた。信じがたいが今のは教皇猊下が起こされる【奇跡】と似た物だ。だが、カラクリがわかれば恐れる必要はない。


 物質透過状態にある者は呼吸が不可能であることを彼らは知っていた。レイガンを連射してバオに通常状態に戻す暇を与えまいとする。


「浅はかなことだ!」


 バオもまた兵士達の意図を見抜いていた。そもそも酸欠になる前に物質透過状態は数秒で自動的に終了されているよう、プログラムされている。回路を『OFF』にして着地したバオは、泡を吹いて倒れているブリュートスの手から特殊警棒を奪い、レイガンを斉射する兵士に投げつけた。空気を裂いて飛んだ特殊警棒は見事、先頭の兵士の顔に命中し、吹っ飛んだ身体が後続の兵士達の邪魔となる。レイガンの嵐はとだえたが、通常状態にある間に二条の光線がバオの左腕と左太股をかすった。


 左半身から血を流しながら、バオはすぐ側の壁に物質透過状態で突入した。壁を一枚抜ければそこはもうロビーである。兵士達は一般市民のいる場所では発砲できないはず、と彼は踏んでいた。


 直後、それこそが浅はかな考えであったことをバオは知った。壁を抜け出た瞬間、彼は壁を底辺とした半円形の包囲の中にいる自分を発見したのだった。五挺のレイガンが近距離でバオを照準している。ブリュートス少佐は無能な軍人ではなかったのである。


「……まいったな、こりゃ……」


 我知らず声が震えていた。左の腕と太股から流れ落ちる血流が一つとなって、足元に小さな血溜まりをつくっている。遠く、兵士達の背後から一般客の視線が殺到するのを感じた。


「無駄な抵抗はよせ、両手を頭の後ろに組んで地面にはいつくばれ!」


 バオから見て右端の男が上擦った声で叫んだ。猛獣か化け物に向かって言うような調子だった。


 ──どうする? 物質透過状態になるには、その前に跳ばないといけない。じゃないと地面に埋まってしまって回路が自動的に『OFF』になったら核融合爆発だ。だけど下手に動いたらその瞬間に撃たれてしまうだろう。まいったな、ほんと。どう考えても諦めるべきなんだろうけど、諦めたら本当に王手だ。考えろ、考えるんだ、どうする? どうする!?


 左半身の激痛に苛まれ、荒く息を継ぎながらもバオは必死に頭を働かせたが、起死回生の案は生まれなかった。周囲のどよめきが耳障りで集中できない、傷を負った自分を好奇心丸出しの目で見つめている人々、銃口を向ける兵士達、さらにその背後で銃を構える黒いキャップの少年。


「……は?」


 なにかとんでもない違和感に囚われて、バオは目を瞬かせた。黒いキャップの少年は幻ではなかった。その証拠に少年は右手に持った拳銃の引き金に指をかけ、何気なくバオの真っ正面に立っていた兵士の頭を撃った。


 スイカのように弾けた。


 その瞬間、バオの身体は意思とは関係なく動いていた。返り血を避けるように左へ動き、二歩目から走り出す。突然、同僚を背後から撃たれた兵士達は驚愕して犯人を振り返るが、黒キャップの少年もバオと同期して同じ方向へと走り出していた。立て続けに古くさい銃声が空気を震わせ、次々とバオを囲んでいた兵士達の頭が爆ぜていく。少年の銃は前時代の、鉛玉を火薬で発射するタイプであることに気付いてバオはまた違和感を感じた。


 悲鳴と怒号が手を繋ぎ、スティンガー宇宙港に混乱の奇形児を産み落とした。目前で繰り広げられる殺戮の光景に恐怖する一般客に、彼らを避難させようとする警備員、そして宇宙港の各持ち場から駆けつけてくる〈ヘブン〉の兵士達、逃げるバオと少年。鉛の飛礫が光の矢による復讐の応射を呼んだ。


「まて、撃つな! 一般人に被害が出る!」


 そう叫んだのは誰だったか。我に返った兵士達がレイガンの引き金から指を離した瞬間、彼らの中で不幸な者が三人、高速で飛来した鉛玉に胸を貫かれた。兵士達が一般人に被害が及ぶことを危惧したのに対して、黒キャップの少年は構わず撃ったのだ。


「助かったのはありがたいが、非道いことをするな」


 すぐ横を走る少年に、飛び跳ねながら物質透過と通常の状態を忙しなく往復するバオは呟いた。聞こえなかったのか、無視したのか、ミラーシェードで顔を隠した少年は撃ってこなくなった教国兵から銃口を外し、弾倉に新しい弾丸を装填しはじめた。


 コイツはやばい、とバオは直感した。


 確証はない、ないけど彼は危険だ。さっきは確かに助けてくれたけど、彼が僕の味方である保証はどこにもない。もしかすると別ルートで研究所に雇われた奴なのかもしれない。とにかく逃げるべきだ、コイツからも。


 決断したバオは次の十字路で急速旋回した。かなりの速度で道を左に折れ、少年が同じように十字路を曲がって背後に来た瞬間、


「悪いね!」


 バオは急に立ち止まり、少年がいるであろう空間に左の腕を叩き込んだ。しかし、渾身の一撃は空を切った。


「……!?」


 しゃがみこんで不意の一撃をかわした少年の姿が視界に入り、バオは愕然とした。あの速度とタイミングで避けられたことにも驚いたが、もっと驚いたのは、急な動きに置いていかれた黒キャップから、黒く長い髪が堕天使の翼の如く広がったことだった。


「女ぁ!?」


 思わず叫んだ。バオは勢いのついた自らの動きに体勢を崩し、そこを少年──否、少女に狙われた。かがんだ状態から跳ね上がったのは右の掌で、バオは不安定な体勢からなおそれを避けようとして失敗した。的確にバオの顎を狙った攻撃はややずれ、左頬に入った。


「!」


 想像以上の、まるで砂袋を叩き付けられたかのような衝撃にバオは大きく吹っ飛んだ。空中できりもみ一回転をし、磨き上げられた床に倒れる。顔からはずれたサングラスがすぐ側に落ちて硬い音を立てた。


「ぐっ……!」


 口の中に血の味を感じて呻き、バオは慌てて立ち上がろうとして、凍り付いた。


 光を反射しない特殊な塗料をまとった拳銃が、彼を見ていた。


 何も考える暇がなかった。引き金が引かれた。


「ひっ!?」


 思わず両手で顔をかばった瞬間、生暖かいものがバオの顔を濡らした。撃たれた、この感触は僕の血だ──というのは勘違いだった。目を開けると、確かに赤い液体が顔と服を濡らしていたのだが、それは血と呼ぶにはあまりにも赤すぎた。


「ペイント? ……水鉄砲?」


 思いついて顔を上げると、その通り、彼に向けられていたのは銃口のない玩具の銃だったのだった。


 口を開けたまま呆然とするバオに、初めて少女は口を開いた。


「ウィリアム・エーディルの依頼でお前を捕獲しに来た。コード『バオ』だな?」


 変声機で加工された、重い威圧感のある声だった。バオは口の中を切ったせいだけではなく、苦々しく顔を歪めた。


「残念だな、人違いさ。僕はそんな名前じゃない」


 ルビーを封じ込めたような瞳で少女を睨みながら、ゆっくりと立ち上がる。口の端からこぼれる血を右手で拭う。左半身から少しずつ流れている血で、左の靴の中が気持ち悪かった。暴れた際に飛び散った血と、真っ赤なペイントで、白い廊下の周囲は彩られていた。


 やっぱり研究所に雇われた奴だったか。だけど、まさか女だったなんてな。僕がなめられているのか、彼女がすごいのか。まあ多分後者だろう。それにしてもさっきの水鉄砲には一体どんな意味があるというのだろう。目印にしてはおかしい。僕は手負いだから、血痕を追いかければいいはず。わからないな、と、そうか、血痕が残っているということは兵士達もすぐここまで追いついてくるはずだ、早く逃げないと──


「嘘が下手だな。怪我をしたくなければ抵抗するな」


「嫌だね」


 バオは即答した。少女は水鉄砲をポケットにしまい、古めかしい拳銃を取り出した。今時、銃と言えばレイガンなのに、何故この少女はこのような前時代の物を使っているのだろうか。レイガンならばエネルギースティックを入れ替えるだけの再装填で、その弾数は百を優に超え、火薬銃と比べて貫通力も殺傷力も段違いなのに。何か意味でもあるのだろうか?


 バオは不敵に笑って見せた。


「僕にはなすべき事がある。それを果たすまで捕まるわけにはいかないんだな、これが。ところで何で声を変えているのかな? 似合ってないよ、可愛い声が聞きたいな」


 冗談めかした口調は、少しでも時間を稼いで相手が隙を見せるのを待つためだった。やがて点々と残された血痕をたどって来るであろう教国兵に、バオは期待していた。この場が混乱すれば、もう一度逃げる好機が訪れるはずだった。


 少女は一ミリも表情を変えなかった。全ての視線を反射するミラーシェードは鉄の仮面だった。バオには彼女が何を考えているのかがまるでわからなかった。


「だけど、そうだな、まずはそのサングラスみたいなのをはずして欲しいかな。君が美人なら、大人しくつかまっても良いかも、って思うかも。ははは」


 時間稼ぎであることを悟られたか、銃口が動き、バオの足に照準を定めた。狩られる側である青年の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。足を撃たれてしまったら、遠くへ逃げることが事実上不可能になる。


「……一か八か、やるしかないか……」


 誰かが言っていた、『人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと』と。所詮そんなもんか、思い通りに行くはずがないもんな、やっぱり。


 バオは決断を下し、賭に出た。


 表情の変化から何かを読みとったのだろう、少女がすぐさま引き金を引いたが、遅かった。『異端』の青年の右足に噛み付くはずの弾丸は、立体映像よろしく、何ら影響を与えることなく突き抜けていった。


「残念、また会う日まで。僕が生きていればだけど」


 言い残して、重力に押さえられたバオの身体は床に沈んだ。否、沈むという形容は似合わない速度だった。火星の重力加速度で真下に落ちていったのだ。さながら薄氷の割れた湖に飲み込まれるような光景であった。彼は下方に、死に至らない高さまでにある程度の空間が存在する可能性に賭けたのである。


 血とペイントの赤い水たまりを残して、赤目の青年は姿を消した。






 壁を透り抜けて薄暗い倉庫に隠れたメノウはラップトップパソコンをとりだし、回線を『HEAVEN’S BETRAYER』に繋いだ。備え付けのマイクに小さく語りかける。


「逃したわ。現在位置、分かる?」


 ミラーシェードのイヤホンにジュドの応答があった。


『ああ、反応してるぜ、って何やってんだバカ野郎! 軍とドンパチやりやがって、俺の話ちゃんと聞いてやがったのか!』


「生命反応は?」


 ジュドの抗議を丁重に無視して、メノウは右の耳からイヤホンをはずして耳を澄ました。壁の向こうから教国兵や警備員達のけたたましいやりとりが聞こえた。


『生命反応? あるぞもちろん。どうした、何があったんだ?』


「追い詰め方を間違えたのよ。無茶な賭をさせてしまったわ」


 『バオ』というコードネームを持つ青年に浴びせたペイントはマイクロマシンを含有しており、その性能によって様々な情報を得ることが可能である。例え洗い落としたとしても、ペイントと共に衣服に染み込んだマイクロマシンの除去はそう簡単ではない。ジュドはメノウが何も言わずとも艦のコンピューターとラップトップパソコンをリンクさせ、彼女にもバオの位置とステイタスを確認できるようにした。


「まさか物質透過で下に逃げるなんて、ね」


 下手をすれば核融合爆発、良くても墜落死する可能性が大きいというのに。一体どれほどのことが彼をあのような無謀な行動に出させたのだろうか。


 ラップトップパソコンのディスプレイにスティンガー宇宙港の見取り図を呼び出すと、メノウの現在位置が赤い光、バオの現在位置が青い光で表示された。なるほど、彼は本当に生きていた。メノウのいる階層より三つ下にある青い点は、時に遅く、時に速く、緩急を使い分けて宇宙港の中を妖精のように動いていた。先程、彼が床を透って落ちていった先にはゴミ捨て場があったようだ。三階層も打ち抜いて落ちていったと言うことは、軽く50メートルは落ちたはずであり、ゴミの山がクッションになったであろう事は疑いなく、それは【奇跡】に近い幸運であるといえた。


「ヴァルハラ教皇猊下もビックリね」


『冗談じゃねえ。あの野郎がそんなことで驚くんなら、華麗なる教皇猊下様は一体全体、何者だってんだ』


 メノウの冗談に、ジュドは本気で反吐を吐きそうな反応をした。自らがオーナーの艦に『HEAVEN’S BETRAYER』と名付けた男である。〈ヘブン〉嫌いには筋金が入っているのだった。


 メノウは青い光の動きからコードネーム『バオ』の行き着く先、つまり目的地を想定する。どうやら彼は上層を目指しているようだった。その目標は宇宙船による火星からの脱出であると考えられる。


『どうやら宇宙船に忍び込もうって腹だな、やっこさん』


「ええ」


 メノウは同意した。おそらくは出発寸前の宇宙船に飛び込み、そのまま逃げ切ってしまうつもりだろう。


『どうするんだ?』


 ジュドは気遣わしげにメノウに聞いた。実際、タイミングの難しい問題であった。宇宙船の中で待ち伏せることは出来ない。港には幾隻もの宇宙船が停泊しており、『バオ』がどの船を狙うかを絞ることは不可能である。とはいえ、先程のように宇宙港内で捕まえようとすれば、先程のように逃げられてしまう可能性がある。


「一つだけ、最適な瞬間があるわ」


 メノウは見取り図のある一点をカーソルで指し示した。イヤホンの向こうで、ジュドは明らかに戸惑った。


『本気か? ……いや、悪い、聞くまでもなかったよな、お前の場合。下手な冗談は言わねえからな、いつも』


 このメノウこと比良坂瑪瑙という少女はいわゆる天才である、と白銀の髪を持つ異相の男は考えていた。彼女に格闘技を教授したのは他ならぬ彼だったのだが、その上達の早さには舌を巻いたものである。広く渇いた砂漠に水を与えたようなものだった。若さ故の柔軟さもあってか、メノウはあっという間にジュドと互角の力量を持つに至ったのである。その上、頭も良い。こと頭脳に関して、ジュドは文字通り頭が上がらない。チェスや戦争シミュレーションなど、各戦術戦略系ゲームにおいては手も足も出ず、知識の総量では足元にも及ばない。艦内にある本は全てメノウの所有物であり、ジュドはその活字一文字すら目にしたことがない。かてて加えて、美の神に愛されているかの如き容貌である。まるで完璧、点は二物も三物も人に与えたもうかな──だが、ジュドは彼女の唯一の欠点を知っている。彼女には前述の全て(ハードウェア)を活かすための性格ソフトウェアが備わってないのである。ひねくれていると言うよりも歪んでいて、欠けていると言うよりも『無い』のが仕様なのだ。


 だからこそジュドは、彼女を導かなくては、という使命感に駆られている。例えそれがメノウに言わせれば『エゴイストの自己満足』に過ぎなくとも、やめるわけにはいかない。間違っているのだ、彼女のような考え方は。人命を尊重せず、人道を損ない、自分自身すら所詮はゲームに過ぎないという考え方は。


「あなたは小型の宇宙艇を用意して、操縦を担当してくれればいいわ。彼の捕縛は私がやるから」


『了解。一つ、無駄かもしれんが一応言っとくぞ』


「何?」


『無理はするな。無理を通すと道理が通らんと昔から言うからな』


「……前から思っていたけど、あなたって本当は黄色人種の血が濃いんじゃないかしら。言うことがいちいち暑苦しいわ」


『なっ! なんだとこのっ──』


 通信は切られた。ジュドにとっては不本意ながら、それは行動開始の合図でもあったのだった。






 月へ向かう宇宙船が発進する直前、ないし直後に内部に忍び込む。これしかない、とバオは決めた。教国兵が各通路に検閲を敷いているのはわかっている。間違いなく宇宙船の出入り口でもそうだろう。ならば、非公式かつ非常識な搭乗方法を採るしかなかった。


 『異端』の青年はもはや、恥も外聞もかなぐり捨て、がむしゃらになっていた。左半身の傷に応急処置を施した後、コンピュータールームの一室に進入し、中にいた従業員を殴り倒して宇宙港と月へ行く宇宙船の見取り図を手に入れ、ついでに発進する時刻も確認した後、警備員控え室に忍び込んで緊急用のスペーススーツも盗んだのである。


 宇宙空間で目立つように、白を基調として各所に赤をちりばめたスペーススーツに身を固めたバオは、何気なく他の従業員に混じって格納ドッグへ向かった。格納ドッグは滑走場の真上にあるため、この下を物質透過状態で抜ければすぐにでも宇宙船に乗り込むことが出来る。


 巨大な球形のドッグ内は無重力に保たれており、そこら中を整備士や部品、大声の指示などが飛び交っていた。バオはドッグの天頂部分まで磁力靴で歩き、靴の電源を切って天底方向に向かって隔壁を蹴った。


 ドッグにいた整備士達は仰天したことであろう。見慣れない者が天頂方向まで歩いていったと思えば、急に天底に向かって飛び、まるでそれが立体映像であるかのように隔壁の中へ吸い込まれていったのだから。後ほどその正体はバージナル研究所から脱走した素体であると知れるのだが、それまで整備士達は本気で『幽霊が出た』と主張してやまなかったという。


 隔壁は厚く、透り過ぎるのには三秒ほども掛かった。整備し終えた宇宙船を滑走場に下ろすため手順を踏んで開かれるはずの巨大な扉を抜ければ、そこはもう遮るものの一切ない真空である。


 三隻の宇宙船がバオの視界に入った。次いで、その周囲を囲む展望場とこちらを遮る分厚いガラス窓。顔を上げると、広大な宇宙空間へと続く巨大な発進口が見えた。


 バオはヘルメットの中から月へ向かう三〇二便を捜した。運良く、バオの真っ正面にある白い紡錘形タイプの宇宙船がそれだった。空中で足を向けて磁力靴のスイッチを入れると、バオの身体は三〇二便に向かって加速した。


 着艦した時の衝撃で左半身に激痛が走った。失った血は無視できる量ではなかった。少しだが頭が朦朧としている。


 だが、ここまで来たらこっちのもんさ。これで火星から脱出して、月へ行って、そう、記憶を取り戻すんだ。僕が、一体何者なのか、何をするべきなのかを知るんだ。絶対に。


 決意も新たにバオは走り出した。彼が今いるのは宇宙船の後部で、彼が潜り込もうとしている貨物室は前方にあるのだ。ヘルメットの側面のボタンを押して、網膜内に現在時刻を表示させる。あと数分で船は発進する。そうなる前に船内へ入らねばならない。


 不意にヘルメットの通信機能が立ち上がり、耳元に声を運んだ。


「言ったはずよ、怪我をしたくなければ抵抗するな、って」


「!?」


 聞き慣れない声にバオは戸惑った。


 何だ、何を言っている? 怪我をしたくなければ抵抗するな、だって? その台詞、どこかで聞いたような……


 音のない真空空間にあって、気付いたのは偶然か、それとも天啓だったのだろうか。


 バオは前方左よりから飛来する小型宇宙艇を発見した。それは黒く塗装されており、気付いたのは幸運の賜物であろう。今日は運がいい、とバオは思った。ゴミまみれになってしまったが、命をチップにした賭に勝った。普段なら気付かないはずの宇宙艇にも気付いた。さあ、乗っているのは教国兵か、それとも──


「……は?」


 赤目の青年は、一時間ほど前にも感じたのと同じ違和感の虜囚になった。素晴らしいと称して良いほどの速度でこちらに接近する小型艇に、何処かおかしい点がある、と本能が囁いたのだ。


 おそらくは発進口から入ってきたと思われる大型のエイのような形状の小型宇宙艇は、光の尾を引いてあっという間に全体を肉眼で認められる距離にまで及んだ。


 ようやく違和感の正体に気付いた。通常あのサイズの小型艇は一人乗り専用で、軍人などが宇宙船間の行き来の際に使うものなのだが、なんとその装甲の影にスペーススーツを着た人間が張り付いているではないか!


「……まさか、そんな馬鹿な!」


 いくらここが真空であり、手元の電磁石で張り付いていようとも、慣性の法則は健在なのだ。小型艇が加速すれば張り付いている人間は振り払われるはずなのだ。


「何故だ!?」


 間抜けな質問をバオは叫んだ。答える者はなく、あっという間に小型宇宙艇は真っ黒な影をともなってバオの頭上を通り過ぎる。真っ暗になった視界の中、それでもバオは足を止めて頭上を仰いだ。小型艇は圧倒的な速度でとんぼを切って旋回し、再び高速でバオの頭上を駆け抜けていった。


 刹那、小型艇に張り付いていたスペーススーツが跳躍した。雪のように真っ白なスペーススーツだった。


 宇宙空間を、滑走場のライトに照らされたしなやかな肢体が華麗に舞っていた。両手を広げ全身を伸ばしたその姿は美しく、バオは我を忘れて魅入った。


 まるで白鳥のようだ──と思考の蒸発したバオは思った。


 煌びやかな光に照らされ、華麗な白鳥の美しく舞う様は、めくるめく感動の宝石だった。


 バオを我に返したのは、左腕に生じた無音の衝撃だった。


「え?」


 聞こえるはずのない、筋肉繊維の切れる音を聞いた。続いて、左足にも同じ衝撃が発生し、骨の折れる音を聞いた。


 激痛はその直後にやってきた。


「ぐあああああああああぁっ!?」


 左半身に二つの噴水を設けられたバオは脳髄を灼熱する痛覚に絶叫した。遅れて彼は理解した。自分の進路を遮るように着艦した白いスペーススーツの人物が発砲したのだということを。そして、撃ち出されたのは紛れもなく、あの前時代の鉛玉であったと言うことを。


 スペーススーツの止血機能によって血の噴水はすぐに封鎖された。膝をついてその場にうずくまったバオに近づき、少女は皮肉を浴びせた。


「今度もペイントだと思ったのかしら?」


 間断なく全身をいたぶる激痛に震えながらも、バオは顔を上げ、冷や汗の流れる顔に不敵な表情を浮かべて見せた。


「へ、へへ……なんだ、やっぱり可愛い声じゃないか。まいったなぁ、このタイミングで来るなんてなぁ、してやられたよ。それに……え?」


 視線を上げて、とうとう少女の顔を確認したとき、『異端』の青年は言葉を失った。


 そこには金銀妖瞳ヘテロクロミアの『異端』がいた。


「もうあなたの茶番に付き合うつもりはないわ。諦めなさい。殺しはしないし、命だけは保証するわよ」


 なぜだか分からないが、ひどい疲労感にバオは襲われた。絞り出すように声を出した。


「まいった、なぁ……本当に、まいったなぁ……」


 短い沈黙を挟み、宇宙船三〇二便の装甲にヘルメットの額をこすりつけ、やがて泣きそうな声を零した。


「君、本当に美人じゃないか。大人しくつかまっても良いかも、って思っちゃうよ……」






 報告を受けたベルナルド・ソルテンライク大佐がスティンガー宇宙港に駆けつけたのは、神の悪戯か、悪魔の所行に違いなかっただろう。


 それは悲劇の種子であったのだ。


 メノウに捕獲されてもバオが未だ脱走者であり、ヘブン教国軍が彼を追っていることに変わりはなかった。意識不明のブリュートス少佐の跡を継いだソルテンライク大佐が指揮の下、教国軍兵士はより整然とした検問と巡回を行った。


 もとより一人乗り専用の小型宇宙艇に二人乗せるだけでも非常識であり、それ以上は望めるべくもなく、メノウは自業自得だが怪我人を連れて宇宙港を抜け出してジュドの待つ艦にまで戻らなくてはならなかった。


「何と言うべきかな、この状況は感謝するべきなんだろうか。それとも、よくも怪我させてくれたなコンチクショウ、と文句を付けるべきなんだろうか」


「減らず口を叩く余裕があるのなら自分の足で立ってもらいたいものね」


「無茶言わないでくれ、君が撃ったんじゃないか。多分、弾丸が貫通しないまま中に残っちゃってるよ、どうしてくれるんだい」


「知った事じゃないわ。どうせなら切り離した方が軽くなるわね」


「やっぱり自分の足で立つよ、痛いけど」


 二人は先程もメノウが隠れていた倉庫にいた。滑走場から物質透過状態へ移行し、メノウの指示によってここまで落ちてきたのだ。


「それにしても君は一体何者なんだい? もしかして君もバージナルの……?」


「同じ質問をされたら、あなたはなんて答えるの?」


 反問されてバオは驚いた。思いがけず痛いところを突かれたのだ。


「……質問が悪かったね。君の名前は? あ、僕のことはナナシって呼んでくれて結構だよ。だからバオとは呼ばないでくれ」


 ラップトップパソコンで『HEAVEN’S BETRAYER』と回線を繋いだメノウは、バオの言葉を無視した。


「ジュド、目標は捕まえたわ。あとはそっちへ戻るだけ」


『怪我はしてないな?』


「してるわよ」


『何ぃ!?』


「目標が、よ。連れていくのはかなりの面倒になりそうだから、できるだけ近くに来て置いてもらえると助かるわ」


『そ、そうか……わかった、気を付けろよ』


「了解」


 通信を切ったメノウがまず取りかかったことは、バオの傷の手当だった。とはいえ応急処置以上のことは出来ず、血を止めて包帯を巻き、痛みを抑えるための鎮痛剤を打つのがせいぜいである。バオは倉庫にあった適当な棒を杖にして歩くことにした。


「じゃあ行くわよ。ついて来なさい」


「普通は手錠とかかけて無理矢理連れていくもんじゃないかな、こういう時って」


「嫌ならあちらに捕まりに行くといいわ。優遇されるわよ、きっと」


「拳とブーツと怒声でかい? きついけど美人の方が……うーん、もしかするとこれは究極の選択かも知れない……」


 宇宙港内では見取り図を入手しておいたのも手伝い、それなりに楽に抜け出すことが出来た。それでも戦闘は回避しきれず、メノウの拳銃が何度か火を吹いた。隠密に事を運ぶため、銃声は『音は大気を伝達しない』という【裏技】によって消された。


 二人が宇宙港の玄関から出て、『HEAVEN’S BETRAYER』が隠れている市街部への道に身を移した時だった。待ちかまえていたように十人ほどの教国兵が現れたのである。すぐさま包囲陣を展開し、十数挺のレイガンが二人に照準された。


「とうとう尻尾を掴んだぞ、生意気な野良犬めが」


 胸に大佐の階級賞を付けた男が、嫌悪感も露わに言った。短く刈った茶色の髪に、巌の顔と屈強な肉体を併せ持つのは、ヘブン教国スコーピオン駐留軍大佐、ベルナルド・ソルテンライクその人である。午後のティータイムの似合わない容姿であった。


「よくも手間をとらせてくれたものだ。まさか私が出向くことになろうとはな」


 やれやれ、と肩をすくめたソルテンライクの顔を占めたのは、紛れもない嘲笑であった。その矛先はバオの顔に向き、そしてメノウへと移動した。


「女、賞金稼ぎかなにかか? 悪いことは言わん、教国兵は寛大である。今日は見逃してやるから、とっとと失せろ。我々の用事があるのはそちらの野良犬だ」


 勝利を信じて疑わない者の傲慢さだった。彼の顎が指し示す方向にいた兵士が、道を開けた。


 バオの不安に満ちた視線がメノウの顔に向いた。彼はスペーススーツに着替えたとき、それまで着ていた黒のツナギを捨ててしまったので未だにスペーススーツ姿だったが、彼女は用意周到に着替えを準備していたので、バオを追いかけていた時と同じ格好をしている。


 赤ジャンパーの少女は、まるで大佐の真似をするように、溜息を吐いて肩をすくめてみせた。


「やれやれ、ね。ご提案、喜んで承るわ。それじゃ」


 あっさりと言って、少女はバオに手を振って開けられた包囲の隙間に向かって歩き出した。あまりの何気なさに瞬間は呆然としたバオだったが、すぐに我に返ってメノウの背中に追いすがった。


「……ええ!? ちょ、ちょっと待ってくれ、それはないんじゃないか?」


「残念だけど引き際は心得ている方なの。ナナシもさっきみたいに諦めたらどう?」


「……ここまで来て見捨てるつもりなのか?」


「まさか、見捨ててなんてないわ。まだ拾ってもなかったんだから」


 メノウが包囲から出ると、空いた穴は塞がれ、バオを中心とした人の円は一歩、一歩とその面積を徐々に小さくしていく。


 市街部へ歩いていくメノウの背を一瞥し、ソルテンライク大佐は隣に立つ兵士に冷然と命令を下した。


「なかなか利口な奴のようだが、所詮は小物だったな。撃て」


 彼女には何人もの部下を殺されているのだ。ここでおめおめと逃がしては、上官の名折れでしかない。ソルテンライクには、彼女を殺さなければならない理由があった。しかし、それを予測していないメノウではなかった。指令を受けた兵士のレイガンが彼女を照準したその時、メノウは振り向かないまま左脇の下から銃口を突き出し、後ろを見ずにレイガンを破壊してのけたのだ。


「何っ!?」


 予想外の出来事にソルテンライク大佐は狼狽したが、続く第二派が彼を混乱に突き落とした。左脇腹に異物の進入する感覚が彼を捉え、喉に駆け上がった熱い液体がその正体を示唆する。次いで大きな塊がぶつかってきて、その衝撃に大佐は口の中から大量の血を吐きながら倒れた。


「ブルなんとか大佐もそうだけど、あんたも浅はかなことだ、司令官自ら顔を出すなんてね!」


 勝ち誇る赤い瞳の『異端』の手には、赤く血に塗れた超硬セラミックの長大な戦闘ナイフが握られていた。無論、ナイフの刀身をぬらぬらと輝かせているのは他でもない、ソルテンライクの血だった。


「貴様……何故!?」


 代名詞を使ったために大佐の質問の意図はぼやけた。彼は正確にはバオに問いたかったのだ。何故見捨てられたはずなのに、こうも息のあった連携がとれたのかと。ソルテンライクの意図を組んでか、バオは短く答えた。


「まだ、と、ナナシ、さ」


 『まだ拾ってもない』と少女は言ったのだ。それはあくまで『まだ』であり、『もう拾えない』という意味ではないはずだった。実のところバオにも自信があったわけではない。本当に見捨てられたのではないかという思いが最後まで心の底にこびりついてとれなかったのは、紛れもない事実だ。だが、彼女は自分を『ナナシ』と呼んだ。それが賭に出るきっかけだった。とにかく青年は、今日で二回目の命懸けの賭に勝ったのである。


「何をしている、撃て、撃ち殺せ!」


 もはやソルテンライクの頭の中から『生け捕り』という単語は消え失せていた。彼はもはや『教皇猊下の忠実なる臣下』という見栄をかなぐり捨て、復讐の暗い炎を燃やす野獣だった。


 細い光の蛇が幾条も青年と少女に噛み付こうとしたが何も貫けず、逆に逆襲の鉛玉を受けた兵士達はもんどりうって倒れた。右手に拳銃、左手にラップトップパソコンを持つ少女には光線は届く前に屈折し、怪我をしているせいか無様なスキップをするように駆ける青年は、こことは異なる位相の世界に身体をずらしているために物理的な力は通用しなかったのである。


 左脇腹に致命的な傷を穿たれたソルテンライク大佐も、復讐は自らの牙で果たすと言わんばかりにレイガンを抜いた。


 この時、神が気まぐれを起こし、悪魔が会心の笑みを浮かべた。


 タイミングは、バオの物質透過を操作する回路が『ON』から『OFF』に変わった一瞬であった。青年の足が地を蹴るだけの時間、数分の一秒にも満たない刹那。


 ソルテンライク大佐の放った光線が、バオの身体を貫いた。




 突如、目の前が真っ白に漂白されて、バオは戸惑った。


 右胸の辺りに灼けた鉄を押し当てられているような感じがするのだが、それも何処か遠かった。意識が薄くなっていくのを感じていた。自分はこのまま消え失せてしまうのかも知れない、と漠然とした不安を感じる。


「ビリィ」


 誰かの呼ぶ声がした。……誰? ビリィ、それは僕だ。君は? ……ああ、思い出した、エリシアだね。僕の大切な人。僕が守るべき人。


 僕の、愛する人。


 嗚呼、何故だ。どうして、よりにもよってこんな時に記憶が戻るんだ。


 走馬燈の如くよみがえる記憶に彼は文句を付けた。これではまるでもうすぐ死んでしまうみたいではないか。


 求めていたものが、捜していたものが、そこにはあった。


 古い記憶の中で、彼はビリィ・ラングバードという平凡な宇宙航行士だった。言動は少しとろいが頭は良く、操縦センスはまずまず、体はよく鍛えられていて人望は厚かった。エリシアという恋人もいた。近々プロポーズをしようとお金を貯めていた。


 そこから以降の記憶は途切れている。おそらくはプロポーズをする前に何かしらの事情で、あるいは拉致されて、研究所に移ったのだろう。


 過去の記憶はめくるめく輝きに満ちていた。だが、それは『思い出』としての美しさだった。彼は、その光をもう取り戻せないということを、心の何処かで知っていた。


 それは、夢だったのである。




「う、あ……あ……!」


 右胸を殺人光線に貫かれた青年は、驚愕とは違うもので目を見開き、小さく呻いた。


 右胸には彼の記憶を封じ、亜空間法則を身に宿らせる回路が内蔵されていたのだ。今、その回路が傷つき、暴走して、思いも寄らない結果を呼ぼうとしていた。


「ぐぅ……うあ、あ、あ、あ……!?」


 青年の身に起きた異変に、銃撃は止んでいた。人々は戦うことを忘れ、右の胸を押さえて呻く青年の一挙一動を見守った。


 不意に、青年が黒髪の少女に向けて右手を伸ばした。


「──エリシア……エリ、シア……どう、したの……? 髪の毛、染め……好き、だったんだ……けどなぁ……あのいろ……ああ、そうだ……ぼく、きょうは、きみに……つたえたいことが、あったんだ……」


 青年以外の時が止まっているようだった。誰も何も言わず、動かなかった。赤い瞳は誰が見ても現実を見ておらず、ここではない遠くを眺め、彼はここにいない誰かに語りかけていた。


「ゆび、わを……ぷろぽーず、ってわけじゃ……えりしあ……」


 ゆっくり、ぎこちなく、一歩、また一歩、彼は歩いた。


「ぼくは、きみを……なにがあろうとも……たとえ、きおくをけされても……かみさまに……ああ、ごめん……わけがわから……だから……ぼくは、きみを」


 血だらけの身体を引きずり、幻に向かう。


 その時、どす黒く濁った心の悪魔が、青年の内にある物質透過の回路のスイッチを入れた。


「あいして」


 物質透過状態にある者は全ての物質の干渉を受け付けない。沼に沈むように青年の身体が地面にめり込んだ。


「──!」


 即座に反応したメノウが咄嗟に手を伸ばしたが、無駄だった。


 『バオ』は地の底へと落ちていった。






 艦橋のソファに腕と脚を組んで座り、くわえた煙草の先端から立ちのぼる紫煙をぼんやりと眺めて意識を遠くに飛ばしていたメノウを、シャワーから戻ってきたジュドはしかめ面をした後、無理に声を作ってからかうように言った。


「……目標は殺されて、依頼人のオタクデブは失踪扱い、軍とはガチンコ……良いことずくめだったなぁ、おい」


 無骨な皮肉にメノウは微動だにせず、煙草をくわえたまま器用に喋った。


「前金だけでも十分な額よ。文句あるの?」


「あるぜ、一つだけ」


「何?」


「いくら何でもキレすぎだろ、何があったか知らねえが、皆殺しって言うのは。お前らしくもねえ。いやまあ、それ以前に俺は殺しを好かねぇが」


「別に……ただ腹が立っただけよ。おかげで後金がもらえなかったし。……何をにやにやしているの」


「いや、別に、な。……もしかして、わかったんじゃねえか? 人道って奴がよ」


「そうやって自分の都合のいいようにとらないで。効率を優先するのに感情は必要ないわ。全員を殺らないと後々面倒になるって判断したまでの事よ」


「へっ、可愛くねえなぁ。おかげさんで余計に〈ヘブン〉から目ぇつけられたような気がするんだがよ、それはどうなんだよ」


「目撃者はいないわ」


「ちっ……またソレかよ。本当に可愛くねえな。……ああ、そうだ。そろそろ雪音の奴が帰ってくるはずだ。迎えに行って来らぁ」


 黒革ジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出し、ジュドは艦橋から出ていった。メノウはそれを見送りもせず、ただただ、立ち上る煙だけを見ていた。


 今頃、火星の中へ落ちていった青年はどうなっているだろうか。おそらくは地中の何処かで、物質透過状態のまま、窒息死か失血死しているはずだ。実体をこちらの世界に持たない彼は半永久的にそこに在り続けるだろう。腐ることなく、動くことなく、ただただ、そこに在り続けるであろう。彼が解放されるとすれば、それは火星が崩壊する時だけだった。


 彼のことは何も知らないし、分からないし、興味がない。だが、あの『最期』だけはない──あの瞬間は、そう思ってしまった。


 あの通り、人はどんな事情を持っていても、容易く死んでしまう。それはわかっていたのだ。そして、死の形など所詮は第三者にしか感想のもてない事柄で、差異などなく、どの死も平等であることも。


 だからこそ、メノウは自分自身に納得がいかなかった。


 少女の手には血がこびりついて落ちない程、多くの命を奪っているというのに、なんとあさましい感情だったのだろうか。


 そう、彼女は感情に意義を見いださない人間だった。


「……そうよ、白昼夢みたいなものなのよ、人生なんて、結局は……」


 言い聞かせるように、煙と一緒に呟きを漏らした。


 また、彼女は死者の冥福を祈るという行動に意味を見いださない人間だった。


 立ちのぼる煙草の煙が、輝く黒曜石と青いガラス玉に映っては、消えていった。





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