自動販売機
今にも消えそうな光に吸い寄せられるように集まる夏の虫たち。彼らにとって自動販売機の光は安心できる者なのだろう。とはいえ、当の自動販売機は少少、たじろいでいた。これでは職務を全うすることが出来ない。職務を全うできないという結果はスクランプにされるという事実に繋がる。
自動販売機には手はなかった。コカコーラの見本缶に昼間、小さな男の子が手に持って自慢げに仲間に見せびらかしていた甲虫が唇を自動販売機に付着させても何も出来ずに、口もないから声も出せない。夏という季節はうんざりだと夜は思うのだが、昼間には小さな子ども達が自動販売機に話しかけてくれるのだ。
ある小さな男の子は自分よりもさらに小さな妹を連れて、自動販売機の前に立つ。お兄ちゃんが何故、そこに立ち止まるのか、不思議に思って贅肉の付いた腕をしきりに動かしてお兄ちゃんを動かそうとする。だが、小さな男の子の眼前にあるのは十年以上もスーパーの前で休み無しに職務を遂行している赤い塗装が褪せた自動販売機だ。
小さな男の子の掌が硬く握り締められている。指先に赤模様が付いている。そんな期待されてしまうと幾らベテランの自動販売機でも恥ずかしくなる。期待に応えなくては、と思うのだが残念ながら子どもの好きそうな甘いジュースはオレンジジュースとメロンソーダしか装備されていない。他は無糖のコーヒー、ミステリーゾーン、賞味期限が間近な牛乳、野菜ジュースがある。
蝉の音が五月蝿く、響いているがそれに負けじと小さな男の子は妹ににかりと笑いかける。妹もそれに応じて世界の混沌さを知らない無垢な笑顔を返す。涎の気泡が唇の周囲でぷくぷくと風船を作っているにも関わらず、目に秘められた愛らしさという魔力は翳りをみせない。
「何、飲むだよ、のん?」
「ん、とね」考え込んでから、飛び跳ねて指を自動販売機の自分の届かない部位へと触れさせようとする。「あたい、野菜ジュースと牛乳飲むよ、のん」
その言葉を聞いて、小さな男の子は眉毛をへんてこな形に曲げた。いつも、来てくれる常連だから、自動販売機はその理由を知っていた。のんの母親が近所の奥さん達と歩道で輪になって話していたのだ。のんが牛乳アレルギーだと。
「ママに絶対、のんに牛乳を飲ませちゃいけないよって言われているんだよ。野菜嫌いだっておまえ、言っていただろう。いい加減な奴だ」
「いい加減じゃないもん」
のんは何かを耐えるように小さな男の子を睨み付けて、緩慢な動きで小さな男の子の頬を叩いた。男の子はのんを叩き返そうとしたが思い留まった。代わりに自動販売機の側部を蹴った。鈍い音が自動販売機の音からしたが、痛覚という感覚が備わっていないので何ら気に触らなかった。
のんは何もかも放り投げるように大きな口を開いた。
「ママが背伸びて、好き嫌いしなかくなったらパパが迎えに来てくれるって言ってたんだよ。昌史の馬鹿」
それは叫びに近い奇声だった。
馬鹿と言われた小さな男の子は何処からばつが悪く、無言で二百十円を入れる。
「のんの牛乳、飲んでやるよ。お前、牛乳アレルギーだから飲めないけど、俺は違う。だから、俺が背伸びの方をやって、のんは好き嫌いを無くす。これで父さんに逢えるよ」
のんは昌史の提案にびっくりして固まって、小指と小指を繋ぎ合わせていた。
自動販売機は幼い兄妹の愛情に感激しながら、それは不可能であると知っていた。だが、口がないので伝えられない。例え、口があったとしても伝えられないだろう。所詮、自分はちっぽけな缶ジュースの保管、販売しかできない存在だ。気持ちが靄が掛かったように視界不良になったが、本当に視界不良になっても長年の勘だけで任務を遂行することすら可能な自動販売機にとっては失態を侵す方が難しい。いつものように無事に品物は出口へと誘われる。
「お兄ちゃん、パパ、駄目って言わない?」
「そんなことあるもんか、父さんは世界一の消防士なんだぜ。正義の味方はいつだって子どもの味方なんだ」
強みのある昌史の言葉にのんは何度も頷いた。頷いているうちに首を振るのが楽しくて、笑った。
「ほら、のん」
昌史はのんの手を握り締める。硬貨を握り締めた時みたく、指先は赤くならず、肌色を保っている。
「ありがとう」
二人はその言葉を残して、足早に住宅街へと消えていった。
それを遠巻きに傍観していた主婦の一団は二人が視界から完全にいなくなったのを鋭い横目で測ると、別の主婦が自慢話をするように抑揚ある声で言う。
「可哀想にね。あの子達の父親、先日の火事で逃げ遅れた四歳の女の子を助けようとして、火に巻かれて亡くなったらしわよ。非番じゃなかったら、完全防備で挑めたのにね」
自動販売機はそれを知っていた。スーパーの店長が三日前に自動販売機の前で知り合いの男性と立ち話をしていた。その一部が先日の火事の話だった。原因は四歳の女の子の父親が泥酔して、煙草の始末を怠ったことだった。
自動販売機は見つめ続ける。
人間を。そして、いつか、自動販売機自身も変わらなければならない時が来る。それは拒絶しても竜巻のように全てを飲み込んでしまうのだ。それまで自分は職務を全うし続けるだろうと自動販売機は自分に言い聞かせる。