王子の求婚
あの衝撃の結婚式からひと月。エルティーナはノーウォルド国のグラスディア公爵の自邸に居た。
ライナスとはあれ以来、会っていない。正確には会わせてもらえていないのだ。
エルティーナは読んでいた本から顔を上げ、物憂げに溜め息をつく。思い出されるのはあの結婚式の日のことだった。
* * *
ライナスはエルティーナが結婚に承諾したと理解した瞬間、彼女を連れてさっさと神殿へ戻った。そして怒りに顔を赤くさせるグラスディア公爵の前に立ち、にっこり微笑む。
エルティーナの父であるグラスディア公爵は、突然の闖入者に明らかにムッとした表情になった。
「なんだね、君は!」
「グラスディア公爵、折り入って話があるのですが」
「今は呑気に話している場合では……」
「エルティーナ嬢を僕にください」
一瞬にして空気が凍る。グラスディア公爵は何を言われたのか分からなかったのか、情けなく口を開いたまま、呆然とライナスを見返した。
ちなみにライナスの表情は相変わらず晴れやかな笑顔を保ったままである。
「い、今、なんと……?」
「エルティーナ嬢を僕にください。彼女と結婚します」
グラスディア公爵は今度こそ開いた口が塞がらないと言ったように固まった。それはパルフィオール国の人間も同じようで、全員が目を丸くしてライナスを見ている。
その中でライナスだけがにこにこ笑ってグラスディア公爵を見ていた。そんな光景に、エルティーナはだんだんと頭が痛くなってくる。やっぱり無謀だったんだわ。心の中は後悔の嵐だ。
「……正気か?」
「もちろんです」
なぜこんなにも自信満々なのだろうか。神殿内に居る全員が思ったことだろう。
花婿の逃亡により神殿内はパニックに陥っていた。そこに、花婿の兄による結婚宣言という思わぬ爆弾が投下されたのだ。もはや神殿内はパニックを通り越して、誰もが固まっている。
いち早く我に返ったのはエルティーナの父であるグラスディア公爵だった。彼は頬を赤くさせ、燃える目でライナスを睨んだ。
「貴様、いったいなにを……!!」
「ぐ、グラスディア公爵! お待ちください! これは何かの間違いで……」
「間違いで私の娘はこんな辱めを二度も受けているのか!!」
「あれ。結婚は間違いじゃないんですが」
なんとかグラスディア公爵の怒りを鎮めようとしているパルフィオールの人間は、さっきから地雷を踏みまくっているライナスにぎょっとし、両手でその口を塞ぐ。
そのままライナスは二人がかりで神殿から連れ出された。エルティーナはその様子を呆気にとられながら見送る。なぜかライナスはエルティーナにウィンクを送ってきた。……訳が分からない。
グラスディア公爵の怒りは収まることを知らず、結局結婚式はなくなった。パルフィオール国側はお詫びをしたい、としつこく申し出たが、グラスディア公爵はそれを受け入れず、ノーウォルド国の人間を引きつれて帰還。当然、エルティーナも帰ることとなった。
* * *
グラスディア公爵であるエルティーナの父の怒りは自国のノーウォルド国に戻っても収まることはなかった。
パルフィオール国の人間は我々を善意を踏みにじり、手ひどい仕打ちで裏切ったのだ。かくなる上は開戦もやむを得ないだろう! と威丈高に宣言したらしい。さすがに開戦は行きすぎだと、実兄である国王に窘められ、それは諦めたようだが。
エルティーナはそれを聞いたとき、心底ホッとした。それから伯父である国王に感謝した。グラスディア公爵の発言は娘を思えばこその行動だとは思うが、自分をダシに戦争が始まったらエルティーナはきっと生きた心地がしなかっただろう。
「お父様は過激なのよね。すぐに戦争戦争って……。それで国に良いこと何も起きないのに」
たとえ勝ったって戦争は大きな傷を残す。人にも街にも。だからこそ、そういう事態は慎重に考え、なるべく回避すべきなのだ。
幸い、現国王であるエルティーナの伯父はそのことをしっかりと理解しており、早計に武力行使にでなかった。弟であるグラスディア公爵のことも上手く操作――もとい、説得しているので、この先も大乗だろう。
問題はエルティーナの政略結婚のことだった。
エルティーナの結婚は花婿の逃亡という形で破談になった。しかし、それからすぐ第二王子との結婚の打診が隣国から寄せられた。国王はこの縁談に難色を示した。
『向こうは君が結婚に承諾した、と言っているが』
『それは……』
『正直、私は結婚には反対だ』
それはエルティーナにとってすごく意外な言葉だった。エルティーナの結婚は手っ取り早く隣国との関係を修復できるものである。伯父である国王はてっきりそれを望んでいると思っていた。
『私はこれ以上、お前を道具のようにこちらの都合で振り回したくない』
『でも、』
『彼が駄目だったから次はこの人、というわけにはいかないだろう。……何を今さら、と思うかもしれないが』
エルティーナを思っての言葉だと分かったから、エルティーナは何も言えなかった。何も心配することはないよ。そう言ってほほ笑む国王は、決してエルティーナに結婚を強制しなかった。
それからひと月。エルティーナに答えはまだ出ていない。
パルフィオール国からは結婚を打診する正式な文書以外届いておらず、その文書もエルティーナが見ることはない。もちろんライナスから個人的に手紙が送られてくることもなく、あれはやっぱりその場限りの冗談ではないだろうか、とエルティーナは思い始めていた。
「姫さま? どちらまで行かれるんです?」
「庭に出るだけよ。花壇をいじってるわ」
すれ違う侍女たちにそう声をかけ、エルティーナは広い庭へと出る。ここに居る侍女全員が気遣わしげにエルティーナを見つめ、それが少し居心地が悪かった。
誰もがエルティーナを気遣う。結婚相手に逃げられた可哀想なお嬢さまとして。本人はそんなに落ち込んでいないというのに。
日焼け防止用のつば広の帽子を被り、エルティーナは花壇のそばに座りこんだ。作業用の手袋を嵌め、黙々と土いじりを開始。
花壇に咲き乱れるのは青々とした――薬草たち。
「あ、傷薬の薬草が出来てる。今度城下の薬屋さんに持って行こう」
順調に育っている薬草たちにエルティーナの頬が緩む。
エルティーナの趣味。それは屋敷の庭で薬草を育てることだった。できた薬草は無料で街の薬問屋へと卸している。少しでも領地の人々の役に立つことがしたくて始めたことだった。
「こんな趣味、聞いたら驚くかもしれないわね……」
「――いや、そんなこともありませんよ?」
聞こえた声に、エルティーナは一瞬固まった。それからゆっくり背後を振り返る。そこには満面の笑みで立つライナスの姿が。なぜかあちこちに葉っぱがついていたりするが。
「…………ライナスさま?」
「そうだよ。久しぶり。少し痩せたかな?」
「なんでここに?」
「もちろん、君に逢いたくて」
会いたいから来た、という単純明快な答えにエルティーナは開いた口が塞がらなくなった。
そんな理由で来れるほど近い距離ではないし、そもそもどうやってこの屋敷内に入ったのだろうか。まがりなりにも王弟の屋敷。警備だって厳重にされているのに。
それを尋ねたらライナスに上手くはぐらかされてしまった。
「薬草を育てるのが君の趣味? もしかしてそれを無償で街に卸している、とか?」
「……そうですが。駄目ですか?」
「いや、君らしいよ」
そう言うライナスは楽しそうに笑っている。エルティーナはちょっと恥ずかしくなって花壇のそばから離れた。
改めてライナスをじっくりと見た。久しぶりに見たライナスは驚くほど何も変わっていなかった。あの結婚式以来、特に体調も崩していないらしい。
「とりあえずお元気そうで良かったです」
「君もね。相変わらず綺麗だよ」
「……それはどうも。お手紙もなかったので、てっきりあの話は白紙に戻ったのかと思っておりましたわ」
エルティーナが少し嫌味っぽく言えば、ライナスが不思議そうな顔をする。その意味が分からなかったエルティーナも首を傾げる。二人はしばし無言で首を傾げた。
「手紙、届いてなかった?」
「あぁ、正式な文書は陛下の元に届いているのでしたわ」
「いや、僕も君に手紙を送ったんだけどな。たくさん。毎日のように」
それは寝耳に水の発言だった。エルティーナの元にはライナスからの手紙は一枚も届いていない。それは確かだ。エルティーナは毎日確認しているのだから。
再び無言になる二人。先に笑ったのはライナスだった。エルティーナは深い溜め息をこぼす。
「……お父様ね」
「そうみたいだ。僕はよほど嫌われているらしい」
ライナスを嫌っている、というよりはパルフィオール国を嫌悪しているのだろう。一か月経った今でもあの結婚式のことを怒っているのだ。我が父ながらなんという執念深さなのだろうか、と呆れるエルティーナだったりする。
エルティーナは父親の大人げない行動を知り、ライナスに小さく頭を下げた。少なくともライナスは求婚者としての礼儀を弁えていたのだから、手紙を返さなかった非礼はエルティーナにある。
「知らなかったのはいえ、手紙も返さずすみませんでした」
「いや、父君が怒るのも無理ない。それに直接会いたかったので返って良かったよ」
まるで流れるように甘い言葉を言うライナスにどんな反応を返すべきなのか悩み、難しい顔をするエルティーナにライナスが小さく笑う。
大抵の女性は甘い言葉を囁かれると舞い上がったり意味ありげな視線を寄越すものだが、エルティーナは顔をしかめるばかりでちっとも喜んだりしない。それが新鮮だからこそ、ライナスはエルティーナに睦言を囁かずにはいられないだ。
「父君は僕たちの結婚を許してくれそうかな?」
「どうでしょう? 陛下もあまり乗り気ではありませんし……」
意外なエルティーナの言葉にライナスも目を丸くする。なるほど。これでノーウォルド国からの手紙に諸官たちが顔をしかめている理由がわかった。
エセルバートが逃亡した今、パルフィオール国はなんとかノーウォルド国との国交を保ちたいと考えている。ライナスが結婚を申し込み、エルティーナが受けたと聞いて、パルフィオール国側はすぐにそれに乗っかった。しかしノーウォルド国からは色良い返事は来ない。
ライナスもエルティーナの気持ちを知りたくて手紙を出したが、一向に返事はなかった。だからこそライナスはついエルティーナの居る所まで来てしまったのだ。
エルティーナは熱心に花壇の整理を行う。それをぼんやりとライナスは眺めていた。
最初は興味本位な求婚だった。もっと自分勝手になっていいのだろうに、必死に両国の懸け橋になろうとするその姿が新鮮だったので、自分も手を貸してやろうという気になったのだ。だから別にエルティーナが嫌ならば求婚を取り消そうとも思っていた。
だけど再び会った今、思うことはこれまでとは違うこと。
どこまでも健気に自分の出来ることをしようとするその姿は、今まで出会った女性たちとは違った。もっと我がままに生きたっていいのに。そう思うが彼女はしないのだろう。その甘えベタの姿がライナスの心を甘く疼かせる。
「ライナスさま?」
「もう一度求婚したら、君は真剣に考えてくれる?」
思いがけない言葉にエルティーナは絶句した。ライナスは真剣な表情でエルティーナのことを見つめる。いつの間にか泥に汚れた手はライナスに取られていた。
「ら、ライナスさま、お手が汚れてしまいますわ」
「構わない。それよりも返事を聞かせてくれ」
「そう言われても……」
手紙がなかったこの一カ月、エルティーナはライナスにからかわれたのだ、と思っていた。今さら真剣に考えろ、と言われても難しい。
そもそもエルティーナにとって結婚とはエセルバートとするものであり、誰かに決められるものであった。嫁ぐのはエセルバートの元であり、それが駄目になったからには新たな結婚相手が用意させるばかりだと思っていたのだ。
「陛下はあなたの結婚は考えたいと……」
「ノーウォルド国王の考えを聞いているんじゃない。君はどう思っているかを知りたいんだ」
そう言われてエルティーナは戸惑った。もちろん国王にライナスの元に嫁げと言われたら了承する意思はある。だがライナスが聞いているのはそういうことではないだろう。
エルティーナ自身にライナスとの結婚の意思があるか否か。正直、エルティーナにはまだ分からなかった。
ライナスのことを好きかと聞かれれば好意はある。だがそれは恋愛ではないだろう。変人であることは間違いないし、何より本人をよく知らない。
エセルバートのことも何も知らなかった。だからあのようなことが起こったのかもしれない。そう考えるとライナスとの結婚もあまり乗り気にはなれなかった。
「ライナスさまは私でよろしいんですか? お互いに何も知らないんですよ? おまけに私は花婿に一度逃げられていますし」
「花婿が逃げたのは君のせいじゃない。それに何も知らないといことはないさ」
ライナスの手が優しくエルティーナの手を包み込む。その壊れ物を扱うかのような手つきに、エルティーナの心臓は跳ねた。
「僕は君が心優しくて、他者のために怒れる人間だって知っている。本気で心配できる人間だってこともね。身分をひけらかさず、万人に優しくできることも。そしてちょっぴり意地っ張りだっていうことも知っている」
「……でも私はライナスさまが変人だってことしか知りませんわ」
「じゃあこれから知って欲しい」
変人扱いされたことには触れず、そんなことを言うライナスにエルティーナは呆れる。しかしライナスは本気だった。
エルティーナの一面を知れば知るほど、彼女に惹かれる己を自覚する。最初こそは興味本位だったが今は違う。エルティーナさえ了承してくれるのなら、周囲の反対する人間を説得しようと考えていた。
積極的なライナスのその姿に、エルティーナの瞳が迷うように揺れる。その目をライナスは真剣に見つめた。
「国なんて関係ない。僕は君に真剣に結婚を申し込みたいんだ」
「それは国の意思はどうでもいいってことですか?」
「結果的には両国の和解のきっかけになるかもしれない。でもそれとは別で、僕は僕の意思で君に求婚している」
「っ、」
言葉の意味を理解したエルティーナの顔が瞬時に赤くなる。そんなエルティーナの前にライナスは片膝をついて跪いた。
まるで騎士が王女に誓うようにエルティーナの右手を捧げ持ち、その甲を己の額に軽く押し当てる。
「エルティーナ・レオルト・グラスディア。どうか僕と結婚して下さい」
それはあの日、真っ白なウエディングドレスに身を包んだエルティーナにライナスが言った言葉。しかしあの時と違うのはライナスに明確な意思があり、エルティーナに選ぶ余地があるということだろう。
ライナスの輝く翡翠色の瞳がエルティーナを射抜く。あの日の再現のようなそれに、エルティーナの心は不思議と高鳴った。
それはエセルバートと居る時には感じなかった不思議な気持ち。それに名を当てるとしたら、きっと「慕わしい」という言葉が合うのかもしれない。エルティーナはそんなことを思った。
「エルティーナ、君の気持を聞かせて」
ライナスの焦がれるような視線を受けた時、エルティーナの心は歓喜に震えた。その瞬間、エルティーナの心は決まった。
少なくともライナスの気持ちに嘘はない。そしてエルティーナもライナスの熱を秘めた視線に胸が甘く疼いた。だからそっと目を伏せ、笑みをにじませてライナスを見つめる。
「……お父様を説得して下さる?」
一瞬、怪訝な顔をしたライナスはその言葉に秘められた意味に気付くと顔を輝かせた。それからエルティーナを抱き上げ、ぎゅうぎゅうに抱き締める。
「もちろん! 必ず結婚の許しをもらうよ」
「陛下も説得してくださいね。そっちの方が大変かもしれないけれど」
「なんでもやるよ。君と結婚できるなら」
そう言って微笑むライナスはエルティーナの頬に唇を寄せる。キスされたエルティーナは顔を赤くさせた。
これだけのことで真っ赤になる初なエルティーナにライナスの頬は緩む。説得は容易ではないだろうが、ライナスは必ず全ての人間を納得させる、と心に決めた。
だけどとりあえず今は。微笑むエルティーナの笑顔を堪能することにする。
温かな陽射しが降り注ぐ庭で、恋人たちの嬉しそうな笑い声が響くのだった。
―END―
読んで下さり、ありがとうございます。
「姫君の結婚」の続編です。
結局結婚できていなかった二人ですが、今回も結婚できていません←
求婚はしましたが、果たして周囲は許してくれるのか。
また機会があればさらに続編を掻きたいな、と思ってます。
何かありましたら遠慮なく書き込んでくださいませ。
*藤咲慈雨*