第十三話『弐音、覚醒の瞬間』
深層の森の空気が、まるで水のように重く沈んでいた。
湿度は高い。だが、それだけでは説明できない圧力があった。
空気の粒子ひとつひとつが“揺れ”を帯びていて、
その揺れが皮膚に触れるたび、微かな痺れが走る。
胸の奥の壱音が、
ふるり……ふるり……
と震え続けている。
だが、その震えは弱々しく、
深層の濃密な音の海に飲まれかけていた。
音喰いの赤い目が、
その壱音を狙っている。
黒い霧のような身体が揺れ、
輪郭が歪むたびに周囲の音が吸い込まれていく。
風の音も、
草の揺れも、
土の震えも、
すべてが音喰いの口の奥に渦巻く“音の渦”へと吸収されていく。
世界が静かになりすぎていた。
静寂ではない。
音が“奪われている”。
ローブの人物が俺の胸に触れた瞬間、
壱音の震えが一瞬だけ整った。
だが、音喰いの吸引は止まらない。
黒い霧が渦を巻き、空気が歪み、世界が沈むような圧力が押し寄せる。
「無響よ。壱音では足りない。
深層の揺れに対抗するには、もう一段階上の“存在”が必要だ」
ローブの人物の声は、空気を震わせずに脳へ直接届く。
意味だけが滑り込むように理解されるその声は、
深層の揺れの中でも揺らがなかった。
「弐音を得ろ。
お前の中にはすでに“兆し”がある」
胸の奥で、壱音とは違う揺れが生まれていた。
弱く、細く、しかし確かに“別の波形”として震えている。
ふるり……ふるり……。
それは壱音よりも深く、重く、
世界の揺れに近い。
音喰いが跳んだ。
黒い霧が尾を引き、空気が裂ける。
だがその跳躍には音がない。
足音も風切り音も存在しない。
ただ空気の歪みだけが波形となって視界に広がる。
俺は泥を蹴り、横へ跳んだ。
湿った土が跳ね、草が折れ、匂いが鼻を刺す。
しかしその音すら吸い込まれていく。
音喰いの爪が地面を抉り、土が裂ける。
だが裂ける音は一瞬で消えた。
「無響、壱音を守れ!
飲まれたら終わりだ!」
無段のプレイヤーの叫びが届く。
だがその声すら、音喰いの吸引に引きずられて揺れていた。
胸の奥の壱音が乱れ、揺れが細かく震える。
ふるり……ふるり……ふるり……!
「……っ……!」
壱音が飲まれる。
存在が薄まる。
世界から消える。
そんな恐怖が、背骨を冷たく撫でた。
俺は胸に手を当て、必死に揺れを抑え込む。
「……鳴れ……!
俺はここにいる……!」
壱音が震え、空気へ広がる。
淡い波形が音喰いの吸引に逆らうように揺れた。
その瞬間、音喰いの赤い目が俺を捉えた。
無段のプレイヤーが叫ぶ。
「存在を示したな!
だから狙われるぞ!!」
音喰いが再び跳んだ。
黒い霧が尾を引き、空気が歪む。
俺は泥を蹴り、懐へ滑り込む。
ナイフを構え、壱音を刃へ乗せる。
ふるり……!
刃が震え、空気が揺れる。
「——壱音・揺律刃ッ!!」
ザシュッ!!
黒い霧が散り、
音喰いの身体が揺れる。
だが——
倒れない。
むしろ霧が濃くなり、
赤い目がさらに光った。
無段のプレイヤーが叫ぶ。
「無響! 逃げろ!
音喰いは壱音を喰う!
今のお前じゃ勝てない!!」
音喰いが吠えた。
グォォォォォォ!!
空気が裂け、
世界が揺れた。
胸の奥の壱音が、
悲鳴のように震える。
ふるり……ふるり……ふるり……!!
視界が白く染まり、
膝が崩れた。
音喰いが迫る。
赤い目が、俺の壱音を狙っている。
——喰われる。
その瞬間——
空気が、止まった。
風が止み、
葉が揺れず、
音が消えた。
世界が“無”になった。
そして——
「無響よ。
まだ死ぬには早い」
あの声が、背後から響いた。
ローブの人物が、
音もなく現れた。
その手が、
俺の胸に触れた。
壱音が、静かに震えた。
ふるり……。
音喰いが吠えた。
だが、
ローブの人物は微動だにしない。
「深層の音喰いは、壱音では倒せない。
だが——
“弐音”なら話は別だ」
ローブの人物が、
俺の胸に手をかざした。
「無響よ。
ここからが本当の深層だ」
胸の奥で、
壱音とは違う“もうひとつの揺れ”が生まれた。
弱く、細く、
しかし確かに“別の波形”として震えている。
ふるり……ふるり……。
それは——
弐音の胎動だった。




