第二話 赤ん坊な俺
目が覚めてからというもの、ネロはずっと考えていた。
いや、正確には――考えずにはいられなかった。
自分の名前は、どうやらネロ・ワーゲンというらしい。何度か聞こえてきた呼び声や、乳母や両親の会話から、それはもう間違いないと判断していた。さらに、自分はワーゲン家の三男であり、上には兄が二人、そして姉が一人いるらしい。
そして、今自分がいる場所はニデアという国の、ミシェラという土地。
当然ながら、そんな国名も地名も、前世の記憶には一切なかった。
ネロは小さな身体のまま、じっと天井を見つめる。
(……転生、したのか)
結論としては、それが最もしっくりきた。
死んだはずの自分が、こうして赤ん坊として存在している。その時点で常識はすでに崩壊しているが、少なくとも今の状況を説明するには、それ以外にうまい言葉が見つからなかった。
だが、納得と同時に、疑問も次々と湧いてくる。
なぜ自分は転生したのか。
ここは前の世界と似た世界なのか、それともまったく別物なのか。
人間は普通に暮らしているのか。文化は。技術は。社会はどうなっている。
そして何より――なぜ自分は、この者たちの言葉を当たり前のように理解できているのか。
知りたいことは山ほどあった。
耳に入る言葉は、前世のどの言語とも違うように思える。少なくとも、日本語でも英語でもない。だというのに、不思議なほど意味だけはするりと頭に入ってくる。
(なんなんだ、これは……)
自分がこの世界に適応しているのか。
それとも、転生そのものにそういう理屈が備わっているのか。
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
だが、今のネロにできることは、せいぜい周囲の会話を聞き、状況を少しずつ整理することくらいだ。
(……情報が足りない)
自然と顔がむすっとする。
赤ん坊の顔でそんな表情を作ったところで、大して迫力などないのだろうが、本人としては極めて深刻だった。
(せめて体が自由に動けば――)
そう思ったところで、ぐう、と腹の奥が訴えた。
一瞬、思考が止まる。
そして次の瞬間、ネロの口からは、意思とは無関係にふにゃあと情けない泣き声が漏れた。
(ちょっ――待て、違う、今のは俺の本意じゃ――)
だが本能は理性より強い。空腹を訴える泣き声はみるみる大きくなり、ネロは内心で盛大に顔をしかめた。
(泣くの、嫌なんだが……!)
そんなネロをすぐに抱き上げたのは、乳母のメアリだった。
「はいはい、ネロ様。お腹が空いたのですねぇ」
柔らかな声だった。落ち着いていて、どこか安心させる響きがある。どうやら普段から、このメアリという女性がずっとネロの世話をしてくれているようだった。
慣れた手つきでミルクを飲ませてもらいながら、ネロはしぶしぶ現実を受け入れる。
(……今は、これに頼るしかないか)
なんとも複雑な気分だったが、空腹には勝てない。ぐいぐいと飲んでしまう自分に、ネロはますます微妙な気持ちになる。
そんな中、ふと脳裏に浮かぶのは母親の顔だった。
アリア――それが、ネロの母の名だ。
彼女は驚くほどの美貌の持ち主だった。思わず見惚れるほど整った顔立ちで、気品もある。前世の感覚で言えば、間違いなくとんでもない美人だ。
一方で父親は、悪い人ではなさそうだが、どちらかといえば泥くさい雰囲気の男だった。
(よくあの母さんと結婚できたな、父さん……)
赤ん坊のくせに妙なところで感心しながら、ネロはミルクを飲み干した。
やがてメアリは、飲み終えたネロを肩に預けるように抱き直し、背中を優しくとんとんと叩き始めた。
「さあ、げっぷを出しましょうね」
ゆらゆら、一定のリズムで揺らされる。
その穏やかな時間を破ったのは、廊下の向こうから聞こえてきた、やけに騒がしい足音だった。
ドタドタドタドタ――。
明らかに子どものものと思しき、勢い任せの走り方である。
そして。
ドタン!
かなり派手な音がした。
ぴたりと足音が止まる。
ネロは思った。
(転んだな)
しかし数秒後、何事もなかったかのように再びドタドタドタッと足音が迫ってきた。次の瞬間、勢いよく扉が開かれる。
そこに立っていたのは、小さな女の子だった。
年の頃はまだ幼い。だが、胸を張って仁王立ちしている姿は妙に堂々としている。もっとも、その額は見事に真っ赤で、目元は少し潤んでいた。
どう見ても、さっき盛大に転んだ犯人である。
「メアリ! 私の弟はどこ!?」
勢いよくそう言い放つ少女に、メアリはくすりと微笑んだ。
「弟のネロ様なら、こちらですよ、アンナ様」
そう言って、抱いていたネロをアンナの目線に合うよう少し下げる。
アンナ――それが、ネロの姉の名前らしい。
アンナはぱっと目を輝かせた。
「この子がネロ……?」
そろそろと顔を近づけ、小さな手を伸ばしてくる。その指先は思いのほか優しく、ネロの小さな手をそっと握った。
「……かわいい」
ぼそりと、けれど確かにそう呟く。
その声には、背伸びした姉らしさと、年相応の素直な愛らしさが混ざっていた。
メアリはそんなアンナを見て、少し困ったように笑う。
「アンナ様、また廊下を走って転んだのでしょう? おでこが真っ赤になっていますよ」
アンナはメアリを見上げ、むっとしたように言い返した。
「私はお姉さんだよ! このくらい平気よ!」
(いや、そういう問題じゃないだろ)
ネロは即座に心の中でつっこんだ。
お姉さんであることと、廊下を走って転ぶことへの反省が不要であることは、まったく別問題である。
だが、その的確極まりない指摘が二人に届くことはない。
聞こえるのは、あう、という赤ん坊らしい曖昧な声だけだ。
「ほら、ネロ様もアンナ様を見ていますよ」
「ふふん。私はお姉さんだからね」
(その理屈、絶対おかしいんだよなあ……)
けれど、額を赤くしながらも得意げに笑うアンナを見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
転生だの異世界だの、考えるべきことは山ほどある。わからないことだらけで、この先どうなるのかも見当がつかない。
それでも――。
少なくともこの家には、自分を抱いてくれる乳母がいて、こうして嬉しそうに顔を覗き込んでくる姉がいる。
ネロは小さく目を瞬かせた。
(……まあ、今はこれでいいか)
そう思ったところで、背中から込み上げてきた空気が、けふっと小さな音になって抜けた。
「まあ、上手にできましたね」
メアリが優しく笑い、アンナが「すごい!」と目を丸くする。
ネロは複雑な気分のまま、ただ天井を見上げるしかなかった。




