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役立たずの温度魔法しかないので、辺境で“おいしい毎日”はじめます ~元パーティより幸せになりました~  作者: 妙原奇天


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第2話「パン釜の再生」

 夜が痛みを引くころ、釜はまだ眠っていた。

 四つ時。湯宿の台所は、木の匂いと水の音だけでできている。ミアは髪を布でまとめ、頬に湯気の朱を差して現れた。

「おはよう、温度係」

「おはよう、パン係」

 言葉にするだけで役目が骨になる。骨があれば、朝は立つ。


 最初の仕事は、酵母の機嫌取り。昨夜の壺に手を添え、+1℃をゆっくり十回。二十二度で止める。酵母は目を覚まし、壺の内側に細かな泡を並べて挨拶した。

「うん、今日もいい顔」

「酵母の顔が見えるようになったら、職人だね」

「見えるというより、感じる、かな。鼻と耳と、手のひらで読む文章」


 次に、問題の石窯。

 割れ目は昨夜よりも静かだが、そこから抜ける微かな冷気が、釜の肺活量を奪っていた。

「直すっていっても、泥や漆喰を盛れば割れの上に新しい歪みが出る。今日は“見えないふた”を作ってみる」

「見えない?」ミアが首をかしげる。

「温度の段差で、空気の壁をつくる。熱気は軽い、冷気は重い。割れの周囲に温度の“堤防”を置けば、漏れが緩む」


 釜口の内側、割れの右上に+1℃、左下に−1℃。一分待って、位置を一つずらす。釜の内圧がゆっくり回りはじめ、割れ目に沿って温度の等高線が生まれる。

 熱は目に見えないけれど、指先は地図を描いてくれる。ぼくは指先の地図を頼りに、割れの上へ薄い“蓋”を重ねていった。

「……なんか、釜が“よく通る鼻”になってる」ミアが言った。

「鼻が通れば、パンも歌う」


 仕込み。粉は昨夜より水分多め、塩は気持ち弱め。寒さが強い日は、塩気の角が立ちやすいからだ。

 ミアはこね台でリズムを作る。こねは音楽。押す・折る・回す、に呼吸の三拍子。ぼくは手の平の温度を二十九度に保ち、生地の表面だけをそっと温める。芯が温むのは時間が解決してくれる。

 一次発酵に入る前、ミアが囁く。「あのさ。――昨日、パンを買ってくれた旅人が、また夕方に来るって。『朝は半分しか食べられなかったから、今度は一個丸ごと頼む』って」

「嬉しいね。パンは“次の約束”で膨らむ」

「約束で?」

「はい、と言ってくれる未来の口が、いちばんの発酵剤」


 一次発酵の間に、湯の見回り。湯守りは既に湯気の向こうにいた。

「おお、温度係。昨夜の宥め方が効いたらしい。表が素直だ」

「湯口の角度、少し戻してもらえますか。回転が左に寄りがちで、端が温みすぎてる」

「ふむ」湯守りは柄杓で湯を掬い、湯口に木片をかませて角度を微調整する。

 ぼくは湯縁を−1℃、湯口直下を+1℃で“呼吸”を作る。湯面の光が細かくそろい、湯気の柱が一本にまとまった。

「人の顔になったな」湯守りが満足げに頷く。

「今日の湯は、背中に『大丈夫』って書いてくれます」

「よし、看板にそれを書こう。字はミアだ」


 台所に戻ると、生地はふっくらと布を押し上げていた。指で優しく押して戻りを確かめ、ベンチタイムへ。打ち粉の上で丸め直すと、そこだけ小さな月が並んだ。

「二次発酵の温度帯は?」

「今日は室温が低いから、布の上から“熱の毛布”で守る。布に+1℃をじわじわ、三回。二十七〜二十八度狙い」

「ほんとに、温度って毛布になるんだ」

「温度は言葉よりも説得力がある。体は先に納得するからね」


 焼成。釜に生地を入れて扉を閉める。

 今日の課題は“耳”――表皮のパリッとした薄い殻をどう作るか。

 割れの“見えないふた”が効いているか確かめるため、上火−1℃、下火+1℃の交互を少し短め、三分刻みで刻む。昨夜より釜の返事が早い。

 頃合い、扉を開く。

 黄金の丘が三つ。表面の割れ目は、昨夜よりも意志が強い。

「きれい……」ミアの声が、釜の中で響きに変わる。

「――耳も、聞こえてる」

 パンの表面が、ぱち、ぱち、と小さく鳴る。

「これは?」

「焼けた表皮が冷えながら収縮して鳴る音。音楽の最後の和音みたいなもの。鳴れば、成功」


 朝の湯客が二人、戸口で湯気とパンの匂いに包まれて立ち尽くした。

「閉店なのに、匂いが反則だわい」

「仕方ない、違反切符を切りましょう。半分ずつ」ミアが笑う。

 ぼくは切り分け、湯客の皿の縁にわずかに+1℃を入れて温度差を消す。パンの湯気が逃げすぎないように。

「うまい。……歯が笑う」

「歯が笑う、は名言だ」

「わしは毎朝名言を落とす。拾ってくれる人がやっとおる」


 忙しさが台所を満たす。粉を量り、生地をこね、湯を宥め、釜に“呼吸”を刻む。合間に、温室へ。

 温室はガラスではなく、油で撥水させた布と薄い板で作られた簡易小屋。夜の冷えで布の内側に水滴が並び、葉の縁に冷えの白い痕が残っている。

「朝露に葉が負けるね」

「どうすれば?」

「露がつく面を先に温めて、結露を“ずらす”」

 ぼくは布の内側に掌を滑らせ、+1℃を帯状に与える。帯はゆっくり上へ流れ、露は帯の上に集まる。角で一滴にまとめ、落としてやる。葉から遠ざけた水は、根元へ戻って土に吸わせる。

「……魔法っていうより、手品」

「手品は驚かせる。これは安心させる。だから、たぶん家事」


 昼前、鍛冶屋のグリンダ婆が肩に槌を乗せて現れた。

「パンの匂いに釣られて来たわけじゃないよ。釜の噂を聞いたのさ。割れを温度で塞ぐって? 面白い。炉でもやれるかい」

「炉は温度の立ち上がりが急だから、微温では追いつかないことが多いけど……“均し”なら手伝える」

「ほう」婆は目を細めた。「若いの、耳がいい顔をしてる。火は耳で見るんだよ」

「釜も、パンも、湯も、音で喋るみたいです」

「なら、午後に炉を見においで。代わりに、この“鉄のへら”をやるよ。釜の奥のパンを優しく引っ張り出せる」

「ありがとうございます」

 へらは薄く、縁が丸い。鉄の表面は鈍く光り、手で持つと、道具の“歴史の温度”が伝わってきた。


 午後、二回目の焼成ラッシュを終えると、宿の前に小さな列ができていた。列といっても三人。けれど、三人は十分な約束だ。

 一番手は、朝の旅人。

「約束どおり、一個丸ごと」

「ありがとうございます」ミアは胸を張ってパンを包み、旅人の手に渡した。

「夕暮れの峠は冷える。パンが湯たんぽだ」

「パンに新しい役職が増えたね」ぼくが笑う。

「パン湯たんぽ係。給金は、パンで」

「払いが早い」


 二番手は、領主館の使いだという若い行政官。

「領主代理エルマー様より伝言。『湯宿の温度係という役職は、合法か?』」

「合法です」ぼくは即答した。

「“温度係”は職名として記録可能か、という意味でしょう」ミアがフォローする。

「記録はできる。ただ、領主代理は何事も帳面にしたがる方で」

「帳面にしておくと、あとで誰かが困らない。いい習慣だと思います」

「ふむ。では、明日、館に来ていただけますか。湯の温度不安で苦情が多くて……」

 湯守りが背後から声を飛ばす。「行け。こっちはミアとわしで回す」

「じゃあ、明日の朝の焼成を終えてから、少しだけ」

 行政官はパンを二つ抱え、「公用につき領収書は……」と言い出したので、ミアが紙切れに大きく「パン」とだけ書いて渡した。

「領収“粉”にしようかな」

「粉はすぐ消えるから、領収に向かないね」


 三番手は、見慣れないローブの男。口元だけ笑っている。

「勇者一行にいた魔導士……だよね?」ミアが声をひそめる。

 男は少し肩をすくめた。「おや、ばれたか。いや、ただの通りすがりの客さ。追放は済んだ。済んだことは、済んだまま」

 ぼくはパンを包みながら、視線を下げた。

「パンをください」

「どうぞ」

 金が置かれ、男は受け取って帰っていく。背中が雪の明るさに溶けた。

 言葉は足りないくらいが、たまには正しい。パンが仲介すれば、なおのこと。


 夕刻。グリンダ婆の鍛冶場へ向かう。炉の口は赤く、鉄の匂いは胸をまっすぐ叩く。

「見な」婆が言った。「炉壁に微細な“泣き”が出てる。温度の暴れで、内側が疲れてるのさ。火を弱めると、逆に冷点ができて割れが進む」

 ぼくは炉壁に手を当て、+1℃/−1℃を呼吸に合わせて刻む。

「炉の外側を少し温め、中の熱の逃げ道を細くする。冷点を“見えない綿”で埋める感じ」

「ふん、綿ね。火に綿。悪くない喩えだ」

 槌音が再開し、鉄が歌いはじめる。

「若いの、温度は“勘”でやってるのかい」

「半分は勘、半分は算術。最後に、耳」

「なら、あんたは優秀だ。勘だけの職人は長持ちしない。算術だけの職人は、火に嫌われる」


 鍛冶屋から戻ると、宿の前には夕暮れの匂い。雪はやみ、空気は固い星を用意している。

 最後の焼成。パンの皿が空になるころ、湯守りが帳面に線を引いた。

「今日のパン、十六個。売上、薪と粉に充当。余りは“釜修繕積立”」

「積立!」ミアが目を輝かせる。

「割れはいつか、物理で直す。温度の蓋は名人芸、名人は死ぬ。器具は残る」

「名人、いますけど」ぼくが手を挙げる。

「いつか死ぬ」湯守りは即答した。「だから積む」

 反論の余地がない正論は、ちょっとだけ寒い。ぼくは自分の指に+1℃をのせた。


 夜、湯に浸かりながら、ミアがぽつりと言った。

「レオン。追放って、どんな感じ?」

「雪の中で、荷物を数える音が大きく聞こえる。あれは、ちょっと嫌だった」

「ねえ。ここで、荷物の数を増やそう。パンの回数、湯の笑顔、約束の数」

「それなら、得意だ。+1℃ずつ増やす」

「欲張りすぎ?」

「いいや。増やすための単位が小さいだけだ」


 寝床。壁の節目は昨夜より少なく見えた。疲れが視野を狭くするのは悪いことじゃない。視野が狭くなると、手元が見える。

 眠りに落ちる直前、戸口の外で、雪を踏む音がした。ゆっくり、二歩。止まる。

 息を潜める気配。すぐに去る足音。

 気のせいかもしれない。けれど、世界はときどき、こちらの変化に興味を持つ。

 ぼくは指先に小さな火を灯し、心の中の帳面に今日の数字を書いた。

 パン十六。湯客六。炉の呼吸安定一。約束三。

 そして、最弱《微温》の矜持、一つ。


――


《今日の±1℃メモ》

・見えないふた(石窯):割れ周りに+1℃/−1℃を交互に置き、温度差で空気の堤防を形成。三〜五分刻みで“等高線”を整える。

・二次発酵の毛布:布越しに+1℃を三回。狙い温度27〜28℃、直当てはしない。

・温室の結露ずらし:内布を帯状に+1℃→露を角へ誘導して落とす。葉に触れさせない。

・炉の冷点埋め:外壁を+1℃で“綿”づくり、内側の冷点に対流を起こさせる。火の暴れを緩和。


次回:第3話「温室に朝露を落とさない方法」—露を敵にせず、働き者にする話。

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