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第13話(最終回)「雪代の川、解ける拍」

 雪代ゆきしろの朝は、台所よりも先に川が目を覚ます。

 山肌をほどいた水が、まだ寝ぼけ声で谷を満たし、石同士が小さく歯を鳴らす。

 掲示板の今日の見出しは、ミアの字で〈川の辞書・暫定〉。横には、いつもの三つではなく、五つの帯が並んでいた。

 上手かみて=ほどき/中手=澄まし/下手しもて=渡し/枝流=貯め/戻し=こやし。


「湯・釜・温室・炉・倉……ぜんぶ“拍”で回した。水にも拍をつけよう」

 ぼくが言うと、湯守りが頷いた。「雪代は一度しくじると春が丸ごと転ぶ。怒りより改訂、だが今日は先回りだ」

 行政官が条文の束を抱え、祈りの人はひと匙湯の小桶を持ち、グリンダ婆は槌を杖代わりに。商人ギルドの男は、今日は一番に来ていた。胸元には布巾の“よし鈴”。


 川へ向かう道すがら、顔札が枝ごとに吊られている。水版は**「み」でにあたる音、「も」が、「む」が

「母音を決めるのが、いちばん楽しい」ミアが笑う。

「水は口を丸めて言う音が似合う。“む”**が怒ってるときの形」ぼくは返す。


 上手ほどき

 雪代の一番手前、石の肩が白い泡で忙しがっている。

「ここで**“撫でぜき”を作る」

 堰といっても、止めるのではない。竹籤を束ね、葦を絡め、石に結ぶ。表面には+1℃を薄く、影には−1℃の重さを置く。

 温と冷の差は、水の通い道を作る。泡は撫でられて幅を広げ、流れの尖りが丸くなる。

「川にも“耳”がある」湯守りが言う。「尖りは耳鳴り**、丸いのが歌だ」


 中手(澄まし)。

 ここで濁りを落とす。

 ぼくらは川の弯曲に沿って**“澄まし盆”をしつらえた。川幅の内側に袋網を沈め、網の縁に−1℃の重さ**、上面を**+1℃で軽く揺らす**。

 細かな泥は重さに従って座に集まり、清い水は軽さに従って素通りしていく。

 ミアが覗き込む。「茶こしの巨大版」

「茶は春の話でもあるから、縁起がいい」


 下手(渡し)。

 ここを市場の渡しにする。橋はない。丸太とロープ、そして温度の浮きで渡る。

 丸太の下側に**−1℃を薄く、上側に+1℃の息**。丸太は**“ひだまりベンチ”と同じで、石の時間を抱いている。

「冷えの側が重さを持ち、渡る人の体温が上**で逃げない。転ばない拍ができる」

 子ども温度係が渡り方を教える。二拍進んで一拍止まる。止まる間に、**誰でも検査(水版)を一つ叫ぶ。

 「色!」「泡!」「音!」

 三人一分。署名。「み」**が鳴る。


 枝流(貯め)。

 ここは畑と倉へ回す貯水の役。

 ぼくらは**“土の湖”を掘り、縦呼吸の穴を二つ。低穴に−1℃、高穴に+1℃で、冷えの底を作る。

 湖の表には放熱翼を浮かべ、風が当たると「み」と鳴る。

「芋の土室と同じ。直接の親切は×。間接の配慮で長持ち**」

「長持ちは勝ち方だ」ミアが復唱する。最終回の合言葉みたいになって、ちょっと照れた。


 戻し(肥し)。

 燻しの灰、洗いの灰、葦束が吸った油の廃油板、それらを畑の肥に戻す場所だ。

 灰は水で薄め、+1℃で言葉遣いを丸くし、−1℃で座へ沈める。匂いが落ち、土が喜ぶ。

 祈りの人が袖をまくり、ひと匙湯で手を温め、土を撫でる。「土の祈りは、鼻音で返ってくるね」

 風が**「ん」**と鳴った。


 運用が回りはじめると、事件はむしろ静かに来た。

 商人ギルドの男が走ってきて、息を上げる。

「上流の古い堰板が外れかけ。抜けたら町の真ん中で濁りが跳ねる」

 ぼくは水琴窟の**二度鳴り(警報)を聞いた耳を思い出し、顔を上げる。“む”**が遠くで長く鳴っている。

「怒りじゃない。焦りだ」湯守りが言う。「拍で行くぞ」


 上流へ走る。

 古い堰板は、氷解でくさびが緩み、片側だけを噛んでいた。

 むやみに押せば折れる。

「“耳算”だ」グリンダ婆が低く言う。「聞いて足す、聞いて引く」

 ぼくは堰の背に**−1℃を置き、前面に+1℃を薄く滑らせる。重さが後ろへ寄り、前の張りが少しほどける**。

 楔の足元へ、ミアが布を差し込む。布だけ+1℃。湿りで膨れる。

 商人の男が竹籤を束ね、祈りの人が葦を渡し、子ども温度係が**「み・み・み」と拍を取る。

 湯守りが合図し、二拍抜いて一拍差す。

 堰板は折れずに座り直した。「み」が太く鳴る。

 男は額の汗を拭い、ぼくらを見た。「検討してるうちに折れるところだった」

「検討は冬語**。手順は春語」ミアが笑う。

 男は笑い返し、名をその場で木札に書いた。“堰番”。


 町へ戻ると、渡しで勇者が列の整理をしていた。

 麦刻みを腰に下げ、温度琴を子どもと合わせ、「ぱ」と「み」を交互に鳴らす。

「謝罪は続けるで返す」彼は短く言う。「看板がないぶん、役目をやる」

「称号は空欄**、って決めたからね」

「空欄は約束の予告だ」

 うまいことを言った。最弱を外した日から、町の言葉は少し滑らかだ。


 午後、王都から使者。

「北市の水門が詰まりかけ。澄まし盆の図面、借りたい」

「借りるじゃなくて共有」ミアがすかさず返す。

 ぼくは図と手順を渡す。

 ・袋網の縁に**−1℃の重さ**/上面に**+1℃**

 ・母音合図:「み」=良/「も」=鈍(処理追いつかず)/「む」=荒(詰まり傾向)

 ・誰でも検査(水版):色/泡/音

 使者は名**を残し、「失敗も掲示する」と約束した。


 夕刻、大きな波が来た。

 山ひとつぶんの雪の腹が、どんと川に下りたのだ。

 撫で堰が唸り、澄まし盆が太鼓になり、渡しが弦になって震える。

 一瞬、「む」が町じゅうで重なった。

 ぼくは深呼吸して、最弱の手順を思い出す。

 +1℃は強火じゃない。−1℃は冷水じゃない。拍だ。

「帯を詰める」ぼくは叫ぶ。「ほどき→澄まし→渡しの短縮運用!」

 撫で堰の**+1℃をほんの少し下げ**、澄まし盆の**−1℃をほんの少し上げる。

 渡しは二拍進んで一拍止まるを、一拍進んで一拍止まるに変更**。

 放熱翼を一枚、石袋を二つ追加。顔札の母音が**「み」に戻っていく。

 みんなが動く。音で、条文で。

 祈りの人はひと匙湯で指を温めて名簿を書き、行政官は状況版に時刻を刻む。

 グリンダ婆はドラフトを読み、煙道の「り」を保った。

 商人の男は炭粉と竹籤を無償枠から配り、堰番の腕章を自分で縫い付けた。

 勇者は列の最後尾で、寒い背中に「大丈夫」の言葉を落とす**。


 波は通り過ぎ、濁りは座に眠った。

 顔札の合奏が、「み」で長く息を吐く。

 ぼくらは、ひとつ大きく笑った。

「最弱で、大波に勝った」ミアが言う。

「最弱は手順の強さだ」ぼくは答える。「強火じゃなくて、続火つづけび


 夜。

 町のひだまりベンチは温く、種芋バンクの土室は安定し、湯は「大丈夫」を書いた。

 広場の真ん中、“最弱”の看板はもう辞書の扉になっている。

 子ども温度係が小さな会議を開き、紙に大きく題を書いた。

 〈“あと一度”の共和国〉

 称号は空欄、条文だけが増える国。

 祈りの人が笑う。「祈りは国歌にする?」

「母音で歌えるやつがいい」旅芸人が温度琴をつま弾く。「み・り・う・ん・ぱ」。

 ヘンテコだが、暮らしにはよく合う。


 台所へ戻ると、麦刻みは藁色で微笑んでいる。

 パンの表皮がぱちと鳴り、チーズは**「え」で切れ、燻しは石の時間を抱いて熟す。

 ぼくは帳面の欄外に、小さく書いた。

 〈“最弱=最適=長持ち=勝ち方”〉

 湯守りが首をかしげて笑う。「等式が増えたな」

「辞書は等式の歌集**だよ」


 水琴窟が、一度鳴った。了解の音。

 最後の仕事が残っている。

 看板の空欄に、ぼくは細い字で一行を足した。

 〈“あと一度”係:署名、町〉

 名は一人のものじゃない。役目は、拍を刻む人の数だけ増える。

 ミアがうなずき、湯守りが**「り」を鳴らし、グリンダ婆が槌で同じ拍を打った。

 勇者は笛パンを半分齧り、商人は肩を回して堰番の腕章を確かめ、祈りの人は鼻音で「ん」**と笑った。


 明日の仕込みを考えながら、ぼくは指先に+1℃を灯す。

 最弱の魔法は、世界を一度ずつ****ましにする。

 ざまぁは言葉で言わない。条文と拍で鳴らす。

 終わりは、運用のはじまりだ。


――


《今日の±1℃メモ(最終版)》

・川の五帯:

 —ほどき(上手):竹・葦で撫で堰。表+1℃/影−1℃で尖りを丸める。

 —澄まし(中手):袋網の縁−1℃/上面+1℃で濁りを座に。母音合図=み/も/む。

—渡し(下手):丸太の下−1℃/上+1℃。二拍→一拍へ短縮運用可。

 —貯め(枝流):土の湖に縦呼吸(低穴−1℃/高穴+1℃)+放熱翼。直接加温×。

 —肥し(戻し):灰は+1℃で言葉遣いを丸く、−1℃で座へ沈める。

・堰板の座り直し:背−1℃/表+1℃→楔の布だけ+1℃→二拍抜いて一拍差す。

・誰でも検査(水版):色/泡/音、三人一分・署名・時刻。

・短縮運用:大波時はほどき→澄まし→渡しの拍を詰め、放熱翼・石袋を増やす。

・役目の空欄:称号×/署名=運用。“あと一度”係は町名。

・合意の母音(総括):火=り/ろ/ら/湯=う/温室=ん/パン=ぱ/水=み/も/む。母音で拍を共有。

・格言(最終):最弱=最適=長持ち=勝ち方。ざまぁは条文で鳴る。


——了

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