第12話「“最弱”看板、外れました」
朝の湯気が、いつもより少し背伸びした。
掲示板のいちばん上、**「最弱」と墨書きされた木札に、雪の光が当たっている。子どもが貼った紙帯――〈“最弱”=“最適”の別名〉――は、端がふやけて柔らかい。
その下で、行政官が条文の束を抱え、湯守りは渋い顔で清書用の筆を温めていた。
「本日、臨時“運用評議”。案件は一つ」行政官が宣言する。「“最弱”看板の取り扱い」
ミアが笑って言う。「外すなら、祭の作法で」
「ざまぁは言葉で言わない。条文で鳴らす」湯守りが相槌を打った。
広場に顔札が下がる。火=り/ろ/ら、湯=う、温室=ん。
祈りの人はひと匙湯の桶を用意し、旅芸人は路線図の布を張る。誰でも検査の机が三つ。
町は手順の装いで集まる。
最初に壇上へ上がったのは、商人ギルドの男だった。
彼は深く頭を下げ、懐から小さな布巾を出して掲げた。
「金印の話を持ち出したのは自分だ。速さを口実に、温度を囲い込もうとした。損をしていたのは俺だ」
彼は布巾を広げる。端に**“よし鈴”が縫い付けてある。
「商人枠、条文どおり受ける。金の手数料は廃止。現物枠(粉・竹籤・炭粉)に切り替える。署名は、俺から」
かちり、と「り」**が鳴る。
広場が温度で頷いた。
次に来たのは、王都の役人。
「供給協定(祭版)、王都版に増補した。種芋バンクの手順、ひだまりベンチの図面、三帯運用。それと——」
彼は新しい紙束を掲げる。
「“失敗の記録”の掲示義務。王都でも**“笑って学ぶ前座”にする。失敗の公開は、遅さを拍に変える」
顔札が「り」**を重ねる。合意が増えるほど、音は痩せず、太った。
盾も立った。
「孤児院の子ども温度係、峠分校と王都北市で稼働中。授業は毎日一時。溶けない勇気が増えてる」
彼の背中の寒さは、もうほとんど見えなくなっている。
そして、勇者が来た。
雪の反射を連れ、昔よりも静かな目で。
「レオン。……逃げずに謝りに来た」
広場の温度が一度だけ下がって、すぐに戻る。
ぼくはひだまりの木札を指さす。「ここで話そう」
勇者は湯気に頬を当てて、言葉をほどく。
「最弱を笑った。結果だけの火を見て、手順の温を見なかった。お前の±1℃で、王都の子が今夜も眠れる。看板、外してくれ」
ミアがさりげなく砂時計を返す。「**三分(芯しずめ)**だけ、言葉を置いていって」
勇者は三分だけ話した。言い訳は混ざらなかった。
湯守りが小さく咳払いして言う。「謝罪は熱の扱いだ。いきなり沸かすと吹く。続けて来い」
行政官が壇上で巻物を広げた。
〈“看板取り扱い”に関する運用条(暫定)〉
一、看板の取り外しは祭の作法で行う(顔札“り”で統一)。
二、看板は廃棄せず、辞書の扉に移す(歴史の温度の保全)。
三、最弱の定義を再記する:〈“±1℃で続ける手順”〉。
四、称号は空欄にして、名を誰でも書ける署名欄とする。
五、最後にひだまりで一分、全員が**「り」を鳴らす。
広場は笑って拍手をした。ざまぁは、ここでも条文**の中に落とし込まれた。
それからが、手順の見せ場だ。
グリンダ婆が槌を指揮棒に、旅芸人が温度琴を合わせ、子ども温度係がよし鈴の列をつくる。
ミアは看板の四隅に**−1℃の重さを薄くのせ、釘を抜く拍を二拍で刻む。
ぼくは看板の背に+1℃をほんのり入れ、木の緊張をゆるめる。
湯守りが真ん中の最後の釘を抜くと、顔札の母音が一斉に「り」へ収束した。
看板は落ちない**。ひだまりの上で、座った。
「“最弱”は辞書の扉へ」行政官が宣言する。
子どもたちの小さな手が、空になったスペースに名を書き始める。焼き手、湯の宥め手、露落としの設計、鈴の調律、倉の番。
称号は空欄のまま、役目が並ぶ。
ぼくは空欄の上に、小さく一行だけ書いた。
〈“あと一度”係〉。
ミアが肘でつつく。「謙遜の手順、過剰適用」
「運用に戻そう」
式は続く。失敗の前座――今日は三つ。
一、舞台照明の油を風上に置いた件(上端+1℃/裾−1℃で鎮火、配置改訂済)。
二、息止め箱の蓋半開き(鈴の追加、名の記入義務)。
三、湯の油膜(脈で千切り+葦束+炭粉、汲み場動線分離)。
広場は笑って覚え、署名して次へ進む。笑いは凍みを崩す道具だ。
式の終わり、祈りの人が言葉を配った。
「“だいじょうぶ”は運用語。嘘がない。ひだまり一分を家にも置いて」
湯気が**「う」**と鳴いた。
片付けのあと、勇者がぼくらの台所へ寄った。
「パンをください。“ぱ”の音のやつ」
ぼくは麦刻みで一閃。皮が笑って割れ、湯気が礼をする。
勇者はひと口で目を細め、もうひと口で頭を下げた。
「遅い謝罪は、長持ちにして返す。運用で」
「続けるが条件だよ」ミアが言う。
「条件は、条文に落として署名する」勇者は笑った。
ぼくらは**“ぱ”と「り」**を二つ、夕暮れに鳴らした。
夜、掲示板の空欄が月明かりに白い。称号がないのは、ちょっと心細くて、すごく自由だ。
湯守りが帳面に細字で書いた。
〈“最弱”を外した日、温度は少しだけ軽くなった〉
ぼくは**+1℃**で筆先を温め、欄外に追記した。
〈軽さは逃げ足じゃない。運用が増えたぶんの身軽さ〉
静かな湯の上で、水琴窟が一度鳴った。了解の音。
明日の章題は、もう決まっている。
**雪代が始まる。解ける水は、暮らしを押す。“あと一度”**は、流れにも効くのか。
ミアが眠そうに囁く。「川の辞書、書こう」
「拍のある水路、楽しみだ」
――
《今日の±1℃メモ》
・看板の外し方(祭の作法):四隅に**−1℃の重さ**→釘抜き二拍→背に**+1℃で木の緊張を緩める→顔札“り”で合意。
・看板の行き先:廃棄×/辞書の扉へ。歴史の温度を保存。
・称号の空欄:役目を署名で列記。名≠身分、名=運用。
・謝罪の手順:三分(芯しずめ)の時間を確保→いきなり沸かさない→続けて来る。
・失敗の前座(共有):油灯配置/息止め箱の蓋/湯油膜。改訂と鈴の合図を明記。
・合意の母音:決定は「り」で締め、作業導入は二拍の鈴。
・軽さの定義:逃げ足ではなく、増えた運用に対する身軽さ**。
次回:第13話「雪代の川、解ける拍」――解氷流に**±1℃を刻む。濁りを沈め、粉と苗を守る水路運用**。