第11話「種芋バンク(温貯蔵)」
春のパンは、冬の芋の上に立つ。
王都の役人が持ってきた要望は短かった。「種芋を守ってほしい」。
寒波で地下室が冷えすぎ、凍みが走る。逆に暖かい納屋では早芽が伸びすぎる。“あと一度”を誤ると、春の畑は空の皿になる。
「芋の辞書、書こう」ぼくは温度記録板に新しい章を足した。
題名は〈種芋バンク(温貯蔵)〉。
ミアが眉を上げる。「バンク?」
「預けて、春に下ろす。芽の利子は拍でつける」
まずは場所。湯宿の裏手、北向きの土間に**“土の冷”を、隣室に“布の温”を用意する。
床を掘り、浅い土室を作る。底に砂利、上に湿りの土。壁は藁と土で塗り、風の穴を細く二つ。片方は地面近く、片方は天井近く。
「ここに拍を作る」ぼくは低い穴に−1℃の重さ**、高い穴に**+1℃の軽さを一分ずつ置く。ゆるい縦呼吸**が生まれ、土の匂いが上へ抜ける。
隣室には布の温。天井に放熱翼を吊り、壁沿いに石袋を並べる。昼に+1℃、夜に−1℃の緩放。土室へ直接温を入れず、間接で守る。
「直接の親切は、芋を甘やかす」ミアが笑う。
「間接の配慮が、芽の背筋を伸ばす」
誰でも検査(芋版)を配った。
〈芽〉(無/点/針/曲)
〈皮〉(乾/しっとり/汗)
〈匂い〉(土/甘/酸)
〈硬さ〉(張/並/沈)
三人で一分。署名と時刻。異常は矢印で場所を示す。
搬入の日。
孤児院、温室、鍛冶場の裏畑、各所から集めた種芋が、籠や麻袋で届く。“預け入れ”の札に名を書き、株数と来歴を記す。
「粉を借りたら名を返す。芋を預けたら春を返す」湯守りが渋くうなずいた。
問題は“果の息”――果物の熟れ気だ。
市場から戻る荷車には、ときどき甘い息が乗っている。リンゴや梨の息が狭い部屋で回ると、芋は勘違いして芽を伸ばす。
「果の息は誘惑だ」ミアが鼻をひくつかせる。
「息止め箱を作る」
箱の内側に炭粉を薄く塗り、四隅に**−1℃の影**。蓋の裏に葦の薄束。甘い息を吸って寝かす仕掛けだ。
リンゴの籠はまずこの箱へ。半日寝かせてから食料庫へ移す。芋の間は通行止め。
並べ方にも温度がある。
籠を直置きせず、竹のすのこの上へ。隙間は芽のための空気。
一段ごとに土布を広げ、その布の端だけ+1℃で温の橋を作る。芋本体には触れない。橋は巡回する温度の道。汗をかいた芋を乾き側へ誘導できる。
「温で押さない、温で誘う」とミアが復唱する。「覚えた」
預け入れが始まると、商人ギルドが顔を出した。例の男が、今度は計量棒をぶら下げている。
「質の担保が必要だ。検査料で保全する。芽が伸びたら減額、腐れば没収だ」
「没収は冬語の最上級」ぼくは首を振る。「預ける勇気が消える。——共同基準でいこう。誰でも検査(芋版)の三人一分。記録は公開、署名は名誉。費用は**“粉・竹籤・炭粉”の現物枠で回す。金の手数料は冷える**」
男は唇を曲げ、「検討」の札をまた置き去りにした。
検討は遅いけれど、運用は今日から走る。
小さな事故は夕方に起きた。
土室の床の一角が、わずかにぬめる。掘ると水脈が細く走っていた。
「水の声だ」
ぼくは水の入口を探り、そこに**−1℃を薄く置いて重さを与え、隣に+1℃で逃げ道を作る。小さな堤だ。
さらに床に炭の帯を敷き、毛管で汗を吸わせる。
グリンダ婆が鼻を鳴らす。「火の綿の次は水の綿だね」
「綿は世界の翻訳者**だ」
一週間の運用で、芋たちは落ち着いた顔になってきた。
誰でも検査の札には、芽=点/皮=しっとり/匂い=土/硬さ=張の欄が並ぶ。
異常の札が一枚。「甘い匂い」。
息止め箱の蓋が半開きになっていた。誰かがつまみ食いして戻し忘れたのだ。
犯人探しより改訂。蓋に**“よし鈴”を付け、閉じたら“り”/開いたら“ろ”の母音で知らせる。
ミアが掲示板に追加した。〈“果の息”は“箱の息”で処理**〉
王都から使者。
「北市の倉、地下の凍みで被害が出た。温の橋の手順を緊急共有したい」
ぼくは図入りの紙束を渡す。
・竹すのこ+土布+端だけ+1℃
・縦呼吸:低穴−1℃/高穴+1℃
・息止め箱:炭粉+葦+−1℃の影
・誰でも検査(芋版):芽・皮・匂い・硬さ
使者は深く礼し、名を大きく書いた。「失敗も書く」
「辞書は失敗で太る」
種芋バンクは、預け入れと引き出しが行き交う市場になった。
引き出し時は**“芽利子”を付ける。拍を守って芽が針になった株には、粉の薄配り**。曲に伸びた株には、勉強会の優先券。
「金利じゃなく、拍利」ミアが楽しげに言う。
「拍が合うと、春の人手が割れない」
夜、ぼくは芋の寝息を聴く。
土室の低穴に耳を寄せると、土の母音がする。「ん」。
放熱翼が薄く鳴り、石袋が長持ちのため息をつく。
祈りの人が巡回し、ひと匙湯を腕に置く。手が温まると、働きたい気持ちが戻る。
湯守りは帳面を見て言った。「預け入れ百二十、異常五、改訂三。」
「異常<改訂、いい流れ」
「改訂は祭の前座に回す。笑って覚えさせる」
そこへ、商人ギルドの男が夜に来た。ひとり。
布の裾に**−1℃の錘**。音を立てずに入ってくる。
「金印より署名が集まっている。……“損”をしているのは、たぶん俺だ」
「損は冬語。名は春語」ぼくは紙を差し出した。〈共同倉規程・暫定〉
・金の手数料なし。現物枠(粉・竹籤・炭粉)で共同負担。
・誰でも検査の公開・署名・一分。
・息止め箱の鈴の音=合図。
・勉強会の座席に商人枠。
男はしばらく黙り、名を書いた。金印は出さなかった。
背中の寒さは、去り際に半分になっていた。
翌朝、掲示板の上の**“最弱”看板に、子どもが紙の帯を貼った。
〈“最弱”=“最適”の別名/署名:町いちばんの芋好き〉
湯守りが渋い顔のまま笑った。「剥がす日が来るかもな」
「剥がすなら、祭で。みんなの前で**“り”を鳴らして」ミアが言う。
ぼくはうなずく。“ざまぁ”**は言葉で言わない。運用で言う。
最弱の辞書に新しい索引が足される。〈芋:長持ち=勝ち方〉。
――
《今日の±1℃メモ》
・土室の縦呼吸:低穴−1℃/高穴+1℃で土の匂いを抜く。直接加温は×、間接で。
・温の橋:段ごとの土布の端だけ+1℃。芋本体に触れず、巡回路を作る。
・息止め箱:内面炭粉+四隅−1℃+蓋裏葦束。果の“熟れ息”を寝かす。蓋に**“よし鈴”。
・誰でも検査(芋版):芽/皮/匂い/硬さ、三人一分・署名・矢印で場所特定。
・水脈対処:入口−1℃で重さ**、横に+1℃で逃げ道。床に炭の帯=毛管吸い上げ。
・並べ方:直置き×、竹すのこ+隙間。汗の芋は乾き側へ誘導。
・利子=拍利:拍を守った株に粉の薄配り、伸びすぎ株に勉強券。
・倉の条文(暫定):現物枠負担/公開検査/鈴の合図/商人枠。
次回:第12話「“最弱”看板、外れました」――評判が逆転するとき、ざまぁは条文で鳴る。