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第1話「追放と湯けむりの宿」

 追放は、雪の中で言い渡された。

「レオン。おまえの《微温》じゃ、魔王は倒せない」

 事実だ。ぼくにできるのは、触れているものの温度を一分につき一度だけ、上げるか下げるか。それだけ。火球も氷槍も、派手なことは何一つできない。

 剣士は笑い、魔導士は肩をすくめ、僧侶は目を閉じて沈黙した。勇者は視線を逸らした。優しさが痛いのって、世の中で一番コスパ悪い。


 荷物袋ひとつ。金貨は数枚。冬の街道は白い息で満ちていた。雪は足首を奪い、靴は濡れて重い。ぼくは歩いた。足も心も冷えないように、手袋の中で自分の指をそっと握り、魔法をほんの少しだけ使う。指先+1℃。それでも血が動きだすのがわかる。

 それにしても、最弱と言っても色々ある。《微温》は“ゆっくり”という点で致命的だが、裏を返せば“狙いから外れにくい”。たとえば高熱の患者の額に触れ、ゆっくり—一分で一度、三十分で三度—落とす。乱暴な冷却は体を傷める。ぼくのは、違う。

 ……なんて理屈を一人で反芻しながら歩いていると、斜面の向こうに湯気が見えた。白い糸が空に伸びている。湯気は、理由なく人を安心させる。暖かい厨房、湯上がりの頬、蒸した芋。ぼくの脳は正直だ。足が勝手に向かう。


 近づくと、それは寂れた宿だった。木の看板には「湯宿・ゆびさき」。戸口の札は「閉店」。だが戸の隙間から、ほんのりと温かい空気が漏れている。

 ノックは一応した。返事はない。戸は開いた。誰もいない土間の向こうに、黒い塊がある。パン釜だ。古い石窯。頬を寄せると、灰の匂いと、かすかなカビの気配。割れ目に灰が詰まり、熱が逃げる“傷口”になっている。


 ぼくは手を伸ばし、石に触れた。

《微温》——+1℃。

 石が少しずつ“目を覚ます”。冷たい沈黙の中で、小さな拍動が始まる。+1℃、+1℃。ゆっくり、ゆっくり。割れ目の周辺は、指先に伝わる熱の流れが不均一だ。そこで均しを入れる。割れ目の左を+1℃、右を+0℃、三分待って、中央を+1℃。微調整の繰り返しは、少し楽しい。


 背後で、布の擦れる音がした。

「……動いた?」

 振り向くと、煤で頬を汚した女の子が立っていた。肩までの髪が湯気でしっとりしている。年の頃は十五、六。

「ごめん、勝手に触って。誰もいないと思って」

「店は閉めてるけど、息はしてるから。……釜、もう死んだって言われたの。熱が逃げて、全然パンが焼けなくて」

「割れの位置が悪いね。熱が旋回する前に漏れてる。少し、やらせてもらっていい?」

「やれるの? 修理屋さんじゃないよね」

「修理はできないけど、温度は少し、わかるんだ」


 ぼくは釜の縁に両手を置く。+1℃。+1℃。

 石窯は人間と同じで、いきなり熱を上げるとへそを曲げる。中の空気、石の芯、表皮、三層の温度をそろえないと、焼きムラになる。ゆっくり、一歩ずつ。

 女の子の腹が、ぐうと鳴った。ぼくのも、呼応するように鳴った。

「……パンの匂い、しないのにお腹は鳴るんだ。変なの」

「体は希望に忠実だからね」

 ぼくの冗談に、女の子は目をぱちぱちさせ、それから小さく笑った。


「わたし、ミア。ここ、温泉宿なの。昔は人がいっぱいいたけど、湯の温度が安定しなくなって、お客さん来なくなって……パンで朝ごはんを出そうとしたけど、この釜がね。おじさんは“もう石が死んでる”って」

「レオン。厄介者の魔法使い。……というと聞こえが悪いから、温度係で」

「温度係?」

「うん。《微温》って魔法があって、触れているものの温度を一分で一度だけ変えられる。以上、以下でもない。だから—」

「だから、さっきみたいに、ゆっくり直せるんだ」

「そう。急いだら喧嘩になる。ゆっくりなら、仲直りできる」


 釜の内部が、息を吸うみたいにふくらんだ。火はないのに、空気が軽くなる。熱せられた石は、そこに残っていた微かな炭素を目覚めさせ、灰の底の赤点が瞬いた。ぼくは手を引かず、せっせと+1℃を重ねた。

 やがて、釜の口から、ほわっと白い息。

「……息してる」ミアが呟く。

「たぶん、焼ける。粉、ある?」

「あるけど、上手くいったことないから、恥ずかしいやつ」

「恥ずかしいやつほど、おいしくなる余地がある」


 台に古い小麦粉。酵母は? 石の壺の中。匂いを嗅ぐ。まだ生きてる。寒さで眠っていただけ。

「発酵は人間より繊細だから、寝起きが悪い。目覚まし係やる」

 ぼくは壺の外側に手を当て、+1℃、+1℃。一〇分で一〇度。やりすぎない。二十二度で止める。

「そんなにゆっくりで、いいの?」

「酵母は急に起こされるのを嫌う。あとで機嫌が悪くなる」

「酵母の機嫌ってあるんだ……」

「あるよ。パンは社会だ。粉、水、塩、酵母、温度、全部が協調してやっとふくらむ。ひとりが頑張ってもダメ」


 粉を捏ねる。ミアの手は慣れていないが、真面目だ。ぼくは指先で生地の表面を撫で、+1℃。手のひらの温度は二十九度辺りに保つ。生地は触れられるたび、安心して伸びる。

「レオン、手があったかい」

「魔法のおかげ。ぼく自身は寒い。だからパンのために着込む」

「パン優先……いいね」

 こね台に三つの丸。布をかぶせ、発酵籠の上。ぼくはかぶせた布の端に触れ、+1℃。空気層を温め、直に生地に触れない熱の小さな毛布を作る。

 待つ時間、ミアは湯の話をした。昔は「ゆびさき」に、指先の痺れが治ると評判の湯が湧いた。けれど去年あたりから急に温度が安定しなくなり、熱すぎたりぬるすぎたり。湯守りのおじさんは「脈が乱れてる」と首をかしげた。お客は減り、朝のパンで何とかしようとしたけど、釜が機嫌を損ねて、今日に至る。

 話すミアの声は、乾いた木のように軽く弾む。苦しいのに軽やか。そういう人は、燃えると長持ちする。


 生地が、ぴち、と鳴って笑った。

「いい声がした。そろそろ行こう」

 石窯の口に、予熱の熱が集まっている。ぼくは両手で縁に触れ、左右で温度差をなくす。+1℃、右は+0℃、一分待って入れ替え。割れの周囲は意地悪だから、気長におだてる。

 生地を入れて、扉を閉めた。

 ここからは、待つ。

 待つ、という行為は、誰かと一緒にいるとき急に短くなる。時間は社会。ぼくはミアと湯の話の続きをした。湯の“脈”はたしかにある。泉源の温度は地中の流路で決まり、冷水の混ざり具合で一日の中の波ができる。もしぼくが関与できるなら、湯の表面から少しずつ“均し”をかけて、脈の振幅を—

「レオン、パンの匂い」

 扉の隙間から、甘い匂い。麦芽の糖が熱で褐色になっていく香り。

 ぼくは扉に手を置き、+1℃を止めて、今度は−1℃。上火が強い。下火に合わせるため、上をほんの少し落とす。

「上から冷やせるの?」

「温度は温度。上も下も、同じ顔をしてる」

 五分。十分快。扉を開ける。

 丸いパンが、そこにいた。表面の割れ目は、うっすら笑っている。

 ミアが手を合わせた。「生きてる……!」

「焼けた。いや、焼いてもらえた。釜がまだ、息してくれてた」


 切り分けると、湯気が立つ。湯気は嘘をつかない。鼻に小麦の甘さ、酵母の酸味の影が混ざる。ぼくは端をひと口。

 噛む。

 舌に、ささやかな幸せが広がる。

「うまい」

「ほんとに?」ミアは恐る恐る齧り、次の瞬間、眉を跳ねさせた。「……うまい!」

「酵母がいい仕事をした。ちゃんと起こせば、力のある子だった」

「すごい、すごい……パンって、こんな味だったんだ」

 ミアの目の端に、少しだけ、湯気とよく似た水が光った。ぼくは見ないふりをした。湯気も涙も、水は軽く扱ったほうが幸せになる。


 パンを三つ、木の板にのせた。外はまだ雪。けれど戸を少しだけ開ければ、匂いは勝手に宣伝を始めるはずだ。

 そのとき、土間の奥から咳払い。

「こら、ミア。店は閉めてるんだろう」

 年老いた男が現れた。背は曲がっているが、目が炭のように黒い。湯守りか。

「おじさん! 見て、パンが……」

 ぼくは頭を下げた。「すみません、勝手に。釜は、まだ使えます」

 男はパンを眺め、釜を見て、ぼくを見た。

「温度を……触っているのか?」

「はい。《微温》という、最弱の魔法です。触れているものの温度を一分で一度だけ、上下できます」

「最弱?」男は鼻を鳴らした。「弱いかどうかは、使い道が決める。湯は、一度ちがえば文句が出る。パンは、一度ちがえば砂になる。お前のは、弱くない」

 思わず笑いそうになった。ぼくの胸のどこかで、凍っていた言葉が溶け出す。最弱というラベルに、別の意味が貼られる音がした。

「湯も、見ていいですか」

「湯を?」

「温度は、得意なんです」

 男は顎に手を当て、少し考えてから、うなずいた。「見せてやる。ただし、湯は機嫌が悪い。拗ねさせたら、二度と戻らん」

「拗ねる前に仲直りします」


 裏手の湯小屋へ。扉を開けると、白い息がふわりと肩に乗ってきた。湯船は岩囲い。表面に細かな波紋。温度計なんて便利なものはないが、手首を浸せばわかる。かなり熱い。次の瞬間、波が逆らうように冷たさを混ぜた。確かに脈が乱れている。

 ぼくは湯の縁に手を置く。まずは測る。+0℃。ただ触るだけで、皮膚の感覚がくれる情報は多い。湯の表層と中層の温度差、湯口からの供給の周期、外気との交換速度。

「どうだ」

「息が詰まり気味。湯口の角度が変わって、回転が死んでる。熱い層と冷たい層が喧嘩中です」

「直せるのか」

「直すんじゃなく、宥める。少し、触ってもいい?」

「やれ。湯に礼を言うのを忘れるな」

「もちろん」


 ぼくは湯の表面の一部に手を当て、—1℃。一分待ち、隣の部分に+1℃。湯面に小さな“丘”と“谷”を作る。温度差が流れを生む。ゆるやかな対流が起き、熱い層と冷たい層が混ざり合う。急にやれば湯が怒る。少しずつ、少しずつ。

 湯の波紋が、さっきより沈んだ呼吸になった。湯気の量も、さっきより“均等”だ。

「ふう」湯守りが目を細めた。「顔が穏やかになった」

「湯にも顔があるんですね」

「ある。毎朝見ているとわかる。今日は久しぶりに、人の顔になった」

 ミアがぼくの袖を引いた。「レオン、すごい。最弱って、もしかして一番やさしいって意味?」

「そうであってほしい。世界がそういう辞書で書かれていたら、ぼくは助かる」


 ぼくらは湯から上がり、土間へ戻った。パンの匂いは雪に勝って、通りを行く旅人の鼻を掴んだらしい。戸口から覗く顔がふたつ、みっつ。

「すみません、ここって……」「パンの香りが……」

 ミアが慌てて戸を開ける。「きょ、今日は閉店なんだけど、試し焼きが、少し——」

「売ろう」湯守りが言った。「ただし、ひとり半分。次が焼けるまでの、橋だ」

 橋。食の橋、という言葉が、ぼくの中でやけに鮮やかに響いた。

 ミアはパンを切り、あつあつの半分を紙に包んで渡す。旅人は手を温め、顔をほころばせ、金を置く。小さな鐘のような音が、宿に落ちた。

 ぼくは釜に向かって、二回目の生地を入れる。今度は発酵時間を少し短く。寒さと釜の回復具合を計算に入れて、上火−1℃、下火+1℃を五分ごとに繰り返す。石は素直で、手を離さなければ裏切らない。


 夕暮れ、雪はやんだ。空は青铁色から、薄い蜜柑色になった。

 パンは四回焼けた。小さな売り上げは、今日の薪と明日の粉に十分だ。湯守りは帳面に数字を書き、俯いた背中を少しだけ起こした。

「レオン」ミアが言った。「ここで……温度係、してみない?」

「給金は多くないぞ」湯守りが渋い顔で言う。「だが、湯は礼を返す。飯と、湯と、屋根と、名前で」

「名前で?」

「この宿に名を残すという意味だ。湯もパンも人も、誰かの名で温かくなる」

 名を、残す。ぼくは、その言葉が好きだった。勇者パーティの名簿では、ぼくの名は薄かった。消すのが簡単そうに見える字だった。

「やります。温度係。パン係も、湯の宥め役も。あと、釜の友達」

 ミアが笑った。「友達いっぱいだね。釜と湯と、酵母」

「そして人」湯守りが短く言う。「人がいなければ、湯もパンも、ただの水と粉だ」


 その夜、簡素な夕食。パン、温室で細々と育った青菜のスープ、干し肉の薄切り。ぼくは指先に+1℃をのせ、スープの表面をほんの少しだけ温め直した。ミアが目を丸くする。

「便利……!」

「ずるいだけ」

「ずるいの、いいじゃん」

 笑い合って、湯に浸かる。湯は昼よりもおとなしく、背中にやわらかい手を置いてくれる。

 湯上がりに、湯守りがひと言だけ言った。

「冬はこれから深まる。町は冷える。王都はもっと冷える。……温度係、忙しくなるぞ」

「忙しいの、嫌いじゃないです」

「ならよし。明日の朝も、パンだ。起床は四つ時。酵母が機嫌を直すのに、時間をやらんといかん」

 ぼくは布団に潜り、天井の節目を数えた。追放の夜に感じた寒さは、どこかへ行ってしまっていた。かわりに、指先に小さな火が灯っている。+1℃。世界にとっては誤差でも、ぼくには、ちゃんと火だ。


 眠りに落ちる前、ぼくは心の中でこっそり明日の段取りを並べた。

 酵母の起床は夜明け前。釜の均しはその三十分前。湯の脈の様子見、温室の冷気止め、パンの一次発酵、朝の湯客前の二次発酵。

 忙しい。いいことだ。忙しさは、孤独から目を逸らすためではなく、誰かの体温の隣に立つために使う。


 そして、遠くで風が鳴いた。

 窓の桟が、きし、と鳴った。

 冬は深くなる。あと一度足りない、と世界が言うとき、ぼくはそこに指先を置く。

 眠りの底で、ぼくは小さく笑った。


――


《今日の±1℃メモ》

・酵母の目覚め:壺の外を+1℃/分で10分、22℃付近で止める。急がせない。

・石窯の均し:割れ目付近は左右差をなくす。+1℃→休→+1℃の“呼吸”。

・湯の宥め方:表層−1℃/隣接層+1℃の交互で小さな循環を作る。湯の機嫌は急に取らない。


次回:第2話「パン釜の再生」—割れた石窯に、見えない“ふた”を。

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