2.剣道がしたい
「ただいま」
家に帰ると、ちょうどじいちゃんが出かけるところだった。
「ご飯は作っておいたから食べときなさい」
「これから稽古?」
「ああ、小学生に稽古をつけてくる。帰りは九時位になるから、戸締りして風呂入って寝てなさい」
じいちゃんは防具袋と竹刀袋を担ぐと出て行った。
俺が剣道を始めるきっかけはじいちゃんだった。
じいちゃんが竹刀を構えると一分の隙もない剣士になる。それがカッコよくて憧れて俺も剣士になりたいと近所の剣道場に通うようになった。
うちの両親とじいちゃんは仲が悪くて、ほとんど会ったことはなかったがそれだけは覚えている。
そういえば、引っ越しとか、学校とかのドタバタで竹刀の手入れをしていないのを思い出した。それに長いこと竹刀を振っていない。
部活動で剣道ができないなら、どこか道場に所属することも考えた方がいいのかもしれない。だがそうなると、選抜や、インターハイには出られるのだろうか。
中学最後の県大会は2回戦敗退で終わった。言い訳はしたくないが、帰ってこない父親にイラつく母が、俺まで帰らないと不安定になるため、たびたび部活を休むことになったせいもある。自分でも練習不足や、経験不足に悔しい思いをした。
剣道部があるかどうかは校内に立派な剣道場があるのを見ていたから調べる間でもないと思っていた。やっぱり、ちゃんと調べて学校を選べばよかった。
また泣き言が頭を埋め始めたのでぶんぶんと頭を振りそれらを払った。
竹刀袋から一本取りだした。高校では剣道を思いっきりしたいと願掛けで買ったサブハチの竹刀だ。
県大会で負けた直後に、誰よりも早くこの重さになじむつもりで買った。高校こそ剣道をしたいから。
柄革を緩ませ中結いを解く。先革を外して、竹刀の内側も割れやヒビがないか見ておく。ささくれはないが乾燥気味だったので油を塗布して組み直す。ピンと弦を張らせて完成。中学までの竹刀とは40グラムほどの差しかないが重くなっているのを手に感じた。柄を左手でぐっと握る。
「よし、くさくさしても始まらんわ。振るか!」
縁側から庭に出た。
腰に竹刀を取って、蹲踞 ゆっくりと腰を下ろす。
抜刀 ゆっくりと相手の体に向けて竹刀を構える。剣先が相手の喉をとらえる。
始め ヤァアと近所迷惑にならない程度に声を出す。
靴では足さばきの練習は難しい。竹刀を真っ直ぐ降ることを心掛けた。通っていた道場では皆がイチ ニ サンと掛け声を掛けながら正面素振り。左右上下素振り 跳躍素振りをする。鬱憤を晴らすように一心に振った。
二百本ずつを一通り終わらせて、納刀をし、ふぅーっと大きく息を吐いた。やっぱり、竹刀を重く感じた。毎日剣道場で練習したいと思った。
目線の先にはうちの屋根越しに校舎が見える。
やっぱり明日、あんなに立派な剣道場があるのだから使わせてもらえないか聞こう。そう決心して、最後に礼をして、家に戻った。
四月でもまだ朝の空気は冷たい。
久しぶりに無心で竹刀を振ったせいで腕が痛い。肩を回すと油の切れた機械みたいにギギギと音を立てそうだ。
剣道場の利用許可を取ろうと心に決めてから、緊張で眠りが浅くなった。心がはやるせいで準備も漫ろについ五分で到着するこの学校に三十分も早く着いてしまった。せっかくだから、剣道場を見てみようと校舎の右端を進んでいく。
運動場では陸上部と、サッカー部が朝練をしていた。わりと和やかで楽しそうに見える。部活動見学で見た時は上下関係の厳しい体育会系に見えたが、やはり見てみないと分からないものだなと思った。
剣道場に到着して、地窓からのぞくと、朝早い時間だというのに誰かが来ていた。神棚の前。ジャージ姿の人がきれいな姿勢で黙祷していた。
手をついて礼をすると、竹刀を手に持ち蹲踞をする。軸のぶれないきれいな蹲踞だった。抜刀も隙がない。蹲踞からの立ち上がりが驚くほど速くぶれなかった。
それだけで、彼がかなり鍛錬を積んできた人だということが分かる。
「メンッ メンッ メンッ……」
良く通る声はしっかりと腹から出ていた。板の間を叩く右足はダンダンッと力強い音をさせている。見上げているせいもあるが、彼が振り下ろすメンは迫力があった。まるで一本の線をたどるようにまっすぐに竹刀が振り下ろされる。早い振りではないのにしっかりとメンをとらえている。
きっと彼は強い。
一振り一振りに目が離せない。
なんだかキラキラと光って見えるなって……あれ? 物理的に光ってないか……。
朝の光に巻き上がる埃が乱反射していた。
げっやばい、この剣道場埃まみれだ。ハウスダスト!! あっ、鼻がかゆいっ。
そう思った瞬間、竹刀を振っていた彼もへくしっとくしゃみをした。
俺は慌てて入り口から剣道場に入り、礼を取って彼を止めた。
「あの! 竹刀を振る前に場内を清めた方がいいと思います!」
ずいっと、近づくと彼は驚いて目を見開いた。
今どき珍しい坊主頭だが、眉のしっかりした和風な顔だ。そして、近づいてより実感したが、彼は背が高い。あの高さからメンを振り降ろされたら恐怖だ。あとこの股下……長っ。間合いを詰めるのが速そうだ。
ってオレのぶしつけな視線に相手は驚いていた。
「えっと……はい」
戸惑ったように返事をする。メンと言っていた時と同じ低いのに響く声だった。
そこでやっと、自分が初めて会う人に詰め寄っていることに気づいた。すかさず、一歩分後退った。そもそも彼が先輩か同級生かも分からない状態だ。先輩だったらまずい状況なのでは? 生意気な奴だなとかいう展開になったら怖い。……気づいてからまた一歩後退る。
「あ……あの。埃で死ぬ人はいなくても、埃で体調を崩す人は云百万人もいますからね! 健康大事!」
あくまであなたの健康を気遣ったのですよという態度を付け足した。
彼は驚きつつ頭を掻いている。怖い人ならすぐにどつかれていただろうから多分怖い人ではないだろう。だが、油断は大敵だ。言いたいことも言えたし、よし、逃げよう。
「ではすみません。失礼します」
身をひるがえして逃げたのだが、大きな手が腕をつかんで引き戻す。
「君は? 剣道するのか?」
まだ彼が何者かは分からないから、うかつには答えられない。
「剣道するなら一緒にここでしないか?」
彼はその言葉と共にずいと身を寄せて俺の顔を覗き込んできた。真っ黒な目に俺の驚いた顔が映っている。思わずうなずきそうになったが、また鼻がかゆくなってへプッと手で押さえてくしゃみを止めた。
「ぷっ、埃で死にそうだな」
彼はまたまっすぐ立つと笑い出した。笑うと垂れ目なのが分かる。うわぁ、女子がいたら恋に落ちたと思う。きりっとした顔からの無邪気な笑顔。ギャップ萌えってやつだ。
俺はそのまま、口元を押さえてそこを立ち去った。さすがに道場を出る礼を欠かせないので。いったん、膝をついて礼をした。おかげで新品の制服が埃だらけだ。
へぶしっ くしゃみが止まらない。
顔を上げると、彼はアゴを指ですりながら、こちらをにやりと見ていた。
彼の確信したような顔に、気づかず走ってその場から立ち去った。
見下ろすように飾られたトロフィーや、賞状ももれなく埃だらけ。
この剣道場を使いたいと思ったが、まずは掃除からになるなと思いつつ、教室に向かった。