芹沢鴨
京の町に夏の風が吹いていた。ある家屋から炎が芽吹き、風に乗って広がっていく。町中に火花の混じった異様な風が吹き荒れ、人々は激しい声を上げ走り回る。町全体が燃えているようだった。
そんな中、壬生浪士組の筆頭局長である芹沢鴨は気だるそうに燃え盛る家屋を見ている。
「なあ、粂太郎。異国のものはこう簡単に燃えぬらしいぞ。鉄で作られているからな」
「それは困るな。焚火ができん」
芹沢の声にこたえたのは同じく浪士組の局長である新見錦である。二人は同じ水戸藩出身であった。
「日ノ本のものは綺麗に燃えるからいい。異国のものはいかん。美しくない」
いつもと同じ調子であった。攘夷の志が高いこの時代の男である。
「それにしても焚火は夏にやるもんじゃないな。暑くてかなわん」
芹沢は家屋を燃やしたことを後悔した。もとはといえば、金を持っているというのに組に金を貸さぬことが気に障ったのであったが、そんなことは覚えちゃいない。どうでもいいのである。
芹沢も自分の行動で浪士組が京の住人から嫌われていることは分かっていた。だが、焚火はやめられない。
「なに?」
芹沢は近藤勇のその一言に思わず問い返した。
「ですから、新見局長を粛正いたしました」
芹沢は近藤の顔を改めて見つめる。その怒りは嵐のように全身に広がっていった。
「粂太郎が何をしたというのだ?」
芹沢は急かすように言った。その手は柄に伸びている。
「数々の悪行を見過ごすことはでき申さぬ。先の政変の折、われらは新撰組と名を賜り申した。これも仕方がないことでござる。われらは武士なれば士道を守らねば話になりませぬ」
近藤の隣に控えていた土方歳三が淡々とそう答える。薄暗い部屋の中にある蝋燭の灯がゆらゆら揺れる。
「建前はいらぬ!御公儀の差し金か!」
芹沢には思い当たる節があった。有栖川宮家に土方とともに訪れたことである。それ自体が土方の策略だとすれば。水戸派を粛正し、新撰組を乗っ取るつもりならば。芹沢の太刀を握る手が強張っていく。
「言わずとも分かっておられるようですな」
土方は芹沢のその言葉につい苦笑する。
「貴様ら……!」
その言葉とともに、芹沢は太刀を振り上げ、刃先を近藤の首に押し当てた。じんわりと刃先が近藤の皮膚に食い込み、ゆっくりと血を這わせている。
「この場でやりあいますか?」
土方はせせら笑いながらそう言った。新見が粛正された後の屯所である。試衛館派が多いことは芹沢でも察しがついていた。
「俺がどのような男か、忘れたらしいな」
そう言いながら、近藤に当てていた刃先を離し、土方の目の前で構えなおした。土方もそれに合わせて刀を抜く。
「仲間を呼んだらどうだ。どうせお主らでは俺の相手にならん」
月が雲の間から姿を現したのか、障子の奥にいる隊士たちの影が映り込む。その影はゆらゆらと揺れ、やがて姿を消した。
しばらくの間沈黙が続いた。両者が持っている刀身には月の光と、そして蝋燭の灯が写っている。
先に刃を納めたのは、意外にも芹沢であった。その大きな体躯を揺らし、ドカッと座った。そんな芹沢の様子に近藤と土方は目を見合わせる。
「そんなに俺たちが憎いか?」
先ほどまでとは違った抑揚がなく、掴みどころのない声がその場を支配した。
「いいえ、憎いというより、邪魔なのですよ」
土方は口元を緩ませ、当惑したような笑みを浮かべながらそう言った。
「近藤くん。お前もか、お前も俺のことを認めないか」
近藤は落ち着いた、何か考えていそうな表情で芹沢を見つめている。先の政変で褒美をもらって以後、多少楽になったとはいえ、苦しい時期を支えていたのは芹沢の悪行と言われても仕方ない資金繰りであったことを近藤は知っていた。政変以前は芹沢の資金繰りがうまくいくかどうかで、浪士組の今後が左右される時期があったことは事実だったのだ。
ゆえに……
「認めておりますし、憎くもございませぬ。ただ……」
近藤は言葉を詰まらせる。
「今の浪士組を作ったのは俺だろうが!」
芹沢の声は怒りのみならず、寂しさも含んでいるようだった。
「確かに浪士組を作られたのはあなただ。だが、これからの新撰組を率いるのは私でなければならぬのです」
近藤がその言葉を言い終わる前に、芹沢は席を立った。芹沢は近藤の口調から、覚悟を感じ取っていた。近藤は芹沢にこだわっていたし、芹沢もまたそうであった。この場から去る芹沢を、近藤は十分呑み込めなかったが、覚悟はできていた。
夏の虫の音が微かに聞こえている。鳥たちが飛び立つにもまだ早い時間であった。芹沢が明けた障子戸から生暖かい風が二人に吹き付ける。
鉄の匂いが二重に充満する。浅葱色の羽織の背中に、黒い斑点が現れていく。
「芹沢先生。今まで……ありがとうございました」
そう語りかけられた芹沢の背中はもう動かなかった。