第八話 戦後概況
■日本の戦後概況
戦後から10年が経過し主要都市の戦災復興はほぼ終わっていた。1958年にはGDPが戦前の水準を上回り、ようやく日本政府は経済白書で『もはや戦後ではない』との宣言を出すに至る。
憲法も改正され、国号も『日本』と改められた。この松本烝治の改正案を元にした新憲法は、天皇が統治権を総攬する原則はそのままに議会の権限と国民の権利は拡大されている。
諸法律については農地改革がまず断行された。それ以外の欧米との差については時間をかけてゆっくりと改正されていく事になっている。
軍事面では、日本は米国・大韓民国・オーストラリア・東南アジア諸国などと反共軍事同盟(東アジア条約機構:EATO)を結んだ。
これはつまり米国からアジア地域の軍事負担を求められた事に等しく、日本に相応の軍事費を要求するものだった。
このため国家予算における軍事費負担は、戦時中および米軍供与兵器の更新時期も重なり2割に迫ることになる。
それでも7割を超えていた戦前戦中よりは遥かに低い。朝鮮や満州の負担も消えたことから国内開発にも大きな予算がまわされる様になっていた。これに農地改革も加わり国民の購買力も徐々に上昇していく。
軍がそれなりの規模で存続した事で、軍人しかできない者や地方で困窮する者たちの受け皿となっていた。それは一種のセーフティーネットとして機能し治安の悪化を防ぐことにもつながっていた。
退役した者や小作を離れた者たちは年々増加する雇用を満たしていた。朝鮮や台湾の出身者は多くが帰国してしまったものの、日本に残った者は国籍を取得し日本人として社会に完全に溶け込んでいる。
こうして日本は派手さはないが堅実で緩やかな経済成長を続けていた。
だが大陸に目を移すと、日本の資産を受け継いだはずの中華民国や大韓民国は決して順調とは言い難い戦後を歩んでいた。
■中国概況
台湾を入手した中華民国であったが、終戦直後から人心の離反と共産党の圧迫で敗退を重ねていた。
米国の積極的な軍事支援でなんとか福建省だけは保持していたものの、1950年代には大陸の拠点をすべて失い台湾に逃れる羽目になる。なお国民感情を考慮して日本や大韓民国は軍事支援に参加していない。
ちなみに同時期に中東でも戦争が勃発していたが、そこは欧州の領分であるため日韓ともに関与していない。そもそも中東問題は元をただせば三枚舌国家が原因であり日韓の知るところではなかった。
中華民国は今や台湾しか領有しない小さな国家となってしまったが、それでも一応は未だに国連の常任理事国に席を有していた。もっともその地位は完全に米国の傀儡でありソ連を封じ込めるための票以外の役割は期待されていない。
大陸から中華民国を追い出し覇者となった中国共産党は中華人民共和国として独立した。しかしソ連をはじめとした共産国家以外は正式に国家として認めていない。このため欧米や日本とは正式な国交を結んでいない。
このような環境から中華人民共和国はソ連とギクシャクしつつも関係を深めていった。
■朝鮮概況
一方の大韓民国であるが、こちらは当初は非常に順調だった。
戦争被害もなく、豊富な資源と日本から帰国した優秀で大量の人材を元に戦後復興に喘ぐ日本を尻目に復興需要で大きく経済規模を伸ばしていた。
その進路に暗雲が立ち込め始めたのは朝鮮危機からであった。
なんとか直接の軍事衝突は回避されたものの米国は大規模な在韓米軍を駐留させ、また大韓民国にもより一層の負担をもとめた。
もちろんそれは大韓民国を中ソから守るために必要な措置であったが、それを大韓民国は恩義どころか負担にしか感じなかった。こうして大韓民国は反米姿勢を強めていくことになる。
このため大韓民国は米国に頼らない国防を目指した。だが兵器の開発能力がないため当然のように米国へ兵器の供給を求めた。米国も最前線であることから当初はその要求に応えていた。
だが反米反日を国是とし政権も不安定なことは同時に共産圏からの諜報活動も容易である事を意味する。当然のように多くの技術流出事件が発生してしまった。
具体例としてT-54の砲身排煙機、Mig-15のアフターバーナー、Mig-17のレーダーなどが知られている。
こうした事から米国や英仏は大韓民国に対する最新兵器や技術の供給を禁止した。それは民生品にもおよび大韓民国の経済にも徐々に影響を与え始める。
隣には細々ながら自国で兵器を開発生産する同盟国の日本がいたが頼ることは出来なかった。国民の隅々まで浸透した反日感情により、そんな事をすれば政権崩壊に直結したからである。
そこで大韓民国は、あろうことかソ連と中華人民共和国に経済協力と兵器の供給を求めた。そして西側国家を自称しながら共産圏と積極的に交易し共産圏の兵器を装備するという誠に珍妙な国家へと変貌していく。
その理解しがたい行動に、日米の諜報関係者は頭痛薬と胃薬の使用量をさらに増やしていく事になるのだった。
■ベトナム派兵
大韓民国が困ったちゃん国家の東の横綱であれば、西の横綱はフランスであった(諸説あり)。
このプライドと意識だけは高い困ったちゃん国家は、ベトナム統治に見事に失敗した挙句ディエンビエンフーで大敗を喫する。その結果ベトナムは南北に分断された。
すでに共産圏に大陸を奪われ大韓民国も実質的に飲み込まれつつあった当時、ドミノ理論で東南アジアが全面共産化することを恐れた米国は1964年にベトナムへの介入を決断した。
米国は同時にEATO各国にも参加を呼びかけ日本も条約に従い戦力を派遣することとなった。だが既に東側にどっぷりと首まで浸かっていた大韓民国だけは参戦を拒否し、のちにEATOを脱退することとなる。
日本は海上戦力に加え水陸機動軍3個師団を派遣した。これは米国海兵隊を範にして設立された新たな軍である。EATO加盟とともに海外派兵の可能性が高まったことから旧海軍陸戦隊と陸軍船舶部隊を中心として編成されている。このため上陸機材だけでなく独立した機甲部隊や航空部隊も有している。
特にあきつ丸を大型化したドック型揚陸艦は、ガントリークレーン一つない貧弱なサイゴン港で荷揚げに難渋する米軍を横目に、近在の浜辺から易々と迅速に重装備や兵員を揚陸してみせ米軍を驚かせた。
この事実で米軍は全通甲板を持つ大型のドック型揚陸艦の必要性を痛感し、イオージマ級の設計に大きな影響を与えたと言われている。
■六一式戦車
水陸機動軍の装備は陸海軍と共通ながら旧軍の伝統を受け継いでいる。その中には、かつての特四式内火艇(カツ車)が進化したような上陸作戦用の水陸両用車両もあった。
だが今回のベトナム派兵にあたり日本軍は本格的な戦車を持ち込んでいた。理由は北ベトナム軍がT-54を装備していたからである。
戦後2番目に制式化されたこの六一式戦車は、樺太や満州の経験と日本の置かれた状況を十分に取り入れた結果、前作の四八式から大きな変貌を遂げていた。
その最も大きな特徴はエンジンを車体前部に配置した事だった。日本は基本的に攻勢作戦はとらない方針のため機動力より防御力や継戦能力を求めた事がこのデザインを選択させた。
防御を重視した結果、車体・砲塔前面の装甲は120ミリに達し、重量も40トンを超えている。エンジンも僅かであるが防御力の足しになることを期待されている。
エンジンが前になったことで砲塔は車体の後ろ寄りに配置され車体後面にはハッチが設けられた。ここを使ってダッグイン状態であれば戦闘中でも兵員の出入りや弾薬の補給が可能となっている。
車内には無理をすれば6名の歩兵が搭乗可能であり装甲兵員輸送車のような運用も可能となっている。車内容積を確保するためサスペンションもトーションバー方式ではなく外装式のホルストマン方式を採用している。
戦車砲は四八式と変わらず米国標準の90ミリ砲を搭載していた。敵のT-54が100ミリ戦車砲をもつ事から当初は旧海軍の10センチ高射砲を戦車砲化することも検討されたが、重量的に難しいことと他国との弾薬共通化の面から結局は90ミリ砲が選択されている。
この砲をめぐるゴタゴタから開発が数年遅延してしまったが、その甲斐もあって本戦車は戦後日本戦車の基礎となり以後の戦車も同様の構造を踏襲していく事となる。
こうしてベトナムに送られた水陸機動軍の戦車第一師団の中に、中佐の肩章をつけた内田の姿もあった。
中華民国が大陸を追われるのは避けられませんが常任理事国の椅子は維持しています。史実と逆の立場で中華人民共和国を西側諸国は認めていません。
史実のSEATO(東南アジア条約機構)は日本・大韓民国・中華民国が加わったことでEATOに変わっています。
六一式戦車は見ての通りメルカバです。ガザで大暴れしてて世間の印象は悪くなってますが、個人的には大好きな戦車なんです。すいません。




