第七話 朝鮮危機
■1950年6月26日
樺太 日ソ国境地帯
戦車第十一連隊 「士魂部隊」
「参ったな……ほとんど丸見えじゃないか……」
戦車壕に車体の殆どを隠した戦車の車長席から身を乗り出し、北の国境線をみながら内田は愚痴をつぶやいた。
国境線の向こうにはソ連が築いた対戦車障害の人工的な起伏が連なっている。おかげで向こう側の見通しは全く利かない。
だが国境線からこちら側は、内田のいる戦車壕まで只の平原が広がっていた。
もちろん侵攻してくる敵をいち早く見つけて撃破するためだと頭では理解している。無数の対戦車地雷が敷き詰められている事も知っている。それでも内田はまるで自分が射的の的にでもなったような気分だった。
「頼むから来ないでくれよ……」
5年前のような戦いはもう懲り懲りだった。内田は祈るような気持ちで国境線を見つめ続けた。
樺太南部を日本軍が辛うじて防衛してから一週間後、1945年8月25日に日ソの停戦が成立していた。
ソ連は渡洋侵攻能力を完全に喪失した上に、満州・樺太では日本軍の決死の抵抗を受けている。そこへ朝鮮半島に上陸した米占領軍が中朝国境まで北上してソ連軍の南下を断固として認めなかった事が決定打となった。
米国が講和を急いだため、2年後の1947年には連合国との講和が成立している。このため米国による占領統治はわずか2年で終了している。
講和後、日本はほとんどの領土を失ってしまった。
満州はソ連と中国共産党に奪われ、朝鮮は大韓民国として独立し、台湾は中華民国に返還された。東南アジアと南洋諸島も元の宗主国に返還されるか米国の委任統治領となっている。
かろうじて沖縄、樺太南部、千島列島は日本の領土として残った。占領統治こそ免れたが今でも多数の米軍部隊が駐留している。だが一応は自国領であるため最前線を務めるのは日本の部隊の役目だった。
内田自身は正式な少尉任官を経て中尉へと昇進していた。
かつて旧式のチハながら共同を含めT-34を3両も撃破し重傷を負いつつも生き残った彼は、一時は『爆弾三銃士』なみに新聞でとりあげられ随分と恥ずかしい思いをした。
今でも上官や同僚らは内田のことを冷静沈着、勇猛果敢な兵士だと誤解している。部下に至っては神のように崇めている奴までいる始末である。本当に勘弁してほしかった。まさか誰よりも一番戦いを恐れているなんて誰も思ってもいないだろう。
内田の所属は今でも戦車第四師団の第十一連隊のままだった。そこで内田は戦車中隊を率いている。
壊滅した連隊は樺太での勇戦を称えて再編され存続していた。砲塔横に描かれた『士魂』の部隊章もそのままに、連隊の所属は第二師団から第四師団へと正式に変わっている。
その内田が乗る戦車も時代にあわせて更新されていた。
講和後に軍隊が再編された当初、陸軍の戦車部隊は米軍から供与されたM4A3E8とM24を装備していた。
だが兵器の開発・生産能力を維持するため日本陸軍は次期主力戦車の自国開発を目指した。米国もなぜかその動きを積極的に支援してくれた。そうして生まれたのが四八式中戦車である。
とは言っても全くの新規開発ではない。その設計のほとんどは大戦中の四式中戦車からの流用だった。
トーションバーを製造できないため足回りは昔ながらの水平コイルスプリングを用いたシーソー式のままであり、砲塔も大型部品の鋳造技術が無いため三式中戦車と同じ圧延鋼板の組み合わせに先祖返りしている始末である。
外観では車体前部の形状と戦車砲がチトから大きく変わっていた。
車体前面の装甲は日本戦車としては初めて避弾経始を考慮した傾斜装甲が採用された。もっとも操向装置の点検口があるため一枚板ではなく防御上の弱点となっている。
砲には米軍からライセンスを得た90ミリM3A1戦車砲を搭載し、こちらも日本戦車として初めて駐退装置の露出がない大型の防盾を備えることになった。
エンジンはチトと同じのV12ディーゼルだが過給を強化し500馬力を発揮する。しかし車重に対してはアンダーパワー気味であった。ちなみに操向装置は国産品では不具合が続出したため米国アリソン製のオートマチックトランスミッションを採用している。
こうして四八式中戦車は戦後第一世代の主力戦車としては機動力と防御力に難点はあるものの及第点といえるものに仕上がっていた。
しかしその車重は35トンに達したため事実上は北海道と樺太の専用装備となってしまった。価格も相応に高価なものとなったため、本州や九州の師団は米国から供与されたM8装甲車を配備することで予算を圧縮している。
そんな最新鋭の戦車を国境地帯に展開し臨戦態勢までを取っている理由は、先日勃発した『朝鮮危機』が理由だった。
この朝鮮半島を舞台にした軍事的緊張は、最初は大韓民国内の暴動が切っ掛けだった。
当時、大韓民国内では左派だけでなく中道派や一部の右翼の間でも李承晩への不満が高まっていた。苛烈な左派弾圧、日本と政治的に距離を取ったことによる経済格差の拡大が原因である。
こうした国民の不満を逸らすため、李承晩政権は西側諸国であるにもかかわらず反米、反日の姿勢をとることが多かった。巨大な共産国家に隣接している半島国家という地政学的リスクを無視したその振る舞いは、同盟国であるはずの日米から見て理解しがたいものだった。
それはソ連と中国共産党から見て、大韓民国が西側の鎖の弱いリングであることを強く認識させるものだった。彼らは大韓民国に対して工作活動を行い、ついに大規模な暴動を起こすことに成功した。
そして市民を支援し保護するという名目で金日成率いる軍(実質的には中国共産党軍)が鴨緑江対岸に集結、大韓民国への侵攻準備を始めたのである。背後にいるソ連の侵略意図もあからさまだった。
米国はこれに呼応して世界中でソ連の行動が活発化することを恐れた。そこでケナンの提言に従い、「ソ連が変な事を考えない」レベルの軍事力を即座に展開したのだった。
■1950年7月10日
戦車第十一連隊 「士魂部隊」
この地に内田らが展開して2週間が経過していた。
胃が痛くなるような日々が続いていたある日、内田の装着したヘッドセットが乾いたノイズを立てた。続いて師団本部からの通信が入る。
それは内田が長く待ち望んでいたものだった。
「全部隊、全部隊、こちらサクラ。状況解除。状況解除。これより通常態勢に復帰する。別命あるまで原位置にて待機。終わり」
「た、助かった……」
内田は安堵のため息をついた。そして部隊に指示を展開すべく咽頭マイクを押さえた。
「クラマ06より全車、状況解除。戦闘態勢を解け。ただし別命あるまで原位置にて待機。各小隊長の判断で小休止をとって良い。終わり」
隊内通信を終えると車内にも小休止を命じ、内田は自らも仮眠を取るため目を瞑った。
結局、朝鮮危機はわずか2週間で終息した。
米国は断固たる意思をもって国境付近に在韓米軍の大部隊を展開し、日本やグアムの基地からも増援部隊を続々と送り込んだ。
周辺海域には日本の機動部隊、米国の任務部隊が展開し海上を完全に封鎖した。欧州でも同様に西ドイツ国境に部隊を展開している。
さらに米国はダメ押しとばかりにアリューシャン列島で核実験を行った。
ソ連も昨年に核爆弾の実験に成功はしていたが大量配備には至っていない。米国相手に気前よく核爆弾を投げあう様な真似はまだ出来ない状態だった。
つまりこれは、「身の程を知れ、余計な事は考えるな」という、ソ連に対する明確な、最後通牒に近い恫喝だった。
米国のこうした動きにより大韓民国の国民は米国の強力な支援を実感し、暴動は急速に終息していった。
こうして侵略の目が完全に消えたことから中国共産党指導部は声明を発表した
『金日成は不慮の事故で死亡した。今回の軍事行動はあくまで金日成と一部の軍閥の暴走であり、わが政府は一切関与していない』
首謀者とされた軍人も処刑したという。真実からほど遠い内容だが政治では名目が優先される。
これは明らかにソ連からの「手打ちにしたい」というメッセージであった。
米国が断固とした態度を取り、巨大な軍事力を展開したことでソ連は実にあっさりとその矛を収めた。その全てがケナンの長文電報の提言を忠実に守った結果だった。
だが混乱は一応の収まりは見せたものの、大韓民国はこの後も日米の懸念であり続ける。
ウリ・恨という情緒がすべてに優先する社会では、常に政情は不安定となり、どんなに信頼する相手でも簡単に裏切られる事が多かった。
このため危機終息後もソ連と中国共産党は大韓民国に対する工作活動をやめる事がなく、日米の情報担当者に気が休まる日が訪れることは無かった。
見ての通りRSBC第一話の冒頭に相当する状況です。ですが結果は逆となりました。
この世界では北朝鮮もないため大韓民国はそれなりの国力を持っています。強力な在韓米軍もおり背後には日本もいるため普通に考えれば安泰ですが、反米反日の姿勢を隠さないためソ連からは格好のターゲットにしか見えません。
日本軍の兵器は米国からの供与も活用しつつ、米国の意向もあって自国開発・生産も目指しています。終戦から5年しか経っていないので新兵器も大戦中の影を引きずっています。もしかしたらジェット化した震電もあるかもしれませんね。
朝鮮戦争特需もなく、軍事費が重くのしかかる日本。史実のような高度経済成長は全く望めなさそうです。