奈帆子の不思議な体験
探偵部の捜査会議は、通常カラオケボックスで行われる。
と言うのも、その店は学校から程近くにあって、さらには部員の佐々峰奈帆子が日頃バイトをしているからである。
ある日の夕方、定例会議が終わって帰途につこうとした矢先、沢渕晶也は誰かに背中を突つかれた。
実に控え目なそのやり方には、他人に知られたくないという意志が感じられた。そこでみんなが店の外に消えるのを待ってから振り返った。
すっかり誰も居なくなった玄関で、奈帆子と二人きりになっていた。
「ねえ、この後、時間空いてる? 付き合ってほしいのよ」
派手なエプロンが目の前に迫ってきた。
「ええ、大丈夫ですよ」
それを聞くと奈帆子は身体を弾ませた。
「もうすぐ仕事が終わるから、さっきの部屋で待っていて」
そう言うと、さっさとカウンターの奥へと消えていった。
沢渕は、もぬけの殻になった大部屋へと戻ってきた。先程までクマや雅美が言い争っていたのが嘘のようである。
ソファーに一人腰掛けているのは正直妙な気分だった。するとチャイムが鳴って、若い女性店員がジュースとスナックを運んできた。そんなものは頼んでいませんと伝えると、佐々峰さんの奢りですからと無理矢理テーブルの上に置いた。「ごゆっくりどうぞ」という定型句は忘れなかった。
お盆の上には、一枚のチラシが載っていた。二色刷で手書きの文字はいかにも素人が作ったことを物語っている。
何気なく手に取ってみると、不思議な文面が沢渕の好奇心をかき立てた。
「タイヤを無料で交換します! 白の軽自動車に限ります。軽トラックは優先します」
まもなく冬がやって来る。この地方ではそれなりに降雪があるため、冬用タイヤに交換するのが慣わしになっている。どうやらそれを当て込んでの宣伝らしかった。
それにしても奇妙な内容である。
車種を特定するのは作業上あり得るとしても、車体の色がどうして限定されているのか。しかもトラックを優先することにどのような意味があるのか。免許はおろか車も持たない高校生にはさっぱり理解できなかった。
さらに下の方には、無料サービスは一日十台まで、雨天は中止しますと添えられていた。
しばらくすると、奈帆子が顔を出した。清楚なブラウスに花柄のスカートは実に大人びた印象を与えている。さすがに高校生とはひと味違う雰囲気を醸し出していた。思えば、店内でエプロンをつけていない彼女を見るのは、これが初めてだった。
佐々峰奈帆子は去年山神高校を卒業して、今は地元の大学に通っている。探偵部の部長を二年勤め、その座を森崎叶美に譲った。メンバーの中では、唯一自動車免許を持っており、遠隔地の捜査では、彼女の車が大いに役立っている。
奈帆子は沢渕の向かい側に腰を下ろした。かすかに化粧の匂いが後に残った。
「そのチラシ、見てくれた?」
「はい、なかなか面白いチラシですね」
「ちっとも面白くないわよ」
予期せぬ言葉が返ってきた。
「どうかしましたか?」
「私の車は、白の軽自動車でしょ。だから、昨日そのお店に行ってみたのよ」
「無料のタイヤ交換ですね?」
「そう。そしたら見事に断られちゃった」
なるほど、彼女はその時の悔しさを誰かに聞いてもらいたいのだ。沢渕はようやく自分の役目を理解した。
「しかしこのチラシには、無料になるのは一日十台までとあります。それを超えていれば当然無料にはならないでしょう」
「そもそも一日十台っていうのは嘘よ。だって私、朝一番に行ったんだもの」
「店は混んでいましたか?」
「私の前に一台、後ろにも二台並んでいたわ」
「客寄せのために無料を謳っているだけで、最初から実施する気はなかったのかもしれませんね」
「それもまた違うのよ。どのみち冬に備えてタイヤは交換するつもりだったから、有料でもいいからやってくださいって頼んだの。しかしそれすら断わられたのよ」
それはおかしな話である。チラシをまいておきながら、金になる仕事を引き受けないとはどういう了見だろうか。
「もう一度確認しますが、それは営業時間内の話ですよね?」
「ええ、もちろん。開始時刻に合わせて行ったのだから間違いないわ」
「では、雨が降っていたとか?」
チラシの注釈を思い出して言った。
「いいえ、昨日は雲一つない、いいお天気でした」
「では、どうして?」
沢渕には、それ以外の言葉が見つからなかった。
「そうでしょ? おかしいでしょ?」
奈帆子は身を乗り出して、
「さらに頭にきたのは、その日の夕方、友達のお父さんが軽自動車を持ち込んだら、無料で作業をしてくれたらしいのよ」
「へえ」
それは明らかに車を選別しているということである。では、どうして奈帆子の車は選ばれなかったのだろうか。そこにはどんな基準があるというのだろうか。
「店員はどのように断りましたか?」
「どういう意味?」
「奈帆子さんの車を見てすぐに断ったのか、それとも何かを調べてから断ったのか」
「助手席側のタイヤの辺りで一度しゃがんで、立ち上がるとすぐに断ったわ」
「それは何かを調べた感じでしたか?」
「いいえ、一目見ただけですぐに断った感じだった」
「そうですか」
ますます謎が深まったような気がした。
「実際にその店を見てみたいですね」
「さすが、そう来ると思ってたわ」
奈帆子は嬉しそうな顔をして連絡用の電話を手にした。
バイトに部屋の片付けを指示してから、
「それでは、行きましょう。裏に車が停めてあるから」
彼女の愛車は中古の軽自動車である。これまで何度か乗せてもらったことがある。いずれも探偵部の捜査のためであった。こうして今日も乗る羽目になるとは思ってもみなかった。
座席の後ろには、交換を待つスタッドレスタイヤが所狭しと並んでいる。
助手席に座ってシートベルトを締めると、奈帆子はエンジンを掛けた。
「こうして車で二人きりになるのは初めてじゃないかしら」
「何だか楽しそうですね」
「そりゃそうよ。探偵部の中で私だけ高校生じゃないでしょ。そのせいでいつも疎外感を味わっているんだから」
「でも、会議はいつもカラオケボックスでやってますよ」
「バイト中はカウンター奥のモニターでちらちら見てるだけよ。まるで私だけ壊れたマイクとカメラでオンライン会議に参加してるって感じ」
沢渕は思わず笑ってしまった。大学生の奈帆子にも不満はあるものなのだ。悩みとは無縁と思っていただけに、それは意外な発見だった。
「お店はあの信号を曲がってすぐよ」
「意外と早かったですね。やっぱり車は便利ですね」
「確かにそうだけど、維持費が馬鹿にならないのよ」
交差点を曲がると店が見えてきた。案外小さな店である。それでも明かりは煌々とついていた。チラシによれば、営業は午後7時までなので、どうやらそれには間に合ったようだ。
「沢渕くん、どうすればいい?」
運転手は前を見据えたまま訊いた。
「もう一度タイヤ交換をお願いしてみましょう」
「でも、昨日はあっさり断られたのよ」
「今日のこの時間はどうか分かりません」
「オッケー。何だか気乗りしないけど頼んでみますか」
奈帆子は店の駐車場に車を入れた。
他に客は居なかった。すかさず店員が駆け寄ってくる。奈帆子はその顔に見覚えがあった。まさに昨日の店員だったからである。
「前に断られたことは、言わずにいてください」
沢渕は素早く指示をした。
タイヤを交換したいと告げると、無料期間は過ぎたので有料になりますと言う。それを聞いて奈帆子は白けた。昨日はそれすら断ったではないか。どうやら向こうはこちらの顔を覚えてないらしい。
「作業が終わるまで、こちらでお待ちください」
油まみれのつなぎ服を着た男は笑顔で手招きした。
二人は車から降りて待合所へ向かった。小さな空間だがテレビや漫画が置いてある。そのすぐ横がピットになっていて、男はそこに車を移動させた。
「車を確認せずに、すぐ作業に入りましたね」
沢渕が小声で言うと、
「ええ、何だか昨日と様子が違うわ」
奈帆子もつられて、ささやくように返した。
白い軽自動車は今、リフトで持ち上げられていた。車体の裏側が見えるほどの高さで宙に浮いていて、一本一本タイヤが外されていく。普段は見られない光景に奈帆子はしばし目を奪われていた。
二人はプラスチックの椅子に掛けて作業が終わるのを待った。
「ねえ、あれ見て」
奈帆子が突然指さした。
隅の方に大きな段ボールが置かれていて、張り紙がしてある。
「来店された方へのサービスです。お好きな野菜を一つお持ち帰りください。またのご来店をお待ちしております」
中を覗くと、なすび、きゅうり、ピーマンなどが詰まった小袋が入っていた。
「これって、私と沢渕くんで二つもらってもいいのかしら?」
「後で店の人に訊いてみましょう」
そんなやり取りをしていると、腰の曲がったお婆さんがどこからともなくやって来た。歩いてきたところを見ると、近所の住人なのかもしれない。
野菜の入った段ボールを覗き込んで、奥からいくつか野菜を取り出した。それを持参したビニール袋に入れると、沢渕の隣に腰掛けた。若者二人は軽く会釈をした。
「野菜がもらえるサービスとは有り難いですね」
沢渕の方から話し掛けた。
「はい、もう何年も前からやっているのですよ」
彼女は高齢でありながら、しっかりとした調子で答えた。
「これはね、店長さんの両親が作っている野菜でしてねえ」
「店長というのは、あの男性のことですか?」
「そうですよ」
二十分ほど経って、その店長が顔を出した。見ると、いつの間にか車はリフトから降ろされてピットの外に停まっている。
「お待たせいたしました。作業完了です」
大きな声が響いた。
料金を払ってから野菜のことを尋ねると、二つと言わず、好きなだけ持っていってくださいと言う。奈帆子は、昨日のことはすっかり忘れて大喜びだった。
二人が帰ろうとしたところで、先のお婆さんが店長に話し始めた。
「最近、野菜が少ないねえ」
「どうもすみません。色々と事情がありまして」
「では、今日はこれだけもらっていくよ」
どうやら野菜は近所の人にも配っているようだ。お婆さんはおぼつかない足取りで夜道を帰っていった。
「では、私たちも帰りましょうか」
奈帆子が車を出すのと入れ違いに軽トラックが入ってきた。
それを見るなり、
「停めてください」
すかさず沢渕が言った。
「大きな声を出して、びっくりするじゃない」
ちょうど都合よく道路の向かい側にコンビニがあったので、駐車場に車を入れて方向転換をした。
奈帆子はハンドルを左右に切って、店全体が望める場所で車を停めた。
「軽トラックが入ってきたわね。あれも無料目当てのタイヤ交換かしら?」
しかし時刻は7時を回っている。すでに営業時間外である。
トラックから降りてきたのは老人である。店長と何やら言葉を交わした。
「荷台から段ボール箱を下ろしているわ」
「どうやら野菜が届けられたみたいですね」
「と言うことは、あの人が店長のお父さん?」
老人は一仕事を終えると、すぐに軽トラックに乗り込んだ。
「あの車の後をつけられますか?」
「オッケー。任せておいて」
奈帆子は慣れた手つきで車を出した。軽トラックの後ろにぴたりとつく。しばらく幹線道路を走った後、途中で細い道に入っていった。
「どこへ行くのかしら? この辺は田んぼしかないけれど」
前を行く車はひと気のない寂しい場所で停車した。
「そのまま通過してください」
沢渕が指示を出した。
辺りに民家はなく、ここで停車すれば尾行に気づかれるのは必至だった。
通過する際、沢渕は身体をひねってトラックを凝視した。運転手が降りてきて、何やら看板を移動させて道路を塞いだように見えた。
「その辺を一周してから、ここまで戻ってきてください」
「了解」
およそ5分かけて戻ってきた。すでに軽トラックの姿はなかった。月明かりの下、田畑がどこまでも続いている。
先程、老人が作業をしていた位置に車を停めた。看板が道路を塞いでいた。
「私有地につき立入禁止」
と書いてある。
沢渕は車から降りて付近を調べてみた。畑につながる道路は狭く未舗装で所々に水溜まりの跡が残っている。雨も降っていないのに地面が濡れていた。違和感を覚えて指先でそっとなぞってみた。
何か人工的な液体が指に絡みついた。それが何か確認しようとしたところ、視界の先に異変を感じた。
遠くからこちらに向かって一台の車が近づいてくるのだ。パッシングを繰り返し、明らかにこちらを威嚇している。
沢渕は助手席に滑り込むと、
「捕まると厄介ですから、ここは逃げましょう」
「一体どうしたの?」
「説明は後です。早く車を出してください」
軽自動車は急発進した。
すぐに後方を確認したが、さっきの車が追ってくることはなかった。
沢渕は胸をなで下ろし、
「ティッシュペーパーを持っていませんか?」
と訊いた。
「あるけど、どうしたの?」
奈帆子はグローブボックスから器用に取り出すと相棒に渡した。
「ありがとうございます」
指先についた物体を拭き取った。室内灯をつけてみると、それは黄色の水性塗料だった。
「なるほど。全て謎は解けました」
沢渕は満足げだったが、奈帆子には何のことやらさっぱり分からなかった。