夫婦の約束、継続中
リハビリ的に書いた短編
※この作品はフィクションです。実在の人物 団体とは関係ありません。
鶺鴒荘は北関東にある老舗温泉旅館だ。老舗と言えば聞こえは良いが交通の便は悪く、最寄り駅からも離れているので訪れるには車が必須になる。老舗以外の特徴と言えば、団体旅行ブームに乗らず、バブル期にも団体客向けの改築、増築を行わなかったので銀行からの借り入れが少ない事くらいだ。
しかし、そのレトロな雰囲気は老若男女問わず楽しめ、その歴史に裏打ちされた伝統は、旅館を訪れる旅人が十二分に満足するサービスを提供する。
そして、提供されるサービスが他の旅館よりもワンランク上の分、宿泊料金もワンランク上になっており、宿泊客も資金に余裕がある富裕層のリピーターが大半であり、新規客は記念旅行の特別な思い出を求める層とSNS映えを目的にした層が僅かにいる程度であった。
「今日も爺さん婆さんの相手とか、介護のバイトをしているみたいだ」
「ちょっと、私が折角紹介してあげたんだから文句言わないでよ!」
温泉旅館最大の売りである温泉、その内風呂の床を掃除する藤春。彼は地元の高校に通う高校一年生であり、夏休みを利用してバイトに汗を流していた。
「春がバイト先見つからないって私に泣きついてきたから、優しい私が旅館で働けるように頭下げてあげたんじゃない」
「一人で女将修行するのが嫌で、俺を道ずれにしただけの癖に偉そうに」
藤春の隣には共に内風呂を掃除する女の子がいる。彼女は藤春の同級生兼幼馴染にして旅館を経営する朝比奈家の一人娘、朝比奈姫奈乃であった。
「名前二文字が偉そうに」
「長いから偉いってのかよ! ナナの癖に」
二人は幼馴染なので、このやり取りは何千何万回も繰り返してきた。藤春の苗字は藤で、春が名前だ。漢字で二文字なので非常に目立つ。
もちろん、この名前は両親が狙って命名した名前だ。一応、桜が綺麗な小春日和に生まれたので、将来生まれた日のような綺麗な心の持ち主になって欲しい、という両親の想いがあるらしいので春としては納得している。一応は、だが。
そして、ナナというのは姫奈乃の親しい友人が呼ぶニックネームだが、発案者である春が朝比奈姫奈乃という名前に奈という文字が二回登場する事をからかってつけたあだ名なので、春がナナと呼ぶ時は基本からかう時なのだ。
ちなみにこの二人、二文字と六文字の名前なので周りからは足して2で割れば丁度良いとからかわれていたりする。
「だいたいお前、この時間は礼儀作法の習い事じゃなかったのか?」
「春が女湯で変なことしないか見張っているのよ」
「お前、千代婆ちゃんの稽古が嫌で逃げてきただろ」
「私は旅館継がないって言っているのに、お婆ちゃんしつこいから」
二人が話題に上げたのは、朝比奈千代乃という姫奈乃の祖母にして旅館の先代女将だ。女将業は既に姫奈乃の母に譲ったのだが、譲った事で暇になった時間を孫の女将教育に費やす御仁なのだが、旅館を継ぐつもりが無い姫奈乃には煙たがられていた。
逆に昔からお菓子を貰うなど何かと可愛がられている春は、千代婆ちゃんと呼び彼女を慕っている。
「お前、まだ言っているのかよ。この旅館どうするんだよ」
「知らないわよ。気になるんなら春が継げば良いじゃない」
一人娘である姫奈乃は東京で働く事を夢見ているので自身が継ぐことに否定的で、春は良くしてもらった鶺鴒荘には良い思い出しかないので旅館が続いて欲しいと思っている。
「お客さんも春の言うようにご年配の人しか来ないし、私が継ぐ前に倒産するんじゃない?」
「お前、仮にも自分の家だろ」
数百年の歴史を誇る鶺鴒荘だが、世の中の少子高齢化の波は鶺鴒荘にも訪れていた。社長と女将は姫奈乃の両親が継いで若返りをしているが、その他の従業員は高齢化しており10年以内に定年を迎える層が無視できない程度占めていた。
そして、鶺鴒荘を訪れる宿泊者も高齢化しており、毎年黒字経営を続けているが旅館の売上は徐々に先細りしているのが現状だった。
「パパは損切りが得意だから大丈夫。今も株取引とかで資産増やしているみたいだし、この旅館が倒産してもママとパパ、私の三人くらいなら食べていけるでしょ」
「この旅館、好きだから倒産して欲しく無いのだが」
「じゃあ、春が継げば? 春もお婆ちゃんから色々教えてもらっているでしょ」
姫奈乃は女将修行を勝手に受けさせられているが、一人娘として社長業の英才教育も受けている。こちらは簿記や法律、英語の習得が主なので春も習い事として姫奈乃と一緒に学んでいた。
「将来ゲーム会社起業するから無理」
「いや、アンタがゲーム会社とか無理だから旅館継ぎなさいって」
「無理って言うな!」
春と姫奈乃は文句を言い合いながら手は常に動かしていた。旅館は今日も営業しており、後数時間もすれば温泉の利用開始時間になる。
つまり、その前に掃除を終わらせる必要があるので、二人には手を止める余裕は無いのだ。口では言い合いを続けながら、二人は着実に掃除を終わらせていく。
「やっぱり今日も変な爺さんの相手か」
「ちょっと聞こえるでしょ」
「大丈夫、聞こえないって」
風呂掃除を終えた春と姫奈乃はポーター、所謂荷物運びをしていた。本来であればバイトの二人は裏方専門なのだが、従業員の高齢化に加えて人手不足に悩む鶺鴒荘では宿泊客の前に出る場合もあるのだ。
「でも、失礼だって」
「いや、でもあの爺さん変だろ」
二人はフロントでチェックインをしている宿泊客から数メートル離れた場所で待機しており、小声で話しているのでチェックインしている宿泊客には聞こえていないだろう。
しかし、旅館の娘として教育されている姫奈乃は春を窘める。本人は嫌がっているが、長年の伝統が磨いてきた接客技術は彼女の中にも根付いているのだ。
「ずっと人形抱いて、なんか人形に話しかけてるし」
フロントでチェックインをしている老人は夏なのにスーツ姿で、足元にシックな旅行鞄が二つと出張に来たエリートビジネスマンといった趣きだ。
だが、鶺鴒荘は北関東にある老舗温泉旅館なので、出張客の需要は限りなくゼロに等しい。周りに経済的に発展した都市も無いので仕方ないのだが、観光客が基本の鶺鴒荘ではスーツ姿は非常に目立つ。
そして、スーツ姿だけでも目立つのに、老人は左手で赤子を抱くように人形を抱えており、楽しみだね、と声をかけているのが少し離れた二人にも聞こえていた。
宿泊は二名とチェックインの手続きをしており、普通に考えればもう一人は後から来るのだが、もしかすると抱きかかえている人形を一人と数えているのではないのかと春は疑ってしまう。
「あ、チェックイン終わったみたい。他にお客さんいないし、鞄二つだから二人で行こうか」
「了解」
春と姫奈乃はチェックインが終わった事を察し、荷物運びの為にフロントに足を進める。二人ともいなくなると次の宿泊客に対応出来ないが、鶺鴒荘の客室は少なく対応する宿泊客も少ない。
それに二人は元々裏方業務を目的としたバイトであり、接客業務は期待されていない。現にたった今チェックインした老人の接客も、ベテランの仲居さんが既に対応している。ベテラン過ぎて腰を痛めており、接客以外の業務が出来ない状態なので若い二人が荷運びなどの業務をサポートしているのだ。
「いや、また花江さんにお会い出来るとは嬉しい限り」
「まあ、もう40年も前ですのに、矢野様覚えておられるのですか?」
「可愛いお嬢さんの事は勿論覚えていますよ」
春と姫奈乃が荷物を運ぼうと老人に近づくと、老人とベテラン仲居の二人は初対面では無いのか気軽な挨拶を交わしていた。
ちなみに、仲居の鈴木花江はベテランなので60歳近い女性だ。花江とは物心つく頃から面識のある春と姫奈乃にとって、ベテランの花江が可愛いお嬢さんと呼ばれるのは違和感があった。
「40年前もそう言って頂いて、奥様にお小言をいただいていましたね」
「はは、そうでしたかね?」
「申し訳ありませんが、先程お話させて頂いた通り、お荷物はこちらの二人で運ばせて頂きます」
「お荷物お預かりしますね」
「お願いします。しかし、この旅館も世代交代が進んでいるのですね」
老人は荷物を春と姫奈乃に預けた。預かった荷物を春が受け取るが、鞄のうちの一つが軽い事に気が付いた。
「あれ、このスーツケース軽い?」
「ああ、そのケースはこの子用のなんだ」
ケースの軽さを疑問に思った春に、老人は抱きかかえる人形の頭を撫でながら春の疑問に答えるのだった。
老人が抱きかかえる人形はビスクドールと呼ばれる人形で、豊かなブロンドヘアに長いまつげ、細かい刺繡の入ったドレスと見ただけで高級品と分かる人形だった。
「可愛いお人形。あ、すいません」
「いえいえ、かまいませんよ」
可愛いもの好きな姫奈乃は無意識に人形の感想を口にしてしまう。口にした後、相手は旅館のお客である事を思い出し、己の拙い接客術では失礼になると考え謝罪の言葉を咄嗟に添える。
老人も事前に二人が本来は接客を担当しない事を聞いており、それを了承しているので多少の無作法は気にしない。むしろ、自然体で若い二人と話せる事を楽しんでいるようであった。
「この人形は妻のお気に入りでね。そう言って頂けると妻も喜びますよ」
「奥様のお人形なのですね。凄く細かい刺繍で綺麗なドレスで素敵です」
「姫奈乃、ちょっと落ち着けって」
一度大丈夫と分かった姫奈乃は止まらない。老人が抱える人形に顔を近づけ、その精巧なドレスを褒める褒める。その熱意は、横で並んでいた春をたじろいでしまう程だ。
「す、すいません。ちょっと興奮してしまいました」
「こいつ、この手の可愛い物に目が無くて」
「私のような素人でも凄さが分かりますから、きっと妻と同好の士であるお嬢さんには私以上にこの人形の凄さが分かるのでしょうね」
我を忘れた姫奈乃は自身の行いを恥じ入るが、老人はそんな姫奈乃の様子を楽しんでいるようであった。
「そう言えば、奥様も可愛い物好きでいらっしゃいましたね」
「ええ、以前鶺鴒荘に宿泊した時は大変でした。隠れた折り紙を全部見つけると張り切って」
「お祖母ちゃんの折り紙って、そんな昔からあったんですか?」
姫奈乃の祖母にして先代女将の千代乃の趣味は折り紙であり、自信のある作品をこっそり旅館に飾る趣味がある。その折り紙作品のクオリティは非常に高い。毎回飾る場所、飾る作品が変わるので鶺鴒荘のリピーターの中には、旅館の中を散策しながら隠された折り紙を探す事を楽しみにしているリピーターもいるほどだ。
「少なくとも私達が鶺鴒荘に泊った頃にはありましたよ。年甲斐もなくはしゃぐ妻は可愛かったのでよく覚えています」
優しく人形を撫でながら、過ぎ去りし過去を思い出す老人。その姿は余人が口を出せない雰囲気を作り出していた。
「ごめんごめん。そうだね、はしゃいだ顔も可愛いが正しいですね」
人形の頭を撫でていた老人は急に人形に謝りだし、自身の言葉を訂正した。一見するとボケ老人だが、接客業として春達は其れを直接指摘する事は難しい。下手に指摘すると失礼にあたるので、接客術が拙い春と姫奈乃は対応方法が分からず固まってしまった。
「失礼しました。それでは、行きましょうか」
「ええ、こちらになります」
戸惑う春と姫奈乃を置いて、老人とベテラン仲居の花江の二人は何事も無かったかのように話を進めていく。
「ああ、この廊下。40年前の記憶がよみがえります」
「お部屋は矢野様が前回お泊りになられた桔梗の間となっております」
「2階の角にある、窓から小川が見える部屋でしたよね?」
「まあ、40年も前にお泊りになられたのに覚えておられるのですか?」
「妻と2人、小川のせせらぎを聞きながら温泉で温まった体を冷ましましたから」
過去を懐かしむように、老人は一言一言を噛みしめるように話す。老人の脳裏には40年前の光景が浮かんでいるのかもしれない。
その後も、廊下を歩いていくと飾られている壺や絵画などの美術品に反応しては思い出話をし、目立たない場所に飾られた折り紙を見つけては話をする。これだけなら春と姫奈乃は普通の宿泊客として接する事が出来るが、老人は常に人形と話をしていた。
「君は相変わらず可愛い物を見つけるのが上手いね」
「………」
「注意力散漫は酷いな。僕は君の魅力に夢中だから、それ以外は見えないだけなのさ」
「………」
マイク付きイヤホンがあるので、春と姫奈乃は一見すると独り言を言っているように見える人には慣れている。
しかし、人形に目線を向け、人形に話題になっている美術品を見せるなどの老人の仕草と合わせて考えると、どうしても人形と話しているようにしか見えなかった。
「なんかラブラブだね」
「爺さんの感じからすると仲良さげだな」
春と姫奈乃の二人には人形の声は聞こえないが、老人から幸せな雰囲気を感じることは出来た。出来るからこそ、老人に余計な事を聞く事が出来ないでいた。
その為、人形と会話を続ける老人と、そんな老人に声をかける事が出来ない三人という構図が出来上がってしまった。
「申し訳ない、少し盛り上がってしまって」
触れられない微妙な空気は、老人が我に返った事で終わりを告げた。
「数分ですからお気になさらず。でも、少し懐かしかったです」
「そう言えば、前回宿泊した時も花江さんを忘れて妻と夢中になっていましたね」
「羨ましいほどにお似合いのお二人でした」
「はは、自慢の妻ですから」
と、人形との会話の次は妻自慢に話題は変わった。妻がいかに美しいか、いかに可愛く、いかに優しく、いかに知的なのか、いかに芯が強い女性なのかを話し続けた。
「娘も孫も可愛いですが、やはり妻が一番です」
老人の妻自慢は階段を上り、客室についても続いている。ここまでくると、春はそこまで奥さんをべた褒め出来るのは凄いと素直に思え、姫奈乃は将来の旦那様にここまで愛されたいと思うようになっていた。
「この部屋も懐かしい。テレビなどは流石に変わっているが、部屋の雰囲気はあの時のままだ」
老人が宿泊した40年前と比べると家電製品はその性能を著しく進化させ、トイレなどの水回りも40年という時間の中で進化している。
その為、鶺鴒荘もレトロな雰囲気を壊さない範囲で客室のリフォームを実施している。特に水回りは最新式にリフォームされているし、客層の高齢化に合わせてバリアフリー化も実施している。
しかし、老人の目には40年前と同じ光景、妻と宿泊した思い出の部屋とまったく同じ部屋に見えていた。
「この部屋に付いている露天風呂に妻と2人で入ってね。当時はまだ恋人だったのだが、露天風呂で初めて見た彼女の美乳の美しさは忘れられません」
妻自慢が盛り上がる老人、今までは容姿や性格、心がほっこりする思い出エピソードを自慢のネタにしていたが、ネタが尽きたのか、部屋に備え付けられた露天風呂を見て記憶が蘇ったのか、妻自慢は性的なエピソードが入り始めた。
「あまりの美しさに感動した私は、一晩中揉んでいたものだ」
フロントで初めて会った時の老人はエリートサラリーマンを引退した老紳士といった、上品なイメージだったが、今はただの下品なお爺さんだった。
ただ、老人からは下卑た雰囲気は感じず、ただ営業マンが熱心に商品を説明するように妻の胸部が素晴らしいかを語った。曰く、大きさ、形、色合い、弾力などの性能面は元より、それを維持する為の妻の努力まで、一から十まで老人は語り尽くす。
「おぉ、なんかすげえ」
「………」
老人の熱い語りに食いついたのは思春期真っ盛りの春で、反対にドン引きしたのが同じく思春期真っ盛りの姫奈乃だった。
「あらあら」
若い二人と違い、ベテラン仲居の花江は微笑みと共に老人の話を聞き流していた。もっとも、笑っているのは上辺だけかもしれず、心の中でどう思っているかは本人しか分からないが。
「おっぱいって凄いんですね」
「うむ。しかし、少年、全てのおっぱいは等しく素晴らしいが、妻のおっぱいは特に素晴らしかった」
「や、やっぱり他のおっぱいより凄かったんですか?」
「私にとってはね。人によっておっぱいの好みは千差万別、一人一人に己の最高のおっぱいがあり、そこに優劣は存在しないのだ」
男同士ということもあり、春と老人はおっぱい談義で親交を深めた。そこには宿泊客と旅館従業員という関係性は無く、おっぱい好きな男同士という新しい関係が出来上がっていく。
そして、ベテラン仲居の花江さんはいつの間にか退室していた。面倒なお客さんの相手を若い二人に勝手に任せ、気配を消して静かに去っていったのだった。
「あ、あの、この部屋に泊った時におっぱい揉んだんですか?」
高校生の春としては、たとえ40年前だとしても、この部屋で男女の営みが行われたと想像しただけで興奮してしまう。宿泊客に聞く事ではないと頭では理解しているが、抑えられない興奮があらゆるリスクを無視し、己の衝動を優先させてしまう。
「うむ、揉んだとも。一晩中揉んだり、さわったり、頬ずりしたり、舐めたりした」
「おぉ」
「一晩中続けていたので妻は寝坊してしまい、楽しみにしていた朝風呂に入れず怒られてしまったよ」
「朝風呂は鶺鴒荘の名物ですからね。おっぱいの方が良いと思いますが」
「それは怒られても仕方ないです。胸より価値があります」
鶺鴒荘の朝風呂は朝焼けが綺麗と昔から評判で、宿泊客の中には朝風呂を目当てにしている者も多い。春は朝風呂よりおっぱいなので怒られたという老人に同情するが、鶺鴒荘の朝風呂が大好きな姫奈乃は朝風呂に入れなかったという老人の妻に同情してしまう。
「ああ、だから鶺鴒荘にもう一度来ようと妻と約束してね。もっとも、お互い仕事や育児と忙しく鶺鴒荘に来ることが出来なくてね」
老人は40年前に鶺鴒荘を訪れてから、今までの人生を振り返る。妻との結婚、子供の誕生、会社内での出世などがあり、仕事も家庭も忙しくなった。家族旅行にも行ったが、国内であれば沖縄、京都、北海道などの人気観光地に訪れ、海外もハワイを中心に人気観光地に訪れた。
鶺鴒荘は交通の便が悪く、レトロな雰囲気を楽しめない子供がいる事で旅行先として考慮の外に追いやられていたのだ。
「僕等は共働き世帯でね。妻は所謂ITエンジニアなのだが、昔は時代的にも圧倒的に男性が多いから仕事に苦労していてね」
妻は貞淑な女性に見えるが内面は負けん気が誰よりも強く、恐らく自分よりも情熱的に仕事をしていたと老人は確信している。そんな妻を尊敬し、妻と支え合って老人は生きて来た。
老人にとってこれまでの人生は最高だったと誇る事が出来る。愛する妻に子供達、最近は孫だって出来た。
「……妻とは色々な約束をしたし、全ての約束を果たしてきたんだ」
「でも、今日はお一人で」
「バカ春!」
老人の言葉の裏を察しない春を姫奈乃は窘める。二人で来ようと約束しているのに、この場にいるのは老人一人という事なのだ。
そして、老人は常に大事そうに妻のお気に入りだったという人形を抱きしめ、常に楽しそうに話しかけている。まるで、自分の妻に話しかけているように。
つまり、そういう事なのだろうと姫奈乃は予想していた。
「あれ、でも二名の利用だったような」
「ああ、それは」
老人が春の疑問に答えようとした時、部屋の固定電話が鳴った。
「フロントからですね」
「チェックインで何か不手際でもあったのか、夕飯の確認でもあるのかな」
廊下を見物しながら部屋まで来たので、チェックインしてからそれなりの時間が経っているが、まだチェックインから数十分といったところだ。フロントからの要件など見当もつかないが、夕飯を早い時間帯に40年前と同じ部屋食を二人分注文していたので、もう一人の連れが来ていない状況で夕飯の準備を開始して良いのか確認がしたいのかもしれない。
そう予想して老人は人形を抱えたまま固定電話の受話器を取った。
「私に電話ですか?」
しかし、フロントからの電話は老人の予想通りではなく、外部から自分宛に電話が来ているというものだった。
それも、自分の妻からだとう言う。
「はい、承知しました。繋いでください」
正直、それはおかしいと思いながらも、老人は妻からだと言う電話に出る事にした。
「もしもし」
妻が電話をかけてくることは無い。そう思うが、妻からだという電話を無視する事は出来ない。
「貴方、良い大人なのですからご自身のスマホのバッテリーくらい確認してください」
「え、もしかしてスマホの電源切れている?」
「切れていますよ。貴方が私の胸について演説している途中で切れました」
電話口の妻の言葉を聞いて老人がスマホを取り出すと、確かにスマホのバッテリーがゼロになっているのか起動していない。
「そう言えば途中から君の声が聞こえなかったような」
「もう、しっかりしてください」
「ごめん。ちょっと熱くなり過ぎた」
年甲斐もなく熱中し過ぎた。素直に老人は反省するが、電話口の老人の妻はそれで終わらせるつもり無かった。
「それに若い女の子の前で胸の話をするなんて、セクハラで訴えられますよ」
「……」
「カスタマーハラスメントも社会的問題になっているのだから、大人としてわきが甘すぎます」
「はい、すいません」
老人は謝るしかなかった。
老人の妻は社会人としてキャリアを積み重ね、現在は一部上場企業の役員を務めている。役員として会社の経営に関わる他、女性という事で社内のセクハラ問題を始めとした女性活躍推進にも携わっている。
だから、老人の妻はこの手の問題を見過ごすことが出来ない。特に、自分の身内が加害者であれば尚更だ。
「あ、あの奥様はお亡くなりになったのでは?」
「姫奈乃、お前何言っているんだ?」
老人の言葉と態度の裏を読んだつもりの姫奈乃と、ただ単純に老人の言葉を受け止めていた春は色々と混乱していた。
姫奈乃は老人の妻は既に亡くなっているので老人一人で宿泊していると思っていたし、春は単純に別々に来ていると思っていたので姫奈乃の亡くなっている発言は意味不明だった。
「ああ、勘違いさせてしまったかな」
「貴方、私からも説明するのでスピーカーフォンに変えられるかしら」
「ちょっと待ってくれ。この電話機で無理な場合は、スマホを充電してそちらで話そう」
旅館の固定電話はスピーカーフォンに切り替える事が出来たので、電話口の老人の妻は直ぐに春と姫奈乃と話す事が出来た。
老人の妻の説明によると、老人が昔の約束を果たすために鶺鴒荘への旅行を提案したが、老人の妻は入院しており共に旅行することは叶わなかった。
しかし、どうしても妻と旅行がしたかった老人は、子供達の力を借りてスマホを仕込んだ特別な人形を用意して妻がリモートで旅行に参加出来るようにしたらしい。
「それじゃ人形と話していた訳じゃなくて、奥様とお話されていたのですね」
「怪しい爺さんじゃなかったんだな」
「色々と驚かせてしまって申し訳ないわね。でも、また鶺鴒荘の折り紙を探せて嬉しかったわ」
春と姫奈乃は電話で話す老人の妻と打ち解け、今回の老人と人形の旅行の裏側を教えてもらった。
「でも、入院なんて大丈夫なんですか?」
「そうですよ。退院してからお二人で鶺鴒荘に来ていただいても良かったのに、リモートで参加ということは重い病気なのですか?」
老人は反対する妻を半ば無視し、昔の約束を口実に鶺鴒荘に訪れたらしい。いくら妻が入院していて二人で旅行が出来ないとはいえ、普通は妻が退院してから夫婦での旅行を計画するだろう。
だから、もしかすると老人の妻は重い病なのではと、姫奈乃は老人の妻を心配してしまう。
「結核なので重いと言えば重いのだけど、比較的早期に分かったから」
「結核だから隔離入院ってことですか?」
「長くても三ヶ月は入院が必要みたい」
「え、三ヶ月ですか?」
老人がリモート旅行を強行したという事で色々心配していた姫奈乃は、入院期間が三ヶ月と聞いて呆れた声を出してしまった。
三ヶ月なら全然待てる時間だと思うのだが、と姫奈乃には老人の行動の意味が分からない。
「もしかして、爺さんの方が余命いくばくも無いとか?」
「……うん」
老人が旅行を急いだ理由。春は三ヶ月の時間が待てない理由が老人にあるのではないかと考えたのだ。
そして、その春の問いかけに老人はゆっくりとした声で肯定したのだった。
「がんを宣告されてね。でも、死ぬ前に妻との約束をどうしても果たしたかったんだ」
残された時間で妻との約束を果たす。そんな老人の姿勢に春と姫奈乃は感動してしまう。
まるで映画のような話だと、恋愛映画が大好きな姫奈乃にはどストライクな話であり、男が筋を通す系のマンガが好きな春の心にも刺さっていた。
「がんって、転移もしていないし手術を受ければ完治する可能性が高いって言われているじゃないですか」
「え?」
「それに、がんと言っても前立腺がんで、がんの中では最も生存率があるのですから」
春と姫奈乃の感動を壊したのは、電話口の老人の妻だった。
老人のがんは前立腺がんであり、まだII期なので手術を受ければ5年生存率は100%と言われている事を二人に教えてくれた。
「え、じゃあ手術受ければ良いのでは?」
その話を聞いた姫奈乃は素直に手術を受ければ良いと思ってしまう。手術を受ければ生きられるのであれば、それを選択しない理由が思い浮かばない。
「いや、手術は」
手術を受ける事を渋る老人。何か重大な理由があるのかと春と姫奈乃は身構えた。
しかし、老人の妻によってあっさりと理由が暴露されてしまう。
「手術の後遺症で勃起不全になるって言われているから、この人は手術受ける決心がつかないのよ」
「ぼ、勃起?」
「あ~、それは重大な問題ですね」
乙女な姫奈乃には勃起という文言は反応に困るのだが、逆に身近な春は普通に受け入れ老人に同意した。
「だろう。分かってくれるか、少年」
「大事なことですよね」
男同士、老人と春は事の重大さを理解し合う。男にとって、立つか立たないかは重大な問題なのだ。
「子供どころか孫までいる老人なのに、何時使うつもりなのです」
理解し合う男二人を、呆れた声で窘める老人の妻。彼女からすると、勃起しても使用する機会が無いのだから、勃起しなくても良いから夫には長生きして欲しいのが本心だ。
「子育てを終えた年配の女性だって、乳房全摘出すれば喪失感を感じるのと同じなのだ」
「そうですよ、奥さん。男にとっては大事なことです」
当たり前にあったモノがある日失われる。その痛みは男女共通だ。
「でも、やっぱり奥さんとしては旦那さんには生きていて欲しいんじゃ」
勃起という、乙女としては関わりたくない話題だったので黙っていた姫奈乃だったが、愛する夫に先立たれる妻の気持ちを思うと口を出さざるおえない気持ちになってしまう。
「お嬢さんの言う通り。貴方には生きていて欲しい」
「……」
姫奈乃と妻の言葉を聞いて、老人は黙り込んでしまった。そんな老人の姿を見て、姫奈乃は怒りを覚える。妻が生きていて欲しいと言っているのに、生きようとしないなんて裏切りのように感じるからだ。
「大丈夫ですよ。まだ決心がついてないだけで、爺さんは奥さんと生きる決断をします」
場が沈黙する中、春は一人楽観的な言葉を発した。
「……君はなんでそう思うんだい?」
「爺さんが奥さんを愛しているのは俺でも分かる。なら、好きな女を一人残して死ぬなんて選択肢とらないと思う」
老人のおっぱい談義、客室に来るまでの老人と人形の会話。どれも、老人は楽しそうで幸せそうだった。
だから、春には老人が幸せを捨ててまで、死ぬという選択を取るとは思えない。勃起しないというのは大きな問題だが、妻との幸せな時間と天秤にかけるほどではないと思えたのだ。
「だって、死んだら奥さんと幸せな時間が無くなっちゃうからな」
「少年」
「それに、リモートで旅行に連れて来たから約束を守ったとか、カッコ悪いですよ。ちゃんと二人で旅行に来てこそ、カッコ良く約束を守ったって言えるんじゃないでしょうか」
春の考えは単純だった。死んだら幸せが無くなってしまう、カッコ悪い約束の守り方で良いのか。
そう、春は老人に問いかけた。
「妻との夫婦生活、この40年は楽しかった。勿論、大変なこともあったが、楽しく幸せな時間の方が多いと思う」
「貴方……」
幸せな結婚生活だったのは、電話口の妻も同意見だ。だからこそ、勃起しなくなる程度で命を諦めよとする夫が嫌だった。
これからも幸せな時間が続くことだけを妻は望んでいるし、それは夫も同じだと信じていた。
それなのに、自身の命を諦め、自分勝手に夫婦の約束を果たしたことにしてカッコ良く死のうとしている夫が大嫌いだった。
「たしかに少年の言うように、今までカッコ良く生きて来た以上、ここでカッコ悪いことは出来ない」
そう呟いた老人の顔は、何かを決心した男の顔をしていた。
老人は妻の前では、いや、家族の前では常にカッコいい自分を見せて来た自負がある。稀に妻の前で弱い自分を見せ、慰めてもらったこともあるが、老人の本音としてはカッコいい男でありたいと願っている。
勃起不全は男として不完全な状態になるという事で、やはりカッコいい男でありたいと願う老人には葛藤が残る。
しかし、そんな不完全な状態になったとしても、それでも老人にとってこれからも続く妻との生活の方が何倍も魅力的だった。
「君との最後の約束は、またの機会に果たそうと思う」
「ええ、そうしてください。でも、これが最後の約束というのは早いと思うの」
「そうだな。人生長いから、また別の約束が出来るかもな」
そう言って老人は笑い、電話口の妻も涙交じりの笑い声で答えるのだった。春と姫奈乃も幸せな夫婦の姿に感じるの物があり、なんとなく二人で手をつないでしまうのだった。
そして数年後、鶺鴒荘を訪れる老夫婦がいたとかいないとか。
約一か月前に思いついて書き出した短編です。
当初は、温泉、夫婦、恋愛、ファンタジー要素ゼロ、一万文字程度、をテーマに書き始めましたが、書き終わったら「おっぱい」と「勃起」という要素を入れても良いような作品になっていた。
これはR15じゃないよね? とドキドキしながらの投稿。怒られませんように。
あと、投稿直前になんとなくググったら鶺鴒荘って実在することに気が付いた。適当に名前付けたから気にしてなかったけど、保険として「この作品は~」を付けました。こちらも怒られませんように。