35.宰相家の公爵令嬢
お城に戻った翌日、連れてこられたのはびっくりするくらい大きなお屋敷。
昨日は久々にお城の部屋のベッドで眠ったけれど、正直緊張でなかなか寝付けなかった。
だっていきなり家族が現れて、しかもそれが貴族だったなんて。自分の身に起こったことじゃなければそうそう信じられないような話。けれど夢でも作り話でも、ましてや嘘でもなく。
殿下から前に贈られた服を着て、なぜかセルジオ様に連れられて行った先で兄だという人と初めて顔を合わせて。
金の髪に濃い青に近いグレーの瞳のその人は、とても真面目そうな顔をしているのに。私の姿を見た途端、泣き出しそうな表情をするから。
寡黙そうだと思った第一印象が、一瞬で崩れ去ってしまった。
その人に連れられて、今日からここが君の家だよと告げられながら扉をくぐった先。
たくさんの使用人の方たちが、頭を下げていた。
「あ、の……」
「大丈夫だよ。彼らは皆、君を歓迎している。私たちは君が来るのをずっと……ずっと、待っていたんだ」
そう言われても、私にはやっぱりまだ実感が湧かなくて。どうすればいいのか分からず、視線をあちらこちらに向けていたら。
「貴女が、カリーナね」
使用人の向こう側から、優雅に歩いてくる人影。
その一瞬で誰なのかが分かった私は、珍しく冴えていたのかもしれない。
「ジャンナ夫人……」
「あら、そんな他人行儀な呼び方はやめてちょうだい?ようやく娘が出来たのだから。義母と、そう呼んでくれないかしら?」
そう言いながら微笑むその表情は、兄と名乗った人がなぜか泣き出しそうな顔をしていた時とそっくりだった。
「……お、義母、さま…?」
「あぁ、カリーナ…!」
望まれるまま呼びかければ、感極まったような声で名前を呼ばれて抱きしめられて。その温かさは、確かに母に抱きしめられていた日々を思い出させた。
懐かしさに胸が苦しくなって泣き出しそうになっていると。
「母上、ずるいですよ!カリーナ、私のことも兄と呼んでください」
今度は後ろからも抱きしめられて。この親子に挟まれている状況が、なんだかおかしくて、あたたかくて。
涙の代わりに、自然と笑みが零れた。
「ふふ。はい、お兄様」
私はこの日、確かにこのオルランディ家の、宰相家の公爵令嬢になったのだった。
それからの日々は、とにかくマナーやダンスのレッスンや、この国だけじゃなく周辺諸国の勉強に貴族としての基本知識や心構え。そういう事を覚えるのに必死で。
気が付けば、一週間以上お屋敷から出ていなかった。
実は孤児院にいた頃に外部から色々な人たちが来て、私たちに様々な事を教えてくれていたけれど。それら全てが貴族としてや貴族と関わるためのものだったのだと、お義母様やお兄様に言われて初めて知った。
どうやらそういう人材を育てる場所として選ばれていたらしく。確かにそのおかげか、どのレッスンも根を上げたくなるほど苦痛ではなかった。
ただ……
「どちらにしても、結局解雇だったんじゃない……」
与えられた自室の中。寝室にある大きなベッドに倒れ込んで、一人呟く。
この家に来てから、一度も殿下の執務室に行っていない。お茶とかお菓子とか、そんな場合じゃなくなってしまって。お菓子を作る時間どころか、新しいレシピを考える余裕すらないのだ。
これじゃあ、実質解雇されたのと同じこと。
「やっぱり、遠い、人……」
優しく細められる淡い瞳も、最後に会ったあの日に抱きしめてくれた腕もそのぬくもりも。全部全部、鮮明に覚えているのに。
実際はとても……とても遠い場所にいる人なのだと。こういう時に思い知らされる。
簡単には会うことも近づくことも出来ない相手だと、嫌というほど理解して。
「あい、たい……」
口にするのが許されるのかどうかも分からない。だから一言もそんなこと言わなかった。「何かあれば今度こそ、私たちを頼れば良い」なんて。それを言った本人に会いたいと、誰にどう伝えればそれは叶えてもらえるのか。そもそもそれは叶えていい望みなのか。
それすら、私には分からない。
「第一、どうやって頼ればいいんですか…何かを伝える方法なんて、私何一つ知りませんよ…?」
苦笑というよりは自嘲に近い笑いを浮かべながら、そんな独り言が口をついて出てくる。
実際私は殿下やセルジオ様と連絡を取る手段なんて持っていないから。結局本当に解雇されたのか、それともそうじゃないのかを確認することすら出来ないままで。
もやもやとした思いを常に胸の内に抱えたまま、それでも与えられた課題と向き合うだけだったある日のことだった。
「お茶、ですか…?」
「はい。お嬢様の覚えが大変よろしいので、一端の目途が立ちそうだからとのことでした」
つまり令嬢教育がひとまずは落ち着くという事なのだろうか?だからお茶をしましょうって…それはある意味、最後の試験なのではないかと疑ってしまうのは……これはこれで、確かに令嬢教育の賜物なのかもしれない。
「分かりました。楽しみにしていますと伝えてもらえますか?」
「承知いたしました」
恭しく頭を下げて部屋から出ていく彼女は、このお屋敷に来てからつけられた私専属の侍女の一人。その中でも若い方に部類される人だった。
本当は、ちゃんと全員の名前を覚えたいと思ったのだけれど。必要以上に侍女や侍従の名前を覚える必要などないと言われてしまって、結局今もほとんどの人の名前を知らないまま。確かに支障はないのかもしれないけれど、私としてはなんだか落ち着かない気分になってしまう。
ちなみに、私の話し方についても言及されたのだけれど。こればかりは簡単には直せなくて、結局誰に対しても敬語で話すのが癖だからという事で落ち着いた。
だって考えてもみてくださいよ!!ほとんどの人が年上で、立派に働いている人たちなんですよ!?その人たちに命令口調とか、私どんだけ偉いんだって話じゃないですか!!まだ成人すらしていない小娘なんですよ!?
なんて、誰にも言えるわけがなくて。
分かってる。公爵令嬢なんて、偉いなんてものじゃないんだってことは。
しかもここは宰相家で、この国の筆頭公爵家。そこの令嬢ともなれば、確かにそれは偉いんでしょうけれども。
それが私だなんて、今も信じられないというか…。むしろ私がいきなり「分かったわ。楽しみにしていますと伝えてもらえる?」なんてお嬢様っぽく高飛車に話せるわけがないというか…。
なのでまぁ、これはこれで丁寧でいいんじゃないかと納得してもらえたというわけだ。
いいじゃない、丁寧な筆頭公爵令嬢がいたとしても。たとえそれが市井出身の私だったとしてもね。
「お茶、ねぇ…」
その単語に反応してしまうのは、もはやどうしようもない。私にとってそれは、あの執務室で殿下に楽しんでもらうものだったから。
でも考えてみれば確かに、殿下もセルジオ様も食べるスピードはかなり速いはずなのにその所作はどれも優雅で。あれはきっと小さい頃からそういう教育を受けてきたからこそ出来ることなんだろう。
そして私は、それを求められている。
……流石に、速さまでは求められていないだろうけれども。
「ずっと、見てきたから……」
お手本なら。
思い出すのなら。
あの二人以上の人なんて、そうそういないんだろう。
だからそこはきっと大丈夫。マナーの先生にも、所作は綺麗だって褒められたし。足りないのは知識だけですねって言われてから、本当に必死に勉強した。私に出来ることはそれだけだったから。そしてそれがきっと、殿下が言った"自分が何者であるかを自覚する"ということに繋がるはずだから。
次にいつ会えるのかなんて分からない。もしかしたらこの先何年も、そんな日は来ないかもしれないけれど。
それでも。
殿下やセルジオ様に、恥ずかしい姿を見せないように。
ちゃんと、公爵家の令嬢に見えるように。
それだけを目標に、毎日を過ごしてきたんだから。
無駄になんて、したくなかった。




