94話 一番辛いこと
チャイムが鳴ったのは午後四時を少し過ぎてからだった。
玄関先に立っていた小雪はマフラーに顔を埋め、漆色の瞳を俯かせる。長い髪は真っ直ぐに肩から落ちて、彼女の姿はいつもより小さく見えた。
「寒いだろ。部屋暖めといたから、中入って」
「ありがとう」
招き入れて、玄関のドアを閉める。
靴を脱いで、廊下を通って、上着を脱いで――その間の沈黙が重苦しく、確信が裏付けられていく。
「小雪」
「なに?」
名前を呼んで、返事が返ってくる。その声がいつもより萎れていて、平気じゃないことを伝えてくる。平気じゃないとわかっているから、大丈夫かとは聞かない。そう聞いたら、きっと彼女は大丈夫だと返してくるから。
大丈夫なんて言わせない。
けれど代わりに使える言葉なんてものも思いつかないので、
「……まあ、言いたいことはいろいろあんだけどさ」
近づいて、両手を広げて、彼女の華奢な体を引き寄せる。背中と頭に手を回して、軽い力で抱きしめる。
「大好きだ」
それだけが伝わればいい。
この先にはきっと、それしか持って行けない。どれだけ小賢しく立ち回ろうと、跳ね返せないことは証明された。彼女の父親は戻ってきた。
かつての俺のやり方は、完膚なきまでに否定されたわけだ。所詮、その場しのぎはその場しのぎでしかなく、解消は解決ではない。
雨はまだ降っている。彼女の父親が現れるたび、その縁が続く限り晴れ間は続かない。
俺がさしていた傘はあまりに脆く、簡単に壊れてしまった。
ならば、残るのは二択。
腕の中の少女は、ぐったりと体重を預けてくる。
「……父親は、どうしても私とやり直したいみたいなの」
「そっか。……うん。それで?」
「今は、お母さんと話しているわ。断ってと頼んだけれど、……たぶん、だめだと思う」
「やり直しって、具体的にはどんなふうに?」
「一緒に暮らしたい……と言っているらしいのよ」
かつて家族に手を上げ、小雪に恐怖を植え付け、やり直したい……か。
俺が言えることではないのかもしれない。だけどはっきりと、明確に、一切の躊躇いもなく俺はその事実を許せない。
きっと小雪も、出会った頃なら許さないの一択だっただろう。だが、彼女は変わった。自分の周りにあった防御を緩め、痛みを知り、人の痛みに敏感になった。
だから迷うのだ。単純な拒絶や、苦しみではなく、整理できない感情の中にいる。
「私は、どうするべきなのかわからないわ」
難しいよな。家族って。
生まれた時から側にいて、当然のように一緒に暮らして、だけどそれは決して普通なんてものではなくて。人と人が一緒にいることは、奇跡の連続でしかなくて。続く日常の中で摩耗すれば、次第にボロが出る。
ボロが出て、嫌いになって、離れて、だけど縁を切れるはずもない。それが家族だ。子供は親を選べない。ゆえにその縁は、本当の意味で呪いになり得る。
俺はその苦しみを理解できない。普通の幸福をもらって育ったから。奇跡を当然のように見せてくれる両親と、妹に囲まれていたから。
だけど、そんなものを理解する必要はないのだ。
「どうするべき。なんてのはどうでもいいんだ」
小雪が顔を上げる。不思議そうに。なぜ、と言いたげに。
「だってそうだろ。俺たちは、誰かのために生まれてきたわけじゃない。どんな正しい選択も、君が傷ついていい理由にはならない」
「それは……そうだけど」
小雪の体から力が抜けて、床にぺたりと座り込む。
強くなりたいと思う。
優しい女の子が、その優しさがゆえに傷つかないように。
彼女の優しさを守るために、俺は強くなりたい。
「……教えて阿月くん。じゃあ、私はどうすればいいの?」
「逃げようか。二人で、どっか遠くに」
正面に座って、手を取る。目を合わせて軽く笑うと、小さく首を傾げて小雪も微笑んだ。
「本気で言ってるの?」
「それが最良なら、迷う理由はない」
「どこへ行くつもり?」
興味深そうにして、すっと俺の横に移動してくる。向かい合うより、隣にいるほうが好きらしい。
肩を寄せ合って、天井を見上げて、ぼんやりと未来を描いてみる。
「とりあえず就職しなきゃだから、仕事があるところだろうな。東京の安いアパート借りて、いろいろ節約していくしかないだろ」
「私も働くわ」
「そうだな。じゃないとキツそうだ」
「阿月くんは、なにをするの?」
「わからん。まだ未成年だし、できる仕事は少ないだろうから――俺、なにができるんだろ」
「私はスーパーか飲食店で働くと思うわ」
「経験者だもんな」
「ルール違反だけれどね」
「その点俺は経験なしか……。まあ、なにかしらはあるだろ。頑張って探せば」
「危険な仕事はなしよ」
「わかってる」
「料理は私がするわ」
「大変だったら、俺もやるよ。掃除も洗濯も、いい感じに分担しよう」
「洗濯機を買わないとね。掃除機も」
「じゃあ、たくさん働かないとだ」
小雪は俺の肩に顔を埋め、「そうね」と呟く。小さく身体が震えて、触れた肩がじんわり熱い。
描いた未来はきっと、幸福なものではない。
二人でいられればそれだけで幸せだ。なんて言えるほど、甘ったれた夢は見ていない。知識も経験もなく出て行けるほど、社会は甘くない。人生は優しくない。忙しくなって、精神を摩耗して、それでも笑顔でいられるほど俺は聖人じゃない。
それでも、一つだけ言えることがある。
「一番辛いのは、明日一緒にいられないことだ」
どんな未来を選んだとしても、そこには小雪がいてほしい。
「私もそう。……あなたがいなくなることが、あなたのいない未来が怖い」
大切な人がいなくなる痛みを知っている。半身をもがれるような喪失感と、虚無感を味わった。
だからこの手は、絶対に離さない。半分じゃなくて、全部くれてやる。そうすれば二人だ。なにも怖くない。
「どんな選択をしても、俺は味方でいる」
「私が酷い女になっても?」
試すように聞いてくるけれど、そんなものは通用しない。
自信を持って言える。
「俺が惚れた女の子は、そんなふうにはならないよ」
「――っ。本当に、阿月くんっておかしな人」
小雪は顔をくしゃりと歪めて、泣きそうに笑って、思いっきり抱きついてきた。
首に手を回して、そのまま床に押し倒される。
軽くて、細くて、柔らかい。なのに温かくて、心臓の音すらも聞こえる。重なった身体を越えて脈が伝わってきて、それがどうしようもなく愛おしい。
「聞いてくれる? 私のわがままな、本当のお願いを」
「聞くよ。それを聞きたくて、恋人になったんだ」