9話 氷雨小雪は難しい
近くで一番大きいショッピングセンターは、ファッションエリアとグルメエリア、ホームセンター、園芸コーナー、食品売り場からなる。ぜんぶ巡ろうとすれば丸一日かかる規模で、それゆえに家族連れも多い。
休日ともなればカップルも大量発生するが、もちろん俺たちはそうではない。
「目当ての店はあるのか? 言っとくけど俺、無知だからな」
「安心して、私もだから」
「その点に関しては一ミリも安心できないな!」
自信満々に言われても。
「まずは回ってみましょう。ここに来るのは初めてなのよ」
「そうなんだ」
「阿月くんは常連なの?」
「常連ってほどじゃない。二、三回は来たことがあるってだけだ」
「じゃあ、案内してもらっていいかしら」
「ちょっとだけな。ほとんど知らんぞ」
「迷子にならなければ十分よ」
「ハードルが低すぎるっ……」
偏見だけど、氷雨ってこういうところ苦手そうだよな。はぐれたら厄介なことになりそうだし。
「そうだ、連絡先。なんかあったら困るし」
「困ったら110よ」
「警察沙汰にはしねえよ!?」
どんな事件を起こすつもりだよ。
「スマホ持ってるか? メールアドレスでも、電話番号でもいいから。交換しとこうぜ」
「交換……すると、どうなるのかしら?」
「なんかあったら、すぐにお互いに連絡が取れる」
キラリと氷雨の目が光った、気がした。物理的には光ってない。人間だもの。
ポーチからスマホを取り出すと、ホーム画面を見せてくる。デフォルトの壁紙と、デフォルトのアプリ。
「どうすればいいのかしら」
「もしかして、初?」
「こんなことするの、阿月くんが初めてよ」
「やましいことみたいに言わないでくれない?」
「連絡先を交換するのはやましいことなの?」
「なんでもないです……っ」
俺が汚れているだけなのだろうか。すみませんでした。
心を無にしろ。うん。別に、ね。ただ初めて交換するだけだもんね。
やり方を教えるにも、どうしたもんか。手軽なアプリはあるが、氷雨が手軽に連絡を取りたいタイプとは思えない。
簡単なものは、簡単であるがゆえに人を束縛することもあるのだ。
「連絡先ってのがあるだろ。開いた? そこから新規登録で、俺の名前を入れて、オッケー。じゃあ、メールアドレスと電話番号を言うから」
時代遅れ感は否めないが、これでいいだろう。
「できてるかしら」
「おう。試しに電話してみて」
やや緊張した面持ちで、氷雨が画面をのぞき込む。唇をむっと閉じて、意を決したようにボタンを押す。
俺の電話が震える。
通話に出て、スマホを耳に当てる。
「大丈夫そうだな」
「……やった」
「ん?」
「やってないわ」
「なにを?」
「別に、嬉しいなんて思ってないわ」
「だからなにを!?」
そっぽ向いてしまった氷雨は、口元を押さえている。表情がちっとも見えない。
もしかして、怒らせた?
え、全然わからないんだけど。大丈夫なのか。女心が難しすぎて辛い今日この頃。
「ともかく、これで阿月くんとはぐれても安心なのね」
「そうだな」
「人生の道に迷っても安心ね」
「そんな大層なもんじゃねえよ!?」
それこそ110番に電話してほしい。
なぜか俺の前に立ち、表情の見えない氷雨。時々、こいつがなにを考えているのかわからない。いや、基本的にわからない。わかったことなどないかもしれない。
だけど今日、少しだけ知ることができればいいと思う。
そんな思いを抱えながら、ショッピングセンターでの一日は始まるのだった。
◇
ショッピングセンターの一角にあった、そこそこ人のいる店。英語なのか他言語かわからない看板で、店名は読めない。なんとなく雰囲気がよかったので、見てみようかと立ち寄る。
氷雨が「これなんかどうかしら?」と聞いてきて、俺が「いいと思う」と返す。
どうせなにを着ても似合うので、返事が楽で助かる。
満足そうな顔をして、試着室に入っていく。感想が聞きたいらしい。どうせ全部「似合ってる」なのにな。
突っ立っていると、オシャレな格好をした女性店員さんが声を掛けてきた。服屋の店員は話しやすい人が多いなと思う。
「彼氏さんなんですか?」
「彼氏じゃないです」
「え、じゃあお友達なんですか?」
「そんな感じですかねえ」
説明すると面倒なので、適当にはぐらかす。しかし、それを許さない人物がいた。
シャッ、とカーテンを開く音がして、氷雨が顔を出す。
「友達じゃないです」
「着替えるまで出てくんな!」
顔だけしか出ていないが、びっくりした。真夏のホラーより心臓に悪い。
「友達じゃないわよ」
頑なに氷雨は譲らない。
「わかったから、戻れアホ」
「アホじゃないわ」
「わかったから」
カーテンの奥に引っ込んたのを確認して、ため息。氷雨といると疲れる。
店員さんは口元をひくひくさせている。
「これからなんですね」
「…………まあ、そうなんすかね」
適当にはぐらかそう。どうせここは学校じゃないし、変な噂が広まることもない。
しばらく待っていると、今度こそ着替えが完了したらしい。カーテンが開く。
白いブラウスに、ベージュのロングスカート。生地は夏用で薄いのだろう。見た目にも軽く、涼しそうだ。
似合ってるかどうかは、わざわざ言うまでもない。
長い黒髪と、透き通った瞳。クール美少女の氷雨が身につければ、だいたいなんでも似合う。特にこういう、清楚なやつは。
「どうかしら」
「いいと思う」
「可愛い?」
「はぁ?」
「可愛くないなら、買わないわ」
「……っ、」
氷雨の表情は真剣だ。冗談でこんなことを言う奴じゃない。ただ淡々と、事実として可愛いかどうかを尋ねているのだ。
さっき言ったとおりに。俺から見て可愛いものを買おうとしているのだ。
表情筋がガッチガチになる。眉間にしわが寄る。解けない数学の問題に出会ったときより、よっぽど険しい顔をしているのだろう。
絞り出すように、答える。
「可愛いから、買えばいいと思うぞ」
「そうするわ」
シャッ、とカーテンを閉じる。素早かった。巣穴に逃げ込むリスのようだった。
あいつ……こんだけ恥ずかしい思いさせてそれだけかよ!
「仲がいいんですね」
「仲はいいんですけどね」
氷雨小雪、あまりに難解すぎる。
後のお気に入り洋服である。
なんで試着室に逃げ込んだかは……まあ、ね。