76話 君に届きますように その1
集合場所は、駅から少し離れたところにあるバス停。目的地に近く、氷雨の家からも近いということで、そこになった。
夏祭りは大規模なものではないが、それでも道中で浴衣姿や、家族連れを見かけた。バスが混んでいたらどうしようか。会場はそう遠くないが、浴衣のまま歩かせるわけにもいかない。
夕方の五時半。ちょうど会場へ向かう人が、ピークに達する時間だ。
約束のバス停は、想像以上に人が並んでいた。臨時のバスも出るらしいが、それでも混雑は避けられないだろう。
どうしたもんか。
悩みつつ、スマホを確認するとメールが来ていた。
集合場所を変えてほしい、とのことで、近くのコンビニにいるらしい。
了解と返信して、早足で向かう。
百メートルも離れていないので、すぐに到着。駐車場にそれらしき人影を見つける。
淡い紺の浴衣。いつもは結んでいない髪を後ろにまとめて、かんざしを挿している。帯は軽い黄色で、全体的に軽やかな雰囲気を纏っている。
こっちに気がつくと、一歩だけ走ろうとして、すぐにぴたりと止まる。自分が慣れない履き物だと思い出したらしい。次の一歩は、やや慎重に。などとやっているうちに、俺のほうがたどり着く。
「下駄? 歩きづらそうだな」
「私も未熟ね」
「その向上心はどこから?」
冗談か本気かいまいちよくわからないが、歩きにくさは感じるらしい。
「あまり早くは歩けないみたい」
「ゆっくり歩けばいい。それくらい、あわせるから」
力が抜けたように、氷雨は表情を綻ばせる。細めた目が、柔らかい弧を描く。
「ありがとう」
「いいんだよ」
むずむずする。思わず笑ってしまいそうな、顔を背けたくなるような、くすぐったい感じだ。
「それで、なんでここに集合なんだ?」
「お母さんがね――」
「お母さん?」
お母さんって、俺のお母さんではなくて氷雨母のこと?
あっち、と視線の示す先を見れば、こっちを見つめる女性が一人。軽自動車の横に立って、手招きしている。
「会場の近くまで、乗せていってくれるって」
あまりに急な対面に、混乱する。とりあえず口では「あ、そうなんだ」と返しておいて、さあどうするよ。脳内会議を開く。
氷雨のお母さん、似てるな。氷雨よりもちょっと穏やかそうというか、目元が垂れ目がちだけど。面影があるというか、確実に親子だとわかる。
じゃなくて。
こういうとき、なんて言えばいいんだろう。
無難にいっとくか。それ以外知らないし。たぶん、大丈夫だよな?
「は、初めまして……阿月です」
「初めまして。娘がいつもお世話になってます」
「いや、全然。そんなことないです。ひさ――小雪さんにお世話になってるというか。俺のほうこそ」
「あら、そうなの?」
首を傾げる氷雨のお母さんに対して、娘の氷雨はふるふると首を横に。
「記憶にないわ」
「そうよねえ。小雪は自分からはなにもしないものね」
「ええ。動いたら負けだもの」
ものっすごい会話に入りづらい。
っていうか、氷雨、動いたら負けとか言ってるけどわりと行動してるよな? 今日は例外で、基本的に連絡はそっちから来るよな?
……どうやら、母親には少し事実を改変しているらしい。
でもってそれは、俺の方から猛アタックしてるようになっているのだろう。ということまで予想がつく。
だからちょっとニヤついてるんだな、お母さん。おい、娘。おい。
心の中で抵抗しながらも、しかし今日に限っては事実なのでなんとも言い難い。
「乗って。狭いけど、バスよりは楽だと思うから」
「お願いします」
結局、なにも言い返せずに車に乗せてもらう。
別の家の車に乗ったときの落ちつかない感じが、昔から苦手だ。特に、意識している相手だと、背筋が伸びてしまう。
渋滞気味の道路を、ゆったりしたペースで進んでいく。カーステレオからは、流行のラブソング。夕暮の街に、微かに響く太鼓の音色。
会場近くの駐車場は満車で、けれど人を降ろすだけのスペースはあった。
運転席の窓を開けて、氷雨のお母さんが笑いかけてくる。
「帰りのバス、なかったら教えてね」
「わかったわ」
窓を閉めようとして、思い出したように俺へと向けられる視線。
「それと阿月くん。よろしくお願いします」
「はい。ありがとうございました」
一礼すると、車は走り出す。見送って、会場へ歩き出す。
「あれが私のお母さんよ」
「似てたな」
「どこが?」
「雰囲気とか、全体的に」
「親子だもの」
くすっと笑んで、それからイタズラっぽく着物の襟をつまむ。
「ところで、どう思う? 感想を聞きたいわ」
落ち着いた紺の色づかいだが、帯には華やかさがある。柄は白で、精緻な花の模様が描かれている。髪を後ろにまとめているから、白い首筋がはっきり見えて、触れてしまいたくなるほど綺麗だと思う。
だからそれを、引かれないように。けれど、なるべく伝わるように。言ってみることにした。
「可愛いよ」
素直に言うとは思わなかったようで、氷雨は目をぱちぱちさせて、固まって、らしくないほど目を泳がせる。それから顔を手で隠した。頬がほんのり赤くなっていた。
「……ずるいわ」
「照れるなよ。こっちまで恥ずかしいだろうが」
「照れてない」
「じゃあ、なんで顔を隠すんだ」
「隠してないわ」
すっと目だけだして、上目遣いで睨んでくる。うっすら濡れた瞳が、ぷるぷる震えている。
それがあまりに可愛くて、それ以外の言葉が見つからないから、目線を前に向けた。
「ほら、行くぞ」
一歩踏み出すと、袖を掴まれた。
「…………本当に?」
「なにが」
「本当に、可愛い?」
「本当だよ。浴衣、似合ってる」
「よかった」
胸をなで下ろして、それから氷雨も歩き出す。
「阿月くんも着ればよかったのに、浴衣、似合うんだから」
「似合うんだからって、まるで見たことがあるかのような――」
「あるわよ」
「あったな」
あった。
夏休み、いろいろありすぎたけど、初っぱなにあったやつだ。
あれが咄嗟に出てこないとか、どんだけ濃かったんだ俺の夏。
ほんと、いろんなことがあった。
過去と向き合って、和解して、背中を押してもらって、手にしたい未来を見つけた。
「じゃあ、今度は着てこようかな。レンタルでもして」
「今度?」
「来年は――受験があるか」
「大丈夫よ。一日くらい、空けられるわ」
「なら、その時にでも」
「楽しみにしてるわ」
祭りの会場が近づく。
それと同時に、胸の中で焦りが生まれる。
終わってしまう。夏が、終わってしまう。
やっとわかった。二人で泊まることになった夜、氷雨が眠りたくなかった理由が。
今日が終わってしまったら、もう、今日はやってこないから。
だけどもし、来年も一緒にいられたら。その先も、隣にいられたら。
きっとそこにあるのは、今日よりも素晴らしい日々だ。