75話 夏の終わり
小日向にメッセージを送ったら、返事はすぐに来て、そのまま夕方に会うことになった。
電車に乗って、高校の近くにある待ち合わせ場所へ。
予定の十五分前に着くと、彼女は既にそこにいた。
右手を挙げて合図すると、手を振り返してくる。
「早いな」
「落ち着かなくて」
「そうだよな」
頬を掻いて、少し視線を泳がせて、それから小日向に向き直る。
「ごめん」
自分の声が、やけにはっきり聞こえた。
「俺は、氷雨が好きだ」
緩く流れる空気と、遠くから聞こえる排気音。歩行者信号の音。
小日向は静かに瞬きを繰り返し、ちいさく笑った。微笑みよりも微かに、夕陽にかき消されそうなほど曖昧に。
「それ、小雪ちゃんに言った?」
「……まだだけど」
「だめじゃん。間違えてるよ、順番」
泣いてくれたら、怒ってくれたらどれだけ楽だったか。
笑ってくれてしまうから、胸の奥でいろんな感情を潰す。
「だな」
それで、俺は黙ってしまった。小日向もそうだった。
学校が始まって、それから俺たちはどうなるのだろう。今までのようにはいかない。
恨んでくれたら、どんなに楽か。だけど小日向がそうしないことは、わかる。
俺にできることも、言うべきこともない。
「もう行くよ」
小日向は頷いた。
そのまま俯いたように見えたけど、俺は振り返らなかった。
◇
「――――…………はぁ」
駅までの道を、俺はゆっくりと歩いた。息が切れて倒れるほど走りたかったけど、それもなにか違う気がして。通学路と同じルートを、亀のように一歩ずつ。
考えていたことは、なんだろう。いろんなことを思い出した。いろんな未来を想像して、けれど半分は弾けてしまった。
残った半分を確かめるように、丁寧に歩く。
軽くなったわけじゃない。人一人に足る感情は、結局一人ぶんしかない。やっと両手で抱えきれるレベルになった。それだけだ。
それ以外に思うことがあるとすれば……。
俺は、ずるいな。
好きだと言われてから、やっと覚悟を決めるなんて。
勝算があるから勝負をするようなもんだ。そんなものは勝負じゃない。ただ流されているだけだ。
流されているつもりは、ないけどさ。
俺は臆病で、情けないから、自分から手を伸ばせない。
自己嫌悪とは違う感覚で、けれどやっぱり俺は、俺のことを否定する。自分を否定することと、自分を嫌うことは違う。
辛いと思ってしまう自分は、間違っているのだろう。空っぽになったような気分だって、ただの身勝手だ。
だけどその事実に、蓋をしようとは思わない。
電車に乗って、席に座って、目を閉じて、前を向くために息をする。
俺は結局、誰かを守るような自分でいたい。
だから楽しいときに一緒にいること。一緒にいて楽しいこと。それとは別に、もう一つの軸を持つことにした。
誰かと一緒にいるというのは、苦しさを分かち合うことなのだと思うから。
その人が辛いとき、真っ先に助けに行くのは俺がいい。そのために恋人になりたいと思う。それだけはずっと、変わらないままだった。
氷雨と小日向が泣いていて、二人が違う場所にいたら。
俺はきっと、氷雨の方へ走っていく。
その違いに、委ねることにしたのだ。
電車が止まって。改札を出て、家路につく。
寄り道をせずに帰って、ベッドに座って、スマホを取り出す。
絶対的な理由はない。
だけど、そんなものがなくたって、俺たちは恋をする。伝えたり、伝えられなかったり、届いたり、届かなかったり。そんなことを繰り返す。
その過程で、ふとした瞬間に見つかればいいと思う。
そう願うから、俺は生まれて初めての勝負をする。
氷雨小雪は、男からの告白を断り続けている。
俺は彼女から理由を聞いている。父親の存在が陰を落とすから、男が怖いのだと。
友達は裏切るから、作らないことも知っている。
関係性を盾にして、人は人を傷つける。俺だって、無意識のうちにそうしているのだろう。
それでも手を伸ばす覚悟が、あるか?
拒まれても、そこに嫌悪がない限り。彼女が俺を見ていてくれる限り、離れないと誓えるか?
誓おう。
氷雨がそうしてくれたように。俺もそうしよう。
手を伸ばして、弾かれて。伸ばされた手を、弾いて。それでも俺たちは、離れることはしなかった。
だから大丈夫だ。
連絡帳から彼女の名前を見つけ、電話をかける。
コールの音につられて、鼓動が早くなる。落ち着こうと息を吐いたところで、繋がった。
ややこもった、小さな音。
電話をした時に、お互いが困惑して放つ最初の一音。その残響をかき消すように、「もしもし」と声を掛ける。
「はい。――阿月くん、よね?」
「阿月です」
「はい。氷雨です」
「今、時間あるか?」
「夏休みの予定は、お盆前に消化しきったわ」
「宿題も?」
「もちろん」
淡々としていて、けれど僅かに弾むようなトーン。そんな些細なことも気がつくほどに、俺は彼女のことを見ていた。彼女の声を聞いていた。
「じゃあさ、次の土曜日。二人で花火でも見に行かないか?」
絞り出すように言い切った。同時に、心臓が破裂してしまいそうになる。もう二個くらい予備がないともたなそうだ。手を当てて、しっかりしろと念じる。
返事がない。
長い沈黙。電話の向こうに気配はあるのに、それだけだ。
なにかまずいことを言っただろうか。花火大会に嫌な思い出が? それとも、単純に断る理由を探している?
「……ゆかた」
「ん?」
「浴衣を着ていくわ」
「あ、おう。わかった」
「電車で行くの?」
「バスが出てるから、それで行こうと思ってる」
「集合時間は?」
「夕方の五時半とかかな。打ち上げには余裕があるから、もうちょっと遅くできるけど」
「その時間にしましょう」
「わかった。そうしよう」
大まかなことは、スムーズに決まっていく。
「細かいことは、後でメールする」
「…………ねえ、阿月くん」
少しの沈黙を挟んで、氷雨はなにか言いたげにして、
「いえ。なんでもないわ」
打ち消した。
「なんでもないなら、いいけど」
「ええ。悪い意味ではないから。それじゃあ、土曜日にね」
「わかった。それじゃ」
あっさりと切れる通話。
静まりかえる部屋。
約束できた。
今まで簡単にできたはずのことがやけに大変なことに思えて、安堵する。
まだ落ち着かない心臓の音を聞きながら、目を閉じる。
そうしているうちに眠ってしまって、起きたのは午前二時だった。
簡単なものを食べて、風呂に入って、また眠った。
ふわついた感覚は、まだ残ったままだった。




