74話 踏み出した一歩
小日向と遊園地に行ってから、二日が経った。
ふと目に入ったカレンダー。八月の最終週に入って、来週の月曜から学校が始まる。なんとなくで片付けた宿題は部屋の脇に積んであって、提出されるタイミングを待っている。
俺はというと、……なにもしていない。
真っ黒のテレビを視界に入れて、耳に挿したイヤホンから音楽を流し込み、机に積んだ本を撫でる。散歩に出たり、買い物には行くけれど。なにをやっても集中できない。
歌詞に耳を傾けて、それっぽい気分に浸る自分が嫌いだ。だから適当に聞き流して、頭では何度も同じ事を考える。
最初から答えのない問いに、答えを求めるから道に迷う。わかってはいるけれど、どうしようもない。
こんな調子でダラダラ時間を潰して、夏休みが終わるのだろうか。
そうなるのかもな、という嫌な現実感がへばりつく。
ネットでも眺めて、探してみようか。決断の仕方みたいな。ない可能性のほうが高いけれど、あるかもしれないし。
そんな気分で、スマホに手を伸ばして、少し弄っていたとこに着信。
【佐藤一輝】
画面に出てきた名前に、一瞬戸惑う。
一輝から電話がくるような用事、なにかあっただろうか。
記憶を掘り起こしながら、通話に出る。
「どうした?」
『テツ! 宿題終わらん!』
「はぁ?」
拍子抜けして、柄の悪い声が出た。
『助けてくれよん』
「助けるって……お前、もう夕方だぞ」
外はオレンジに染まって、一日が終わろうとしている。明日のことならメッセージで十分だろうに、なんでわざわざ電話を……まさか。
「要約しろ。なにが言いたい?」
『テツんち泊まりたい』
「急すぎるだろ」
『しゃーねーじゃん。明日、いきなり午後練になっちまったんだから』
「午前中に余裕があるから、来たいと?」
『乗るしかない。このビックウェーブに』
「やかましい」
そういえばこいつ、俺の一人暮らしを知っているんだった。男同士で、仲が良く、片方が一人暮らし。そりゃ、泊まりに来たくもなるか。
しかしタイミングがな。
タイミング…………タイミング………………。
『ま、テツが厳しいってんなら無理強いはしないが――』
「いや、来い」
『おん?』
「家の場所、送っとく。晩飯は?」
『まだ。食ってから行く』
「おっけー。布団は二つあるから、寝る準備だけ頼む」
『まさか、連れ込むために!?』
「ちげーよ。妹が一回だけ使ったのだ。洗ってるし」
『じょーだんだよ。了解了解っと』
恋愛に関してやたらと場数を踏んでいる一輝からなら、なにか聞けるかもしれない。
俺の事情は、できるだけ明かしたくはないけれど。けど、あいつなら勘づいていてもおかしくないわけで。そう考えれば、ただ心強いというか。一人でいるよりはずっとマシな気がした。
◇
チャイムの音がしたので、立ち上がってドアを開ける。
「ただいま」
「やめろ。男のただいまはゾッとする」
「ほいこれ。親からの差し入れ。菓子とジュース」
「お。さんきゅ」
渡されたのは、大きめのレジ袋いっぱいに詰まった手土産。四人くらいのパーティーを想定していそうな量に、軽くびびる。
「まあ入れよ。大したものはないけど」
「お邪魔します。おおぅ……これが一人暮らしってやつか」
「座布団あるから、座ってくれ」
コップを持ってきて、さっそくジュースを机に載せる。
「宿題はどうなんだ?」
「数学終わってる」
「どっちの意味で?」
「数学わからん」
鞄から課題を取り出して、ぺしっと置く。
「場所は?」
「ここ」
一輝が開いたページをのぞき込むと、発展問題だった。そういえば、俺もこの問題は苦戦したな……。
「ちょっと待っててくれ」
ぱっと解法が浮かびそうにないので、部屋の隅から課題を蘇生。該当するページを開いて、どうやって解いたかを思い出す。
「あー。はいはいはい。それめっちゃ難しいやつだ」
「だよなぁ。回答見てもぜんっぜんわからん」
「模範解答、けっこうはしょってるからな」
ルーズリーフを取り出して、飛ばされた部分まで丁寧に答案を作っていく。
「ほうほう。あー、そこか。なるほど」
序盤の方にある難関を説明すると、一輝は大きく頷き、自分のほうに答えを書き始める。さらさらと淀みなく、そのまま答えまで。
「でけたかもしれん」
「正解」
「おおっしおし!」
「他には?」
「あと三つくらいある」
「見せてみ」
一輝はこれでいて、なんでもけっこうちゃんとやる。宿題が終わらない、というのは、ただ単に俺の家に泊まりに来る理由がほしかっただけだ。自分でできることは自分でやって、その上で誰かに頼る。そういうところが、上手いというか、偉いというか。大人だよなと思う。
前に一度、話したことがある。
「一輝って、努力家だよな」
と。そうしたらこいつは、へんっ、と鼻を鳴らして笑ったのだ。
「らしくないってか?」
「いや。ただ、努力って言葉は嫌いそうだと思った」
「嫌いじゃねえよ。ただ、努力してる自分に酔うのはだせえと思いはするけどな」
だせえのは嫌いなんだ。と、一輝は言った。
俺が弱い自分を許さなかったのとは、根本的に違う。
格好悪い自分を許さないのは、自分を俯瞰している証拠だ。
だから俺は、佐藤一輝に敵わないと思うし、勝ちたいとも思わない。同い年だけれど、鬱陶しいこともあるけれど、確かにこいつを尊敬している。
「終わったぁ!」
なんてちょっと考え事をしている間に、終了。
いや、せめてもうちょい溜めてこいよ。
「さぁてテツ。面白い話をしてくれ」
「なにそのフリ? 陽キャが陰キャを殺す常套句?」
「想像しただけで惨いぜ」
クラスの中心人物が、隅にいるやつに面白い話をしろと強要する。残酷描写だろ。死人がでるわ。
「んなこと言うなら、一輝が面白い話をしろよ」
「おっ、いいぞ」
「乗り気だな。なんかあったのか?」
「カノジョができた」
「つまらん。次」
「反応薄くね!? 親友のカノジョとか、興味湧くはずだろ!」
「お前の場合、多すぎて覚えられないんだよ。高校通算何人目だ?」
「七安打ってとこかな」
俺とは恋愛というものの概念が違うのだ。
違う。
良い悪いではなく、俺と一輝は根本的に違っている。
チャラいとか、程度が低いとか、そんなふうに思っていたこともあるけれど。二年生になったくらいから、そう思う。
一輝にとっての恋愛は、一種の娯楽。楽しく生きるための手段の一つに過ぎない。
じゃあ、俺にとっての恋愛ってなんだ?
違うということはわかる。けれど、どう違うのかと言われると、困る。
本気度、とか。簡単に言いたくなるけれど。一輝だって本気でやってる。本気で楽しむために、手を抜いていない。軽いけど、雑な生き方をするやつじゃない。
そもそも俺が本気だなんて言うのも、おかしい気がするし。
「で、その新しいカノジョがどうしたんだ?」
「可愛いってわけよ」
「帰っていいぞ」
「ワンモアチャンス!」
「巻き返せるのか?」
「大丈夫だ。問題ない」
勇ましいフラグの立て方だ。
ため息をついて、続きを促す。
「まあ女子というものはだな、『私のどんなところが好き?』って質問をしてくるわけだ。飽きもせず、懲りもせず、付き合う男が変わるたびに」
「地獄みたいな情報だな」
「ところがどっこい現実よ」
喉の渇きを潤すように、一輝はオレンジジュースを飲み干す。空になったコップに、また注ぐ。
「で、なんて答えたんだ?」
「顔が好みで、優しくて、ノリがいいから好きだっつった。したら、つまんなそうな顔してんだよな」
「まさかだけど、カノジョの愚痴か?」
「自慢なんだな、これが」
どこか自虐的に笑い、ポテチの袋を開ける。
「ぶっちゃけると、あいつより顔が好みで、あいつより気配りができて、あいつより面白い女なんていくらでもいるんだよな。んで、それは俺に関してもそう言えるわけでさ。
俺よりサッカー上手いやつも。俺より顔がいいやつも。俺よりリーダーシップのあるやつも。ゴロゴロいるんだよな」
「それで?」
「カノジョさんが求めてたのは、絶対的な理由なんだ。で、俺が同じ質問をしたらちゃんと返ってくるんだな」
「どんな風に?」
「さすがに恥ずかしいからパスで」
興味がないことはなかったが、冷静に考えて一輝が褒められたことを聞く。というのも虚しいというか、大した意味のあることではない。
女性から見た一輝の姿など、どうだっていいことだ。
話の論点は、そこじゃない。
「……絶対的な理由、か」
改めて言うと恥ずかしいワードだ。けれど、取り繕わない言葉だから誠実だ。
「それだけ聞くと、一輝との相性は悪そうだけど」
重いのは嫌いだと、本人も言っていた。
「だってこの話、嘘だからな」
「…………、おい」
睨みつけると、一輝はにんまり笑う。
「面白い話だったろ?」
「面白くはなかった」
「でも聞き入ってたな。テツの負けだ」
勝ち誇ったようにコップを掲げ、ごくごくと飲む。俺にできることは、ため息を吐くことしかない。
「どっから嘘だ?」
「カノジョできた」
「全部じゃねえか」
詐欺師とか向いてるんじゃないだろうか。
「付き合う前からあるわけねーのさ。絶対的な理由なんて。ロミオとジュリエットじゃあるまいし」
チョコレートを開けて、口に放り込んだ。甘い。打ち消すように、ポテチに手を伸ばす。こいつの話を、ちゃんと聞く方がアホらしい。
「失恋して傷ついたって、飯食って寝て、また別の誰かを好きになる。その繰り返しだろ?」
「……そうだな」
身にしみる。顔をしかめてしまうが、炭酸のせいにしてしまおう。
息を吐く。
「それってさ、付き合ってたら見つかるかな」
「少なくとも、俺は見つかってねえよ。簡単に見つかるもんじゃない」
どうしてもその人でなければならない理由。
俺がそれを見つけられていないのは、明白だ。見つかっていれば、どちらかで悩んでいない。
付き合わないと、答えは出ない。
小日向と一緒にいたら、あるいは氷雨と一緒にいたら。
どうなっていく? 今現在、確たることはなにひとつ言えない。別れない保証はない。お互いのことを知っているだなんて、傲慢だ。わからないことだらけで、困惑して、喧嘩もするだろう。
だったら、もっとシンプルに。
俺はどう生きたい?
「なあ一輝」
「おう、どうしたよ」
「どうしてお前は、俺のことを親友って呼んでくれるんだ?」
少しの間を置いて、一輝は答えた。
「さあ? 面白いからじゃねーの」
「面白い?」
「だってよ。阿月哲なんて、最初は誰も知らなかったろ? だけど俺とか、小日向と絡み出して、文化祭でも活躍して、テツカズコンビなんてもんで球技大会でも結果を出して――そしたら、だんだん皆が阿月哲に気がつき始めた。今では立派な有名人だ」
一方的に知られていることは、よくある。
「それ、面白いか?」
「皆が認めた阿月哲を、最初に見つけたのは俺だ。そのことが誇らしいんだよ」
パリッ、とスナック菓子の割れる音。
「そうかよ」
「テツは? 俺が親友の理由」
「他に親しい男友達がいないから」
「消去法!」
思い切り笑ってやると、一輝も声をあげて笑った。
いつか切れるような浅い関係はいらない。信じられる数人がいればいい。
男相手にそんなことを言ったって、暑苦しいから流すけど。
◇
朝起きてしばらくして、一輝は帰っていった。
空になった部屋から出て、しばらく歩いて、また考えて、呟いてみる。
「絶対的な理由は、ない」
正解を求めようとしても無駄だ。どちらを選んでも正解なのだから。
五〇点ずつじゃない。一〇〇点の取り方が二つあるテストの、どちらを選ぶか。
ならばシンプルに、俺がどうやって生きていきたいか。なりたい俺は、どんな姿をしているか。
そうやって考えると、散らかっていたものがまとまっていく。
結局、俺がなりたいものは変わっていない。なれないとわかっていても、諦めたわけじゃない。
花音と和解したあの日、踏み出したのは理想を追うための一歩だ。
弱さと醜さを受け容れて。
やっぱり俺は、誰かを守る男になりたい。