67話 ふさわしいタイミング
夏休みも終盤にさしかかり、暑さも徐々に和らいでくる。とはいえまだエアコンなしでは厳しく、広い職員室は窓をぴしゃりと閉め切っている。
「あの、なんで俺って職員室にいるんでしたっけ」
「夏休みだからよ」
「因果関係が成立してないんですが?」
白衣でカタカタと作業をするルリ先生。ちらっと俺のほうを見ると、近くの椅子に座るよう指示してくる。
なにやら重要な話があるらしい。顔は画面を向いているが、表情が険しい。
「阿月っち」
「はい。なんでしょう」
「はっきり言って、あんたはそこそこ影響力のある生徒よ」
「なんですか急に」
「はっきり言ってね」
「なんの念押し?」
エンターキーを軽快に叩いて、重たいため息。
「こんなことを頼むのは気が引けるわ。でもね、私には譲れないものがあるの」
「なんですか……早く言ってくださいよ」
「文化祭、ぶっちゃけ面倒臭い」
「最低か!?」
衝撃的すぎる。え、この人今なんて言った? 生徒に向かって、それも担任のクラスに在籍する生徒に向かって、面倒臭いって言った?
「そりゃあね、担任を持って初めての年は楽しかったわよ。三年目までは頑張れた。でも、……去年で、それは過ちだと知ったわ」
「はぁ」
「去年、なにをやったか――忘れたとは言わせないわよ」
一年前の文化祭、俺たちのクラスは喫茶店をやった。定番だろ、みたいなノリで。大いに盛り上がったし、個人的にはいい思い出なのだが。
喫茶店となると、ルリ先生が言っているのは――
「……もしかして、なんですけど。食品?」
「そう! さすが阿月っち。優秀な生徒を持つ教師はもっと優秀ね」
「どういうこと?」
俺のことを上げると見せかけて、しれっと自分を褒めている。っていうか、なんとしても俺を褒めない意思を感じる。
「これだけ言えばわかるわよね。食品にならないよう、全力で仕組みなさい」
「職権乱用だ……」
「大変なのよ。食中毒なんか起きたら、クビにされるわ」
それは言い過ぎだとは思うが、肩身は狭くなるのだろう。だいたいのことは生徒がやるとはいえ、責任を負うのは担任だ。
「じゃあ、逆にルリ先生はなにがいいんですか?」
「お化け屋敷でいいじゃない。みんな好きでしょ」
「…………」
嫌いなやつもいるんだよなぁ。
「なに? もしかして怖いの苦手なの?」
「別に――…………苦手で悪いですか?」
「なら、なおさら自分のクラスでやったらいいじゃない。誰かに誘われたとき、断る理由になるわよ」
「確かに」
自分のところでやっているから、他はいいやと。
……ほんとうに?
「いい感じに丸め込もうとしてません?」
「ちぇっ、可愛くない」
「俺、可愛くなりたいわけじゃないんで」
肩をすくめて否定する。でも、まあ、全くスルーするつもりもない。
「いちおう、話には出してみますよ。保証はできませんけど」
「そ。頼んだわよ」
「保証はできませんけどね?」
「もしものときは、阿月っちに責任を預けるから大丈夫よ」
「俺が大丈夫じゃないんですけど?」
「冗談冗談」
どこまでがそうなんだか。
また食品になっても、なんだかんだで付き合ってくれそうな気はする。真剣なムードを出していたのもジョークで、ただの会話なのか。
人の少ない、閑散とした職員室。夏休みの先生達はなにをやっているのだろうか。部活か。それにしても少ないような。明かりは半分しかついていない。
移動しないのは、周りに誰もいないからだろう。
「で、ルリ先生に話したいことがあるんじゃないの?」
「わかるもんですか、そういうのって」
図星ではあった。
暇だったら来なさい。と呼び出したのはルリ先生だが、俺もちょうど聞いてみたいことがあったのだ。それと、軽い報告をしないといけない。
「わかるわよ。優秀な教師はね、生徒の変化を見逃さないものなのよ」
「変化?」
「怖いのが苦手。そんなこと、今までは認めなかったでしょ」
「……確かに」
意識的にやったことだ。咄嗟に強がろうとした自分を、押さえつけた。
苦手なものは苦手。できないことはできない。
そういう潔さを持とうと、決めたから。
「吹っ切れたの?」
「端的に言えば。そうなります」
絡みついていた過去を、切り離した。届かない場所に囚われるのをやめて、今を大切にしようと決めた。
「二年。まあ、順当ね」
「長くなって申し訳ないです」
「思春期はそれくらい引きずるのが常識。覚えときなさい。大人になっても消えない傷を負うのが、青春よ」
「最悪じゃないですか」
「青いくせに楽しもうなんて甘いのよ。若者の分際で」
妬みでは?
口に出かけた言葉を、飲み込む。年齢の話を出すのは憚られた。
代わりに、今の俺が出した結論を言葉にする。
「中学の頃、俺は最低なことをしました。それは消えない。だけど、引きずったところでなにも変わらないんだと――そう思います。無責任ですけどね」
「さっきも言ったでしょ。生徒の責任を負うのが教師。あんたの中学時代の担任も、そういう人間なのよ」
ルリ先生は机を開け、奥底から封筒を取り出す。
封の切られていないそれを、「ほい」と手渡してくる。消印は、去年の四月。俺が高校生になるために、茨城に来たのと同じ時期。
差出人には――板野克也。中学時代の、担任の名前があった。
「これを、俺に?」
「ふさわしいタイミングで渡してくれって。頼まれてたのよ」
「だから……俺を毎日呼んでたんですか?」
ルリ先生は目を伏せ、軽く笑う。
「それは雑用と暇つぶしね」
「くっ、一瞬でも感動した俺がバカだった」
「とにかく、それ、持ってきなさい。いらなきゃシュレッダー貸してあげるけど」
「いえ。もらいます」
「そ」
「ありがとうございます。待っててくれて」
「いいのよ。じゃあもう行きなさい。読みたいでしょ?」
「はい。失礼します」
一礼して椅子を戻し、職員室から出る。
廊下に出る直前、ふと見たルリ先生は、手に煙草のケースを持っていた。吸うわけでもない、ただ所有しているだけの。
ルリ先生と、中学の担任。その二人の間になにがあったか、俺にはわからない。
わからなくていいのだと、思いはするけれど。
それもまた、青春の傷なのだろうか。