63話 運命になれなかった初恋へ
強くなりたかった。
俺にとっての強さは、守ることだった。
誰かの前に立って、道を切り拓くリーダーのようなものじゃない。
隣に立って、支えになって、困難を打ち払うような存在のことだった。
そういう意味では、目指していたのはヒーローだ。誰ものヒーローじゃない。唯一人、憧れた女の子を守れる強さが、ほしかった。
そのために俺は、たぶん、人生で初めて努力をした。野球をやって、勉強して、苦手だったことを人並みにできるようにした。
それまでの自分を捨てて、『阿月哲』という理想を目指した。大量の虚構で塗りたくって、強くて、優しくて、正しい姿を作り上げた。
なのに、一番辛いときに、花音は俺に頼らなかった。俺は花音を守れなかった。
たった一つ守りたかった俺の手には、偽物の『阿月哲』だけが残った。
それが正体だ。
必死に強がって、余裕なく動き回って、どうにか辻褄を合わせようとする。誰にもでいい顔をしたがって、曖昧な正義を抱いて生きている。
だから悲しいんだ。
守るものがなくても、捨てられなかったから。空虚だとわかっていても、止まれなかったから。
いつだって、俺の歩む道は不確かだった。幸福はこぼれてしまいそうで、ふとした瞬間に距離を置きたくなる。心を許しても、限りある時間を前提にしてしまう。
もし。
俺が肩を壊さず、野球を辞めず、ずっとあのマウンドを守り続けられたら、違ったのだろうか。花音は、相談してくれたのだろうか。
もし。
俺が小さい頃からずっと、花音の前を歩いていたら、頼ってくれたのだろうか。
もし。
俺がもっと優れた人間で、なにをやっても一番で、学校でトップスターと呼ばれるような人間だったらよかったのだろうか。
もし。
俺が花音より年上に生まれていれば、それだけで、重荷を預けてくれる理由になったのだろうか。
答えがあるなら教えてほしかった。でなきゃ俺は、どうやって後悔すればいいかもわからない。この欠落にふさわしい名前は、ずっと見つからないままだ。
花音は、長い間黙っていた。
橋の手すりに寄りかかって、静かな水面を見つめている。俺はずっと、彼女の横顔を見ていた。
がくんと首を傾けて、歪んだ笑み。
「その話、しなきゃダメ?」
「俺は、ちゃんとしたい」
「いいじゃん。どうせ今日で終わりなんだよ、私たち。わざわざそんな、暗い話しないほうがいいって。哲ならわかるでしょ?」
投げやりなその態度に、苛立った。
止めた方がいいと、頭ではわかっているのに。背筋が冷えた。血が上って、言葉に熱が乗る。
「終わるかよ……バカなこと言ってんじゃねえよ!」
「なに怒ってんの? らしくないなぁ」
「怒るに決まってるだろ。ふざけんな。俺もだ。俺も、適当なことばっか言った。それは謝る。けどな、これだけは言うぞ。なにが今日で終わりだ。今日が最後だ。そんな簡単に割り切れたら、俺たちはここにいないだろ!」
花音は息を呑んで、固まった。
「二年。何回も何回も、花音の夢を見た。ふとした瞬間に思い出すのは、お前のことだった。明日からもそうだ。俺はこれからも、ずっと、何度も、お前のことを思い出す。考える。後悔して、死にたくなって、心配になる」
「だから――っ、」
舌打ちが聞こえた。手すりから手を放して、花音が正面から睨んでくる。
「それを終わらせようって、言ってるんじゃん!」
言っていることが伝わらない。意図していることと、ことごとく逆のことをしてくる。
「思い出さないでよ! 思い出したくないよ! 哲のことなんて考えたくない。哲に私のことなんて考えてほしくない。忘れようよ……もう、嫌だよ」
大粒の涙が、花音の瞳からこぼれた。頬を伝って、コンクリートに落ちていく。
彼女の言葉を、否定することはできない。
俺だってずっと、心のどこかで花音を忘れたがっていた。消し去ることでしか、前に進めないのだと思っていた。
だけど、やり通せなかった。
連絡先を渡されて、メールを送って、顔を合わせてしまった。
ぐちゃぐちゃだ。筋が通っていない。理屈なんて、どこにもない。
なにも諦められないくせに、大人ぶったからこんなことになる。格好つけるから、いつも大事な人に手が届かない。
「本当は、わかってるんだ。花音が頼ってくれなかったんじゃない。俺が気がつけなかった。そのほうがずっと、悪いことだったって」
奥歯を噛みしめた。そうしないと、いろんなものが溢れてしまいそうだったから。
花音が俺になにも言わなかった。そのことは許せない。許せなくて、恨んで、だから二年も想いは続いた。もし次会ったら、恨み言を言ってやろうと思っていた。その方法だけは、入念に考えてあった。
だけど、会った瞬間に出てきたのは、安堵だった。
心の底から安心した。花音がいて、元気そうで、笑ってくれて、俺と話してくれる。一緒にいて、手を繋いで、からかって、ふざけ合える。
ぐちゃぐちゃだ。
好きと嫌いは、確かに共存した。俺の体を真っ二つに引き裂きそうなほどの強さで、鮮烈にここにある。ぐちゃぐちゃだ。もう、なにが正しいか、なにが間違ってるのかわからない。いや、ぜんぶ正しくて、ぜんぶ間違ってる。
だから、さっきまで怒鳴っていたのと同じ口で、
「ごめんな、気がついてやれなくて。俺、なんもできなくて」
自分の無力さを、悔いてしまうのだ。怒りたいのに、それすらままならない。
謝りたい。謝らねばならない相手に、なにを俺は怒鳴ってるんだ。ふざけんな。そう思うのも、俺だ。俺の心だ。
「――違う。それは、違うよ」
「違わない。謝らなきゃいけないんだ、俺は、本当は――」
言葉に詰まった。
じっと俺を見つめてくる目が、訴えかけているから。真剣に。そうじゃないと。
「私が言ってほしいのは、そんなことじゃないよ。……どうしてわかってくれないの?」
どうして花音は、俺に会いたいと言ったのだろう。わざわざ連絡を取って、なにを確かめたかったのだろう。
もう一度縁を繋いで、遠距離でも付き合うことが目的だったのだろうか。違う。だったら、今日で終わりなんて言わない。
……なんてさ、考えるフリもバカみたいだ。
本当はわかってる。
ずっと、気がついている。
でも、俺にはそれを言う資格がない。そうやって、ずっと口にしないでいた。何度も心で思って、押し殺してきたものだ。
捨てろ。
そんな拘りは、薄汚い罪悪感は捨ててしまえ。
ここにいるのは、俺と花音。それだけだ。それ以外のものなんて、なにひとつ、理由に値しない。
天を仰いだ。青い空だ。
息を吸う。少しは冷静になった頭。確かめるように、ゆっくりと口を動かす。
「……ずっと、お前のことを考えてた」
大変なことだから、ちゃんと考えて答えてねと。そう言われたから。
俺はバカだ。大バカだ。
なにが終わらせない、だ。許せないだ。人を傷つけたことも、罪悪感を背負うことも、全部、後回しにしなければならなかった。
俺がやるべきだったのは、復讐なんかじゃなかった。
他のなにを差し置いても、答えるべきだったのだ。たった一つ、もらった想いに。
「遅くなったけど、聞いてくれるか?」
声が震えた。我ながら情けない。
これじゃまるで、中学三年生の、浮かれていた頃の俺みたいだ。
「うん。……聞かせて」
頬を赤くして、花音が頷く。
その姿が――あの日と重なった。
「おれは……おまえのことが…………」
涙が、溢れてきた。
「ずっと…………ずっとさ、」
言わなきゃいけないのに、声が詰まる。視界がぼやける。息ができない。
やっとたどり着いたんだ。
ずっと戻りたかった場所に。二度と帰れないはずの時間に。
「ゆっくりでいいから、ね」
手を差し伸べられて、それが頬に触れて、優しくて。そっと近づいてきて、抱きしめられた。抵抗する意思はなくて、されるがままで。もう、だめだった。
涙が止まらなかった。嗚咽を漏らしながら、みっともなく泣き続けた。ずっと昔に捨てたはずの、弱虫みたいに。
泣いて、泣いて、泣いて。
彼女の胸の中で、なにも出てこなくなるまでそうしていた。
憎しみがあった。始まりは恋だった。その恋は、きっともう枯れ果てて、芽吹かないけれど。
伝えたい想いは、まだここにある。
息を吸う。周りの目が、急に気になる。けどもう、手後れだろ。今更、格好つけんな。だせえから。
流れてしまった涙は、もう俺が強くあれない証拠だ。
ずっと泣かなかった。男は泣かないのだと。強いから、泣いてはならないのだと。言い聞かせて、踏ん張って、なにがあっても俺だけは泣かないのだと。
もう終わりだ。取り繕えない。
「ごめん。格好悪いな、俺」
「哲が格好よかったことなんて、数えるほどしかないよ」
「ははっ、ひでえな」
ひどいけど、それが真実だ。
どれだけ格好つけても、格好よくはなれない。
でも、格好悪くても、俺は選んでもらえたから。応えたい。
今ならそれが、できる気がした。
「大好きだよ、花音」
それが、俺の答えだ。
ぷっと噴き出して、すぐ近くで少女は笑う。
「遅いよ。二年待った」
「ちょっと考えすぎたな。反省してる」
「反省してよね。ずっと待ってあげたんだから」
目を合わせて、アホらしくなって、笑ってしまう。
心が解ける。
痛みが消えていく。傷が癒える。欠落に、十分すぎる温もりが満ちていく。
「哲を頼れなかった理由、知りたい?」
「ああ。聞かせてほしい」
「正直に言うね。あの頃、怪我で野球を辞めた哲に、これ以上負担をかけるわけにはいかないって思ってました」
「…………だよなぁ」
考えていた可能性の一つだ。意外性など、なにもない。
「そのことは、私も反省してるから。その……ごめん。結果的に哲を傷つけたのは、ずっと、申し訳ないと思ってた」
「いいんだよ。もう、いいや。答えなかったことに比べれば、大したことじゃない」
過去は過去だと、そうやって割り切るのは無責任だろうか。だけど、俺が背負っていた罪を花音が背負う必要はない。俺も、降ろしていいかなと思っている。
俺は俺のために、自分を許す。
ただの感情論だ。最低の自己中心主義。
せめて聞きに行ってみよう。今度、あの頃の担任に。俺がいなくなった後のことを。
それで終わりだ。本当に、ぜんぶ終わり。
「そっか。なら、私ももういいや」
手を組んで、猫みたいな伸びをする花音。
風が吹き抜けて、火照った身体から熱を奪っていく。
「俺たちはさ、辛かったし、最悪だったけど、不幸じゃなかったよな」
「うん」
一日だけのデートごっこなんて、そんなの、敗北した人間のやることだ。俺たちはそうじゃない。ちゃんと両想いでいた。手を伸ばせば、届く場所に心があった。
だから、こんなものは必要なかった。
「私たちは、ちゃんとゴールできた」
ゴール。それはきっと、そのままの意味だ。
打ち切りの終わりではなく、やりきった終わり。
「あはは。なんかもう、満足しちゃった。私って、変かな?」
「いや、わかるよ。俺ももう、満足だ」
今日が始まるときは手を繋いでいたのに、告白を終えた俺たちは、少し距離を保っていた。
「付き合うって、大変なんだって」
「らしいな。俺の親友も、しょっちゅう別れてる」
「遠距離とか、絶対しんどいよね」
「会えないのは、お互いに不安だよな」
「じゃあ、やめとこっか」
「だな。無理してまたグズグズになるのは最悪だ」
「ほんとに。やっと仲直りしたんだもんね」
最後に俺たちは、優しい嘘をついた。
恋という熱量を維持するには、二年はあまりに長すぎた。俺は花音が好きだ。だけど、その好きはもう落ち着いたものになった。この身を焼き焦がしはしない。
好きだから。大好きだからこそ、この距離がいい。一番落ち着く、幼なじみという関係が心地いい。
わざわざそれを、言葉にする必要はないだろう?
◆
ずっと、心の中心で繰り返す。
「泣かないよ。おれは男だから、強いんだ」
十歳の俺が、弱虫の顔で強がっている。そいつはずっと、そこにいてくれた。俺を守ってくれていた。
だけどもう、いいよ。
「俺は泣くよ。弱いけど、それでも進むんだ」
置き去りにしていた思い出に手を伸ばす。これからは、一緒に歩いて行こう。
弱さも、醜さも、一つ残らず俺だ。
そんな俺になれたから、言えることがある。
初恋は祝福だ。
人を好きになる意味を教えてくれた。愛おしさを知ることができた。苦しみも、痛みも、なにひとつ無駄ではなかった。
花音。
俺は、君を好きになれてよかった。
四章はここまでです。
完結まで残り二章を予定しています。
過去を乗り越え、不器用ながら歩き始めた阿月哲の物語。
もう少しだけお付き合い頂ければ幸いです。




