6話 氷雪の女王は春に焦がれる
阿月哲は有名人である。
人づきあいの少ない場所で生活していた、小雪にもその名前が届くくらいに、誰もが知っている生徒だ。
モテているとかではなく、知られている。なんとなく大勢から信頼されているというだけのもの。
地味なうえに面と向かって言われることもないため、本人は気がついていないけれど。
森本珈琲で出会う前から、小雪は知っていたのだ。
別のクラスの、別の世界の人として。
ときどき、彼の教室の前を通る。そこにはいつも何人かの生徒がいて、談笑している。哲は中心にいるわけじゃないけれど、みんなは彼のところに集まっているように見えた。
羨ましくなんてない。嘘ではなく、小雪はそう思っていた。
あそこは別の世界だ。生まれたときからずっと、小雪の周りは凍てついている。吹く風は冷たく、行く先は暗い。
だけどもし。
あの場所に生まれ変わることができたのなら。誰かと一緒に、笑うことができたのだろうか。
想像して、想像して――
「友達なんかじゃないわ――阿月くんは、友達なんかじゃない」
その言葉ですべてを壊した。
本心だった。けれど、伝わり方は真逆だった。そこまではわかる。だけど小雪には、訂正するための方法がわからなかった。
間違えたのだ。いつだってそうだ。氷雨小雪は間違える。
哲と目が合った。驚いたようだった。教室が静まりかえる。
そして彼女は思い出す。
自分は人といられないのだと。誰かの手を取っても、裏切るか、裏切られるかしてしまうのだと。
正しい想いなどきっと伝わらない。だから逃げ出すのだ。
ここではない、どこかへ。
誰も、自分のことを知らない場所へ。
ぐちゃぐちゃの頭を整理できないまま、鞄の中に荷物を詰め込む。授業は終わった。帰るだけだ。早く帰りたい。さっさと消えてしまいたい。
「氷雨小雪さんっている?」
落ち着いているのによく通る、ここ数日で一番聞いた声。小雪が顔を上げると、彼は廊下から顔を出す。
「お、よかった。まだいて」
躊躇いなく教室に入ってきて、小雪の前に立つ。
「な、なに……阿月くん」
「用件はない。ただなんとなく、氷雨さんと話したいと思ったんだ」
◇
わっかんねえな、と思う。
目の前であっけにとられた氷雨を見て。
どうして氷雨はこんなに上手くやれないのだろう。なんで自分のことすら言葉にできないのだろう。
そりゃさ、俺にもわかんないよ。どうして?って聞かれても答えられない。
きっと彼女の頭の中と、行動と、言葉は同じじゃない。
「阿月くんは、怒ってないの?」
「怒ってない」
「どうして?」
「ちゃんと話したいから」
氷雨はやっぱり驚いた顔だ。
「行こうぜ。ここはちょっと、人が多い」
歩き出すと、ついてきてくれる。嫌われたわけじゃなさそうで、ひとまず大丈夫そうだ。
一輝から話は聞いた。
少なくともあの場で、誰かの悪意がはたらいたことはないらしい。普通の会話をしたらしい。近くにいた女子も含めて。
その中でこんな質問がでたらしい。
「いつから阿月と友達なの?」
と。
それに氷雨は、予想とは違う反応を見せた。
怒っているようでもあったし、泣きそうでもあったし、どこか怯えているようでもあった――そう、一輝は言っていた。
で、あの現場である。
そこまで話を聞いても理解できないし、適当に「おけ。あとはなんとかしとく」とは言ったものの方法なんて頭にないし。
とりあえず話すしかない。
俺の基本方針『話せばわかる』。これを言った人はその後に撃たれたらしい。銃社会じゃなくてよかった。
しばらく歩いたところにある公園に入る。
自販機で俺はコーヒー。氷雨はミルクティーを買った。
どこか落ち着けるところはないかと視線を動かして、ブランコの柵に腰掛ける。躊躇いがちに、氷雨が隣にくる。
「紅茶、好きなのか?」
「……ええ。甘いのが好きよ。阿月くんは、甘いのは嫌い?」
「甘いのも好き、だな」
「そう。……知らなかったわ」
「ほら、プリンも頼むし」
「そうだったわね」
「糖分って素晴らしいよな。安易に幸せになれる」
「……そうね」
夕陽が落ちていく。街灯が道を照らし始める。
俺は本当に言いたい言葉を、コーヒーで押し流した。正しい言葉は、いつだって感情とは別の場所にある。
「氷雨さんにとって、友達はどんなものなんだ?」
これが正しいかはわからないけれど。きっと間違いではない。
友達とはなにか。その根本から、きっと俺とは違っている。同じ言葉を使っていても、意味は同じにならない。
「友達……」
深く息をついて、目を伏せて言う。
「私にとっての友達は、敵のことよ」
友達とは敵である。彼女はそうやって定義していて、おそらくそれが世間の認識とは違うことも知っている。
知った上で、譲れない何かを抱えているのだろう。
「……じゃあ、俺は敵じゃないんだな」
聞きたいことはあったけれど、最初に口に出たのはそれだった。
「敵だなんて、思ってないわよ。阿月くんは優しい人だから」
「ならよかった。一安心だ」
おかげでコーヒーが美味い。
なにかが解決したわけじゃないけど、なにも失わずにすんだ。
「ごめんなさい。変なことになってしまって」
「いいよ別に。このくらい、よくあることだ」
しかし、友達が敵か。
想像はしていたけど、大変なことがあったんだろうな。
「みんなには俺から言っとく。それで、今日のことはチャラだ」
「本当にそれでいいの?」
聞いてくる氷雨は、どこか必死だった。
なにかを訴えかけてくる瞳からは、目をそらせない。
「いいの?って、どういうことだよ」
「ぜんぶ阿月くんがくれるだけで、私はなにもできてない。私は、これでいいの?」
「――っ、」
それは、どうなのだろう。
昨日お弁当をくれたからいい。とか、君はそんままでいいとか。きっと正しい答えなんていくらでもあって、だけどそれを言ったら二度と、彼女の本音は聞けなくなる気がした。
「私は阿月くんのことをもっと知りたいわ。だけど、そうするメリットがあなたにあると思えないのよ」
「損得勘定で関わるつもりはない。ってのは、嘘になるんだろうけど――」
多かれ少なかれ、俺たちはお互いに何かを求める。それを否定することはできない。
だけど、それだけではないと思うのだ。
「――いつか来るよ。俺が氷雨にたすけてもらいたいときが。そんときに手を貸してくれたら、俺は嬉しい」
いつも不思議そうにしていて、常識を知らなくて、嫌いな相手には棘しかなくて、なのに俺の前ではどこまでも透明で、信じていると言ってくれる。
「私が、阿月くんをたすける……」
難しい顔で氷雨は考え込み、しばらくして顔を上げる。
「万全の準備をしておくわ」
「まあ、ゆるーく頼む」
コーヒーを飲み干す。緊張していたのだろう。喉がやけに乾いていて、いつもより早いペースで飲んでしまった。
「だからまあ、友達だとかそうじゃないとかはどうでもいいよ。そんだけだ」
名前のある関係を嫌うのなら、名前などいらない。
俺と氷雨。ただそれだけでいい。二人の関係は、二人で勝手に決めればいい。
絡まっていた視線がほどける。顔を伏せたのは、氷雨だった。
「阿月くんを見てると、うまく話せなくなるわ。言いたいことがちゃんと言葉にできないの」
「ゆっくり探せばいい。わかるまで聞くから」
「そうね。あなたは、そういう人なのよね」
俯いたままの氷雨の口元が、柔らかく持ち上げられていた。
それを見て、思いつく。
「そうだ。一個だけお願いがあるんだけど、聞いてくれないか」
「なに? 阿月くんの頼みならなんでも聞くわよ」
「なんでもは聞くんじゃない」
笑いながら突っ込むと、氷雨は口元を隠して、小さく肩を上下させる。
「笑った顔を見せてほしい。スマイル一つ、みたいな」
「スマイル……?」
「そう。こうやって、にこっと」
口角を持ち上げてやってみる。
氷雨は困惑していた。いつも通りだ。
「いいけど、……こうかしら?」
ガチガチの表情筋で、お世辞にも上手いとは言えない。はっきり言って下手くそだ。
いつか氷雨が、堂々と笑えるようになってくれればいい。
一番伝えたい言葉は飲み込んで、俺たちは帰路につく。




