58話 阿月哲 その3
分割します。今日もう1話。
新島家の三人が家に戻り、すっかり静かになったリビング。
ダイニングテーブルにどっしり座った父さんが、無言の圧をかけてくる。お前も座れと。母さんに助けを求めたが、座りなさい。と麦茶を差し出された。
親と正面から向かい合うのは、少しぎこちなく感じる。
うちの親は、かなり話しやすいほうだと思うのだが。それでも。
「元気そうだな」
「うん。おかげさまで」
「学校はどうだ?」
「それなりにやってるよ。友達もいるし」
「そうか」
ずいぶんと事務的なやり取りだった。それでも、実家に戻ると毎回繰り返される。だから俺も、毎回同じように返す。
父さんは頷いて、役目は終わったとばかりに発泡酒を飲み干す。
「凛が寂しがっているから、相手をしてあげなさい」
それだけ言い残して、リビングから出ていく。もう寝るのだろう。父さんは明日も仕事だ。
残ったのは、俺と母さん。
「哲、ちょっと痩せた?」
「そうかな。体重は変わってないと思うけど」
「ちゃんと食べてる? コンビニ弁当ばっかりになってない?」
「なってないよ。割と自炊できてる」
「そう。ならいいけど。食費に困ったら、ちゃんと言いなさいね」
「わかった。……ありがとう」
本当に。父さんと母さんには感謝してもしたりない。
だから全身をペタペタ触るのはやめてほしい。別に痩せてないから。俺、減ってないから。
なんてことをしばらくやっていると、
「たのもー!」
風呂から上がってきた凛が、手を上に突き上げてリビングに入ってくる。
「父さん寝てるから静かにしろ」
「はっ、ミュート」
慌てて口を押さえる凛。
頭にタオルを載せているせいで、いつもよりアホっぽく見える。
「凛。髪の毛乾かしてきなさい」
「だって。哲にぃ、乾かして」
「らしいわよ哲。乾かしてあげなさい」
「母さん!?」
当然のように命じられたから、驚いてしまう。なんで平然としてんのこの人。
凛の母親だから?
……すげー納得。
「あっ、ドライヤー忘れた」
パタパタとスリッパを鳴らして、洗面所に戻っていく。
「それじゃ、あとはよろしくね。哲」
「おやすみ」
「ここは任せて先に行くわ」
「最低なセリフだな」
ちょっと立場を変えただけで、名言がクズのセリフだ。
静かに笑いながら、リビングを出ていく母さん。うちの女性陣は、どうやらボケないといけない病気らしい。だが不思議なことに、ツッコミは俺一人しかいない。
廊下から、凛が「おやすみー」と言う声がする。そしてドアが開き、
「さあ、髪の毛を乾かしてもらおうか」
と威勢よく近づいてくる。
「お前、仮にも女子高生だろ? 兄貴に対してもっと抵抗を持てよ」
「ないものはない」
「潔いな……」
「さあフェチにぃ、妹の髪の毛を乾かすんだよ」
「とんでもない風評被害を押しつけるな」
誰が髪フェチだ。
「ったく。わかったから、さっさと座れ」
「ほーい」
コンセントを刺して、準備の整ったドライヤーを渡してくる。
いつもこんな感じだ。わりと小さい頃から。
父さんにおんぶされ、母さんに耳かきをしてもらい、俺に髪を乾かされる。
この甘やかされトライアングル、卒業したのは父さんのおんぶだけである。父さん、ちょっとショックそうだったな。
ため息を一つ。
ドライヤーの温度を指で確かめて、凛の髪の毛を梳く。
「このブラコンめ」
「にひひ。じゃあ哲にぃはシスコンだ」
「誰がだよ」
「だって、いつもお願い聞いてくれるじゃん?」
「お願いっていうか脅迫だろ」
なんの前触れもなく茨城に突撃してきたり、急にショッピングに連れ回したり。
「でも、なんだかんだ叶えてくれるからさ。凛ちゃんは哲にぃにべったりなわけですよ」
「将来が心配だ」
「哲にぃも同じじゃない? ちゃんと妹離れできる?」
「お前が生まれた瞬間に終わらせた」
「早すぎない!? もうちょっと可愛がってよー」
なんだかんだと話しながら、髪は乾いていく。
こうやって甘やかすから、よくないんだろうな。
「凛。お前、彼氏とかいないの?」
「いてもおかしくはないと思うんだけどね――」
「いや、わかった。灰色の高校生活へようこそ」
「まだなにも言ってないよ?」
「ろくなこと言わないだろ」
「そんなことないよ。凛ちゃんの魅力に、男子が奥手になっちゃってるだけだって言おうとしただけだよ」
「くっだらねえ」
「ひどい!」
終わったぞと背中を叩くと、こくんと頷いて片付けをする。くるくるとドライヤーのコードを巻いて、机に置く。
「ありがとー」
「おう。じゃあ、俺も風呂入って寝るから」
「明日早いの?」
「まあまあな」
「そかそか。じゃあ妹ちゃんは撮りだめしたアニメを観てるにょ」
「あんま遅くなるなよ」
「ほーい」
コップを片付けて、リビングを出る。廊下に出て、立ち止まって、少しだけ考え、再びリビングの扉を開ける。
「あのさ、凛」
「んー?」
「ありがとな」
にへっ、とだらしなく笑う凛。
世間一般の兄妹がどういうものか、俺は詳しく知らない。だけど、俺たちはきっと特殊なのだろう。
凛が俺を頼ってくれるように、俺もあいつのことを信じている。
だから二年前のあの日も、俺は凛にだけ言ったのだ。俺が犯す罪を、彼女だけは知っていた。
一つ、大きな過ちを犯した。
俺の人生において、一番大きな罪はなんだと問われれば、それだと断言できることを。
目を逸らすことはできない。
花音と向き合うとは、つまり、そういうことなのだから。




