56話 阿月哲 その1
「泣かないよ。おれは男だから、強いんだ」
◆
お盆休みは移動が激しいからと、二日早い便を予約した。早起きして、キャリーバッグを転がして駅に行き、電車で水戸まで。バスに乗り換えて、茨城空港。
お土産には、適当な地元の菓子屋で買ったものを。ご当地のものじゃないけど、原料は茨城産ってことで。
搭乗時刻になって、飛行機に乗り込む。窓際。平日ということもあって、空席はそこそこある。
アナウンスが機内に伝わって、シートベルトを確認するキャビンアテンダント。荷物を足下に押し込んで、文庫本を開く。
しばらくして、ゆっくりと飛行機は動き始める。滑走路に入る。急加速して、体が座席に押しつけられ、傾く。地面を駆けるように自然に、機体は空へと上昇していく。
文字を追うのが億劫になって、本を畳んだ。膝の上に載せて、ぼんやりと窓の外を眺める。小さくなる街並み、というか木々。空港の周りは、高い建物が見当たらない。
加速して、高度が安定する頃には徐々に眠気が襲ってくる。
コーヒーのサービスを受け取るより前に、意識は途切れた。
寝不足だったせいだ。
再び目を開けたとき、景色は一変していた。灰色のアスファルト。整備員と、ガラス張りの空港。
北海道最大の空港。新千歳空港に到着したらしい。
予定より五分早くついた旨を伝えるアナウンス。皆様のご協力のおかげで――というが、俺は寝ていただけだ。みたいなことを、毎回思ってしまう。
電源を切っていたスマホをつけなおし、家族グループに「到着」とメッセージを送っておく。数秒で凛から了解のスタンプがきた。
凛は暇だから、札幌駅まで迎えに来るらしい。俺の家、札幌駅が最寄りじゃないんだけどな……あいつ、何考えてるんだろ。
新千歳空港と札幌駅をつなぐ快速エアポートに乗り込んで、椅子に座り、ぐったりと壁に寄りかかる。
ダメだ。上手く力が入らない。
理由はわかってる。精神的な問題だ。俺、いっつも精神やられてんな。学習能力がない。
でもって、もっと疲れるとわかっているのに、スマホを開く。メールボックスを確認。
『明日、楽しみにしてるわ』
短く送られてきたメールは、ほんの数日前のもので。
なのにもう、永遠に繋がることのない場所にある。
その代わり一番上には、【新島花音】の名前があった。昨晩送られてきたものだ。
『哲へ
いよいよ明日、札幌に来るんだってね。
私は昨日着いて、今は登別にいます。温泉サイコー!(笑) 明日は熊牧場に寄って、夕方頃に札幌に戻ります。
だから、会えるとしたら明後日かな。お盆には道東に行って、母方のお墓参りをするらしいから。で、そのまま長野に戻ります。
詳しい話は、会ってから。
花音より』
昨日から見て、明後日。つまり、今日からは明日。
明日。俺は花音と会う。
あれほど遠く、永遠に交わることがないと思っていた彼女と。再会する。
二年の時が経った。あまりに長い時間だ。どんな顔をすればいいかわからないし、やっぱり心は整理できないでいる。
俺の理想は死んだけど、新島花音は存在する。
だから――揺らぐのだ。
わけがわからない。脳がバグったみたいに、自分の感情を言葉にできずいる。
俺にすらわからないことを、誰かにわかられたくない。
そうやって、俺は氷雨を拒絶した。自分は踏み込んだくせに、踏み込まれるのは苦手で、馬鹿みたいだ。冷静になるほど愚かしい。だけど、撤回しようとも思えない。
この決着は、俺が俺自身の手でつけないといけない。
電車は田舎道から徐々に発展し、新札幌あたりから見慣れた風景になっていく。終点、札幌。のアナウンスが流れるタイミングで立ち上がり、出口までスーツケースを引きずる。
深呼吸を一つして、表情を作る。
あれでウチの妹は鋭いところがある。いろいろ察されるのは面倒なので、明るく振る舞わないといけない。
さて。
どうせいるんだろ? ホームに。定期券を持ってるはずだからな。
「やほほほい哲にぃ」
「俺の家系にサルは混じってないはずだが」
キヨスクの影から出現した我が妹、阿月凛には驚かない。冷静に初っぱなのボケをさばく。このへんの感覚は、長年培っただけあって安定しているらしい。
「こんなに可愛い妹をサル呼ばわりするなんて!」
「本当に可愛いやつは、自分のことを可愛いって言わないんだよ」
「なしてや!」
「周りから言われるから」
「うぐっ、真理だ」
目に見えてダメージを受ける凛。
うちの妹、可愛いのかな……血が繋がっているせいかよくわからん。っていうか、俺にちょっと似てるから。判定しづらいというか。
「つーか、なにしに来たんだよ。家で待ってればいいだろ」
「ところがどっこい、そうもいかないのです」
「なにが」
「うちが共働きなのは知ってるでしょ。そうすると、昼ご飯を自分で用意しなくっちゃいけない」
「すればいいじゃん」
「めんどい」
「貴様」
「いいじゃん今日くらい、ね、可愛い妹とランチしたいでしょ?」
「俺は家帰るから、お前はランチ食って帰ってこいな」
「哲にぃが冷たい!」
乗り換えのホームに移動しようとするが、後ろから凛がしがみついてくる。
「重てえっ」
「女の子にそういうこと言っちゃいけないんだよ」
「お前は女の子に含まれねえんだよ……」
「助けてよぉ。ラーメン屋には一人で入りづらいんだよぉ」
「あぁ?」
「日刊妹ちゃんのお願い。ね」
「頻度がたけえ」
ラーメンか。まあそりゃ確かに、仮にもJKが一人で行けるようなところじゃない。行けることは行けるけど、やっぱり抵抗はあるのだろう。
「……今回だけだぞ」
「ちょろいね、哲にぃ」
「やっぱ帰るわ」
「ごめんなさい!」
◇
結局ラーメンを食べた後も、凛のショッピングに付き合わされた。妹の買い物とか、鬼のように興味がないんだが。保湿クリームに化粧用品、秋服の準備も、そろそろしないといけないらしい。
「女の子は大変なのですよ」
「わかったけど、せめて俺の荷物は家に置かせろよ」
スーツケース持って移動するのがどんんだけ面倒か、わかってんのか。
「でも哲にぃ、家に帰ったら二度と外に出ないじゃん」
「否定はしない」
「自由に連れ回せるのは今日だけだから、許してちょ」
「絶妙にムカつくなお前な」
許しを請う態度ではないし、どうせ俺が怒らないことを知っている。
電車に乗って、やっと家路につく。
時刻はすっかり夕刻。オレンジ色の空が、いやに懐かしい。
十五才まで歩き続けた道を通って、住宅街の中の一軒家。我が家に帰る。戻ってくるのはお盆と正月だけだから、半年ぶりか。
玄関に入った途端、全身の緊張が切れるような気がした。実家に戻ると、いつもこうなる。急激に眠気が襲ってくる。
洗面所で手洗いうがいをして、スーツケースを二階の自室に。
「疲れたからちょっと寝る」
「り。晩ご飯になったら起こすねー」
「ん。助かる」
自分の部屋は、中学を卒業したときから時間が止まっている。高校受験の参考書、二度と使わない野球用品、集合写真、卒業アルバム。それらが奇妙なほど整然と並べられた、俺の人生の博物館みたいな空間。
もうここに住んでいるわけじゃないから、どこか殺風景で空っぽだ。
ベッドに倒れ込んで、すぐに意識は暗闇に飲まれた。
◇
――七年前――
「哲はダメだなぁ」
足が遅くて、反応が鈍くて、頭が悪くて、クイズもできない、演技も苦手で、歌も下手、絵ができるわけでも、工作が得意なわけでもない。
幼稚園から小学校にかけて、人気者になるための要素を俺は、なにひとつ持ち合わせていなかった。
「花音がすごいんだよ」
「そう? 私は普通にやってるだけだけど」
対照に、全部を持っているのが幼なじみの新島花音だった。
背が高く、足も速く、可愛くて、オシャレで、なんでもできる。成績だってオールAなんてのを取ったりして。誰もが憧れるスーパースター。
「哲だって、ちゃんとやればできるんだから。頑張りなさいよ」
「いやー、ぼくはいいよ」
幼いながらに、才能というものを感じていた。だから素直に首を横に振る。やっても届かないことは、明白だから。
本を読んだり、ゲームをしているほうが自分にはあっている。花音と一緒に野球チームには入ったけど、そこでもずっとベンチにいるし、これからもたぶん、そうだ。だけど、そのことは不満じゃない。スーパースターは花音だ。そのことを誇れれば、それでいい。
だけど、花音は完璧じゃなかった。
すごいけど、強くはなかった。
それを知ったのは、嵐の日。
雷なんて滅多に鳴らない札幌に、その日は世界の終わりみたいな轟音が響いた。ほんの十才の子供にとって、それは強烈に不安を煽るもので、授業中の教室は混乱に包まれた。
哲の隣にいた花音は、窓の外が光るたびに震えていた。震えて、多くの女の子がそうするように、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「怖いの? 花音」
怖いのは自分も同じだった。けれど、泣くほどではないと思った。というか、花音が泣いているのに驚いて、恐怖が薄らいでいた。
「怖い……哲は平気なの?」
濡れた瞳で見つめてくる。
その時、ずっと大きく見えた少女が、自分と同じ大きさに見えた。
新島花音というスーパースターは、ありふれた女の子なのだと知った。守らなくてはならない相手なのだと、大切な人なのだと自覚した。
だから。
「平気だよ」
「……泣かないの?」
「泣かないよ。おれは男だから、強いんだ」
強がりたいと思った。
強いと思われたかった。花音を守りたいと思った。
彼女の隣に、立ちたいと思った。彼女にはずっと、笑っていてほしいから。
そうやって、初恋は始まった。
◇
つんつん、つんつん。
鼻先をつつかれる。くすぐったくて目を開ける。
「あ、起きた」
掠れた視界。聴覚だけがクリアで、変な音を拾う。
凛の声じゃない。父さんでも、母さんでもない。白色蛍光灯の灯る部屋。まぶしい。
「ご飯だよ、哲」
「もうそんな時間か……」
なにかが、なにかが決定的に違う返答。本当に気にするべきはそこじゃないのに、まだ頭が眠っている。
なんだこれ。夢の続きか?
だけど、もしかして――
体を起こして、ベッドに座る。頭をガシガシと掻いて、強引に脳を動かす。夢じゃない。夢じゃなかった。
「明日じゃなかったのかよ……」
「親同士がね。一緒に晩ご飯食べようってなったみたい」
ベッドの横にぺたんと座った、見慣れた顔。二年経って、ちょっと大人っぽくなってはいるけど、面影のほうが強い。
小麦色の肌と、活発そうなセミロングの黒髪、ぱっちりした目に、笑うと大きくなる口。
「久しぶりだな、花音」
「うん。久しぶり」
言いたいことは山ほどあったはずなのに、こうして目の前に来るとなにも出てこない。
きっとまだ眠たいせいだ。そう思いたかった。
そうじゃないと、頭ではわかっていた。