55話 線香花火
散策路が終わる直前、小日向と繋いだ手は放した。どちらからともなく、自然と。
「ふぅ。やっと終わったね」
「思ったより長かったな……」
開けた場所がやたらと落ち着く。風が吹いて、まだ熱を持った左手を撫でていく。
「ありがと。テツくんがいなかったら、今頃うずくまってた」
「森の中で?」
「お地蔵様の前で」
「それは大変だな。無事帰ってこれてよかった」
スマホを開いて、メッセージを確認する。一輝から、先に戻っているとあった。
「キャビンに戻ってこいとさ。行くか」
「ねえ、テツくん」
「ん?」
伺うように、あるいは確かめるように。小日向は聞いてきた。
「もし、あたしが森の中で歩けなくなってたら……助けに来てくれる?」
「呼んでくれれば、すぐに行くよ」
「そっか」
「どうしてまたそんなことを?」
「ううん。聞いてみたかっただけ」
満足そうに笑うと、手を後ろで組んで伸びをする。気持ちよさそうな声を出して。
「戻ろう!」
軽やかな歩調で、先を行くのだった。
◇
キャビンに戻った俺たちを出迎えたのは、入り口近くに集まった四人だった。エージがちょうど中から出てきて、手にバケツを持っている。
「揃ったな、じゃあ、今回最後のビッグイベントだ」
にたりと笑う一輝。
もう、なにをやるかはわかっていた。小日向は小走りで輪に加わっていく。俺はその後を、ペースを変えずに。
アスファルトの上にロウソクを立て、火を灯す。
レジ袋から巨大な包装に包まれたそれを取り出し、破く。
「ほれ、好きなの取って。線香花火はラストなー」
各自が適当に手を伸ばし、一輝が最初の一本を火にかざす。
沈黙ではなかったが、誰もが口数を少なくする。じっと、着火部分から火薬まで炎が達するまでを見つめて――
緑色の火花が散る。
おおっ
声にならないような、曖昧な音が響く。小さな感動がそこにはあった。
順繰りに火をつけて、じっと見つめて、ちょっと振ったりして。楽しみ方は、何歳になっても変わらないみたいだ。
手で持つ花火、ちゃんとやるのはいつぶりだろう。中学に入ってからは忙しくて、できなくなって。だから、小学生以来か。
「あの、テツ先輩」
三本目を手にしたタイミングで、エージがやってきた。
「おう、どうした?」
「俺、誰も狙ってないっす」
「ん?」
「やっぱ年上じゃないかなーって思ったんすよね。リードされるより、したいっていうか」
「お、おう……」
「なんで、誰も狙ってないっす」
「そうか」
ブシューッ、と気の抜ける音を立てて火花が飛ぶ。
真面目なムードにするには、手持ち花火はどこか滑稽だ。燃えている間は、長いなと思っても、消えたらあっという間で。残り火が揺らめくのを、なんとなく眺めてしまう。
「テツ先輩は、好きな人いないんすか?」
「今日ここにいる全員」
「そういうことじゃなくて、特別な人ってことっすよ」
「なんだ? さては俺のこと狙ってるな」
「ぬわっ――まさか俺、テツ先輩のこと!? って、そんなわけないでしょう」
ちゃんと乗ってから、話しを戻してくる。
うやむやにはできなかったか。
「特別か。そんな難しいこと考えられるほど、俺は余裕ないからさ」
今は、まだ。頷くことはできない。
「そういうもんなんすね」
「ちょっと、そこ二人。どんどんやんないと、なくなるわよ」
名取が近づいてきて、新しい花火を俺とエージに手渡してくる。
「そうっすね。じゃ、失礼します」
軽いフットワークでエージが離れていく。少しだけ名取から逃げたようにも見えたけど、気のせいだろう。たぶん。
一輝たちは――一人で二本ずつやったりして大いに楽しんでいた。二本ずつ……ポッキーとかも何本かまとめて食べたくなるよな。あれと同じ魅力がある。
火のついていない花火を手で転がしながら、なんとなく、名取に話を振ってみる。
「どうだった? 氷雨さんと話して」
「フツー」
「微妙な反応だな」
「違うし。普通に楽しく話せて、なんか、よくわかんなくなった」
名取の視線の先には、舞い散る火花に見蕩れる氷雨がいる。
「あれは本当に氷雨小雪なの? 私が知ってたのじゃない。ねえ、阿月。あの子は、あなたが変えたの?」
「変わってないよ、なにも。人はそんな簡単に変わらない」
氷雨は最初からずっとああだった。一人の退屈を、受け容れたフリをして。だけど本当は知りたいことがたくさんあって、行きたい場所があって、やりたいことがあって。
隠していたから、見えなかっただけだ。
「周りにいる人が変わって、学校がキャンプ場になった。それだけだ」
「じゃあ、学校にいったら元通りってこと?」
「周りから特別扱いされて、切り離されたら、そうかもな。だけど、違うだろ?」
「そうだけど……」
人の内面は、劇的には変わらない。俺に誰かを変えるような力はないし、ほしいとも思わない。それはエゴだから。
「周りが変わって、見えなかった顔が見えるようになる。根っからの悪人なんて、そうそういない。出会い方が、接し方が、タイミングが悪かっただけ――俺は、そう思うよ」
そうだといいと思う。
「やっぱり、阿月って変なヤツ」
「俺が?」
「なーんでもなーいです」
聞こえない聞こえない、と手で耳に蓋をして、名取は歩いて行く。氷雨のほうへ。
さて、俺ももっと花火を消費するかね。
二本同時、めっちゃ楽しそうだ。
◇
あっという間だ。なにもかも、あっという間に過ぎていく。
海にいたと思ったら、バーベキューをやっていて、肝試しの森にいたと思ったら、もう手には線香花火を握っている。
線香花火に、終わりを感じるのはきっと、共通の認識だ。
こんなに細く、小さく、なのに力強いものに、命に似た温もりを覚える。それが尽きるとき、言いようのない寂しさを感じる。
刹那の間に輝き、ぽとりと地に落ちる火花に、心を奪われる。
そして落ちたときに、こう思うのだ。「ああ、終わったな」と。どこまでも、爽やかな気持ちで。
◇
花火の片付けを終え、疲れた面々は部屋に戻る。
俺は一人、キャビンから少し離れた管理棟の前。
眩しいライトに、虫がたかる自販機。財布から取り出した小銭を投入して、お茶を買う。咄嗟にコーヒーに手が伸びそうだったけど、なんとか堪えた。
あの黒い液体は、寝る前に摂取していいものではない。
振り返ると、ちょうどもう一人こっちに来ているところだった。なんとなく、シルエットでわかる。氷雨だ。
「百年ぶりね、阿月くん」
「そんな因縁はねーよ」
唐突にライバル関係を築こうとするな。
「水を買いに来たわ」
「報告必要だったか?」
ガコン、と音がして、氷雨がしゃがむ。手にしたペットボトルを見せつけるようにして、
「お茶を買ったわ」
「なんで!?」
マジで理解できない。
「ちょっと面白いでしょう?」
「面白いけども」
やたら自信満々に言う氷雨。……こいつ、進む道を間違えてないか? 大丈夫? そのうち吉〇興業に入るとか言い出さないよね?
「…………」
「…………」
「もしかして、私がボケたせいで会話が始まらないの?」
「その通りだよ!」
「ボケると、次もボケ続けないと会話できないなんて……。凛ちゃんって、凄い才能の持ち主なのね」
「尊敬する相手を間違ってるぞ」
「阿月くんのことは尊敬してるわ」
「違う違う」
そうじゃないって。
俺のこと尊敬してもなんにもないから。無難にメンデルとかを尊敬してほしい。
尊敬とか、やめてほしい。小恥ずかしくて、頭を掻いてしまう。
「あなたは、尊敬に値する人よ」
「だから、それは買いかぶりだって。俺は別に、凄いヤツじゃない」
「知ってる」
驚くほどあっさりと、氷雨は頷いた。
「阿月くんが普通の人なのは、知ってるつもりよ。それに、すごい人がすごいことをしても、どうも思わないわ」
「…………」
「あなたは普通の人。普通の人が、普通以上に頑張って、強がって、成し遂げる。そんな人だから、尊敬できるのよ」
「……そんなふうに見えてたのか、俺」
買いかぶりだ。そう思う。だって俺は、なにも成し遂げていない。
だけど氷雨は、俺の強がりを、塗り固めた阿月哲という仮面の下に気がついている。その上で認めてくれるなら、受け容れるのが筋なのだろう。
ありがとうと、そう言うのが正しい。
だけど、それより先に、氷雨が言う。
「最近、阿月くんのことを考えるの」
俺以外の男だったら、絶対に勘違いしている。彼女は時々、とんでもない勘違いをさせにくる。
ペットボトルを両手で持って、上目遣いの氷雨。薄暗がりの中で、月の光だけが彼女を照らす。
ずいぶん近づいたなと思う。俺たちの距離は。あまりに速くて、変化に気がつけないほどに。
だから、油断していたんだ。
誰に対しても必死に保っていた一線を、なぜか彼女だけは越えてくる。隠していたものを、なんの躊躇もなく暴いてくる。
「どうしてあなたは、そんなに悲しそうなの?」
「――俺が、悲しそう? なに言ってるんだ」
腹の底が冷える。図星だったからだ。どうにかして、この話題だけは逸らしたかったからだ。
だけどそんなこと、彼女が許してくれるはずもない。
「私には、あなたが消えてしまいそうに見えるわ」
「…………」
逆転していた。
いつか俺が投げた言葉が、そのまま返ってくる。そして俺は、なにも返せない。
どうして俺は、氷雨小雪に近づけた? なんで彼女の抱えていた悩みにたどり着いた?
答えは簡単だ。俺も、同じだから。
「今年の夏が終わって、冬が終わって、受験が始まって、大学生になって――その先の未来に、あなたはきっといない。そのことだけは、はっきりとわかるの」
友人として繋がっていることもない。きっと氷雨が言っているのは、そういうことだ。
だろうなと思う。
俺はきっと、高校を卒業したら、また一人の道を行く。緩やかに、人知れず、繋がった縁を解いていく。
ため息がこぼれた。
「氷雨さんには、わからないさ」
口をついてでたのは、拒絶。理解されることを避ける、紛れもない俺の本質。
「それでも――」
振り払っても、また手を伸ばしてくる。そうするのが当たり前のように。
俺のことを、真っ直ぐに見つめる双眸。吸い込まれた。呼吸すら、忘れてしまうほどに。
彼女は目に涙をためて、頬を赤くして、途切れそうな言葉を、繋いだ。
「私は、ずっと、阿月くんといたいわ。あなたのいない未来なんて、きっとつまらないから」
俺は馬鹿じゃない。
馬鹿じゃないから、ちゃんとわかるよ。その言葉の意味が。
逃げてきたから、知ってるんだ。同じ痛みを、味わったことがある。
だから言わなきゃならない。
「……ごめんな」
俺は、その言葉に応えられない。
「…………そう」
氷雨は俯いて、キャビンのほうへ走り出した。振り返らず、真っ直ぐに。
なんだよ。これじゃあ、戻れないじゃんか。
芝生に座り込んで、大きくため息をつく。頭がごちゃごちゃしていた。自分でもわかるくらい動揺していた。
気がつかれなければ、変わらずにいられたのに。
「なんで、……お前なんだよ」
苦しくて、吐きそうなくらい苛立って、なのに頑丈な体は、普通に息をする。
俺は、俺が嫌いだ。
◇
気まずい空気を覚悟したが、その後はなにもなかった。
本心を隠すのは、得意だったから。普通通りに振る舞っていたのだ。何事もなかったように。俺も、氷雨もそうやって乗り切った。
こうして一泊二日は終わり、夏休みも半分を過ぎる。
お盆休みが、やってくる。
三章は以上です。
次回から四章。引き続きお楽しみください。
大丈夫。最後はきっと笑える。




