42話 嵐の前の嵐 その4
最近忘れそうになるが、氷雨小雪は周囲から隔絶した美人である。
こういう表現は嫌いなのだが、一部からは顔面偏差値80とまで言われている。
少なくとも、そうそうお目にかかれるレベルではない。
「あわわわわわ……すっごい美少女だよ。美少女図鑑の中にいる人だよ」
「怖じ気づくな凛。相手は普通の人間だ」
さっそく腰が引けている妹を前に押して、氷雨の前に突き出す。
ずいっと。
するとなぜか、氷雨が一歩後ずさった。手で体をブロックするように。
二人の間に、妙な緊張が産まれる。
ああ、そういえば氷雨、人見知りするタイプなんだっけか。凛が警戒する理由はよくわからんけど。
しばらく待っていよう。
「…………」
「…………」
両者なにも言わない。会いたいって言ったの、お前らだよな?
黙っているのを観察すると、じぃっと氷雨が見つめてくる。助けてくれの合図だ。相変わらず、こいつは目で喋る。
「あー、こいつが俺の妹。阿月凛。アホの子だ。んで、そこにいるのが氷雨小雪さん。俺の同級生で……人間だ」
「「ちょっと!?」」
ざっくり紹介すると、二人からツッコまれた。
「あにぃ! アホの子って、なんで隠してくれないのさ!」
「阿月くんにとって、私はその程度の存在なの?」
揃ってめんどくさいことを言い出した。
いや、俺の紹介も悪かったけどさ。じゃあ他にどう言えばよかったんだ?
しばらく考えて、じゃあ、と前置き。
「やり直させてくれ」
セカンドチャンス。
「こっちが俺の可愛い妹、阿月凛。んで、こっちが仲のいい同級生、氷雨小雪さん」
「面白味に欠けるわね」
「あにぃ、そんなんじゃモテないよ」
謎に結託して責めてくるじゃん。
「じゃあ、自分でやれよ」
それだけ息が合っていれば、もう大丈夫だろ。
半ば投げやりに任せると、今度はいけそうな雰囲気。凛がコホンと咳払いして、
「阿月凛です。昨日はあにぃと寝ました」
「…………」
氷雨はぽかーんとしている。
「ちょっと待てお前」
首根っこを掴んで、五メートルほど引きずる。
「お前、言い方、お前」
「てへっ☆」
「ぶっ飛ばすぞ!?」
確信犯かよ!
「ネタに走っちゃったよね」
「よね。じゃねえよ! 許せるか!」
「許してマッスル」
「やかましいわ」
額にチョップして、大きくため息。氷雨の方に戻って、謝っておく。
「すまん。うちのアホが」
「アホの子でごめんなさい」
ぺこり、凛も頭を下げる。自覚があるのはいいことだ。改善する気があればだけどな。
「え、ええ、いいのよ別に。阿月くんとは、私も寝たことが……寝たことはないけれど」
「氷雨さん!?!?」
軽く凛を後ろにどかして、今度は氷雨と作戦会議だ。
「なに言ってるんだ、お前、なに言ってるんだマジで?」
「寝たことはないわ」
「そうだな。じゃあ、言う必要はないだろ?」
「…………そうね」
「なんで悩んだ!? なにを悩んだ!? いや、言うな。もう何も言うな」
今世紀で一番パニクってる自信がある。
ダメだこいつら。お互いに地雷を抱えすぎている。
……俺が主導権を握らなければ。
「どしたのあにぃ?」
後ろからひょこっと、凛が割り込んでくる。その目が明らかに、俺のことを疑っている。
母さん譲りの、有無を言わせぬ視線。
「いや、なんでもないぞ」
それに対して俺は、父さん譲りの落ち着いた対応を見せる。
表情筋一つ動かさず、声の抑揚もなくす。阿月家では常に、高度な心理戦が行われているのだ。
「ふうん」
引き下がったように見えるが、それはブラフだ。こいつ、確実になにかを察していやがる。
それに引き換え、氷雨はどうだ。いつも通りの不思議そうな、一見すればミステリアスな表情をしている。俺は知っている。この顔のとき、氷雨はなにも考えていない。
俺が、……俺がしっかりしないと。
「立ち話もなんだし、移動しようぜ」
とりあえず、会話の中心はキープだ。
◇
茨城県でご当地のものが食べたい! と言った子供は、スーパーの納豆エリアに連行されるという怪談を聞いたことがある。
他県民が想像するとおり、この県は異様に納豆が強い。
茨城に生まれ育った子供は気がつかないが、それは立派な洗脳教育の結果である。
北海道のスーパーには納豆なんて三種類くらいしかないし、藁納豆なんて歴史の資料集でしかお目にかかれない。
だがどうだ、ここのスーパーは、棚が一区画納豆に占拠されている。タレの種類もゲル状だとか、あるいはタレなしとか、豆も小粒、極小、果ては黒豆納豆なんてものまである。
逆に言えば、それくらいしかとっつきやすいものがないのだが……。
ということで、やってきたのは普通のファミレス。お手軽イタリアンの、あの店。
全国どこにでもあって、いつでも同じクオリティ。近代文明の為せる技だと思う。
茨城らしいものが食べたい! と言っていた凛には、あとで干し芋を買ってやろう。お土産もあれでいいだろ。日持ちするし。美味しいし。
そんな素晴らしい店のソファに座っても、俺の心臓はおかしなリズムを刻んでいた。明らかに一定じゃない。強すぎるストレス。圧倒的なプレッシャーが、体の調子を狂わせる。
座席は、俺と凛が隣。俺の正面に氷雨。
ちなみに凛が通路側をキープしているので、文字通り逃げ場がない。
メニューを眺めながら、我が妹が聞いてくる。
「はいっ、あにぃ。注文は何万円までオッケーですか?」
「単位が千を越えることはねえよ。店ごと食う気か」
「店ごと食べたらゼロ円になるかな」
「思考が怪獣のそれなんだよな」
ウルトラマンに倒されてしまえ。
そんなやり取りをしていると、ちょんちょんと氷雨に袖を引っ張られた。
「ん。どうした?」
「阿月くんって、そんなふうに話すことがあるのね」
「あ、悪い。ちょっと凛相手だと口が悪くなりがちで」
「違うわ。少し、……羨ましいと思っただけ」
「羨ましい?」
彼女と話していると、時折、あまりにもストレートに感情が差し出される。普通はもっとわかりやすく噛み砕いて、あるいは包み隠すものだから、少し戸惑ってしまう。
羨ましいとは、なにに対してなのだろうか。
「俺と凛みたいに話したいのか? でも、ボケが必要だぞ」
「そうなのです。凛ちゃんがボケ担当だから、あにぃが気持ちよくツッコめるのです」
「お前は天然だろ」
「本当にそうだよ」
「本当にそうかな? みたいなノリで言うな。紛らわしい」
どこまで本気なんだか。十五年兄貴をやっていても、わからないことばかりだ。
誰かのことなんて、わかるはずがない。
「そういうのじゃ、ないのだけど……難しいわね」
「あにぃともっと仲良くなりたい、ってことじゃないんですか?」
「そうなのかしら?」
「そうなのではないかと!」
「らしいわ、阿月くん」
「お、おう……?」
なにが決まったのだろうか。凛の不可解なペースと、氷雨の不可思議な脳内が相乗効果を示して、さらなる高みへ昇ってしまっている。
もはや俺にはついていけない。
「そして注文はドリアとピッツァがいいよ、あにぃ」
「私はサラダとカルボナーラにするわ」
「お、おう……? この流れで……?」
さっきの話はもう終わったらしい。
ダメだこれ。主導権、どこにもねえ。
茨城好きすぎて帰省したら2ヶ月経ってました。