4話 帰り道を送る役割。ただし恋人ではない。
放課後、宣言通り氷雨は教室までやってきた。
周りのざわめきも気にせず、真っ直ぐに俺のところへやってくる。
「悪い。こっちから行こうと思ってたんだけど」
「いいのよ。それより、どうだったかしら」
「めっちゃ美味かった」
「本当?」
「具体的に言うとカボチャの煮物がよかった」
「どうよかったの?」
「ちゃんと形があって、ほろほろしてて、味が染みてて。あんな美味いの初めて食べたぞ」
「そう」
氷雨はくるりと背を向けて、受け取った弁当箱をしまう。
ほんの一瞬。ちらっと見えただけだけど……笑ったよな。こっち向いて笑ってくれればよかったのに。
「ところで阿月くん。今日はこの後、なにか予定が入っていたりする?」
「今日はなにもない」
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらってもいい?」
そんなことを言い出すもんだから、教室はすごいことになっていた。
中でも、小日向の動揺っぷりは物凄かった。
「氷雨さんは男嫌い……でもテツくんと仲がいい……つまり、テツくんは女の子?」
「落ち着け。俺は男だから」
「阿月くんの男らしさは私が知ってるわ」
「待って! それなんかすごい誤解されるやつだから!」
氷雨は不思議そうにしている。
想像力豊かな男子たちは「まさかっ」「もう!?」「高校生の三割は経験すると言うぞ!?」などと絶叫している。本当になにもないって。
「ここはうるさいわね。移動しながら話すから、行きましょう」
「……そうするか」
うるさい原因は氷雨なのだが、本人は気にも留めていない。誤解は後で解くとして、今は黙って従おう。
さようなら。俺の平和な生活。
◇
「森本珈琲についてきてもらっていい?」
学校を出て、通学路を歩き、駅に着いたところでようやく目的地が発表された。
「ああ、あの。働いてるところか」
「そうよ」
電車に乗って、自宅の最寄り駅で降りる。
森本珈琲は、家からそう遠くない場所にある。
「阿月くんは、なにも聞かないのね」
「聞いたほうがよかったのか?」
「どうかしら。それって、難しい質問だと思うわ」
俺はペースを合わせ、氷雨の横を歩く。道路側を歩くとかいうのは、意識しているみたいなのでやらない。
「難しい、ね」
「今は少しだけ、話したいような気もするのよ。でも、聞かれていたらそう思わなかったかもしれないわ」
「天邪鬼な」
「そうね。だけど、あなたのことを信頼してみようと思ったのは、なにもしてこなかったからなのよ」
「なにもしなかった?」
「二回も助けてくれたのに、見返りを求めなかったでしょう」
真っ直ぐそうやって言われると、くすぐったい。
「別に、ただのお節介だ」
「助けられたっていうのは、された側の主観よ」
正論なのだろうか。わからない。
ただ、信頼されている。誰にも心を開かない相手から。
そのことがほんの少しだけ心を浮つかせる。
小さく息を吐いて、首を横に振る。
「つーか、見返りを求めたら助けたってことにならないだろ。それはある意味、脅迫だ」
助けた後に条件を提示するなんて、金を押しつけて言うことを聞かせるのと同義。俺が最も忌み嫌うことだ。
「そうね。阿月くんの言うとおりだわ」
「だろ? これが普通なんだよ。だから過剰に恩なんか感じないでくれ」
「ボランティア精神っていうのかしら」
「自己満足で十分だよ」
肩をすくめる。
くすりと、氷雨は表情をほころばせた。そのことに自分が驚いたようで、口元をさっと手で隠してしまう。
「……笑ってないわ」
「いや、無理があるだろ」
「…………笑ったかもしれないわね」
「頑なだなぁ。ま、いいけどさ」
イロモネアをやってるわけじゃないから、判定は適当でいいだろう。
そのまましばらく歩いて、森本珈琲に到着。表には定休日と出ていたが、中の灯りはぼんやり点いている。
氷雨は迷わずにドアに手をかけ、開ける。
「店長。連れてきました」
「やあ、いらっしゃい」
カウンター越しに老紳士が頭を下げてくれる。俺も会釈を返して、招かれるまま店の中へ。定休日のカフェは、非現実感に包まれている。
「どうぞお掛けください。いつものコーヒーでよろしいですか?」
「ありがとうございます」
「小雪さんも座って。君はアイスティーでいいかい?」
「コーヒーは飲めません」
やけに自信満々に言う氷雨。店長は笑顔で応じ、滑らかな動作で二人分の準備をしてくれる。
準備をしながら、店長が話を切り出す。
「先日はありがとうございました」
「いえ、別に大したことはしてないです」
「君は不思議な人ですね」
「そうですか?」
「ええ。怒るでもなく、躊躇うでもなく、ああやって動ける人は稀です。――どうぞ」
コーヒーが出される。小さくおじぎして受け取り、カップを傾けた。
ほどよい苦味と、豊かな香り。頭の奥までスッキリして、落ち着く。
「そんな君に一つ、頼みたいことがあるのです」
「……内容によりますけど」
「小雪さんがアルバイトの日、彼女を家まで送っていただけないでしょうか」
「……それが、ここで働く条件だって。言われたのよ。前まではそんな条件なかったのに」
「この時期になると、変質者が増えますから。女の子を一人で帰らせるわけにはいきません」
氷雨は不満そうにしている。
だが、店長の言っていることが正論だとは認めているのだろう。ぎゅっと閉じた唇で、不満を言葉にはしない。
やがてなにかを決意したようで、氷雨が口を開いた。
「二人にしてもらっていいですか」
「まとまったら呼んでください」
カウンターから奥のスペースに消えていく。
コーヒーを飲む。視線はぼんやり前に向けて。隣は見ない。そうしていたほうが、氷雨も話しやすいだろうと思って。
「お金が必要なのよ」
ぽつりとこぼれた言葉には、驚かなかった。じゃなきゃ、わざわざバイトなんてしないだろう。
だからこそこの先は、言うのも、聞くのも気が重い。
「家庭の問題だよな……」
「そうよ」
嫌な空気が流れる。その正体は明白だ。
「正直に言って、聞く覚悟はない」
「じゃあ、この話は忘れてくれると助かるわ。ごめんなさい、変なことに巻き込んでしまって」
「断ったわけじゃない」
俺のことを見る氷雨は。やっぱり不思議そうにしている。
そんなに珍しいのだろうか。ここは動物園じゃないってのに。
「俺に聞く覚悟ができたら、そのときに教えてほしいんだ」
一歩。歩み寄ってみたいと思った。
誰にも心を開かない少女が、俺のことを頼ろうとしてくれているのなら。応えてみたい。
お互いが傷ついてしまわないように、ゆっくりと。
確かめるように、問う。
「それでいいか?」
「それでいいの?」
声は重なって、そのことがどこかくすぐったい。
はぐらかすように笑うと、氷雨も表情を緩めた。
「んじゃ、適当によろしく。金曜と土日なら空いてるから。他は相談してって感じで」
こくっと頷いても、大きな目は俺のことを見つめたまま。表情の変化は乏しいが、決して無感情じゃない。
「……本当に、感謝しかないわ」
「大したことじゃない。俺もここに来る口実ができてちょうどいい」
「あとね、阿月くん」
「おう。どうした」
「ここでやっているのはアルバイトではなくて、知り合いのお手伝いよ」
「なるほどな。完璧に理解した」
空になったカップを置いて、この話をひとまず終わりにする。
氷雨は店長に話し、正式に俺の手伝いが決まったのだった。
◇
氷雨と別れて帰り道、なんとなく自販機でコーヒーを買った。川辺をつらつら歩きながら、カフェインで心を落ち着ける。
自分のスタンスを思い出せ。
求められれば手を貸す。手を差し伸べることもある。だが、見返りを求めてはならない。
あくまで俺は、良き支えでありたいと思う。
Q&A (回答者)氷雨小雪
――阿月哲のこと、どう思ってる?
「嫌いじゃないわ。信用のできる人よ」
※誤字報告ありがとうございます
自分の中での基準として、使い分けの難しい漢字はひらがなで記載することにしているので、修正させていただきました。
ただ、誤用に気がつけたのはありがたいです。今後もよろしくお願いします。