37話 丸投げに決定
ここの本屋は俺もよく来る。駅から近く、品揃えもそこそこで混雑もしていない。今の時代、注文すれば欲しい本は手に入るし。不便さは感じない。
「参考書って、受験のためだよな」
「そうよ」
「行きたい大学、決まってるのか?」
「そうじゃないのよ」
まあ、とりあえず学力を上げておこうという心理も理解できる。志望大学は、一番遅くて三年生の二月までに決めればいいわけだし。
「でも、大学には行きたいわ」
「氷雨さんって、けっこう頭良かった気がするけど」
「東京に出たいの」
東京。
はっきりと、彼女の口がその言葉を発した。札幌出身の俺には、あまりに遠い響きだ。
「へえ。それはなんというか、夢があるな」
「茨城だったら、バスで帰ってこられるしね」
「確かに」
料金もそこまでかからないから、気軽に戻ってこられるだろう。
手の届く中で、遠い場所。
手に取った赤本が指に引っかかって、不意に俺は思い出す。氷雨小雪が、やや複雑な家庭事情を抱えていることを。
普通にしていると忘れそうになる。忘れてもいいのかもしれない。俺が引きずって、どうにかなる話でもない。もう、その段階は通り過ぎた。
それなのに踏み込んでしまうのは、なぜなんだろう。
「結局、戻ってくるのか……父親は」
「そうね。でも、大学生になるまでは待ってもらえるみたいよ。いっそ浪人してやろうかしら」
ぺろっと舌を出して、イタズラっ子のような笑みを浮かべる。
そんな冗談を言えるくらいには、もう大丈夫らしい。
「名案だな」
誰もが、多かれ少なかれ歪みを抱えている。
氷雨の母親を責めることはできない。暴力を振るわれてなお、人を嫌いになれない。そんなのはよくあることで、彼女に罪はないのだから。
周りは変わってくれない。自分しか変われない。だから氷雨は、前に進む。
俺は――どうなんだろう。
ちょっとは進めているだろうか。変えられない過去と、続いていく未来に。少しでもなにかを為せているだろうか。
わからない。
わからないけど、最近は。ほんの少しずつ、昔のことを忘れる時間が増えている。傷は消えなくとも、麻痺していれば歩いていける。
「阿月くんは、どこの大学へ行くつもり?」
「考えたこともなかったな」
二年生から受験勉強をやっとけよー。とはよく言われるけど、まだ先のことに思える。
目の前のテストとか、課題をこなして、そこそこの順位をキープして。そうすれば、どこかへはたどり着くんじゃないか。くらいにしか考えていない。
「ただ、親には札幌に戻ってこいって言われてる」
高校時代を一人暮らしさせるから、大学は実家から通えと。金銭的な話もそうだし、親心もあるし。俺としては、あまり強気に否定できる話ではない。
「札幌……」
「前も言ったけど、元々は向こうから来てるんだ」
「どんな場所なの?」
「どんな……まあ、悪くない場所だな。半日遊んだりするには、なんでもある。ただ、観光地とかはめちゃくちゃ遠い」
「雪が降るのよね」
「降るぞ」
「三メートルくらい積もるの?」
「そうならないように除雪するから、意外とそうでもないよ。アスファルトは見えなくなるけど」
「想像できないわ」
この辺りだと、雪が積もることは稀だ。積もっても、昼には溶けきってしまうらしい。
でも、それくらいでいいんだと思う。
「本場の雪なんて、綺麗なもんじゃない。パッと降ってさっと溶けるのが一番だ」
道路脇に寄せられた雪山の、あの汚さよ。あれを見たら憧れなんて消し飛ぶだろう。
綺麗なものは、綺麗なままなくなるのがいい。
「寒いの?」
「ここよりは」
「大変そうね」
「その代わり、北海道にはでかい台風が来ない。どこも似たようなもんだ」
面倒なところもあれば、便利なところもある。簡単に比較できるものではない。
話ながら歩いていると、旅行雑誌のところについた。氷雨は、おもむろに北海道。と書いてあるものを引き抜く。
パラパラめくって、「いいところね」と呟く。
「いつか行けばいいさ」
「誰と?」
あまりに率直な疑問を投げられて、一瞬だけ迷う。
だが、答えはすぐに出た。
「お母さんとか、連れて行ってあげればいいんじゃないか?」
「そうね。きっと喜ぶわ」
我ながら名案だった。もし、大学に行って、俺が札幌に戻って。その時に氷雨がやってきたなら、軽く案内するのもやぶさかではない。
「んで、参考書はどうするんだ」
「数学をなんとかしたいのだけど、おすすめはある?」
「んー。苦手分野による」
「図形ができないわ」
「じゃあ、解説が丁寧なほうがいいな。学校の、ちょっとわかりづらいし」
何冊か手に取ってめくる。だが、どれもしっくりこない。
図形の解説って、まあ、紙に残せるもんでもないよな。思考の過程はある程度削らないと、何枚あっても足りない。
「もしいいのなかったら、俺が教えようか? 図形、そんなに苦手じゃないし」
「いいの?」
「時間があるときなら」
「じゃあ、お願いしようかしら」
これでも進学先は理系の予定だし。数学が苦手な相手に教えるくらいなら大丈夫だろう。
ま、その代わりに英語ができないんだけどな(致命)。テストは丸暗記で乗り切ってるけど、受験レベルになると不安しかない……。
ちょっとずつやってはいるから、今はまだ深刻に考えまい。受験期になったら本気出す……。
「じゃあ、参考書は終わりか。ついでだし、ちょっと本見ていいか?」
「いいわよ。阿月くんがどんな本を読んでいるのか、興味があるわ」
「ミステリー」
「……………………へえ。面白そうじゃない」
「そんなに頑張らなくてもいいんだぞ?」
お世辞は苦手でも、優しい嘘はつけるらしい。なんか泣けてくるな。
ミステリー好き、ちっとも共感が得られない。
「楽しめない気持ちもよくわかるからさ。これは俺一人で楽しむ趣味でいいんだ」
お気に入りの作品が文庫化していたので、棚から抜き取ってみる。
「でも、面白いのよね?」
「後半がな。前半は俺もキツい」
途中で寝たり、しばらく放置したり、最悪の場合は最後まで読んでも面白くならなかったり。そういう諸々の要素を含めても、面白いと思えるから。
「他になければ、行こうか。……って、どこ行くか決まってないけど」
ダラダラと中身のない会話をして、目的もなく歩き回って。
そういう過ごし方も悪くない。少なくとも、俺にとって氷雨はそういう相手なのだと思う。
雑貨屋をぶらつきながら、ふと考える。
今度の泊まり。誘ったら来るだろうか。来てくれる気がする。それならきっと、その方がいい。
しかし、だ。
一輝は他にも数名呼びたいと言っていたから、加わること自体はできるだろうけど。小日向以外の女子とか……どうなんだろうな。
女友達なぁ。氷雨の女友達、女友達、……おんな……。
ウチの学校の女子だったら喧嘩になりかねないし。
とりあえず、後で一輝に相談するか。
あいつなら、どうにかしてくれるだろ。