34話 太陽に咲く花 その7
ただいま。
大会の前日。
いつものように、スマホでメッセージを飛ばし合う。ケアのことや、練習の内容、ちょっとした不安。話を聞くだけで楽になるというが、聞いているだけの俺は歯がゆさを感じる。
せめて調べた情報で力になりたいけど、それもどこまで役立っているのか。
進行は抑えているけど、着実に怪我は悪化している。
もし明日、勝ち抜いて関東大会行きを決めれば。その後は……。
複雑だ。
頑張ってほしいという自分と、勝たないでほしい自分がいる。
『ねえねえテツくん。今、時間ありますか?』
メッセージに続いて、スタンプが送られてくる。金色の仏像が手を合わせている絵。どういう趣味なんだろう。小日向は時々――いや、頻繁に難しい。
『あるけど。どうした?』
無難に返しておく。スタンプには触れない。俺はなにも見てない。
『電話しない?』
『いいけど。今日は早めに寝た方がいいぞ』
『ちょっとだけ!』
『わかった。こっちはいつでも大丈夫』
呼吸二つほどの間が空いて、スマホが震える。
画面をタップして通話に出る。
「もしもし」
「あっ、もしもし。小日向です」
「阿月です」
名前が表示されているのに名前を言うのは、小日向の癖らしかった。わざわざ指摘することでもないので、俺も合わせておく。
「今日は折り入って、聞きたいことがあります」
「いや、早く寝ろって言ったじゃん」
「どうしても、聞きたいことがあるの。だめかな?」
「……内容による」
「テツくんが昔した怪我の話。話したくないなら、いいんだけど」
…………。
このタイミングで、それを聞いてくるか。けれど今しかないというのも、また事実で。
答える義務が、俺にはあると思う。力を貸しているという関係だが、そこに甘えて隠したくはない。
「あんまり楽しい話じゃないから、手短にな」
「うん」
向こう側で小日向が頷く。空気が固くならないよう、軽い調子で言う。
「俺、中学は野球部でさ。ピッチャーだったんだ。つっても、エースじゃなくて。投げないときは外野を守ってるような、二番手で。
だけど、先輩が引退したら繰り上げになってさ。俺の後ろはまだ育ってないから、大会は一人で投げることが多くて。
痛かったけど、しょうがないから隠してたんだ。俺が投げなきゃ、試合にならないから。
んで、壊した。肘の疲労骨折。
リハビリした後も、上手く投げられなくてな。春に引退させてもらったんだ」
短く息を吐いて、「大丈夫だよ。もう」と付け加える。
小日向はしばらく黙って、なにかを考えているようだった。待っていると、言葉が見つかったらしい。
「テツくんは、後悔してない?」
「してない。って言えたらよかったんだけどな」
なにもかも割り切って、今も前を向けていたら。そう思うことはなんどもある。気がついたら目が、野球部の練習を見ていることもある。
きっと人は、後悔と呼ぶのだろう。
「でもさ、どうしようもないんだ。怪我するってわかっても、あの時に戻ったら、また俺はマウンドに立つよ。甲子園を賭けてるわけでもない、ただの地区大会でも。あの頃の俺たちにはそれがすべてだったから」
そんなものがなんになる。
大人たちは、怪我をした俺に言った。
チームメイトを頼ればよかったのに。
お前には未来があったのに。
だけど、そうじゃないんだよ。俺たちが生きてるのは未来じゃなくて、今なんだから。今できることは、全部やりたいんだ。やりたかった。
くすっ。と、小日向の笑い声がする。
「そうだよね。うん。あたしもそう思う。今じゃなきゃ、意味がないんだよね」
「小日向はもっと欲張りだけどな」
「だめ?」
「だめなわけあるかよ。それが一番正しいんだ」
怪我もしたくない。でも、今を最優先にしたい。
そうやって言い切るだけの覚悟が、昔の俺にはなかった。どちらか片方しか叶わないと、願う前から諦めていた。
「ふふっ。ありがとね、テツくん」
「おう」
「今度なにかお礼をさせてよ!」
「お礼? いや……いいって。別に、暇な時間でやってるだけだし」
「だめ! だめです! 絶対にノー、なにがあってもめっ! なんだからね」
「お、おう」
押しが凄い。でも、お礼なんて本当に求めてないし。
なにかされたら、逆に申し訳ないくらいだし。
けれど小日向には暴走癖があるから、こっちで考えておかないとだな。妙なことを提案されると、後々大変だ。
ひとまず電話を終わりにしよう。これ以上は明日に響く。
「それじゃ、今日はこのへんで」
「うん。じゃあ、またね。おやすみ」
「おやすみ」
電話を切って、スマホをテーブルに載せる。
無意味だとはわかっていても、祈らずにはいられなかった。
明日。小日向ひまりの夢が、すべて叶いますように。
◇
翌日の教室に、小日向たち陸上部の姿はなかった。
彼女がいないだけで、なんとなく静かになる空間。普通に振る舞っていても、なんとなくみんな、その欠落を意識している。小日向と関わりの少ない人まで、少なからず影響を受ける。
そういう人間が、どんな集団にもいる。
その一方で、周りからの影響を極限まで受けないやつもいる。
「テーツー」
「なんだよキモいな」
「思春期の娘かよ。一輝お父さん泣いちゃう」
ケラケラ笑いながら、流れるように前の席に座る。正面の席の主は、昼休みになると別のクラスに行っているようだ。
頼むからいてくれ。と何度思ったことか。
「で、なんだよ」
「不安か?」
「なにが?」
「手に持ってるスマホはなに待ちだよ」
「…………」
一輝は目を細めて、楽しそうにこっちを見てくる。
やっぱりこいつは、察しが良すぎる。スマホ持ってたら、普通はネットサーフィンかと思うだろ。
「心配なんだよ。理由はないけど、ずっとざわついてる」
「で、連絡待ちか」
頷く。
結果が出たら、すぐに連絡すると言われている。短距離走は午前中だから、とっくに終わっているはずだ。
なのに一向に、気配はないままで。
「はぁ……」
「親かよ」
「うるせーよ」
反論する気も起きない。
投げやりに、スマホを机の上に――ブルッと、バイブレーション。
電話だ。画面に、小日向ひまりの名前が出ている。
「――!」
「――!」
声も出さず、一輝と顔を突き合わせる。
慌てた声を出したのは、一輝だった。
「い、行け! さっさと、ほら、行け!」
「わ、わかってる。行くから!」
教室の中で出るわけにもいかなくて、急いで飛び出す。廊下を小走りで移動して、非常階段に出る。
心臓がバクバク鳴っていた。
電話に出る。呼吸を整えて、耳元にスマホを当てる。
俺がなにかを言う前に、小日向が向こう側で叫ぶ。
「だめだった!」
突き抜ける青空のような、透き通った声。
「ごめんね。行けなかったよ、関東大会」
その明るさに、どれほどの感情が込められているだろう。悔しさ、悲しさ、怒り、切なさ、無力さ。その全部を合わせた感情が、こんなにも輝いている。
「…………」
強い風が吹いて、言葉に詰まる。嘘だ。風のせいにしたい、俺の言い訳だ。
「でも、次は絶対に超えてみせるから」
「……そうだな。次、頑張るんだもんな」
「頑張るよ! バリバリやっちゃうよ!」
彼女が今、どんな気持ちでこの会話をしているのか。考えるだけで胸が苦しくなる。だけど俺は、それから目を逸らしたくない。
息を吸って、切り替える。俺が暗い雰囲気になるのは、お門違いだ。
「応援してる。とりあえず、お疲れさま」
しばらく休んで、また走り始めればいい。
大丈夫。小日向なら、きっと乗り越えられる。
「うん。ありがとう」
「おう。…………じゃあ、次の授業あるから。またな」
「また明日、学校でね」
通話が切れる。ブツッ、と千切れるような音が、やけに耳に残った。
非常階段。手すりに体重を預けて、空を眺める。
泣いてくれたら、どれだけよかっただろう。小日向ひまりが、もっと弱くあってくれたら。俺はこんなふうに、前を向かずに済んだのに。
彼女のように、真っ直ぐな人が報われてほしい。俺はそのための力になりたい。
――そうか。
俺は、そうなればいいんだ。
誰かの力になれる人間に。支えとなれる脇役になりたい。
舞台裏を、俺の居場所にしよう。そこだけは誰にも負けないように。根を張り、目を配り、手を打つのだ。
悪役みたいだな。と思う。
それでいいやと、心に決めた。
◇
蒼空には太陽が浮かんでいて、俺たちを照らしてくれる。
あの光に焦がれるように、俺は小日向に憧れた。この世界に生まれて、周りを自分色に染め上げてしまう主役たちを、どうしようもなく信仰している。
誰かが、小日向ひまりは向日葵のようだと言った。
でも、そうじゃない。
彼女は太陽。それを追いかける花は、俺たちのことだ。
約束します。
この作品は、やりたいことを全部やりきって完結させる。
これからもよろしく!